登山
地図を手に入れた。だが、どうしよう。何度も、竜そのものに会わなければ人が書いた本だけでは竜のことは判らない。そう感じていたではないか。行く気があるのであれば、その地図を手にしているのだから直ぐにでも旅に出るべきではないのだろうか?
夏とはいえ白竜の居る山は万年雪の在る山なのだ。書き写したこの地図では、その高さは判らないが、雪山に登る気で行かなければ危ないだろう。私にできるのだろうか?
昨日の夜にロヒさんに送ってもらい、家に着いた時からずっと考えてはいるが決断できずにいた。
午前中をその考えだけに費やした。取り敢えずはこの地図に描いてある麓の村まで行ってみることにしよう。村まで一日、その村で準備に一日、白竜の祠まで、これはよくは判らないが二日として、片道四日をみることにしよう。白竜の祠に一泊させてもらえたならば往復で八日間くらいの旅になる。
旅なんてしたことはなかったが、そう決めるとなんだか楽しくなってきていた。
午後は旅に出ることを伝えるために師匠の家へ行った。
「どこへ行くって?」
「白竜の住む山の麓の村へ」
これは嘘ではない。村まで行って、その後のことは自分でもどうするかは未定なのだ。
「それにしても十日もなんて、心配だわ」
師匠の奥さんは私にとってはお母さんも同様の人だ。十二歳で弟子入りし、それからずっと面倒を見てくれている。心配させるのは心苦しいが、これも仕事の為なのだ。必要以上に心配させたくはないので白竜へ会うなどとはとてもじゃないが云うことはできない。
「大丈夫。その村は白竜詣の観光客が結構居て賑わっているらしいし、師匠もおかみさんも一緒に行きませんか?」
これくらい言っておけば私が危ないことを考えているなどとは思わないだろう。
「ばかを言え。仕事で旅どころではないわ」
「ですよね。仕事が一段落ついたら行ってみると面白いかもしれませんよ」
留守を頼むと、次は登山用の装備だ。登山なんてやったこともない身としては、ほとんどを店の人に訊いて揃えてもらうしかない。
大きめの背嚢に靴、防寒着、綱に熊除けの鈴。鈴? そんなもの本当にいるのだろうか? かなりの金を使うことになったが、私の中にあるこの高揚感はなんだろう? 不安よりも期待の方が大きくなっていた。
朝は日の出と共に出発した。片道一日くらいだと言われても実際に自分の足で確認した訳ではない道程なら時間に余裕を見ないわけにはいかない。村への到着が夜中となっては宿を捜すどころではなくなってしまう。
師匠に言った白竜詣というのは、それほど嘘ではなく、実際にそれが目的と思われる人とは皇都の西門を出た直後から遭遇する。どうやら村までの道も賑わっていそうだった。
私の歩く速度は早いらしく、道中は前を歩く人を抜くことはあっても、抜かれたという記憶はあまりなかった。夕方くらいの到着だと思っていた村へは午後の三時には着いてしまった。
宿を見つけ荷物を置くと直ぐに村を見て回った。白竜のお膝元であれば皇都にはない情報を得ることができるかもしれない。それに山に登ることを決めれば登山用の装備に不足がないかを確認する必要もある。
村といっても農村というわけでもなさそうだ。昔は農村だったらしいが今では観光地になっていて、収入のほとんどが観光によるものらしい。村外れに行けばまだ畑などはあるらしいが村から見える一帯には畑などは見えない。
その日も次の日も情報収集や装備を揃えるためにと歩き回ったが、さほど面白い情報はなかった。ただ、白竜に会いに行く人というのは年に数人は居るらしく、事情を話してもそれほど驚かれることもなかった。さすがはお膝元だ。
ただ、白竜へ会いに行った人々で実際に会うことができた人はほとんどいないという話も聞いてしまった。会うことができた人数は数年に一人居るかいないか。そんな否定的な話を聞いてもなお、私の中にある思いは行くことを望んでいる。
私の中では、まだ思案中だと思っていたが、行動は既に山登りへと向いている。心の中には不安よりも未知への物へ対する好奇心や期待感、そんなもので埋め尽くされているらしい。
宿の主人へ数日は持つ食料を用意してもらい山への道を歩きだした。
さすがに出発する時は「おひとりで登られるんですか?」と心配されたが、「大丈夫です。これでも登ることは得意ですから」と答えておいた。
「食料は干し肉ばっかり。山の上に食事処とかでも作ってくれれば観光としても儲けが出るんじゃないかしら?」
旅の楽しみといえば食事なのではないのか。この旅の食事はあまり楽しくはなさそうだ。
地図には『ここまではヴオリ山山頂を目指せ』と書いてある。ここまでといわれても、それがどこなのかこの地図から読み取ることはできない。それらしい所へ辿り着ければ良いのだけれど。
六時間程登り歩いていると、日陰になっている場所に雪を見ることが多くなってくる。今の所は雪上を歩くことはないが、そろそろかもしれない。いつの間にか木を見ることが無くなり周りには砂利と岩しか見えない荒涼とした風景になっていた。
さらに一時間も歩いていると、谷の曲がり角を折れて歩くことになった。その折れた先に見えるのは谷一面を覆う白い雪だ。雪を蹴ってみると、それは雪ではなく氷になっている。
ざくざくと音を立てながら氷になった雪の上を歩く。滑りそうでちょっと怖いけど、なんだか少し楽しい。
夕方近くになってくると、建設現場で鍛えたつもりだった足腰に疲れを感じるようになってきた。建設現場と登山では訳が違うことを思いしらされてしまった。思ったより登れてはいない。ヴオリ山の山頂はまだまだ遠くに見える。
そろそろ寝床を準備しないと暗くなってからではなにもできなくなるだろう。
岩壁が少し窪んだ場所を見付け、その周りに氷や雪を積み上げて壁を作り、そこへ自分の身体を潜り込ませた。寝袋は案外暖かい。建設現場で寝る必要があればこれを使おう。
空は晴れている。遠くに見える皇都とその先に見える海が綺麗だった。
日が暮れる前に眠ってしまった所為か、目が覚めたのは日の出前の、それもかなり早い時間のようだった。空を見上げるとまだ満天の星空が広がっている。
東の空はほんの少しだけ赤みがかった明るさがあるが、歩くのにはまだ早すぎる時間だろう。暗い、それも滑りやすい氷の上を歩かなければならないのだから、ちゃんと明るくなってから行こう。
とはいっても二度寝する程には眠くもなく、さすがに時間を持て余してしまい、ぼんやりと星空を眺めることしかすることがなかった。これはこれで贅沢な時間の過ごしかたではあるなとは思っても、さすがに時間単位では飽きてくる。それでも二時間もすると東の空が明るくなり始めると周りの様子も見られるようになってきていた。
「そろそろ行くぞー」
気合を入れる為に大きな声を張り上げて、地図の指す場所を目指す一日が始まった。
三時間程歩き、ふと前方を見るとここまで歩いてきた谷がY字に分かれていた。
「あ、ここなのか」
地図に書いてある『ここまではヴオリ山山頂を目指せ』の字の上に小さくYと書いた文字が見える。ここに来るまでは意味が判らなかったが、その文字は谷の分岐点を示していたのだと気付くことができた。
そのYの字の左上にはバツ印が付けてある。たぶん右へ行けばヴオリ山山頂ということなのだろう。当然左側の谷へと進んだ。
程なくして、谷の突き当たりに辿り着くことができた。ここまでの道、というか谷はほとんど一本道といってよく、曲がりくねってはいたが迷うようなことはなかった。
その突き当たりは絶壁になっていて、その壁には大きく口を開いた洞窟が在る。どうやらこれが目的の祠らしい。
少し信じられない。数年に一人が辿り着けるかどうかの場所に、いともあっさりと着いてしまったのだ。これは白竜の祠ではないのだろうか?
恐る恐る入り、音を立てないようにこっそりと奥へ進む。前方に白っぽい巨大な岩のようなものが見えてきた。その正体が判ると足が止まる。これまでの人生で感じたことが無いくらいの恐怖で身体が動かない。
「なにやってんだい?私になにか用があるんじゃないのかね」
これが念話? すごい、私、今、念話を体験している。
その岩に見えていた白竜は、座ってこちらを真っ直ぐに見ていた。