イジメはイジメられる人が悪い論と、就活自殺は身の程を知らない若者が悪い論、ぶっちゃけて言うと、二つの論の根拠は、同一の認知バイアスからきている
少し前、私ことふりがなは、煽りタイトル『たった7分間で、自由経済に幻想を持つ若者が、確実に絶望する話』という作品の中で、就活自殺を取り扱いました。
そこそこ重い内容だったので、今回の作品は、きちんと就活自殺を、全面に押しだした作品を、残して置こうかなというテーマで、いきたいかなと思います。
前作品の内容は、大まかに言えば、就活自殺は確率的に見た方が正確で、他に何の落ち度もなくとも、たまたま運が悪いだけで、何社も落ち、たまたま自殺の閾値に引っかかった若者が、死んでいくのが就活自殺の実態かもしれない、というものでしたね。
それに、自由経済を混ぜた物が前作品でした。
そして確率的に見さえすれば、就活自殺は防げるという話でしたね。
今回は、前作品で曖昧だった部分、自由経済、自己責任論への妄信の根拠に、もう少し踏みこんでみます。
タイトルからお気づきの方もいるでしょう、今回の鍵は、公正世界仮説です。
公正世界仮説は、世界は絶対に公正であり、誰かに悪いことが起こったならば、その誰かは、それだけ悪い事をしているのだ、という認知バイアスの一種です。
公正世界仮説は、近年SNSで多発する被害者叩きで有名になりまして、一度、私もイジメはイジメられる人が悪い~公正世界仮説という作品で取り上げています。
何故、人は被害者を叩くのか?
例えば、レイプされた女性は、夜独りで出歩くのが悪い、露出していたのが悪い、という類の、勝手な妄想で、人々が被害者叩きに至る経緯の、認知バイアスです。
前作品から、本作品に取りかかるために、私が再び就活自殺を思考し直した際、この公正世界仮説という認知バイアスに引っかかりは覚えたのですが、イジメと就活が直接繫がらなかったので、一度考えを放棄しています。
それだけ難しいんですよね、特に自己の認知バイアスの再認識は。
そのため、私が、就活自殺の自己責任論は、ただの公正世界仮説であると結論付けるために、ある種の絶対的な根拠が必要になりました。
就活自殺自己責任論の絶対的な否定根拠となる、ある研究結果が発表されていたので、私は、就活自殺自己責任論を、公正世界仮説だと気付く事が出来たのです。
さて、その研究とは何でしょうか?
何故、その研究があると、就活自殺の自己責任論は、ただの被害者叩きである、公正世界仮説となってしまうのでしょうか?
まず、就活自殺は自己責任であるという主張の要素を、きちんと知る必要があります。
その人に悪い所があるから、就活に失敗する。
悪い所も身の程も知らないから、それが重なって、やがて自殺する。
よって、就活自殺は自己責任である。
これが、就活自殺の自己責任論の概要となります。
就活自殺自己責任論の概要の、絶対的な否定根拠となる研究には、何があてはまるのでしょうか?
少し前ですが、話題になったグーグルの研究結果が、就活自殺自己責任論は、ただの妄想に過ぎない事を指し示しています。
さて、それは、いったいどんな研究結果でしょうか?
既に、思い当たる方も居るかもしれません。
全ての面接に価値は無い。
使える人材と相関性のあるのは、学歴だけで、使える人材かは、実際に仕事をさせてみないと解らない。
そう、そもそも、面接官は、就活生の、悪い所が解らない、という研究結果が出てしまったのです。
そうなると、何が否定されてしまうのか?
悪い所がどこかにあるから、就活に失敗するという根拠が、否定されてしまうのです。
面接官に、就活生の、悪い所も、良い所も解らないのなら、就活生の悪い所は、関係しようがないというのは、自明ですよね。
では、何故、就活生に悪い所があったのだと、我々は、全く関係のない妄想をしてしまったのか?
この正体こそが、公正世界仮説です。
自由経済は、公正な結果だけを出してくれる。
だからこそ、自由経済での失敗は、自己責任でしか有り得ない。
必ず就活生のどこかに悪い所がある『ハズ』だ。
しかして、就活自殺の実態は、ただ確率に外れた若者の、必然的な挙動なのですから、ありもしない自己責任論は、本来防げたハズの就活自殺、その被害者叩きへと帰結するのです。
自由経済への妄信は、公正世界仮説が根拠となっている。
前作品では、学者でさえ、若者の死に何の興味もないから、簡単な確率論にも、たどり着けないのだと書きましたが、今回は、実態としてみれば、自己責任論は、関係のない者が、公正世界仮説から、何の考えもなく、被害者叩きに躍起になっているだけだという物になります。
これは遺族叩きにも直結しますから、巷に出回る就活自殺での自己責任論が、どんなに人として醜悪な説なのか、皆さんにもきっと解りますよね。
このような醜悪なバイアスが無くなっていけば、世の中は少し良くなるかもしれません。