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白蟻たちの巴  作者: 夢追人
7/12

人の心に 二

京明大学の研究資金不正流用事件が発覚。大和田教授が世間を注目を浴びる中、相変わらずマイペースの鈴が岐阜へ足を運ぶ。だが、新たな発見もなく真相はまだ闇の中。そんな時、また事件が起きる。

 鈴と熊野が岡山出張から戻った翌日、バー『やすらぎ』の開店時間と共に鈴と小八木が訪れた。

「いつもながら、お早いお越しで」

 梅木が二人を迎える。

「これでもお店に気を遣っているのよ」

「食事も済ませてありますので」

「気を遣っているなら、たまにはここで食事しろよ」

 梅木が小八木に笑みを浮かべる。

「本日のおすすめオードブルとナッツで良いわ」

 鈴には梅木の言葉など届いていない。二人がカウンター席に腰を下ろすと、梅木がお手拭きと生ビールをほぼ同時に出した。

「今日は良いカツオが入ったから、オードブルに足しておくね。もちろんサービスで」

 マスターが厨房エリアから声を掛ける。

「ありがとう、マスター。美人に弱いのね」

 鈴はビールタンブラーを掲げる。

「お疲れ様」

「何をして疲れたんだ?」

 梅木が皮肉る。

「三つも講義に出てノートを取って来たわ。テスト前にあなたからノート使用料を頂くための仕込みよ」

 鈴は、講義を怠けている梅木や他の友人たちに対して、テスト前にノートを有料で貸出す小遣い稼ぎをしている。

「僕ならもう少しお安くしますよ」

 小八木が割り込む。

「他人のビジネスを邪魔しないでよ、これは私の既得権益よ」

「自由競争の時代ですよ」

「既得権を守るぞ!楽市楽座反対!」

 拳を突き上げた鈴を横目に、

「しかし、胡散臭い釈明だったな、大和田教授は」

 と、梅木が手仕事をしながら事件の話題を振った。

 昼のニュースで、京明大学の研究資金不正流用のことが報道されていた。大和田教授が直接記者会見に参列して弁明していた。その内容は次のようなものだ。

『KG製作所様から提供される研究資金の一部を慈善事業の寄付に充てさせて頂くことは、基本契約を締結した時の合意事項です。具体的なパーセンテージも合意しています。議事録もあります。KG製作所様の窓口をされていた営業部長から、この内容で社内調整できたと言う報告を受けて正式に契約をしました。寄付の部分に関しては覚書を締結する予定で、KG製作所様で覚書を作成して頂けるとのことでした。当校と致しましては、覚書はまだ交わしていないものの、口頭での契約は成立しているため、実施させて頂いております。なお、KG製作所様のお話によりますと、担当営業部長は現在行方不明となっており、社内調査も進んでいない状況だそうです』

 要するに、京明大学は契約に従っている。KG製作所が寄付について知らないという主張は、KG製作所の社内事情に原因があると言う訳だ。

「岩沢さんでしょう?担当の営業部長は」

「失踪したってことは、やましいことをしていたことになりますよね」 

 小八木が言った。

「本当に失踪したのかな?」

 梅木が意味深な言葉を吐きながらオードブルを二人の前に並べる。

「新鮮なカツオね、この肌色感が堪らない。表面も少し炙ってあるし」

 鈴が目を輝かせてカツオを見つめている。

「トカゲのしっぽ切りみたいなことになるのでしょうか?」

「一本釣りじゃないの」

 鈴の言葉を聞き流し、小八木と梅木は事件の話に熱中する。

「このまま海外へ逃亡するとか、地方でひっそり暮らすとか、そんな隠遁生活をするのかもな」

 と、梅木の考え。

「赤黒い身のカツオは美味しくないもの」

「もう自殺してるなんてことはないでしょうか?」

 小八木がじっくりと考えながら言った。

「ウーン。脂が乗っていて美味。本来、ニンニクはこの脂の甘さに対するアクセントであるべきよね。単なる刺激や匂い消しじゃなくて」

 鈴の言葉は誰も拾わない。

「それはないだろう。背任罪や横領罪で捕まっても罰金刑か最高で十年の懲役だ。命を懸けるほどの罪じゃない」

「組織を守るためとか」

 小八木は死亡説に傾いている。

「静岡の清水港にも良いカツオが上がるのよ」

 鈴は静岡の出身だ。

「自殺じゃなくて殺されているとか」

 梅木も同様に考えている。すると鈴が、

「大和田教授や鳩川さんも一枚かんでいて、全てを岩沢さんが引き受けることを彼が納得したのなら、殺された可能性はあるわね」

 と、割って入ってビールを口にした。

「聞いていたんですか?」

「お代わり頂戴」

 鈴が図々しくオードブルの皿を梅木に差し出す。

「聞いてなかったみたいだな、サービスのカツオだってこと」

 梅木が皿を受け取ってマスターをチラリと見る。

「岩沢さんが納得したのになぜ殺されるのですか?人身御供として使えばいいだけでしょう」

 小八木の話している中、マスターが軽く頷く。

「わあ、嬉しい、マスターありがとう」

「岩沢さんがただで人身御供を引き受ける訳がないだろう」

 梅木が皿にカツオを盛って鈴に差し出す。

「これで最後だぞ」

「そう。これで最後だぞって言っても、何度でも要求してくるようになる。それが弱みを握った者の常。だから消されてしまう。それが悪人の常識」

 鈴が嬉しそうに皿を受け取る。

「大和田教授が殺すのですか?」

「さあ。誰が本当の黒幕なのかはわからない。誰が実行犯なのかもわからないわ」

 鈴は、カツオの乗ったオードブル皿を手にして目を輝かせている。しばらく彼女のカツオ賛美の言葉を聞き流した後、

「しかし、夢育英会なんて立派な名前をつけている慈善団体が偽善団体だったとは驚きですね」

 と、小八木が話題を戻した。

「でも、学生を騙している訳じゃないし、助かっている学生も大勢いる訳だから、それほど悪質でもないわよ」

「確かにそうですけど。善人ぶっている人間が私腹を肥やしていることが許せないんです。大和田教授が時々発信しているブログでも、人類愛だとか、世界平和だとか、戦争反対だとか、聞こえの良いことばかり書いている。そんな人間が慈善団体を利用して私腹を肥やしている」

 小八木が珍しく熱くなっている。意外と正義感の強い奴だ。

「どんな立派な話しをしているのか知らないけど、講演をして謝礼を貰う。どんな大変な仕事をしているのか知らないけど、理事長を務めて謝礼を貰う。別に悪でもないでしょう」

「鈴さんは許せるんですか?」

「私が許せないのは犯罪者だけよ。犯罪者だって罪を償えば許すわ。無責任な人、非常識な人、ダブルスタンダードの人は嫌いだし、日本の社会や伝統を破壊する人たちや、自分の考えだけが正しくて、反対意見にはレッテル張りをして議論さへしない卑怯者も大嫌いよ。でも、嫌いなだけ」

 言葉の割には優しい笑顔を浮かべる鈴は小八木にも追加のカツオを勧める。

「非常識な人間が嫌いなら、お前はもっと自己嫌悪に陥るべきだな」

 梅木がニヤリと笑った。

「これであんたも同罪よ」

 カツオを口にした小八木に鈴が笑い掛けた。

 

 鈴と小八木は岐阜駅のホームに降り立った。ホームは綺麗に整備されているが、人影は少なく売店もない。平日の昼間だから仕方ないのだろうがあまりに長閑だ。このホームに立つと、松本へ行った時のことが思い出される。名古屋から出発した『特急ひだ』はここで進行方向を変える。名古屋から岐阜までは乗客にとって後ろ向きに走り、ここから高山線を長野方面に向かって前進する。

 そんなことを懐かしく思いながら鈴は階段を下りて行く。中二階的なフロアに売店があった。更に階段を下りて改札を出る。広々としたロビーに何本か立っている柱の前に安岡が立っていた。

「お久しぶりね、安オヤジ」

 鈴が愛想良く笑う。

「ああ、相変わらず生意気だな」

「この前はお世話になりました」

 小八木が頭を下げた。並岡のパソコンを調査させてもらった時のことだ。

「並岡さんを何度も任意同行しているんだって?」

「そうだ」

 三人は駅から出て駐車場に向かって歩いている。

「馬鹿ね、きっと後悔するわよ。まあ、逮捕しないだけましだけど」

「どうせ俺の人生は後悔だらけだ」

「何それ?慰めて欲しいの?」

 鈴がお茶目な笑顔を浮かべた後、ロータリーの端にある駐車場まで進んで三人は安岡の車に乗った。

「この車にもパトランプは付いているのですか?」

 鈴たちは後部席に乗っている。

「ああ」

「よくドラマなんかで助手席の窓から屋根に出していますけど、あれはどうやって屋根に固定しているんですか?磁石ですか?」

「どうでも良いだろう」

 安岡は、鈴に無理を言われて付き合っているためか、今日も不機嫌そうだ。だが鈴は、これがこの人の普通の態度なのだろうと思っている。

「きっとガムテープよ」

 鈴が小声で言った。

 駅前を離れると車も少なくなる。十分も走るともう目的地に到着した。目的地は並岡のマンション、つまり香帆の殺害現場だ。閑静な住宅街にある小型の賃貸マンション。マンション正面には自動車を5~6台止められる駐車場があり、向かって左側に階段がある。右側には緩やかなスロープがあった。

 セキュリティのしっかりした都市型のマンションとは違い、駐車場からすぐに廊下や階段にアクセスできて、部屋の前までは誰でも行ける。

「これなら行きずりの犯行だって不可能じゃないわね」

「鍵さえ閉まっていなかったらな」

「どの部屋ですか?」

「一番端の部屋だ」

 鈴は右側にある緩やかなスロープを歩いた。道路面より50センチばかり高くなった廊下へ、台車や車椅子でも上がれるようになっている。鈴はスロープの防塵塗装が施された白いスロープ面をじっと見つめた。宅配業者の台車が通るのだろう、黒い筋が幾重にも重なっている。

「これだと、キャリーバックや台車に死体を乗せて部屋まで運ぶことも可能ね」

「おいおい、並岡がわざわざ外で殺してから部屋に運び込んだって言いたいのか?」

 安岡がムッとした口調で、突飛な鈴の意見を否定した。

「だから、並岡さん犯人説から離れなさいよ。頭、カタッ!」

 だが安岡は全く無視して部屋の鍵を開ける。

「一応手袋をしろ。調査は終わっているが念のためだ」

 そう言って二人に使い捨てのビニール手袋を渡した。

「ほら、土間と廊下の高さも十センチほどしかないわ。これくらいならキャリーバックでコロコロできるわ」

 鈴が手袋をはめながら言った。

「じゃあ、遺体を運んだ犯人がどうやって鍵を締めて出たんだ?鍵は香帆のバッグに入っていて、バッグはあのガラステーブルの上に置いてあったんだぞ」

 安岡の言葉に鈴は少し口を尖らせたまま、無言で部屋の中を歩き始める。答えが見つからない。安岡はニヤリと笑って、

「どうなんだ?」

 と、しつこく尋ねた。部屋の中はシンプルで、テレビ台の端には香帆と二人で写った写真が立てられている。ベランダに通じる出入り窓のカーテンを少し開いて窓の外をしばらく見つめた鈴は、口を尖らせたまま安岡を斜めに睨んで、

「合鍵を作っていたのよ」

 と、やけっぱちに言い放った。

「ほう。香帆が誰のために合鍵を作るんだ?誰かに並岡を襲わせる積りだったのか?」

 安岡が面白半分に鈴をいじめる。

「嫉妬よ」

 鈴の脳裏に何かが閃いた。

「嫉妬?誰の?」

「大和田教授よ。教授は香帆さんが並岡さんと付き合っていることに嫉妬していたのよ。だから並岡さんを岐阜へ左遷した。でも香帆さんは並岡さんの部屋まで遊びに行ってしまう。だから教授は部屋の合鍵を取り上げようとした。香帆さんは教授に鍵を渡す前にコピーして、そのコピーを渡したのよ」

 急に現実味を帯びてきた鈴の説に、小八木の瞳が輝く。

「そう言えば、鈴さんは以前にもそのようなことを言っていましたね?」

「あら、そうだった?」

「大学のカフェで話した時ですよ。香帆さんが歴史ツアーを選んだのは、出掛けるための口実だと。しかも大和教授が出張の日を選んで『パパが出張で寂しいから、私はツアーに参加する』とでも言って参加したのだと。もしかしたら、大和田教授が出掛ける日にしか香帆さんは自由にできなかったのかも?教授が京都にいる土日は行動を制限されていた……」  

 小八木は少し興奮気味だ。安岡も黙って頭の中を整理しているようだ。

「前言を覆しているかも知れないけど、そこまで教授に力があったのかしら?二人は持ちつ持たれつの関係のような気がするけど」

 鈴には珍しく控えめな口調だ。

「今のところそんな感じはしますけど、まだ僕たちが知らない何か、香帆さんが絶対に逆らえない弱みを握られていたの可能性もあります」

「弱みねえ」

 鈴はそこで深く考え込んむ。確かに小八木の言う説も一理ある。

「オイオイ、ちょっと待て。じゃあ何か?大和田がこの部屋の合鍵を持っていたとして、彼が香帆の嘘を見抜いて殺しにやって来たとでも言うのか?大和田は岡山にいたんだぞ。お前が確認して来たことだろう」

 安岡は少し動揺しているように見える。

「単なる仮説のひとつでしょう。あんたが鍵の件で思考停止に陥っているから、もっと柔軟に考えなさいって言ってるの」

 安岡を諭した鈴は、クローゼットの前に立ってゆっくりと扉を開いた。開いた扉の内側にたくさんのネクタイがぶら下がっている。

「あまりプライベートな所を見るんじゃないぞ、一般人のお前たちに彼のプライバシーを侵害する権利はないんだからな」

「わかってるわよ。ネクタイだけ見たら閉じるわ」

 鈴は雑然とぶら下がっているネクタイを見つめた。ざっと20本近くある。

「安オヤジもこんなにたくさん持ってるの?」

「普通、そんなものだろう」

「へえ、毎朝選ぶのも大変ね」

「俺は選んでいない」

「奥さんが選んでくれるの?夫婦仲良いんだ」

 鈴は安岡を冷かしてからクローゼットを閉じた。それから足元に視線を落とし、フローリングされた床を見つめながら寝室のドアまでやって来ると、ドアノブをじっと見つめた。

「ここに首を吊るされていたのね?安オヤジの言うとおり、自殺にしては全く不自然ね。部屋も乱れていないから、香帆さんが眠っている間に絞殺したか顔見知りの犯人だったと言うことね」

 鈴には色々の仮説が思い浮かぶが、安岡が興奮しても面倒なのでここまでにした。安岡は黙って頷くと、現場写真の束を鈴に手渡した。犯行に使われた並岡のネクタイや香帆の持ち物、香帆の首に付いた締め跡などの写真があった。

 鞄や財布の中身まで全て出されて撮影されている。現金は数万円、クレジットカード三枚に運転免許証、ATMカード二枚、携帯用メイク道具に花粉症用だと思われる飲み薬、目薬、花柄が描かれたピンクのハンカチ、マスカットの絵柄が付いた広告ティッシュ、サングラスとマスク、そして部屋の鍵。

「鞄に変な物入れたまま死んだら最悪ね」

 写真を見終えた鈴が、その束を小八木に手渡しながら呟く。

「何ですか?変な物って。まさかひとり遊びに使う……」

 興奮気味の口調の割には、淡々とした手さばきで渡された写真をスマフォで撮影している。安岡は知らぬ風に窓の外を眺めている。

「色々よ。噛み終わったガムとか、鼻かんだティッシュとか」

 小八木は思わず撮影の手を止めて、彼女の顔を白けた面持ちで見つめながら、

「色っぽい答えは期待していませんでしたが、せめてガムは紙に包んでから鞄に入れてください」

 と小さく呟く。

「さっきから何を言ってるの?」

 証拠品から推測を試みる思考活動を続けながら、鈴が肩に掛けている小型のショルダーバッグを見つめている小八木を不思議そうに見つめた。


 周囲の建物に比べて高級そうなマンションのエントランスから、安岡が部屋番号を押した。すぐにインターフォンから男の声が流れて、今からエントランスへ下りると告げた。ここは並岡が仮住まいにしているマンションだが、京明大学職員の寮になっている。

 セキュリティもしっかりしていて、エントランスホールから中へは鍵がないと入れない。防犯カメラも数台設置してある。来客用の応接セットが一組だけエントランスの端に設置されていた。鈴たちが応接ソファに座っていると、数分して並岡が現れた。ジャージ姿で髭も伸びており、髪も手入れしていない。

「こんにちは」

 安岡が立ち上がって鈴たちを紹介した。

「安岡さんから電話もらった時には正直あまり嬉しくなかったけど、こんなに可愛い御嬢さんを連れてくるのなら、髭ぐらい剃っておけば良かったですね」 

 並岡があご髭を摩りながら嬉しそうに笑う。

「だらしない雰囲気も素敵ですよ、大人の休日って感じかな」

 鈴がお世辞を言った。並岡も笑顔で応えながらソファを勧める。

「で、何を聞きたいの?」

 全員が腰を下ろしたばかりだ。

「唐突で恐縮ですけど、並岡さんは香帆さんを本当に愛していましたか?」

 鈴の思い切った質問に、少しギクリとした表情を見せた並岡だが、

「ほんと、唐突だね。勿論、愛していたよ。君には信じられないかな?」

 と、大人ぶった口調で答えた。

「いえ、私はお二人のことをよく知らなので、信じるとか信じないとか言う立場にありません」

「へえ、正論を言う御嬢さんだ」

 並岡はまじまじと鈴の顔を見つめる。

「ご結婚は考えていたのですか?」

「俺は、漠然とだったけど、香帆は具体的に考えていた」

「結婚を迫られたのでは?」

 鈴の直球に安岡も驚いている。

「彼女はそんな強引なことはしなかった」

「本当は、並岡さんが漏えい事件を起こしたのですよね?実は香帆さんに証拠を握られていて、それをネタに結婚を迫られたとか?」

 鈴の笑顔を伴った問いに彼は一瞬当惑したが、すぐに笑顔を作ってから、

「面白い推理だな。でも僕は漏えい事件の犯人じゃないよ。証拠も出なかった。ただ、細かなルール違反は犯していたので、形式上一時左遷と言うことになった。これだって正式には処罰じゃなく事務業務の補強のためなんだよ」

 と説明した。

「香帆さんは、あなたの無実を信じていたのですか?」

「当り前だよ。だから僕を元の研究員に戻す努力もしてくれた」

 並岡は鈴の瞳をじっと見つめて話している。

「あなたを京都に戻すように、香帆さんが大和田教授に頼んだと言うことですか?」

「ああ。でも、教授には半年から一年くらいは戻せないと言われたそうだ。しかし、逆に言うと一年も待てば戻れると言うことだから僕は嬉しかった。それでも香帆は、念のために教授から念書を取ってそれをPDFファイルでくれた」

「あなたを戻すと言う念書ですね?」

「恐らくね。必要な時が来るまで見てはいけないと言われたんだ。一年経っても研究室に戻してくれないようなら、このPDFファイルを使うと言っていた」

「見せて頂けますか?」

「それが、パスワードが掛かっていてね、確か教えてもらったはずだけど、メモを失くしてしまったんだ」

「何ケタのパスワードでした?」

 小八木が口を挟んだ。

「確か六桁かな。英数字のランダムな組み合わせだった。誕生日にしてくれていたら忘れなかったのに」

 並岡は大和田を信用しているのか、それとも研究室へ戻ることの執着を失ったのか、念書には余り興味を示していない。

「念書ねえ」

 鈴はひとりごちると、小八木がメモを取っていることを確認してから急に語気を変えて、

「ところで、香帆さんの首に巻かれていた濃紺ネクタイはあなたの物で間違いないですか?」

 と、別の話題に入った。

「ああ、香帆が昨年のクリスマスにプレゼントしてくれた物だ」

 並岡の頬が緩む。

「シックで良い色合いでしたね」

「僕もあの色が好きだけど、あまり使ってはいなかった」

 そこまで言うと並岡は口つぐんだ。

「どうして?」

 鈴が精一杯の可愛い表情を作って並岡の言葉を促す。

「実は、香帆の前に付き合っていた女性からも、同じ色のネクタイをプレゼントされていてね。彼女と別れた後もよく使っていた。香帆の前でも……」

「へえ、小八木、羨ましいでしょう」

「ネクタイは要りません」

 鈴は軽く笑むと並岡に質問を続ける。

「香帆さんは、そのネクタイが元カノにプレゼントされた物だと知っていたの?」

「いや、知らなかったけど、何かの弾みで僕が口を滑らせてしまった」

「あら、大変」

 鈴は眉を寄せて見せた。

「香帆はちょっと気が強いところがあってね」

「それで香帆さんは、クリスマスに同じ色のネクタイをプレゼントしたのね?確かに勝気だわ」

「そんな気性だから、元カノにもらったネクタイは捨てられてしまった」

 そう言って並岡は苦笑いを浮かべた。

「コワッ。でも気持ちは理解できますね。あなたが軽はずみなことを口にするからいけないんですよ」

 鈴はそう言って優しく微笑む。

「仰るとおり。だから、それ以降何となく使うのか気まずくなってしまった」

 そう言って並岡は鈴たちを見回し、

「お茶でも買って来ましょうか?」

 と言って立ち上がろうとした。久しぶりに刑事以外の者と話をしたのか、とても楽しそうだ。

「いえ、もうこれで失礼しますので」

 安岡が手で制してから鈴の方を確認する。並岡は残念そうだ。

「どうもありがとうございました」

 鈴は立ち上がって軽く頭を下げる。

「君ならいつでも大歓迎ですよ」

 並岡はそう言ってにこやかに笑った。


 小八木の運転するスクーターから降りた鈴は、メットを脱いで髪を整えながら、熊野のいる警察署に入って行く。昨夜岐阜の繁華街で飲んだお酒でぼやけている頭に、つい2時間ほど前、スマフォの可愛い着信音が響いた。小八木だった。彼以外の男から連絡はないのかと苦笑しながら、鈴は寝転んだままで手を伸ばした。

「おはよう。何か用?昨夜さんざん話したでしょう?まだ話し足りないの?」

「話していたのは、ほとんど鈴さんですけど」

「覚えてない」

「それは良いですけど、大変なんです」

「何よ、岩沢さんが死んだとか?」

 冗談で言った鈴の言葉に小八木は絶句している。

「何だ、もう、知っていたんですか、早いですね」

「ウソ!マジ?適当に言っただけよ。いつ、どこで?」

 鈴はガバッと上半身を起こす。

「発見されたのは今朝早くです。場所は嵐山渡月橋の上流、桂川のほとりです。散歩中の男性が発見しました」

「殺されたの?」

「自殺のようです。遺書も発見されたとか」

「出た、偽造自殺ね。『全て私の責任です』とか言う遺書を残して自殺、事件は幕引き。ありがち」

「とにかく、熊野刑事の予定を聞いておきました。午後からは署にいるそうなので話を聞くことは可能です」

「なかなか仕事が早いわね、情報収集も素早いし、良い秘書になれるわ」

 鈴はベッドから起き上がる。

「あのう、もうお昼ですよ。事件のことはお昼のニュースでもやっています」

「へえ、そうなの。じゃあ、用意ができたら連絡するから迎えに来て」

 そんな会話の後、鈴と小八木は熊野のいる警察署にやって来たのだ。受付のソファで待っていると、間もなく熊野が現れた。少し疲れた顔をしている。

「どこかお茶でも飲みに行きましょうよ」

 鈴が熊野を誘う。

「そうですね、署内はバタバタしていますし」

「その前に、小八木に岩沢さんのパソコン調査をさせたいの。もう借りているんでしょ?」

「ええ、資金流用の件もありますからね。借りたと言っても、岩沢さんは独り暮らしで部屋には誰もいませんでした」

 熊野は内線電話で誰かと話してから、小八木をどこかへ案内した。そしてすぐに戻って来るや、

「行きましょう」

 と言ってすたすたと歩いてゆく。行く店は決まっているようだ。今日はどんよりと曇っている。署の裏側に回ると、古い佇まいの喫茶店があった。昔ながらの古風な店で、木製の看板が歴史を感じさせる。

 店内はやや暗く静かな時間が流れていた。外の喧騒が嘘のようだ。昼時を過ぎているためかお客はいない。老夫婦が愛想良く迎えてくれた。夫婦で経営しているようだ。

「おじさん、ランチみたいなのありますか?」

 カウンターの前を通り過ぎる時に鈴が尋ねる。

「サンドウィッチセットならありますよ」

「じゃあ、それをお願い。ホットコーヒーで」

「僕はホットコーヒーだけで」

 二人は一番奥のテーブル席に座った。ソファが四席ある贅沢な席だ。

「シックなお店ね、熊野君にしては良いセンスだわ」

 鈴は店内を見回している。

「この店はお客も少なくて静かだから、内緒話をするのに都合が良い。署の御用達です」

「なるほどね。でも静かなのは良いけど、お店が先に倒れるか、老夫婦が先に倒れるか、微妙ね」

「わしゃまだまだ元気ですよ」

 鈴の背後からマスターがニコニコしてお手拭きとお冷を運んで来た。

「あらゴメンなさい。じゃあ店が倒れないように毎日三度は来なさい」

 鈴が熊野に命令する。

「コーヒーで胃が荒れます」

 熊野はマスターが戻るのを確認するとメモをテーブルの上に置いた。岩沢自殺の詳細が書かれている。

「場所は渡月橋からモンキーパーク側、つまり南岸側を上流に向かって1キロほど歩いた辺りです」

「阪急嵐山の駅から渡月橋を渡らないで川沿いに歩く道ね」

 鈴は花見に行った時の記憶を呼び起こした。

「川岸の岩場が整備されて歩けるようになっている所が現場です。時間は今朝5時半頃、近くのホテルに宿泊していた男性が散歩中に発見しました」

「はやっ、どれだけ早起きなのよ」

「死因は服毒。毒はテトロドキシン、フグの毒です。焼酎の水割りに混ぜて飲んだようです。アルコールの摂取量と遺物の状況から判断して、焼酎をワンカップほど飲んでから最後に毒を入れたようです。スルメも残っていました」

「それが最後の晩餐?」

 鈴は寂しい気持ちになった。

「食事は済んでいたようです。最後に好物の焼酎と柔らかいスルメを楽しんだのでしょう。同僚に確認したところ、焼酎の銘柄も彼が好きな物だったようです」

「死亡推定時刻は?」

 鈴はお腹が空いたなあと感じながら話を聞いている。

「正確な時刻はまだ調査中です。おおよその時刻もまだ公表されていないのでオフレコですよ」

 熊野はそう断ってから秘密情報を話す。

「昨夜の20時から22時頃だと思われます。午後6時頃に岩沢さんは上司に電話を入れています。迷惑を掛けて申し訳ないと言う謝罪の言葉だけを言ってすぐに切ったらしいのですが、周囲の音から居酒屋にいたと思われること、少し酔った口調だったこと、そして胃の内容物の状態から死亡時間を推測しています。内容物は精密調査中です」

「夕方6時の時点で酔っていたと言うことは、5時とか5時半くらいから飲み始めたと言うことね」

 熊野は静かに首肯する。

「遺書は直筆だったの?」

「はい、これです」

 熊野が写真をテーブルに置いたところへマスターがサンドウィッチとコーヒーを運んで来た。さりげなく写真を手に取って見つめる鈴。

「ありがと」

 マスターが去った後、鈴は小さな声で、

「偽装自殺ね」

 と囁いた。

「え!どうしてですか?」

 熊野は自殺だと思い込んでいるらしい。

「だってこの遺書はバランスがおかしいでしょう。確かに、今回の件に関しての責任は全て自分にあると言って謝罪しているけど、家族や友人、或いは同僚なんかに対してひと言も無いじゃない。奥さんや子供はいないの?」

「奥さんとは数年前に別れています。子供はいません。友人ひとりにだけメールを送っています。自分が死んだら、財産や保険金の受取人は別れた妻にしてあると言うことと、持ち物の処分などを友人に依頼しています。ですから、世間の注目を集める直筆の遺書には仕事のことだけを書いて、私生活の方はメールで済ませたのだと我々は考えています」

「メールねえ。友人に送って、受取人の元妻には送ってないのよね?何か引っ掛かるわ」

 鈴はサンドウィッチに手を伸ばす。朝から何も食べていないのでとても美味しく感じる。

「ねえ、普通は反対でしょ?熊野君が自殺するとしてよ、仕事の関係はメールで済ませても、プライベートこそ自筆で書くんじゃない?」

 鈴の問いに熊野は少し考え込んでから、

「岩沢さん本人が事件の責任を明らかにしたことを証明したかったから、直筆で書いたのでしょう」

 と、慎重に答えた。

「なるほどね」

 やけに素直に同意した鈴が不気味で、彼女が幸福そうに食する表情を怪訝な瞳で見つめている。

「納得して頂けましたか?」

「まさか」

「え?」

「死んで責任を取ろうとしている人間が、直筆だのメールだのを気にすると思う?自分の責任であることを証明したいのなら、直筆云々より、関係者以外知り得ない秘密を暴露する方が効果的でしょう」

「理論的にはそうですね」

「感覚的にも不自然でしょう。他人や会社を犠牲にしてでも自分は得をしようとするタイプの岩沢さんが、会社や大学に献身的な行動をするとは思えないわ。いえ、そもそも自殺するはずがない」

 口をモグモグさせながら鈴が考えを述べた。

「確かにそんなタイプに見えましたが、見掛けだけで殺人とは断定できないですね」

 熊野が当たり前のことを言う。

「じゃあ、フグの毒なんて簡単に手に入るものなの?天然トラフグの白子なんて滅多に食べられないんだから」

「僕も食べたことないですけど」

 熊野は鈴の真意を探ろうとして頭をフル回転させている。

「白子は置いといて、テトロドキシン、つまり薬品関係を入手するのに岩沢さんより有利な立場の人がいるでしょう?」

「もしかして……。大学関係者ですか?」

 鈴は微かに頷いてから続ける。

「方法はまだわからないけど、あの遺書は大和田教授のために書いたのよ。そして岩沢さんは殺された」

 熊野も少しはその可能性を考えていたのだろう。彼女の言葉にあまり驚かなかった。

「岩沢さんが全ての責任を取ることで得をするのは大和田教授と京明大学であることは確かです。でしたら教授に直接確かめてみましょう。そろそろ来る頃です」

「え?ここに?」

「岩沢さんのことを聞いて駆け付けて来られたようです。身寄りがないこともご存知のようで、葬儀やら後の処置を引受けると仰いまして、署で今後の手続きについて説明を受けています」

「二人は長い付き合いだもの、色々あったでしょうし」

 鈴は、そんなことを呟きながら何か違和感を覚えている。コーヒーカップを手にしたままじっとその違和感を追い詰める。

「熊野君、もう一度遺書の写真を見せて」

 熊野がテーブルの上を指差す。さっきから置いたままだ。鈴は写真をじっと見つめると、

「やっぱりバランスが悪いわ。ねえ、そう思わない?」

 と言って熊野を見つめた。

「鈴さんの考えも理解できますけど、僕は何度読んでも違和感ありません」

「読むんじゃなくて、ちゃんと見なさいよ」

「え?見る……」

「この遺書が書かれた紙のサイズよ。便箋?A4用紙?B5用紙?縦横のバランスが変でしょう。実物を計ってみてよ。もしかしたら岩沢さんが過去に書いた謝罪文を切り取っている可能性もあるわよ。何せ長い付き合いだから、取引上の失敗なんかで大和田さんに謝罪文を出したことだって十分あり得るでしょう」

 熊野が驚いてもう一度写真に見入っている時、静かに扉が開いてポロシャツを着た普段着姿の大和田が現われた。

「おや、御嬢さんもご一緒でしたか」

 大和田はにこりと笑んで鈴の隣にどっかりと腰を下ろすとアイスコーヒーを注文した。心持疲れた表情をしている。気分も憂鬱そうだ。

「わざわざご足労頂いてすみません」

「いや、構いませんよ。ちょうどひと休みしたいところでしたから」

「こんな時に大変恐縮ですが、関係者の方に色々確認しなければなりません。もしお疲れのようでしたら日を改めますが」

 熊野が丁寧な口調で窺う。

「いや、大丈夫。どの道答えなきゃならんのだろう。今日は休みを取っているから時間はたっぷりある。何でも聞いてください」

「ありがとうございます」

 熊野が軽く頭を下げた瞬間、鈴が口火を切る。

「岩沢さんは、会社に迷惑を掛けたからと言って自殺するような性格でしたか?私は1回しか会っていませんけど、とてもそんな生真面目な人には見えませんでした」

「女の勘はすごいね。確かに彼はそんな性質ではない。むしろ会社はステップアップの踏み台くらいにしか考えていなかった」

「だったら自殺はおかしいと思いませんか?」

 鈴はじっと大和田の瞳の奥を覗いている。

「ただね、彼はかなり疲れていたよ、最近。元々子供ができなくて寂しい身寄りだったのに、三年前に岩沢さんのご両親が続けてお亡くなりになり、その後、二年前のことですが離婚された。今は全くの孤独状態でした。仕事中はいつもと変わらないように振る舞っていたが、仕事を終えてひとりになると、張り合いがなくなっていたのかも知れない。ゴルフの後に二人で食事したこともあるんだが、そんな感じを私は受けていた。勿論勝手な想像だがね」

「夢育英会にはまだ基金を続けられるんですか?」

 大和田の表情は変化しない。むしろ答えを用意していた感がある。

「岩沢さんの遺書で責任の所在が明確になったからね。KG製作所さんとしても、今更変更はできないでしょう。3年契約ですから次の契約時にはこちらも善処しますよ」

「香帆さんとは、彼女が高校時代からお知り合いだった。ですよね?」 

 大和田の表情が一瞬曇ったことを鈴は感じ取った。

「知り合いと言うほどでもないがね。彼女がマスコミに取り上げられたので話す機会が多かったのは事実だな。そのお蔭で基金は多く集まったので、私としてもできるだけの援助はしましたよ。しかし違法なことは何もしていない。京明大学へ入学したのも、院へ進んだのも彼女の実力です」

 鈴の隠れた疑念を先回りして弁明した。

「香帆さんの叔父さんは、資産家の鳩川さんだそうですね。どうして直接援助してあげなかったのでしょう?」

 鳩川の名前が出た瞬間、大和田の瞳に動揺が走ったことを鈴は見逃さない。

「さあ、それは鳩川さんに聞いてくださいよ。私も二人の関係は最近になって知ったくらいですから」

 嘘だと鈴は直感した。

「鳩川さんの事業についてはご存知ですか?」

 ようやく熊野が口を開いた。

「大体は知っているが、鳩川さんと深い付き合いがある訳ではないのでね……。年に一度くらいご挨拶はしますよ、何と言っても一番の資金提供者だからね。しかし、そんなことが岩沢さんの自殺と関係があるのかね?」

 大和田は穏やかな表情で疑問の面を浮かべる。

「では、少々お聞きし難いことですが、関係者全員に対する質問なのでご容赦ください」

 熊野が再び改まった口調になった。

「アリバイですか?」

 熊野は軽く頷く。大和田は笑みを浮かべている。鈴にはその余裕が却って疑惑に映った。

「実は一昨日の昼間、岩沢さんから職場に電話があったんです」

「え?」

 二人は驚いて思わず身を乗り出す。その反応に大和田は満足そうだ。

「職場の電話に、ですか?教授の携帯ではなく」

 そう言って熊野がメモを取り始める。

「仕事中はいつもそうですよ。私が講義や会議に出ている場合が多いですから、職員が一旦電話を受けて、私の予定を確認してから転送してくれます」

「で、どんな話をされたのですか?」

「真相を話したいから東京まで来てくれないかと。岩沢さんは京都を離れて東京に身を隠していたようです。詳しくは聞きませんでしたが。それで昨日は東京に向かいました」

「何時にどこで待ち合わせされたのですか?」

「18時に不忍池です。上野公園にある」

「18時。ですか……」

 岩沢が居酒屋から上司に電話をした時間だ。京都から3時間以上は掛かる上野で会えるはずがない。

「当然、彼は来なかった。私は1時間ほど待ったが仕方なく諦めて、上野で夕食を取っていました。すると、岩沢さんから電話がありました」

「え!何時頃ですか!」

 熊野が身を乗り出した。死亡推定時刻が更に絞り込める。

「19時50分頃ですね」

 大和田がスマフォの着信履歴を確認している。

「岩沢さんとどんな話を?」

「彼は、とにかく申し訳ないと謝りっぱなしでした。とにかく一度会ってゆっくり話そうと諭したのですが、かなり興奮気味と言うか酔っている感じで、元妻にプロポーズした思い出の場所でゆっくり頭を冷やすと言って切れました」

 そこまで話すと、大和田はアイスコーヒーをひと口飲んで小さく溜息を吐いた。

「もしやと言う考えも浮かびましたが、東京にいたので駆けつける訳にもいかない。そもそも、思い詰めた様子もなかったし、頭を冷やすと言っていたので、冷静になって前向きに考えてくることを期待しました。もう少し私が機転を利かせていれば彼の自殺を止められたのかも知れません」

 大和田は俯いたまま悔しそうに話している。

「そう、ご自分をお責めにならないでください。私が教授のお立場でも、何もできなかったと思います。それで何時頃京都に戻られたのですか?」

 熊野が同情気味に優しく問うた。

「最終の新幹線で京都へ戻りました」

 大和田が落ち着くのを少し待ってから、熊野は再び質問を続ける。

「話を少し戻しますが、京都を出発したのは何時頃ですか?」

「朝の10時頃京都を発つ新幹線に乗りました」

「随分早いですね?」

「雲隠れですよ、マスコミからね」

「人気者ですからね」

 鈴が横槍を入れてニコリと笑い、場の空気を柔らかにした。

「自宅にも大学にもマスコミが押し掛けて来たので、車で大学に入ってから、こっそりタクシーを呼んで出掛けました。岩沢さんとの約束時間に早過ぎるのはわかっていたけど、少しでも早く周囲の目から逃れたくて早くに出発しました」

「東京に着いてからはどうされていましたか?」

「昼過ぎに着いたので、食事をしてから東京観光をしていましたよ。ぼんやり銀座や原宿なんかを歩いて明治神宮にもお参りしました。目的もなくぶらぶら歩くなんて何十年ぶりだったかな。おかげで良い気分転換になりました」

「大人の街と若者の街を……。ずっとおひとりで?」

「雲隠れだからね。証明しろと言うことですか?」

 少し厳しい目で熊野を捉えたものの、少し考えたお大和田は、

「新幹線のEXカードのログを調べてもらえば、私が乗った便が記録されているはずです」

 と、落ち着いた口調で言った。新幹線の乗車カードのことだ。EXカードを持っていれば、予約や変更を自由にできるし、窓口で切符を買う必要もなく改札を通ることができる。

 大和田は、ひと仕事終えたような表情でアイスコーヒーをひと口飲んでから、ゆっくりと背もたれにもたれ掛かった。表情には余裕が窺える。

「以上ですか?」

 熊野の確認に大和田は静かに頷く。

「なるほど。誰かと話されたことはありませんか?」

 疑い深い熊野の質問に大和田は一瞬嫌な目をしたが、腕組みをして考え込むと、

「そうですねえ、京都に戻って改札を出る時に改札口を間違えてしまいゲートが閉じました。その時に駅員さんと話しましたよ」

 と、軽く笑った。

「どこの改札口ですか?」

「JR乗換口です。私は乗換ではなくて出口へ行かなければならなかった」

 と答えた瞬間、

「あっ」

 と小さく叫んだ大和田は、

「行きの新幹線で、隣に座っていた女性が京明大学の卒業生で東京まで一緒でした。最近、変に騒がれているものですから、その女性もすぐに気付いて彼女から声を掛けてきました」

 と、目を輝かせた。

「普通、そっちから先に思い出すでしょう」

 鈴が小声で突っ込んだが熊野に無視された。

「名前を聞かれていますか?」

 大和田は名刺入れを取り出して中から一枚の名刺を選んだ。

「お休みでも名刺入れを持ち歩くの?」

「習慣だよ。その女性は私の講義を受けたことがあると言って懐かしそうにしてくれました。20~30分ほど彼女の学生時代の話を交えた挨拶を交わしましたが、私の今の状況を思いやってくれたのか、それ以上の話はしませんでした」

 名刺を熊野に手渡す。

「彼女のスマフォに二人で撮った写真があるはずです。私なんかと一緒に撮りたいと仰って、そのまま席で撮りました。その後雑誌を読みながら眠ってしまい、目が覚めるともう東京でした。長時間眠っていたので記憶が薄くなっていました」

 と鈴の突っ込みにも答えた。

「写真はどの辺りで撮られましたか?」

「うーん。名古屋に着く前なのは確かですが、あまり良く覚えていませんね」

 熊野はその名刺を画像データに残して鈴に手渡す。鈴は聞いたこともない社名と名前をぼんやりと眺めていたが、突然脳裏に記憶の閃光が走って、

「え!この人って!」

 と思わず叫んでしまった。

「知り合いですか?」

「並岡さんの元カノよ!」

「え、まさか!」

 大和田は驚いて、

「同姓同名ってことは?」

 と、鈴を見つめる。

「いくつくらいの女性でしたか?」

「二十代後半ですかね」

 大和田が答える。

「確かそれくらいだった。でしょう?」

 鈴が熊野に振る。

「え?」

「あんた、忘れたの?安オヤジが京都まで来て会った女性よ。神野美緒さんよ」

 熊野もようやく思い出したようだ。

「今は秘書がいないから正確な年齢はわからないけど、四十過ぎのおばさんじゃないことは確かよ。それに京都から乗って来たのよね?」

 鈴が大和田に確認する。

「ええ、私が京都から乗車して窓際の席に座るとすぐに彼女が来て隣に座りましたし、荷物も持たれていましたから間違いありません」

「とにかくここの会社へ行ってみればわかることだわ」

 鈴は大和田に名刺を返しながら彼の余裕ある表情を見つめていると、大和田が岩沢の死へ関与している疑念が強くなって来た。余りに完璧過ぎるアリバイと奇跡的な偶然。大和田本人が実行犯ではないにしても、何らかの関りがあることは間違いない。

「最後にひとつだけよろしいですか?」

 熊野が自分のスマフォを見ながら確認した。大和田は軽く頷く。

「『恨みますサイト』をご存知ですか?」

 恐らく、小八木が熊野にメールで指示をしたのだろう。熊野はスマフォ画面を読むように質問する。

「さあ、聞いたことがありません。近頃のネットは訳のわからないものが多いですからね」

 即答した大和田は澄まし顔で熊野を見つめている。

「わかりました。質問は以上です。今日はありがとうございました」

 そう言って熊野が深々と頭を下げた。 

「普段着も良いコーディネートですね?奥さんが選ばれるの?」

 鈴も最後に愛嬌を振りまいた。

「いえ、娘ですよ。妻は私になど興味は無い」

 そう言って嬉しそうに笑った。

「へえ、娘さんはお幾つですか?」

「もう二十六ですよ」

 鈴は笑顔を返しながら心の中で、

(香帆さんと歳変わらんやん!娘みたいな歳の女を愛人にすんなよ!)

 と慣れない関西弁で叫んでいた。

「では、私は失礼するよ」

 大和田は立ち上がり、三人分の料金を払って出て行った。

「しまった!もっと高い物を食べておけば……」

 鈴が悔しそうに愚痴る。

「最初から自分で払う気は無いでしょう」

 熊野が笑った時、大和田と入れ代わるようにして小八木が入って来た。

「クリームソーダをお願いします」

 小八木は、さっきまで大和田が座っていた席に軽く腰を下ろすや早速口を開く。

「大和田教授は知っていましたか?『恨みますサイト』のこと」

「知らないようです」

 熊野が答える。

「そう言っただけよ。あれは怪しい」

「あまり色眼鏡で見ない方が良いですよ」

「そうかなあ」

 鈴は納得いかない面持ちで熊野から小八木に視線を移した。

「岩沢さんのパソコンはかなりやられていました。セキュリティが甘過ぎます」

 小八木は水を口に含む。

「ウイルス感染していたの?」

「はい、瀕死状態ですね。『ZIGEN』と言う名のスパウェアに感染していました」

「それって……」

 鈴の瞳がキラリと輝く。

「そうです。香帆さんのパソコンに感染していたものと同じです。ハッカーが自由にパソコンをコントロールできるスパイウェアです。そして、岩沢さんのパソコンから『恨みますサイト』に投稿した跡がありました」

 そこへクリームソーダが運ばれて来た。

「何を投稿していたの?」

「そこまではわかりません」

「何だ、中途半端ね」

 鈴はクリームソーダに手を伸ばしてアイスクリームをスプーンですくった。だが小八木は構わずに続ける。

「それから、あまり関係ないと思いますけど、香帆さんのパソコンに在った仕事用のファイルと同じファイルが岩沢さんのPCにもありました。関数が記載されたファイルです。もしかしたらZIGENと何か関係があるのかも知れません」

 小八木がクリームソーダを奪い返す。既にアイスは半分無い。

「関数かあ。怪しいわね」

 小八木は残りのアイスを取られないように一気に口へ運ぶ。

「どうして関数だと怪しいと思うんですか?」

 熊野が不思議そうに尋ねた。

「単に関数が苦手なだけですよ」

 小八木が当たり前のように答える。

「どうでも良いから、その関数を調べてみてよ」

 アイスが無くなったソーダを悔しそうに睨みながら言った。

「御意」


【判明した事実】

〇並岡は、彼を研究室に戻す大和田の念書PDFファイルを香帆からもらっていた。がパスワードを忘れてしまった。

〇岩沢の死亡 場所は渡月橋近く。死亡推定時刻20時から22時。翌朝5時に発見される。

〇岩沢死亡日の大和田アリバイ

・10時新幹線で東京へ向かう。新幹線での目撃者あり。18時に不忍池で岩沢と待ち合わせしたが来なかった。

・19時50分頃に岩沢からお詫びの電話あり

〇岩沢さんのパソコン「ZIGEN」スパウェアに感染していた




不忍池は、蓮の花が咲く頃が一番好きです。森鴎外や夏目漱石の作品を思い起こしながら無縁坂を超えて東大辺りを散策していると文学青年の気分に浸れますよ。

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