古来より 四
朝枝香帆の生前の人間関係。やはりただの自殺ではなさそうな気配。安岡は鈴を疎ましいと感じながらも、素人の閃きに驚かされる。マイペースで愛らしい鈴に振り回される男たちは共に真相に迫ってゆく。
立ち食い蕎麦で昼飯を済ませた安岡は、慣れない京都の地下鉄に乗って九条駅で降りた。駅の案内で地図を頭に入れてから地上に出た。狭い路地にでも自動車が当たり前のように次々と入って来る。
安岡はうんざりした気分で歩きながら、星里鈴と言う小娘のことを思い浮かべた。容姿は愛らしく、娘のように可愛いがっても良さそうなものだが、口を利くとどうも腹立たしくなってしまう。本来なら、若い女の生意気な様子は、却って可愛げがあったりするものだが彼女は違う。
「父親が警察庁幹部だからか?」
心の中で誰かが指摘する。
「まさか」
安岡は思わず声に出した。彼は組織内の人間力学には全く興味が無い。だから上といざこざを起こす気も無ければおもねる積りも無い。いつも適度な距離を置いている。だから、余計な波風を立てないために、一般人である鈴に対して秘密に属さない情報を出すくらいは気にならない。
そんなことを考えているうちに、彼女のことが腹立たしく感じる本当の理由がわかって来たような気がして、彼は益々気分が不快になる。
その理由は、鈴の言うことが時々正鵠を得ているからだろう。いや、自分が気づいていない点を指摘されたりする。もっとも、本職の自分は一部の証拠だけで色んな判断をするような遊びはしない。ある程度確かな証拠を揃えてからじっくりと考える。少量の情報であれこれ推理を楽しんでいる素人とは違うのだ。
昨夜も熊野から連絡があって、並岡が昨年個人情報漏えい事故でグレーな存在だったこと、そしてそれを調査したのが香帆、そしてそれが原因で並岡は岐阜に転勤になったのかも知れないと言う情報を得た。
そしてそんな重要情報を仕入れたのは鈴だと言うことだ。一体どうやってそんな情報を得たのか、詳しくは話さなかったが、その件を並岡にぶつけてみてくれと言う熊野の依頼だった。
ふと気が付くと、もう河原町通りまで出ている。この辺りにファミレスがあるはずだ。安岡はスマフォを取り出して地図を確認する。スマフォの向きを変えると地図がクルクル回ってイライラする。
彼はスマフォで地図を表示することまでは出来るが、経路案内をさせたり、所要時間を計ったりと言ったことはできない。若い部下がいると、あれこれと情報をくれるし道案内もしてくれるが、ひとりの時は文明の利器は活用できない。
ここが岐阜ならまだ土地鑑もあるが、やたら几帳面に東西南北に通りが延びている京都である。もし太陽が見えなければ完全に方向を見失ってしまうだろう。
最後は勘に頼って進んでみると、ファミレスにしては間口の狭い店が目に入った。駐車場も裏手にあるのか通りからは見えない。岐阜にあるファミレスとは別物のように感じる。
少し汗ばんだ額をハンカチで拭ってから店の中に入る。神野美緒、並岡が香帆の前に付き合っていた女性は、今日は平日だが代休を取っていた。
彼女はシステム開発のエンジニアなのでクライアント企業が休みの時、大体は世間が休みの時に仕事をすることも多い。だから平日の休みも結構あるようだ。
彼女から話を聞くために安岡が電話してみると、マンションではなく、近くのファミレスに来て欲しいと要望された。
昼休み時を過ぎた店内は空いていた。女ひとりで座っているのは2~3人。年齢的に該当しそうなのがひとり。安岡はその女性とすぐに視線が合って近づいてゆく。
「神野さん?」
よそ行きの優しい声で尋ねてみる。
「はい」
「私、岐阜県警の安岡です。折角のお休みに申し訳ない。すぐに済みますから」
彼は向かいの席に座る。美緒はちょっと内気な感じがする。着ている物も、普段着なのか地味で化粧も薄い。安岡はホットコーヒーを注文した。
「何にされますか?」
美緒はまだ注文をしていないようだ。
「キリマンジャロはありますか?」
「はい、ございます」
ファミレスにキリマンジャロがあるのかと安岡は驚いた。
「お電話でも話しましたが、先日、並岡さんの部屋で若い女性が亡くなられました」
「そうですか」
美緒は静かにお冷を口に運ぶ。事件には全く興味は無なそうだ。
「並岡さんとは、いつ頃どのようなきっかけで付き合い始めたのですか?」
美緒は、2年程前の出会いから別れまでをかいつまんで淡々と話してくれた。何かを隠す様子もなく、刑事に臆する様子もなく、まるで他人の日記でも読むかのように事務的な口調で……。
安岡が一番重点を置いていた別れの状況も、並岡が話した内容とぶれは無かった。
「岐阜の部屋に行かれたのはそれが最初で最後ですね?」
「はい。もう場所も覚えていません」
「朝枝香帆さんをご存知ですか?亡くなった女性ですが」
この質問も彼が重点を置いている質問だ。だが美緒は少し考える風な表情をした後、
「さあ」
と自然に言って軽く首を横に振った。
「そうですか。あなたも京明大学出身だとお聞きしたので、もしやと思ったのですが……」
安岡は念のために確認の言葉を投げてみる。
「私と同じ年代ですか?」
美緒には、昨夜も香帆の年齢を言っていない。美緒の自然な表情から出た疑問は彼を安心させた。
「我々の調べではお二人は同じ歳です」
「まあ!だったらキャンパスのどこかですれ違っていたかも知れませんね」
安岡は、美緒と香帆が繋がっていたなどと言う、担当刑事にとっては複雑な事態に陥ることを恐れていた自分を戒めるように、美緒の表情をじっと観察しながら、
「大和田教授のことは?」
と、更に問い掛けた。
「勿論知っています。当時から京明の名物教授でしたからね」
初めて美緒が微笑んだ。卒業生にとっては自慢の教授なのだろうか。安岡はコーヒーを口に運んで、余り美味しくはない香りを鼻から抜いて大きく息を吸った。美緒もひと息吐くかのようにキリマンジャロをゆっくりと口にする。
「あなたも院卒ですか?」
安岡が語気を変えて新たな質問を投げる。
「いえ、四年で卒業しました。勉強は好きじゃありませんから」
「お仕事はシステム開発だとか」
美緒は小さく首肯してから、
「あの人は何でも良く話しますね」
と、笑った。そして、
「でも彼は犯人じゃ無いですよね?」
と言って安岡を見つめた。
「元彼を信じたいのですね?」
安岡は美緒の初心な一面になぜか安堵する。
「彼は女性に恨まれることはあっても、恨むことは無いと思います」
「彼はもてるでしょうからね」
並岡に振られた美緒に遠慮しながら言った。
「別に信じたい訳ではなくて、刑事さんが彼の人柄とか性格とか、細かな質問をされないのでそう思っただけです。彼が疑わしければもっと詳細な質問が多くなるでしょう?普通」
「なるほど」
安岡は、美緒の落ち着き具合がなぜか鈴の笑顔と重なって、最近の若い女性の強さに舌を巻いている。生憎、美緒の観察とは違って、彼自身は並岡を疑っているのだが。
「折角だからと言う訳ではありませんけど、並岡さんが何かの事件や犯罪に巻き込まれたとか、関わったとか言う話はお聞きになっていませんか?」
安岡は、もうひとつのポイントである、漏えい事件について美緒が何か知っているかを探ってみる。だが、彼女は笑みを零しながら首を横に振るだけだ。
「では、最後にひとつだけ。これを確認するのは決まりごとなのでお気を悪くしないでくださいね。4月22日は、どこで何をされていましたか?」
美緒は無表情のままスマフォの予定表を確認する。
「そこに載っているんですか?」
「え?」
美緒は安岡の質問を理解できない。
「私も持ってはいるんですがね。メールと電話くらいしか使えなくて」
安岡は、ポケットからスマフォを取り出して笑って見せる。
「慣れですからね、あれこれ考えずにまず触ってみれば良いと思いますよ。ああ、思い出しました。22日は休みで、一日中部屋にいました。ひとり暮らしですから証人はいませんけど」
安岡はメモを取り終えて顔を上げる。そして、
「大丈夫ですよ、別にあなたを疑っている訳ではありませんから」
と、コーヒーを飲み干した。
「あ!確か、あの日は宅配を受け取っています」
美緒が少し明るい声で告げる。
「どこの宅配業者ですか?」
美緒は驚いた瞳で安岡を見つめた。心の中でやっぱり疑っているの?と言っているかのようだ。
「すみません、習慣でしてね。調査は1回で済ませたいので、できるだけ多くの情報を聞いておきたいのです」
美緒は小さく吐息を吐いてから業者名を言った。安岡はメモが終わると静かに手帳を閉じて、
「以上です。また何かあったらご連絡するかも知れませんが、恐らくこれで終わりだと思います。ご協力ありがとうございました」
と、礼を言った後安岡は立ち上がった。
随分と日が長くなったような気がする。夜の6時を過ぎても十分明るい。木屋町通りは、仕事帰りのサラリーマンやコンパと思われる学生のグループでごった返している。まだ木曜日だが学生には関係ない。
そんな学生たちが入りそうな居酒屋チェーン店に入ろうとする熊野を鈴が止める。
「良い大人が安っぽい店に入るの?あっちにしましょう」
鈴は、木屋町通りから先斗町に抜ける路地にある、小洒落た創作料理の店に先頭を切って入って行く。その後を熊野、安岡、小八木の順に男たちが付いてゆく。
店は席の三割程が埋まっているが静かだった。鈴が奥のテーブルをリクエストすると、若い男の店員が愛想よく案内してくれた。周囲のテーブルには誰も居ない。あんな笑顔で言われたらどんな我侭も聞いてしまいそうだと、安岡は鈴の逞しさに脱帽する。
鈴と小八木が並んで座り、向かいに熊野と安岡が腰を下ろす。鈴の正面には熊野が座った。安岡が暗に避けたのだ。
「いつもの」
鈴が小八木に短く指示する。
「何かお望みの品はありますか?」
小八木がメニューに目を通しながら刑事たちに尋ねる。
「俺は奴があれば良い。それより煙草、良いか?」
「だめ」
鈴が即答する。いくら酒場でも目の前で煙を吐かれては堪らない。
「僕は枝豆があれば十分ですよ」
熊野は節約モードになっている。
「君たちは好きな物を頼め」
出し掛けた煙草をポケットに戻しながら安岡が言った。
「小八木が生ビールを四つと刺身、揚げ物、煮物、焼物とバランス良くオーダーする」
「またサラダを忘れてる」
鈴の冷たい指摘。
「ごめん」
「もしかして、君たちは付き合っているのか?」
安岡がニヤリと笑って小八木に尋ねる。
「いえいえ」
小八木が恐縮気味に否定する。
「この子は現実の女に興味が無いのよ」
「そんなことは無いです」
小八木は勘違いされないように刑事たちに必死で訴える。
「それにしては良く教育されている」
安岡が笑いながら言うと、
「鈴さんと三日もいれば、自然とこうなります」
と、真面目顔で熊野が口添えした。
「さあ、乾杯しましょう!」
鈴の声で、運ばれて来たばかりの生ビールを全員が手にする。
「事件解決を祈念して乾杯!」
鈴が嬉しそうに発声する。
「解決するのは俺たちだ」
安岡が低い声で呟く。
「まあ良いじゃない。こうやって夜までお付き合いして協力してあげてるんだから」
「誰も頼んでいない」
「出張に来たオヤジが、ひとりでコンビニ弁当なんて惨めでしょ?可愛い女子と食事できて良かったわね」
鈴が可愛く笑って安岡を見つめる。だが安岡は笑顔を無視するように早速質問を始めようとする。
「ちょっと待って、先にご遺体の検査結果と通信会社の記録調査の結果を教えてよ」
鈴が先を制する。
「よく覚えているな」
「秘書が優秀なの」
安岡は手帳を取り出してから、
「ご遺体の首に残った絞め跡は、やはりあの状況と完全一致しなかった。凶器はあの並岡のネクタイで間違いないが」
「じゃあ、香帆さんは、違う態勢でネクタイを使って絞殺されたってことね」
「その蓋然性が高い」
安岡はここでビールを口に運ぶ。
「ついでに、最終的な死亡推定時刻は?」
「20時から22時頃だ」
「意外と早い時間ね」
鈴もビールをひと口飲んだ。そして意味ありげな笑顔を浮かべると、
「それで、通信会社の記録は?」
と、嬉しそうに尋ねる。逆に安岡の面が曇った。彼の主張は、並岡の携帯に香帆が連絡を入れていて、並岡がその履歴を消したという説だ。並岡が香帆の訪問を知らなったことにする細工だと感じたのだ。
しかし、それは深く考えた意見ではなく、会話の流れで口走ったことだ。鈴の言ったように、香帆の訪問を知っていたとしても並岡がそれを隠す必然性はない。安岡は小さく息を吐いてから口を開いた。
「事件当日、並岡の携帯電話及び勤務先電話に香帆からの着信記録なし。勤務先にも公衆電話を含め一切の着信なし」
安岡は、鈴に視線を合わさずにゆっくりと手帳を仕舞う。
「あらあら大変。じゃあ、並岡さんはどうやって香帆さんが部屋に居ることを知ったのかしら?伝書鳩?テレパシー?電報?」
鈴が面白そうに安岡を挑発する。
「だから、前日にでも内線で話し……」
安岡は、苦し紛れに以前否定された仮説を繰り返そうとしたが途中で止めた。事前に約束して、その後一切連絡を取り合わずに部屋で待ち合わせする理由はどこにも見当たらない。鈴の言うとおりだ。
「電話もメールも入れていないとなると、一体どうやって並岡さんは香帆さんの訪問を知ったのでしょうか?もしかすると本当に知らなかった可能性もありますね」
熊野が問わず語りに小声で零した後、ビールを流し込んだ。
「折角美味しくお酒飲んでいるんだから、もっと頭を柔らかく使いなさいよ」
鈴もビールを流し込んだ後勢い良く語り始める。
「私は、並岡さんは本当に香帆さんの訪問を知らなかったと思うの。だから犯人である蓋然性は低い。でも、敢えて並岡さんが死亡推定時間の範囲で香帆さんを殺害するシナリオを考えるなら、香帆さんが直接勤務先に行ったとしか考えられないわ」
全員が驚いて彼女に視線を集める。そんな注目を浴びた鈴は急に気を良くして、
「ホテルに携帯を忘れたことに気付いた香帆さんは、公衆電話の利用を考えたけど、並岡さんの番号も、勤務先の番号も覚えていない。安オヤジの時代と違って、今の人は電話番号なんて覚えていない。全部スマフォに記録されているから。それで岐阜駅からタクシーで並岡さんの勤務先に向かって彼を呼び出した。そしてそのまま二人で部屋へ戻ったのよ」
と、軽い口調の遊びモードで話した。
「抜け出さなくても良いでしょう、部屋で待っていることを伝えれば」
遊びモードの鈴に熊野が真面目に指摘する。
「だから熊野君はもてないのよ。仕事を放り出してでも愛する女を抱きに帰る。それくらい面白い男でなきゃ」
そう言って鈴はビールをゴクリと飲む。
「そんな熱い二人なのに別れ話か?」
安岡も軽い口調で遊びに加わる。
「別れ話云々はオジサンたちが勝手に言っているだけでしょう。私はそうは思わない。でも参考までに言っておくと、最後に激しい思い出を作ってから別れの言葉を吐く女もたくさんいるわよ」
鈴は悪戯っぽく笑っている。
「ざ、残酷ですね……」
男たちが目を丸くしている。安岡はビールをグイと流し込むと、
「女の残酷さは良く知っている。それより大和田教授の方は?」
遊び話は打ち切って、鈴たちの情報を求めた。昼間、熊野と鈴、小八木の三人は、教授の所へ個人情報漏えい事件について確かめに行ったのだ。しかし案の定、大和田教授の回答は公式見解どおりで、
『漏えいの可能性があるシステムログが残っていたので念のために調査を行ったが、事実を証明するような証拠は何も出なかった』
と、説明した。すると小八木がいきなり横から口を挟んだ。
『研究員に対して聞き取り調査まで行ったと言うことは、かなり疑わしいアクセスログが残っていたのでは?聞き取り調査をした対象の人たちの範囲が限定されていることから、ログに残ったIDの使用者を絞れていたってことですよね?』
『君はシステムに詳しそうだね。だが、そんなにわかりやすいログが残っていた訳ではないんだ。アプリケーションがデータを取り出しているのだが、どうもそのアプリケーションの開発ミスらしい。結局、漏洩が疑われるデータは一時保管エリアのみに保管され、一定時間後に消去されたと思われる。だから調査をしたのはそのアプリケーションの開発に関与した者たちだ。だが、随分前に作ったアプリで最近は誰も触れていなかった。そうなると、もう誰がいつ変更を加えたのかわからない』
『普通は変更記録が残っていると思うのですが?』
『確かに本来はそうあるべきだが、些細な変更にまで複雑な手続きは行っていなかったのが事実だ。お恥ずかしい。そこはあの事件を契機に改善を行っている』
熊野が会話の理解を諦めて別の確認を行った。
『並岡さんが犯人である疑いがあるから、岐阜へ転勤になったと言う噂を耳にしたのですが』
『とんでもない!』
大和田は大きく体を反らせ、両手を振って大げさに否定してから、
『まあ、噂などそんなものですがね、面白がっているだけですよ。研究室での仕事は地道な作業の積み重ねでしてね、刺激が欲しいのですよ』
と補足して苦笑いを浮かべた。
熊野が、昼間の大和田とのやり取りを安岡に報告し終えると、鈴が枝豆をつまんで、
「あんたが大和田教授にした質問の意味も回答も全く理解できないけど、教授の説明で納得できたの?」
と、小八木に尋ねる。
「まあ、筋は通っています」
「フウーン。で、並岡さんはどんな反応だった?」
今度は鈴が安岡に視線を投げる。安岡は漏洩事件のことを並岡にぶつけて反応を見ているはずだ。
「当然、潔白だと言った。香帆の調査も形式どおりのもので、時間が長かったのは、調査を利用して二人でお茶をしていたからだと」
安岡は吐き捨てるように言うと、菜の花のお浸しを箸でつまむ。(だから、あんたはそれをどう感じたのか言いなさいよ)鈴は胸の内で呟いたがまだ黙っている。熊野は何かをじっと考えている。小八木はいつの間にかスマフォにメモを取っていた。
「みんな食べないの?」
出て来たばかりの刺身に箸を伸ばしながら鈴が尋ねる。
「並岡さんの説明は本当だと思いますか?」
鈴の言葉は無視して、熊野が安岡の印象を尋ねる。
「何とも言えないな」
安岡は敢えてあやふやな答えを返しているように鈴は感じた。
「もし、並岡さんが漏洩事件の犯人で、香帆さんがそれを教授に報告せずに隠ぺいしていたとしたら?」
熊野が勝手に推理を進める。
「並岡は香帆に弱みを握られていた。殺害の動機に成り得る」
並岡犯人説の安岡は、熊野にそう答えた後美味そうにビールを流し込んでから、
「並岡と別れたいと感じ始めていた香帆は、漏洩事件の一件で決意を固めた。犯罪者といつまでも付き合えるはずがない。香帆がツアーに参加した理由はまだ不明だが、大垣までやって来た香帆は何かの理由で別れ話を切り出すことを決意した」
と低い声で推理を披露した。しかし、それを聞いた鈴は全く同意できない様子で、
「歴史ツアーで大垣を訪れた香帆さんが、アサリの身が蓋に付いていたとか言う松尾芭蕉の俳句を読んで、急に並岡さんのことを思い出し、別れ話をしに岐阜まで行くことを決めたの?」
と、呆れた表情を満面に浮かべた。
「アサリじゃなくて、『蛤の二見に別れ』です」
小八木が小声で訂正する。安岡は少し考えてから、改めて筋を書き直す。
「じゃあ逆の仮説だ。ツアーで大垣に来た香帆が並岡を思い出し、恋人に抱かれたい気持ちを抑えられなくなった。若い女性だから無理もない。少しの時間でもと並岡に会いに来た。お前の言うように直接職場を訪れたのかも知れない。しかし、愛し合った後、話の流れで並岡が別れ話を切り出す。別れたくない香帆は秘密をばらすと脅かした。あり得る展開だ。衝動的に犯行に及んだ並岡は、自殺に見せ掛ける知恵は働いたものの鍵のことまで考えが及ばなかった」
「否定はできませんね」
熊野の同意に安岡は満足そうにビールをひと飲みした。鈴はまだしっくり来ない。
『そもそも香帆さんは何をしに大垣に行ったのか、何のために歴史ツアーに参加したのか』と言う疑問が彼女の中で晴れていない。しかし、幸福そうな安オヤジの表情に免じて口を閉じた。
「それで?鈴さんは、あの後何をしていたんですか?」
今度は熊野が鈴に問い掛ける。三人で大和田教授の研究室を訪れた後、鈴ひとりが大学内にあるカフェに向かったのだ。男二人には来るなと言って。
「田中良子さんとお茶してたのよ」
「香帆さんの職場の同僚ですね?」
「何をつかんだ?」
安岡の瞳が輝いた。
「トロのお刺身もらうわね」
鈴が刺し盛りに箸を伸ばしてから、
「私の勘だけど、大和田教授は香帆さんと付き合っていたと思うの」
と言ってトロを口に運び、安オヤジに負けないくらい幸福な笑顔を浮かべる。
「田中良子がそう言ったのか?」
安岡が身を乗り出す。もし本当だとしたら、三角関係による怨恨と言う線も浮かんでくる。
「教授が香帆さんを贔屓していることは感じていたけど、独身で綺麗な子だから、男の態度はそんなものだろうと言っていたわ。だから私の勘」
鈴の言葉に安岡は少し落胆したが鈴は全く気にせず、ビールジョッキを空けて続ける。
「大和田教授の研究室と協同プロジェクトを行なっているKG製作所と言う企業があって、長い間、京明大学のIT関連のハードやソフトを調達してたの。協同プロジェクトは昨年に始まったばかりだけど、かなり注目を集めていて、高額な研究費用が提供されているらしいわ」
話題が男女関係から外れたが、
「胡散臭いな」
と、安岡が好奇心を見せる。
「そこの担当営業に岩沢さんと言う、これまた胡散臭いオヤジがいて、ああ、これは良子さんの意見よ。岩沢さんは20年近く大和田教授にくっ付いて売上を伸ばしてきた。まさにコバンザメ的オヤジらしいわ」
「世間にはごまんといるぞ、コバンザメやハイエナみたいな連中は」
安岡もビールジョッキを空ける。
「昨年の夏頃、その岩沢さんが香帆さんに近づいて、大和田教授の最近の金遣いや遊び方について、根掘り葉掘り聞き出そうとしたらしいの。 香帆さんは何も知らなかった。香帆さんはその事を良子さんに打ち明けた。勿論、良子さんが知る訳もなく、大和田教授が何かやましいことでもしているのかと二人で想像していたらしいの。岩沢さんは何度か香帆さんに近寄ったものの、香帆さんが本当に知らないとわかると足が遠退いた。逆に、香帆さんが岩沢さんに探りを入れたらピタリと来なくなった」
そう言った鈴が飲み物メニューに視線を向けると、小八木が素早くメニューを開いて見せる。
「それで?」
安岡が怪訝な面持ちで鈴を見ている。
「は?」
鈴はメニューを指差しながら安岡に不思議そうな目を向けた。
「お前はいったい何を言いたいんだ?」
「じゃあ、どうして教授の金遣いのことを香帆さんに聞くのよ?彼女が教授と親しい関係だと岩沢さんが思っていたからでしょう」
「関係者全てに聞いて回っていたんじゃないか?」
安岡はまだ賛同しない。
「いいえ、良子さんにも院生君にも聞いていないわ」
「誰だ、インセイって?」
小八木は皆の飲み物をオーダーしている。
「インセイはどうでも良いから……。教授と20年近く仕事をしている岩沢さんが二人の関係を疑っていたのなら、確度は高いと思うの。どう?」
鈴は安岡に向かって笑顔を向ける。
「それだけでは何とも判断できないな」
(本当は同意してるくせに)鈴は心の中でほくそ笑む。
「香帆さんが大和田教授の信頼を得ていたからだとも考えられますね。漏えい事件の調査も任されたくらいですから」
熊野が口を挟んだが、鈴はもう興味を失ったように、
「KG製作所はどんな会社なの?」
と、小八木に話を振った。
「ソフトウェアの開発、販売が主な事業で、推論エンジンや暗号化システムの開発では業界のリーディングカンパニーです。ああ、京明大学との協同プロジェクトのことも載っていますね」
小八木がネット情報を繰りながら、急に眼を輝かせて、
「データを暗号化したままで統計や分析を行う……か。元データを分析した結果と暗号化データを分析した結果との相関関係に規則性を見つけるのか?またはその規則性を仕込まれた暗号化アルゴリズムを研究しているのか?いや、暗号化キーと復号キーの間に仕掛けを埋め込むのだろうか?」
と、研究内容に引き込まれている。
「あんたの言ってることが暗号だわ」
「因みに大和田教授は何歳なんだ?香帆さんと幾つ違う?」
安岡が枝豆をつみながら尋ねる。
「羨ましいの?」
「55歳です。香帆さんと30歳近く違いますね」
小八木が答える。
「30歳!熊野君と私の差なんて可愛いものね」
鈴も枝豆に手を伸ばす。
「お前らなら普通に結婚できる歳の差だ」
年配らしい安岡の言葉に熊野は俯く。
「何赤くなってるの、ガキね」
鈴が笑い飛ばしながら店員が運んで来た冷酒を嬉しそうに受け取った。そして四合瓶を小八木に差し出したが、珍しく彼は反応しない。ネットの記事に没頭したままで、まるで何かに憑かれたかのように青白い面が張り詰めている。
「もう良いから、さっさと暗号化世界から帰って来なさい。お酒飲みたいのよ」
「1961年生まれなんです。大和田教授」
小八木が画面を見つめたまま零した。
「そりゃあ55歳ならそれくらいだろう」
安岡が、鈴の持っている四合瓶を取って蓋を開ける。
「しかも8月6日」
小八木はそう言って鈴を見つめると、彼女もヒヤリとしものを背筋に感じた。
「君と同じ誕生日ですか?」
熊野が軽い口調で尋ねる。
「196186」
彼がそう言った刹那、鈴は記憶の奥で何かが閃くのを感じた。
「香帆さんのスマフォのパスワードです!」
安岡が鈴のグラスに酒を注ぎながら固まっている。
「どうして君が彼女のパスワードを知っているんだ?」
「お酒零れる!」
鈴が小さく叫んで、
「そこは突っ込み所じゃないでしょう!ね、これで決まりでしょう?大和田教授の生年月日をパスワードにしているなんて、恋人以外の何者でもないわ」
と、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。自分のグラスにも酒を注いだ安岡は、しばらく口をつぐんで考え込んでいたが、やがて頭を整理するように言葉にし始める。
「仮に香帆が二股を掛けていたとすると、時系列で考えれば、最初に香帆は大和田の愛人になった。大学生の頃か院生の頃かはわからない。だが、難関研究室に入れたことから、大学生時代から何らかの関係があったと考えられる」
「やっぱり羨ましそうだわ」
鈴はトロ刺をひと切れ口に入れる。
「先の見えない愛人関係も長年続くと迷いが生じてくる。そこへ若くて優秀な並岡が現れた」
「しかもイケメンです」
安岡と熊野が推理を進めてゆく。
「並岡とも付き合い始めたが、そのうち二股状態から並岡に乗り移ろうと考えた頃、並岡の犯罪を知る。証拠は無くても色々な状況証拠からクロと判断した。そんな犯罪者への愛情などすぐに冷めてしまい別れを切り出した」
「あら、抱かれたい女説は撤回したのね」
鈴が茶々を入れる。
「それでも並岡さんが別れようとしないので香帆さんが脅しを掛けた。或いは、香帆さんが大和田教授の愛人であることが発覚して並岡さんがキレた」
と、熊野。
「で、並岡は衝動的に香帆を殺害してしまった。衝動的にと言っても、殺害方法や犯行タイミングを考えるくらいの冷静さはあったのだろう。恐らく、彼女の隙を見て後ろからネクタイで絞めた後、首つり自殺に見せ掛けた。さっきも言ったが、首に残っていた絞め跡はドアノブにネクタイを掛けて吊った跡だとは限定できない」
そこまで話すと、安岡が満足げな笑みで冷酒を味わった。
「そうかなあ」
鈴は怪訝そうな言い草で安岡の幸福感に水を差してから、
「あれ、もうトロがない、誰が食べたの?」
と惚けて見せた。
「鈴さんしか食べてないですよ」
「あらそうなの」
そう言って小八木の顔を見る。
「トロだけなんて注文するなよ」
安岡が釘を刺す。
「トロは飽きたからボタン海老にして」
小八木が店員を呼ぶと鈴が推理を始める。
「確かに、大垣に来てからの香帆さんの行動はあり得ます。折角ここまで来たのだから彼に会いたいとか、ついでに別れ話の決着をつけようとか。でも、何で私たちのツァーなの?歴史に対して興味も無く、ひとり旅が趣味でもない女がたったひとりで」
「彼女の趣味を誰も知らないだけかも知れない」
「彼女の部屋の様子を覚えているでしょ?旅行や歴史名所に関するものが何もなかった」
鈴は冷酒に口を付ける。
「結局、香帆さんが僕たちのツアーに参加した理由の壁にぶつかってしまいますね」
小八木が皆に冷酒を注ぎながらまとめた。
「ここでこれ以上議論していても始まらない。明日岐阜に戻って並岡に今の話をぶつけて反応を見る。今夜は酒を味わおう」
安岡が仕事の話を切り上げた。
「賛成!」
鈴が可愛く同意する。視線はメニューを捉えている。
「彼は今どうしているんですか?」
間の悪い熊野の言葉に鈴はムッとする。(空気読めない奴め)
「会社の寮で大人しくしている。マンションの部屋もまだ入室禁止だし、こんな状況じゃ職場にも出られないからな」
「お気の毒に。さあ、お酒で乾杯よ」
鈴が再度話を切り替えたが、
「では、僕は大和田教授に香帆さんとの関係をぶつけてみます」
と、熊野がしつこく話す。鈴はキッと熊野を睨んでから、
「バカね、先に岩沢って人に会うべきでしょう。その人が大和田教授と香帆さんとの関係を疑っていたのだから。そこで裏を取ってから教授にぶつけないと惚けられて終わりよ!」
と、強い口調で叱った。安岡はニヤリと笑って熊野の落ち込んだ表情を盗み見る。
「それから、あんたは安オヤジと一緒に岐阜へ行ってちょうだい。並岡さんのパソコンを調べるの。もう警察の調査は終わっているでしょう?」
鈴が小八木と安岡を見つめる。
「ああ、まだ署で預かっている。しかしなあ」
安岡が困惑している。
「手続きの問題ならパパに相談するけど」
「いや、良い。余計に面倒なことになる。俺が何とかする」
安岡はまた溜息を吐いた。
「ボタン海老頂きますね!じゃあ、乾杯!」
四人でグラスを合わせた後、熊野は刺身盛りに残ったイカを箸でつまんだ。
しとしとと小雨の降る金曜日。KG製作所の一階ロビーで、鈴と熊野は簡易パーティションで仕切られた四人用の会議テーブルの前に座っている。岩沢には朝一番で熊野がアポを取っている。後、半時間ほどで昼休みになる頃だろう。ロビーの道路側一面がガラス張りになっていて、待ち合わせ用のソファや打合せ用テーブルが並んでいる。
ガラス面の向こうは僅かながら緑地の敷地となっており、京の町の雑踏から隔離されている。京都の町はどこも路が狭く住居が密集している。千年近く日本の都だったのだから仕方ないが、鈴にはどうにも落ち着かない場所だ。
しかし不思議なのは、人通りの多い通りから一本中に入った路地や、ウナギ床と言われる家の奥に入ると、別世界のように静かで落ち着いた空間が広がっている。ここもそんな空間のひとつのようだ。やがて、小太りの男がやや不安げな顔で近づいて来た。
「私がIT営業部の岩沢です」
彼は名刺を差し出す。鈴を婦警とでも思っているのか何の疑問もなく彼女にも手渡した。
「京都府警の熊野です。こちらは今回の調査に協力して頂いている星里さんです」
三人は席に着いた。岩沢の名刺には、『IT営業部部長』と書いてあった。歳の頃は40半ば。ゴルフ焼けなのか日焼けが肌に染み付いている。後頭部が薄いが白髪は無い。きっと染めているのだろう。
「早速ですが、大和田教授の研究室に勤めていた朝枝香帆さんをご存知ですね?」
熊野が切り出す。鈴はこの岩沢と言う男を本能的に嫌悪した。いかにも胡散臭い。業績のためなら犯罪ギリギリのことまで平気でやりそうなタイプだ。
「はい。何度か研究室でお目に掛かったことがあります。最近亡くなられたそうですね、まだまだ若いのにお気の毒です」
と、そこへ鈴が身を乗り出して囁き声になり、
「あなたは大和田教授の何を調べられていたのですか?教授と香帆さんが愛人関係だったことを知っていて、香帆さんに色々とお聞きになっていたのでしょう?例えば教授の金遣いの話とか……」
と言って岩沢の瞳をじっと見つめた。一瞬驚いた岩沢は、鈴と熊野を交互に見てから、
「いえ、そのことについてはお答えできません。業務上の秘密事項ですので」
岩沢は落ち着いて答えた。
「教授と香帆さんが愛人関係だったことが業務上の秘密なのですか?」
鈴が目を丸くして驚いて見せる。
「いえ、そう意味ではなくて……」
岩沢がどう答えるべきか困惑しているところへ鈴が畳み掛ける。
「二人はいつから愛人関係だったのですか?」
「さあ、プライベートなことなので詳しくは知りません」
鈴が更に突っ込んでゆく。
「じゃあ、何が業務上の秘密なのですか?もしかして研究資金に関わることですか?」
「ですからお答えできません」
岩沢は完全に狼狽している。
「そうですか」
ようやく熊野が返事をして岩沢を見つめる。鈴は、研究資金に関わることで秘密があると実感した。更に揺さぶろうとしたが熊野が制するように、
「わかりました。では、大和田教授との関係について教えてください」
と、鈴の追及を妨害した。
「単にお客様と営業の関係ですよ。かれこれ20年くらいのお付き合いになりますので、ゴルフや食事には何度もご一緒させて頂いていますが、個人的な交流はありません」
「今の協同プロジェクトは、御社からかなりの資金が出ているそうですね?」
熊野が資金の話に戻そうとしている。
「研究には金が掛かります。その代わり研究成果が出た場合には、当社に独占使用権がありますから、しっかり稼がせて頂きます」
鈴は熊野が次にどんな質問をするのか期待する。
「大和田教授とはどのくらいの頻度で会われていますか?」
鈴はガクリと項垂れた。(資金の話を突っ込めよ、何て腰の引けた男なの)
「月に2~3度ですかね」
「岩沢さんは、朝枝香帆さんとは親しかったのですか?」
「いえいえ、研究室でお見掛けするくらいです。勿論挨拶くらいはしますよ、研究員の方全員ともね」
そう答えた後、岩沢は二人の顔を見て、
「一体、私の何をお調べなのですか?香帆さんとは何度かお話しをしただけで、全く個人的な付き合いはありませんよ」
と、不安げな表情で言った。
「失礼ですけど、ご結婚は?」
鈴が再度攻勢に出る。
「数年前に別れました。香帆さんとは本当に何もないですから」
鈴は、もう一度大和田との秘密についてブラフを掛けようとしたが、
「わかりました。ご協力ありがとうございました」
と、熊野が素直に引き下がってしまった。何て気弱な男なのか。良くこんな性格で刑事が勤まるものだと鈴は小さく落胆した。
「私は何か疑われているのでしょうか?」
「いえ、あくまでも参考情報です。『この件では』あなたの容疑は何もありません」
岩沢の表情が少し引きつった瞬間を鈴は見逃さない。やっぱり胡散臭いオッサンだ。熊野が最後にジャブを打ったので、まあ今日のところは許してやろうと思った。
二人は礼を言ってからその場を辞した。雨はまだ続いている。傘を差した鈴は、KG製作所の敷地内を歩きながら岩沢の態度を思い出した。
「否定しなかったわね」
熊野も鈴の歩く速度に合わせながら、
「そうですね。少なくとも、岩沢さんは大和田教授と香帆さんが付きあっていたと思っている」
と言って雨空を見上げた。
熊野はひとりで京明大学の教授室に向かっている。今日は研究室ではなく別棟に向かっている。KG製作所を出た後、鈴は何か用事があると言って帰って行った。本当にマイペースな女子だが、我侭も可愛さ故につい許してしまう。
熊野はそんな自分を自嘲しながら、綺麗に磨かれた廊下を進んでゆく。そして大和田教授のネームプレートが貼られたドアをノックする。穏やかな声が返って来た。
「失礼します。何度も申し訳ありません」
「今日は可愛いお嬢さんは一緒ではないのですね」
教授はにこやかな表情で熊野を応接セットに案内した。
「で、今日は何でしょうか?」
「唐突ですが、22日、朝枝香帆さんの事件があった日ですが、大和田教授の行動を確認させて頂きたいと思いまして」
熊野は控えめな口調で依頼した。
「ほう。とうとう私も容疑者の仲間入りですか?と言うことは、彼女は自殺ではなかったと言うことですね?」
「今はまだ何とも言えません。事件性も完全否定できないため、香帆さんの関係者全員に伺っています。ご理解ください」
「関係者と言われても、私は職場の上司に過ぎないのですがね」
熊野は大和田教授の瞳をじっと見つめている。だが、大和田はとても落ち着いた様子で動揺は見えない。
「お二人は特別な関係にあったのでは?」
熊野は更に大和田の反応を探る。微かに動揺が走ったのは確かだ。だが大和田教授はうんざりした表情に変わり、ゆっくりと首を振りながら、
「その手の噂話は良く聞きます。私が彼女の才能を買って重用して来たことが誤解を招いているのでしょう。確かに、世間では良く聞くような話なので、噂する方の感覚も理解はしますがね」
そう言って大きな溜息を吐いた後、スマフォを操作して予定表を確認した。
「ああ、あの日はシンポジウムで岡山に行っていますね」
「岡山ですか。何時頃から?」
「前日の21日、金曜ですね。夕方6時頃にここを出発して車で移動しました。自分の車です。2時間半ほどで岡山に到着し、市内のホテルに泊まりました」
「前日に移動された訳ですね?」
「ええ。翌朝は9時から市内のK大学で会合があり、午後からシンポジウム。夕方5時頃にK大学を出て奥津温泉に向かいました」
「奥津温泉?」
「岡山市内から車で1時間半くらいの所にある温泉です。シンポジウム参加者や若いスタッフたちと打上げ会をするためです。随分前からシンポジウムの準備をしていたもので、少し贅沢な打上をしました」
「宿には何時くらいに着かれましたか?」
「途中でお茶を飲んだりしてゆっくり行きましたから、夜8時頃に到着しました。ああ、スタッフは後片付けがあるので、少し遅いですが8時半に宴会が始まる予定でした。私はひと風呂浴びてから宴会に出ました」
熊野は、宿泊先の連絡先などをメモしながらさり気なく尋ねる。
「岩沢さんとは長いお付き合いだそうですね?」
「ええ、それがどうかしましたか?」
大和田は不思議そうな表情で見つめる。
「いえ、大した話ではないので結構です」
熊野は大和田の明らかな動揺を見て取った。先ほど香帆の話題を出した時よりも明らかだ。だが、今は何もつかめていないので質問のネタもない。
熊野は手帳をポケットに仕舞い込んだ。大和田と岩沢の間には何か胡散臭い関係があるように思える。有力な大学教授と20年のコネを持った営業がやりそうなことはだいたい察しが付く。
お互いが持ちつ持たれつの関係で、互いに便宜を図り合って来たのだろう。しかし、通常は犯罪にはならない範囲で収めている。
だから今回の事件と二人癒着とは直接の関係は無いだろう。熊野は瞬間的に頭の中を整理した後、教授に礼を言って立上った。
「どうだった?」
水割りが出てくるなり鈴がいきなり話し始める。
「良い店ですね」
鈴の左側に座っている熊野は即答しない。
「だからどうだったって聞いてるのよ」
熊野はカウンター内に立っている梅木の方にチラリと警戒の視線を走らせる。
「彼なら大丈夫よ、今までの経緯は全部知ってるから」
「余計ダメでしょう。部外者に情報を流さないでください」
「警察から聞いた情報は一切話してないから大丈夫よ。ね?」
鈴は梅木に向けて信頼の視線を送る。
「はい、何も聞いていません」
梅木ははっきりと言い切ったが、熊野は納得しない様子のまま、
「教授と岩沢さんは、何か隠し事がありそうですね」
と、小声で印象を語った。
「例えば?二人はできてるとか?」
「さあ、そこまでは……」
熊野が真面目に答える。
「バカね、大和田教授は根からの女好きよ。冗談に決まってるじゃない」
鈴は、熊野の単純さにいつもながら驚いてしまう。
「大和田教授と香帆さんとの関係はどうでしたか?」
今度は鈴の右隣に座っている小八木が尋ねる。
「勿論否定しましたよ。その手の噂話は昔から良くあると言って不快な顔をしました」
梅木がカウンターに全員の飲み物を並べた。いつもより微妙に鈴たちとの距離を置いている。
「熊野君の勘ではどうよ?」
「クロですね、二人は男女の仲だったと思います」
「あら、熊野君に恋愛のことがわかるんだ」
「これは刑事の勘です」
鈴は、熊野の印象を聞くまでもなく、教授と香帆が男女の関係であったことはほぼ確信しているが、刑事の観察力を期待しながら確認してみた。だが根拠が勘だと言われて失望した。
「後、事件当日ですが、大和田教授は岡山にいたようです。夜も温泉宿で宴会に参加していましたから、犯行時間に岐阜に来ることは不可能ですね」
「温泉宿で宴会するのが教授の仕事なのね、羨ましい」
鈴はそう言ってグラスを置く。
「あっ、そう言えば」
小八木が何かを思い出した。
「京明大学の研究資金について、ある噂がネットで流れていましたよ」
唐突な彼の言葉に、二人は一様に驚いた目をする。
「あくまでも噂ですけど、産学協同プロジェクトでの使途不明金がKG製作所社内で問題になっているらしいです。そのうち監督官庁の査察が入るだろうと言われています」
「誰かが横領しているのね」
「まだ詳しくはわかりません。KG製作所が提供した金額と、京明大学が今まで使用した金額との間にかなり差があるそうです」
小八木はグラスを手にしただけでまだ飲まない。
「大和田教授がネコババしてるのよ、きっと」
「とにかく、まだネット上の噂レベルなので余り本気にしない方が良いと思います」
「火の無いところに煙は立ちませんからね」
熊野も前のめりになっている。
「関係者がリークしている場合が多いですからね、こう言う噂は」
突然梅木が発言したので三人は同時に驚いた。
「あの岩沢って人、かなり胡散臭いからね。きっとあの人も関わっているのよ」
鈴は、犯罪ギリギリのことでも平気でやりそうな岩沢の第一印象を思い出している。
「何の証拠もないのに下手なことは言わないでくださいよ、間違っても本人の前で」
つい、流れに乗ってしまった自分を反省しているのか、熊野は急に彼らしい配慮をした。
「心配しないで。あんな爬虫類系オヤジとはもう会いたくないから、話す機会もないわ」
鈴はチーズをかじると急に語気を変えて、
「そっちはどうだった?パソコン」
と、小八木に話題を振った。
「並岡さんのパソコン調査ですか?普通の男のパソコンって感じでした。女性からのメールも香帆さんからのものしか有りませんし、怪しいサイトへのアクセスもしていません。エッチサイトくらいは有りますけど」
「それを怪しいとは言わないの?」
「まあ、健全なエロサイトです」
「意味不明」
鈴の感覚では、エロサイトは怪しいものだと思うが、男の世界では健全体育会系エロサイトでも存在するのだろうか。
「そもそも並岡さんは、パソコンやネットのヘビーユーザーではないようです」
「あんたの基準は当てにならないけど。まあ良いわ」
「大和田教授からのメールもいくつかあったので写真を撮っておきました。ついでに香帆さんのメールも少しだけ。コピーはさせてくれなかったので写真で我慢してください」
「ご苦労様」
鈴は小八木のスマフォの写真を繰りながら、
「香帆さんのスマフォにあったメールを見せてくれる?ここからでも見えるんでしょう?」
と、小八木に頼んだが彼は躊躇している。
小八木が事件発生後すぐに香帆のスマフォデータをクラウドに転送したことを熊野に知られるとまずい思っているようだ。
「良いわよ、熊野君は口が固いから」
「なんか嫌な予感がするんですけど」
小八木は鈴から渡されたスマフォを操作しながら、
「香帆さんのスマフォで送受信したメールや保存データなどを、僕が契約しているクラウドに転送しておいたんです」
と、正直に白状した。
「いつそんなことを?」
熊野が驚いている。
「まあ、済んだことは良いから。前に進みなさい」
二人の間に座っている鈴が熊野の肩をポンポンと叩いた。
「どうぞ。香帆さんと大和田教授のメールです」
小八木が再びスマフォを鈴に手渡す。
「『先日はお疲れ様でした。例の件はいつもの通りお願いします』『今日はお疲れ様でした。あの件もよろしくお願いします』アンダ?」
鈴が素っ頓狂な声を出した。
「とても愛人関係とは思えないメールですね、並岡さんとのメールの方は普通に仲の良い関係がわかりますが、これじゃ単なる仕事の申し送りですね」
小八木が意見した。
「わざとじゃないですか?関係を誤魔化すために。メールなんていつ誰に見られるかわかりませんからね。現にこうして他人に見られている」
誰でも考え得る熊野の意見には耳を貸さず、鈴は、並岡パソコンから撮ったメール写真と香帆の保存メールを交互に見ながらナッツを口に運び、不可思議そうに首を傾げている。
「どうかしましたか?」
熊野が遠慮気味に尋ねる。
「大和田教授のメールがおかしいの」
「僕たち今、その話題をしていたんですけど」
熊野が更に遠慮しながら尋ねた。
「並岡さんに宛てた教授のメールがおかしいのよ」
熊野は、そう言われてもう一度並岡宛のメール写真を確認したが、これも仕事の内容で特に違和感はない。
「どこも変じゃないですけど。単に仕事の話のように思えます」
熊野が鈴の期待どおりの応えを示す。
「署名が違うでしょう?」
「署名?」
「メール文の最後にある、自分の名前や住所などの連絡先を書いたもので、普通は一度設定すると自動的にメールの最後に付加されます」
そう説明した小八木は、鈴が持っているスマフォを覗き込んで、
「なるほど。大和田教授が香帆さんに宛てたメールの署名と並岡さんに宛てた署名は違いますね。連絡先は同じですけど、署名欄を区切る線が、並岡さん向けには星印だけの連続直線で、香帆さんには可愛い動物キャラが並んでいる。猿とか馬とかウサギとか。しかもカラフルです」
と、熊野に説明した。小八木に言われて再度確認した熊野は、
「本当だ。香帆さん専用の署名かも知れませんね、愛人だから可愛いキャラを使っていたのでしょう」
と推測した。
「熊野君でもこう言うことする?」
「いや、僕はそんな面倒なことしません」
「だよね。そんな工夫するより、絵文字とか使って文章を書く方がよほど愛らしく見えるのに」
鈴がオヤジの徒労を憐れんだ。
「でもまあ、努力は認めていたんじゃないですか?香帆さんは」
「やっぱり女たらしね、教授は」
鈴は水割りをグイと飲み干した。
【判明した事実】
凶器:殺害現場にあったネクタイ
死因:絞殺だが、ドアノブにネクタイを縛り付けて首を吊った態勢ではない
死亡推定時刻:4月22日20時から22時頃
通信会社の記録:事件当日、並岡の携帯電話及び勤務先電話に香帆からの着信記録なし。勤務先にも公衆電話を含め一切の着信なし
大和田教授のアリバイ:事件前日21時に岡山のホテルに到着。当日9時~17時、岡山市内K大学。17時頃K大学から奥津温泉に出発。20時頃到着。
神野美緒(27歳):京明大学学部卒。朝枝香帆と同じ歳。システム開発のエンジニア。4月22日は終日部屋にいた。宅配業者が証人。
岩沢(40歳代半ば):KG製作所IT営業部部長。大和田教授と20年来の付き合い。
KG製作所:京明大学の納入業者。産学共同プロジェクトで京明大学に資金提供中。
【大和田研究室の人間関係】
岩沢(40歳)
|20年来の仕事上の知り合い
大和田教授(55歳)
|香帆が大学生時代からの愛人関係
朝枝香帆(27歳)恋人 並岡良二(30歳)
|同僚 |元恋人
田中良子 神野美緒(27歳)




