古来より 三
岐阜県警の安岡は鈴が疎ましいようだ。だが、鈴は全く気にせず捜査を進める。被害者、朝枝香帆に関する調査が進んでゆく。
鈴と小八木、そして二人の刑事は、熊野が運転する車で紫野にある朝枝香帆のマンションを訪れた。マンションは船岡山近くにある。この船岡山の北西に位置する蓮台野と呼ばれ地区は、古代京都の三大風葬地のひとつだった。
平安京の死者は千本通りを通って蓮台野へ運ばれる。紫野の入口に閻魔前町と言う地名があり、まるで彼岸と此岸の境界のように思える。
「着きました」
熊野がサイドブレーキを引いてエンジンを止めた。香帆の部屋を確認したいと言う鈴の言葉に安岡は反対しなかった。警察の調査は昨日に完了しているし、特に目を引くような物は見つからなかった。
「なかなか豪華なマンションだな。これで単身用なのか」
安岡が8階立ての新しいマンションを見上げて呟く。
「京都は学生や単身赴任者が多いですからね」
「学生がこんな豪華なマンションに住むのか?」
安岡は呆れ顔だ。
「さすがにこのマンションには学生はいないでしょう」
鈴の父親が警察庁刑事課課長であること、父親は鈴に甘いこと、そして鈴が昨年の事件解決に役立ったことなどを熊野が安岡に説明してからは、安岡は鈴に情報を与えることを拒まなくなっている。
だからと言って、彼女に媚びへつらう訳ではない。相変わらず不愛想で鈴とは意見が良くぶつかる。安岡は組織のしがらみに関わり合いたくないタイプのようだ。犯人逮捕が最大の目的で、それを邪魔さえしなければ多少の圧力には平気で屈するし、そこにこだわりは無い。そんなタイプのように鈴は感じた。
警察署でも車の中でも、鈴の質問に安岡は可能な範囲で答えた。並岡の仕事や当日の行動、部屋の様子、女性関係なども鈴は知ることができた。
『オジサンは、鍵が掛かっていたから並岡と言う人が怪しいと思ってるのね?』
会議室で鈴が言った。
『あの自殺方法は不自然だ。遺書も見つかっていない。香帆を殺害した並岡が自殺に見せ掛けるために行った幼稚な偽装工作だ。鍵を掛けたのも、自殺する人間は邪魔が入らないように鍵を掛けると言う筋書きだろう』
『私が犯人なら、香帆さんの自殺偽装をした後鍵を開けて逃げるけどなあ。鍵を開けたまま自殺したって構わないでしょう?鍵を掛けるから自殺又は並岡さんが犯人、となる。でも鍵を開けておいたら、自殺若しくは並岡さん又はその他の知り合いおよび侵入者による殺害、と言うことで並岡さんへの疑いが薄くなる』
『そこまで考える余裕が無かったのだろう。そもそも突然香帆がやって来たんだ、殺人計画を立てる時間は無い。衝動的に殺してしまい、偽装工作をするのが精一杯で慌てて出て行った』
安岡が面倒臭そうに言い捨てた。
『並岡さんは香帆さんが来ることを知らなかった。ですよね?並岡さんが犯人なら、どうやって彼女が部屋に来たことを知ったんでしょう?スマフォの確認はしたの?』
安岡もその点には疑問を持っていたのか少し困惑した面で、
『並岡のスマフォには連絡を受けた痕跡はなかった。香帆がホテルに忘れていたスマフォにも発信した記録は無い……。だが端末の履歴は消せる。並岡の事務所の電話も含めて通信会社に確認を取っているところだ』
と、鈴から目を逸らせて言った。
『わざわざ消去する理由がないでしょうに。端末の履歴を消しても通信会社に履歴が残ることくらい今の人はみんな知っているわよ』
安岡は渋面を作って黙って聞いていた。
『仮に並岡さんがスマフォで呼び出されて殺害したとしても、呼び出されたことを隠す必要はないと思うけどなあ。香帆がどうしても今会って話したいと言うので一度戻って話を済ませた。そして仕事があるのですぐに職場に戻った。その時は元気だった。まさかその後自殺するとは思いも寄らなかった。とか言えば済むでしょう。そして私が犯人なら、仕事から戻ると鍵は開いていたと言うわ』
そこで会議室の話は終わり、鈴の要望で香帆のマンションに行くことになった。警察の車を熊野が運転して移動した。その途中、安岡が再び話を蒸し返した。
『並岡は、事前に香帆と連絡を取っていたのかも知れない。彼の職場の内線電話はデータセンターや京都の研究所と繋がっている。それは確認済みだ』
安岡は助手席で前を向いたままでいる。
『あら、突然ね。もしかしてずっと考えていたの?』
鈴の茶化しは無視して安岡は続ける。
『研究所の内線なら履歴があっても自然だ。仕事の話だと言えば誰も疑わない。来る日時を指定しておいて殺害した』
『オジサン、さっきの意見とは矛盾するわね。衝動的に殺したから鍵の事まで考えが及ばなかったって。まあ、それは置いておくとして、仮に香帆さんと事前に約束したとしましょう。そしてこういう訳?今後この件は一切話題にするな、メールもするな、ホテルを出る前にも連絡を入れるな……て。しかも香帆さんは素直に従った。かなり不自然ね』
安岡は無言で聞いている。更に鈴は続けた。
『そこまでして自分のアリバイ作りをした割には、仕事中に抜け出せることもあっさり話してしまったし、鍵が掛かっていたと証言して自分に疑いを向けてしまった』
『単なるバカなんだよ』
『京明大学院卒の人をバカ呼ばわりねえ』
鈴がニヤリと笑って話はそこで終わった。安岡も色んな仮説を試しているだけなのでそれ以上反論はしなかった。
管理人から借りた鍵で熊野がドアを開けた。1LDKだが二十畳以上はありそうな広いリビングで、バルコニーからは船岡山が見える。
「贅沢なマンションですね」
熊野と小八木は羨ましそうに部屋を見渡している。
「熊野君はどこに住んでいるの?」
「官舎ですよ。とても狭い」
「どうせ寝るだけだろう」
安岡が抑揚のない口調で言いながら周囲を注意深く見渡す。
「遺書はここにも無かったのよね?」
部屋の調査は警察によって済まされている。自殺の可能性については母親にも確認してみたが、数日前に電話で話した時も全く普段どおりだったとのこと。
「はい、ありませんでした。パソコンのファイルやメールも調べましたが自殺をほのめかすような内容やネットへの投稿もありませんでした。因みにパソコンは署で預かっています」
熊野が鈴に報告する。鈴はリビングに置かれている電化製品やクローゼットの中を入念に観察しながらうろついている。新しいAV機器が並び、クローゼットにはブランド物の衣類もたくさん吊るされていた。
彼女は部屋の隅々まで探索し、時には床に座り込んだり四つん這いになってヒップを突き出したまま家具の下を覗き込んだりしている。
「おい、短いスカートでそんな恰好するな」
安岡が父親声で叱る。
「あら、見えちゃった?」
「見えてない」
「なーんだ。見えてたらお金貰おうと思ったのに……残念」
スカートの裾を押さえながら立ち上がった鈴は、
「そもそも、香帆さんは何をしに行ったのかしら」
と、笑顔のまま三人の男たちを振り返った。確かに、女性が恋人に会いに行ったと漠然と考えていただけで深く考えたことはない。安岡は、鈴にまた何か指摘されそうな恐れを抱きながらも考えを口にする。
「彼氏に会いに行ったのは確かだ。たった2時間でも会いたいと言うのが恋人同士じゃないのか?俺にはもうそんな気持ちはわからんがな」
安岡には珍しく照れ笑いを零した。
「どうしても話しておきたい大事な話があったとか?」
熊野が軽い口調で答えながらテレビの前にあるソファに腰を下ろす。深く考えた様子はない。
「だったらツアーなんかに参加せずに朝から会いに行けば良いのに。あの日の並岡さんの仕事は夕方からでしょう」
鈴が本棚を眺めながら言った。
「最初は会う積もりなど無かったけど、ツアーの途中で重大な決意が固まったとか?」
「別れの決意か?」
安岡も思い付き論を口にしながらソファにゆっくりと腰を沈めた。そして、
「ツアーに行ったついでに……」
と、何か言い掛けて止めた。軽々しく考えを口にしてまた突っ込まれることを警戒したようだ。すると、小八木がスマフォを見ながら小さく咳払いをして話し始める。
「今までの議論をまとめてみますと。まず、自殺ではないという点は皆さん一致しています。香帆さんはツアーで大垣まで行ったので、ついでに岐阜にある並岡さんの部屋まで足を延ばした。この仮説の疑問点は、並岡さんに連絡を入れた跡が無いこと。夜勤の日程は毎月決まっているし、研究室でもコンピュータの停止日は把握しているので香帆さんも並岡さんが留守のことは知っていたはず。考えられる理由としては、香帆さんが並岡さんを驚かそうと思って朝まで待っていた。そしてその間に誰かに殺された。香帆さんの持っている合鍵は彼女のバッグにあり、しかも鍵が掛かっていたことから、犯人は鍵を持っている人間か、何らかのトリックで密室状態を作りだしたことになります。そうなると並岡さんへの容疑が強まりますが、彼がどうやって香帆さんが部屋に居ることを知ったのかは不明です。なお、本当に香帆さんから連絡が無かったのか、通信会社に問い合わせ中」
鈴は、ラジオでも聴くように小八木の話を聞き流しながら部屋の探索を続けている。
「だから、香帆さんは何をしに行ったのかしら?」
「ですから、恋人に会いに行ったとしか言えません。その理由はこれから調査を進めないとわかりません」
小八木が真面目に答えた。だが、それには反応せず、鈴は本棚をじっと見つめている。そして、小さな声で、
「ほんと、香帆さんは何をしに行ったのかしら?」
と、鈴が三度同じ言葉を口にした。安岡は彼女が話を聞いていないと思ったのか、面倒臭そうに、
「他人の話を聞け。学校で教わらなかったのか?」
と、大きくソファに背をもたれ掛けた。鈴は白い本棚を見つめながら、
「本棚にあるのは、私には読解不可能な専門書と恋愛系小説にコミック。DVDもデンゼル・ワシントン主演の映画ばかり」
と不満気に言った。
「鈴さんは渋いオジサンは嫌いですか?」
熊野も大きく背をもたれてくつろいでいる。
「そんなことはないわよ。渋い系オジサンも好きよ。白髪交じりで小太りのオヤジは嫌だけど」
「俺も小生意気で礼儀知らずの小娘は嫌いだ」
安岡は苦笑いしている。
「それより、歴史に関する物が何もないのよ」
瞬間、三人の男たちの顔が引き締まる。
「歴史小説も、名城特集も、戦国武将百選も、歴史ものの映画も、マンガ三国志もマンガ日本史も無い。警察が持って行ったの?」
「いえ、署に持ち帰った物はパソコンだけです」
「香帆さんは本当に歴史に興味があって参加したのかしら?」
「最近はネットで調べられますからね、本が無いからと言って歴史に興味が無いとは言えませんよ」
と熊野。
「そう言えば、彦根城の天守下を歩いていた様子も、他のメンバーたちは石垣の造りや破風を見上げて嬉しそうに話していましたけど、香帆さんは俯いたままスタスタ歩いていました。単に体調が悪いからだ思っていましたけど、興味が無かったと言う見方もできますね」
小八木が記憶を追い掛けている。
「そう言えば、並岡も香帆が過去に歴史ツアーに参加したことなど聞いたことが無いと言っていた」
安岡も加わる。
「だとしたら、香帆さんは何をしに行ったのかしら?全てが中途半端過ぎるわ。ツアーに参加した動機も、並岡さんの部屋に行った理由も、そして自殺と断定するには動機も状況も不自然」
鈴は香帆のデスクに飾ってある写真を手に取って、
「この人が並岡さん?」
安岡に確認を取ると、
「なかなかイケメンね」
と、小八木に手渡した。あちらこちらをスマフォのカメラに収めていた彼は、並岡の写真も記録した。
香帆のマンションを出た四人は、京都市の西部にある京明大学内の研究室を訪れた。アポイントは熊野が取ってある。こぢんまりとした会議室に通された四人は、部屋の中をキョロキョロしながら大和田教授を待っている。
飾り気のない殺風景な部屋だ。窓の外は人工だが緑の芝生が生い茂り、噴水が白いミストを振りまいて、大学らしい風景が心を和らいでくれる。
やがてノックの音が響き、がっちりとした体格の五十半ばと見える紳士が入って来た。その後には二十代と思える女性がひとり付いている。
それぞれが紹介を始める。大和田教授は情報科学学科の教授で数理統計学専門。と言っても鈴には何の学問だかイメージが湧かない。若い女性は田中良子。大和田の助手のひとりで朝枝香帆と歳も近いことから一番仲が良かったらしい。指には結婚指輪が光っている。
安岡は、鈴たちを捜査上の事情で協力してもらっていると説明すると、大和田は不審がらずに、
「学生?」
と鈴に優しく微笑んだ。鈴は、瞳の奥の好色な輝きに一瞬鳥肌が立ったが愛想良く笑顔で頷いた。
続いて安岡が事件のあらましを説明する。教授はある程度電話で説明されていたのか軽く頷くだけで大した興味は示さない。説明の後刑事たちが質問を始める。
「香帆さんは、職場ではどのような方でしたか?」
安岡が大和田に尋ねる。
「朝枝君は大学生の頃から私の研究室で勉強し、院に進んだ後もずっと手伝ってくれました。卒業後も研究を続けたいと言うことでしたので喜んで受け入れました。私は研究室での彼女しか知りませんが、まじめで優秀な研究者です。勤務態度も真面目で私は信頼を置いていました」
絵に描いたような上司の答えだ。香帆のことは何も知らないのではないか。
「あなたはどう思われますか?香帆さんのことを」
「私は彼女が大学生の頃から知っていますが、母子家庭のために子供の頃から苦労してきたようです。アルバイトや奨学金で院まで進んだと言っていました。ですから学生時代もあまり遊ぶ時間は無かったみたいで、友人は多い方ではなかったと思います」
「研究室に来てからはどうですか?もう社会人として働いている訳ですし、経済的にも自立しているでしょう」
と、田中良子に重ねて尋ねる。
「香帆さんは研究室の公式行事には参加していましたけど、プライベートではあまり付き合いは良くありませんでした。私も何度か遊びに誘いましたが、せいぜいランチに行った程度で、休日に遊びに行ったり夕食を一緒にしたりしたことはありません。オシャレも地味ですし、ああ、私もオシャレは苦手なんですけど、遊び歩いている印象はありません」
「仕事が終わったらまっすぐ帰っていた?」
「ええ、多分。仕事が遅くなることも多いですから」
「とても地味だったとは思えないけど」
鈴が香帆のクローゼット内の記憶を思い起こしてひとりごちたが、安岡は無視して質問を続ける。
「並岡さんとの関係はご存知でしたか?」
大和田に向けた質問だ。
「いえ、私は。今回のことが起きて初めて知りました。ここではプライベートな話はほとんどしませんし、そんな雰囲気の研究室ではありません」
「私は知っていました。と言うより教授以外の研究員はみんな知っていました。十人にも満たない狭い世界ですから、一緒に働いていたら何となく気づきます。お昼休みに聞いてみたら素直に認めました」
「いつ頃からつき合っていたようですか?」
「並岡君がうちに来たのは確か六月頃だったかな?彼の能力が必要で、当時彼が所属していた研究室の教授に頼み込んで来てもらったのです」
何も知らない割には口を出して来る。この教授は仕切りたがり屋なのか。
「私が香帆さんに確かめたのは秋頃だったと思います」
「先ほど教授は、頼み込んで並岡さんに来てもらったと仰いましたが、どうして今は岐阜のオフィスセンターにいるのですか?研究はされていないようですけど」
安岡がポーカーフェイスのまま尋ねる。
「大学の研究室も色々ありましてね、岐阜のオフィスセンターは、中部地方にあるいくつかの研究所の事務処理を全て行っていますが人材不足でして。あそこの所長が私の後輩にあたり、人材の補給ができるまで並岡君を貸してくれと頼まれたのです。ちょうど彼の研究がひと段落着いたタイミングだったので、息抜きの意味も込めて彼に行ってもらいました。せいぜい半年から1年くらいの間なので彼も納得してくれています」
良子は俯いたまま、自分の膝の上で組んだ手をじっと見つめている。
「半年から1年?並岡さんにもそう言われたのですね?」
大和田は一瞬驚いた目をしてから、
「言われてみれば……。確か言ったような記憶がありますが随分前の記憶なので定かではありません。すみません」
と、小さく答えた。
「お気になさらずに。記憶などそんなものです」
熊野が大和田をいたわるように笑顔を浮かべる。
「並岡さんは短期で戻れるとは思っていないようです。本当に戻れるんですか?」
安岡が更に突っ込んだ。
「さあ、全てが私の思いどおりになる訳ではないのでね、最終的には人事部門が決定します」
大和田は言い訳がましく言葉を濁す。
「どこの世界も人事には理不尽がつきものですからね」
熊野が大和田の機嫌を取っている。社会的地位のある人にヘソを曲げられると後が厄介なのだろう。
「熊野君も部長になってるじゃない」
突然鈴が口を挟む。
「だから……」
熊野が慌てた瞬間を突いて鈴は、
「香帆さんは花粉症でしたか?」
と良子に尋ねた。
「はい。この時期はいつも大変そうでした。しょっちゅう鼻をかみにトイレへ行っていましたね」
「香帆さんは歴史好きでしたか?」
「え?」
良子は怪訝そうに鈴を見つめて答える。
「さあ、プライベートな話は余りしていませんから。それでも歴史の話題とか、歴史上の人物の名前が会話の中で出て来るようなことは無かったと思います」
「香帆さんが歴史ツアーに参加することは話されていましたか?」
安岡が主導権を取り返す。
「はい。休みの前に……。彼女にしては珍しくプライベートな予定を口にして。ですから、歴史ツアー云々よりも、彼女がプライベートを口外したことに研究室の全員が驚いていました」
良子の答えを大和田も興味深げに聞いている。
「仕事中の態度で結構ですが、最近、落ち込んでいるような様子はありませんでしたか?」
「自殺の可能性を確認しています」
また鈴がしゃしゃり出る。
「おい」
「全く普段どおりでした」
「何かトラブルに巻き込まれているようなお話は?」
「特には……」
ふたりとも静かに首を振った。
「そうですか。もしよろしければ、香帆さんのデスクを見せて頂きたいのですが?」
「はい、結構ですよ。研究室の中では写真や録音はご遠慮ください」
「承知しています」
安岡がチラリと鈴を睨んでから立ち上がる。
「あまり口を挟まないでください」
熊野が小声で注意する。
「相変わらず小心者ね」
カードセキュリティのドアを良子が開けて、鈴たちを通してくれた。鈴たちもビジター入室証を首からぶら下げているが、入室カードは渡されていない。
中に入ると十人程の研究員数にしては広すぎるスペースがあり、中央には作業台があってパソコンやモニターがたくさん並んでいる。半数の人がそこで何やら作業をしていた。
部屋の奥に机の島があり、そこが各自のデスクになっているようだ。席はひとりずつローパーテーションで仕切りがされている。更に奥にも部屋があるようだが、より厳重に管理された場所らしく、カード以外に指紋認証のリーダーがドアの壁に付いていた。
四人は良子について奥のデスクへ向かったが、鈴ひとりが中央の作業台で物珍しげにあちこちを覗いている。
「あまり見ちゃだめですよ」
熊野が振返って注意する。
「そこは構いませんよ。若い人が色んな物に興味を持つのは自然なことです」
大和田はそう言って先に進んで行く。
「何を解析しているんですか?」
そんな質問をしている鈴ひとりを置いて、みんなはデスクの方へ移動した。
「こちらです」
良子がセパレートされた区画のひとつを指差した。机の上にはデスクトップパソコンとコードレス電話。ピンク色のコーヒーカップが置いてあるだけで他には何もない。
「中を見せて頂いて良いですか?」
「どうぞ」
安岡が引き出しを開ける。中には書類や事務用品があるだけで、期待していた遺書や手紙の類は見当たらない。書類もわずかで専門図書が数冊入っていた。
「すっきりしていますね。紙が少ない」
「基本的に紙には情報を残しません。全てデータで管理します。紙にプリントした物は全てシュレッダーするルールになっています」
大和田が説明する。
「漏えい防止のためです」
良子が付け加えた。
「へえ、俺たちのデスクとは大違いだ」
安岡が感心しているところへ、
「歴史本も無いわね?」
と鈴が声を掛けながら近づいて来た。
「今夜は珍しく遅い時間やなあ、二軒目か?」
バー『やすらぎ』のマスターであるジンさんが暖かいおしぼりを差し出しながら笑顔を浮かべる。
「京明大学の院生君と食事したんだけど、二軒目に行こうってしつこくてね。食事だけで十分なのに」
熊野たちと研究室を訪れた二日後だ。
「ここへ連れてきて売り上げに貢献しろよ」
同じ歴史研究会の梅木がウイスキーロックとチェイサーを鈴の前に置く。
「嫌よ、この店を覚えられたらひとりで来られないじゃない」
「そんなに嫌な奴なのか?」
「嫌と言うほどではないけど。全く面白味が無い人」
「じゃあ、最初から食事なんか行かなければ良いだろう」
「情報収集よ。香帆さんの研究室で助手をしている男子院生なの」
鈴は歴史ツアーから戻った夜にこの店に来て、早速事件の話をしていた。そして、昨夜もひとりでカウンターに座り、調査結果のことを勝手に話しながら頭の中を整理していた。お客は少なかったので、梅木も仕事の手を動かしながら彼女の話を聞いていた。
この店は、マスターは勿論のこと梅木も客の話を聞くのが上手い。つい余計なことまで話してしまう。この店が女性に人気があるのは、それが秘訣なのかも知れない。
「研究室を1回訪れただけで男を垂らし込んだのか?」
梅木が仕事の手元を見つめたまま尋ねる。
「失礼ね。私から誘ったりしないわ。向こうから名刺を渡して来たのよ」
「お前は可愛いから得だな。それで、何かわかったのか?」
「大収穫よ」
落花生を蒸した物を小皿に入れて、梅木が彼女の前に差し出す。
「ありがと。それでね、あの大和田教授はやらしい男なのよ」
「昨日も言ってたな。お前を見る目がやらしいって。そりゃ、いつもそんな格好してたら卑猥な目で見られるのも当然だ」
鈴は今夜もタイトミニを穿いている。
「私の勘どおり、大和田は香帆さんとそれなりに繋がりがあった。プライベートのことは何も知らないなんて嘘臭いセリフを並べて片腹痛し、フフフ」
「おいおい、昨日は、大和田教授は何も知らないし、そもそも部下には全く興味がないタイプだと言ってなかったか?」
鈴は梅木から視線をずらせて、
「状況は日々変化するものよ」
白々しい言葉を吐いてウイスキーロックを口に運ぶ。
「香帆さんが大学生の頃から大和田教授は目を掛けていたらしいの」
氷のカラリと言う音が響く。
「優秀な学生だったのだろう?」
「女としてもね」
「苦学生だったらしいじゃないか」
「良くご存じで。だから利用できるものは何でも利用する女子力をも身につけていた」
「昨日聞いた香帆さんのイメージとは全く違うな」
「さっきの院生君の話によると、香帆さんは大学生時代から大和田教授の研究室に入り、大学院にも進んだ。そもそも大和田さんの研究室に入るのも大変なんだって。院生君が自慢げに言ってたわ。学部でもトップクラスでないと入れないって。更に院を卒業して研究室に残るには、余程教授に必要とされる能力を持っていないと無理だって、今度は不安そうに言っていた」
「とは言え、最終的に選ぶのは教授だからな」
「そうなのよ。院を卒業して研究室に残れるのは毎年1~2名。0の年もあるらしいわ。ここ数年では田中良子さんと香帆さんだけ」
「何だ、女ばかりだな」
「そう言うことよ」
鈴が意味深な笑顔で梅木を見つめる。
「教授はその二人の女性と特別な関係なのか?」
「さすがにそこまで露骨なことはしてないだろうって、院生君は言ってた」
「聞いたのか」
「当然よ。狭い研究所でそんな関係ならすぐに感づかれてしまう。家庭もあって社会的地位もある教授がそんな脇の甘いことはしないだろうって……院生談」
「確かに。遊ぶならもっと安全な場所で遊ぶだろうな」
「どこが安全な場所?」
「さあ」
鈴は色町の卑猥な電飾を思い浮かべながら、梅木もああ言う所へ行っているのかと疑惑の目で見つめながら付け加える。
「でも、一度くらいは寝たんじゃないかと言う憶測はしていた。特に香帆さんは依怙贔屓されていたし信任も厚かったみたいだから」
「良子さんが妬むんじゃないか?」
「田中良子さんはもう結婚しているからね。どうでも良いんじゃないの?」
「そっちじゃなくて。出世とか、大きな仕事を任されるとか、仕事上のことで不当な扱いを受けると恨んだりするものだ」
鈴はじっと氷を見つめた後、
「もしかしたら田中良子さんが香帆さんを?」
と、梅木を見上げる。
「飛躍し過ぎだ」
梅木は苦笑いを浮かべてアイスピックを手に取った。
「それからもうひとつ面白い話を聞いたの」
「どんな?」
「昨年、京明大学学生の個人情報がサーバから抜き出された疑惑が広まったらしいの。それも情報科学学科から」
「漏洩事件?」
梅木が氷の塊とアイスピックを持ったまま好奇心を瞳に浮かべている。
「あくまでも可能性だと言うことで内密に調査が始まり、大和田教授が調査の責任者となった。そして実際に現場の調査を担当したのが香帆さんなの。しかもひとりで。当然、研究室も調査対象になった」
そこまで話すと鈴はグラスを手にした。
「香帆さんひとりで調査?しかも自分のいる研究室もひとりで?」
「怪しいでしょう」
「最初から隠ぺいしますと宣言しているような体制だ。犯人は見つかったのか?」
グラスを持ったままの鈴が首を横に振ってから口を付けた。
「だろうな」
「でも調査は厳しかったそうよ。たくさんのログを分析してあって、院生君もエロサイトを閲覧していたことがばれて、恥ずかしい思いをしたらしい」
「データ分析が専門の研究所だろう?犯人を特定できないのが不思議なくらいだ」
梅木は氷の塊を割り始める。
「結局、犯人を特定する証拠は発覚しなかった。そもそもの漏洩痕跡自体がグレーだったこともあり、漏洩そのものが無かったことになった」
「大学としても、事件そのものが無かった方が都合良いだろうしな」
「ただ、院生君の話では、並岡さんが犯人じゃないかと言う噂があるの。並岡さんへの聞き取り調査は特に念入りだったし時間も掛かっていた。でも、決定的な証拠は無かった。彼らの間では、並岡さんが岐阜へ転勤になったのはそれが原因じゃないかと噂されている」
「香帆さんはその時点で並岡さんと恋人関係だったんだろう?出来レースも良いところだ」
鈴は、大和田教授が並岡の転勤理由を話していた時の田中良子の猜疑的な表情を思い起こしている。梅木は氷を小さく砕く作業を終えた後、仕事の手を止めてじっと鈴を見つめた。そして、再び別の仕事に移りながら抑揚のない口調で言った。
「教授が隠ぺいする蓋然性は高い。しかし、香帆さんが独断で隠ぺいした可能性もある」
「でも、もし左遷されたのが事実なら、大和田教授は並岡さんの犯罪を報告されたことになるでしょう?」
「隠ぺいと言っても色々ある。問題は何を隠すかだ。もし香帆さんが、並岡さんが犯人である証拠をつかみながら、彼はかなり疑わしいが確定的な証拠は無いと嘘を吐いたとしたら?」
「恋人を守るために苦しい嘘を吐いた?大和田教授が本気で調べればわかってしまうでしょうけど、教授も事件そのものが無かった方が良いと思っている。そう考えて彼女は賭けに出たのかも」
別の女性客からオードブルのオーダーが入った。梅木は愛想の良い笑顔を浮かべて返事をする。
「私にはそんな笑顔で応えないのにね。同じ客よ」
だが、梅木は全く無視して足元の冷蔵庫からクリームチーズを取り出しながら、
「教授としては、一旦並岡さんを研究室から追い出して様子を見る。事件のことが沈静化して公にならなければそれで良し。彼の能力が必要になった時に呼び戻せば良い。もし事件が公けになれば、嘘の報告をした香帆さんの責任にすればいい。香帆さんはギリギリの線で恋人を守った。結構良い女じゃないか」
と言って、クラッカーとブルーベリージャム、生ハムを細かく刻んだものをクリームチーズと一緒に盛りつけた。
「それが動機?」
鈴の言葉を背中に受けながら、梅木はクリームチーズのオードブルを女性客の前に置いて、少し言葉を交わしてから再び鈴の前に戻る。梅木目当ての客のようだ。
「動機って?どう言う意味だ」
梅木はまたペティナイフを手に取った。
「昨日までの私なら、あなたと同じように香帆さんが並岡さんを守ったと考えたわ。でも、今夜は香帆さんが並岡さんの弱みを握っていたと考えるわ」
「女の考えることは恐ろしいな」
梅木に恐ろしい女扱いされた鈴は、狼狽気味にグイとウイスキーロックをあおって、
「私の考えじゃないの、香帆さんの考えなのよ!今、彼女が私に降臨して来たの!一瞬、目の前が白くなって……」
と、意味不明な言い訳をしているところへ、調理の余りと思える少量のクリームチーズオードブルが出された。
「笑顔の代わりだ」
「ありがとう。これからも不愛想でいてちょうだい」
【大和田研究室の人間関係】
大和田教授(50歳代半ば)
|香帆が大学生時代からの師弟関係
朝枝香帆(27歳)恋人 並岡良二(30歳)
|同僚
田中良子