古来より 二
ツアー参加者が恋人の部屋で自殺。恋人の留守中に自殺した。警察庁幹部の娘、星里鈴に警察官の血が沸き踊る。事件に首を突っ込む鈴は、和歌山県警の熊野刑事となぜか京都府警で再会した。
安岡警部補は、早朝の呼び出しにやや眠そうな表情を浮かべて車の助手席から降りた。40半ばを過ぎた叩き上げ刑事の頭には白いものが一割ほど占めている。身長は平均だがやや小太りな身体をぐっと伸ばして背伸びをした。
現場は、閑静な住宅街の隙間にある3階建てのマンションだが、ホールも無くセキュリティ設備も無い。戸建住宅が立ち並ぶ中にあるためか、人通りも少なく治安は良い地域だ。だが今朝は、けたたましいサイレン音が閑静な空間を破壊して、周囲の住民が様子を確認するため不安げに集まっている。
マンション正面には自動車を5~6台止められる駐車場があり、警察車両数台が占拠している。建物に向かって左側に階段がある。右側には緩やかなスロープがあり、道路面より50センチばかり高くなった廊下へ、台車や車椅子でも上がれるようになっている。ただしエレベータはない。駐車場の片隅にはベージュ色の屋根が付いた駐輪場があった。
安岡は階段を使って現場に向かった。現場の部屋はスロープ側の1階にあり道路に面している。
「ご苦労様」
彼は先に着いて現場検証をしている署員に挨拶をしながら部屋に入った。リビングの奥に寝室がある。その寝室のドアにもたれた女性が両脚を伸ばして座り込み、首を項垂れて全身が脱力しきっている。
一見泥酔して眠っているようにも見えるが、顔色は完全に生気を失っていた。ドアノブには切れた濃紺のネクタイがぶら下がり、被害者の首にはネクタイで絞めた跡が残っていた。
「被害者は京都市北区在住の朝枝香帆27歳。ここのドアノブで首つり自殺をしたようです。この部屋の主、並岡良二は朝枝香帆の恋人で、夜勤明けで部屋に戻ったところ彼女が首を吊っていたので慌てて包丁でネクタイを切りましたが、既に死亡していたようです」
「並岡の素性は?」
「はい、並岡良二は年齢30歳。京明大学中部オフィスセンターに勤務しています。昨年までは京都にある大学の研究室で研究をしていましたが、今年になって岐阜にあるオフィスセンターに異動になっています」
「恋人が遊びに来ているのに仕事をしていたのか?」
「それが、彼女とは約束はしていなかったそうです。仕事から帰ったらなぜか彼女がいて、自殺していた……」
若い刑事はやるせない表情を浮かべた。
「そいつは今どうしている?」
「部屋がこんな状態ですからね、署で休んでもらっています。かなりショックを受けていました」
若い刑事が、突然恋人を失った並岡に同情した様子で報告した。だが、安岡は誰に同情する風もなく冷たく聞き流してから、ご遺体をじっくりと検分していく。
「きれいだな」
安岡の第一声が洩れる。
「とても美人ですね。まだ若いのに何で自殺なんか……」
花柄の白いミニワンピースから綺麗な脚が伸びている。スカート丈は膝上20センチくらいで白い太ももがのぞいていた。身長は160センチくらいか。
「本当に自殺だと思うのか?」
安岡が若い刑事に言った。
「え?」
「彼氏の並岡はご遺体に触れたのか?」
「詳しくはまだ聞いていませんが、ネクタイを切ってから彼女の両肩をつかんで揺すったと言っていました。反応がなかったのですぐに救急車と警察を呼んだと……」
若い刑事は驚きを抑えながら答えている。
「部屋の鍵は?」
「掛かっていたそうです」
「掛かっていた?」
やや驚いた安岡が繰り返す。
「並岡がそう言ったのか?」
「は、はい」
安岡はそのまま黙りこくって部屋中を歩き回り、所々をつぶさに検分しては小さく溜息を吐いていた。
大垣市内にあるビジネスホテルの小さなロビー。横河と小八木は随時エレベータから降りてくるツアーメンバーたちに明るく挨拶をしながら名簿にチェックを入れている。鈴も集合時間の10分前にはロビーに下りていた。
「後は朝枝香帆さんだけですね」
「あんたのお気に入りのお姉さんね」
「そうなのか?」
横河が物珍しい視線を小八木に注ぐ。
「違いますって」
集合時間の8時を10分ほど経過したが香帆は現れない。横河が部屋に内線電話を入れてみたが誰も出ない。鈴は、香帆さんの体調が悪化して電話にも出られないのかも知れないと感じて、横河に体調のことを話した。
すぐに横河がホテルのスタッフに事情を話して、部屋を開けてもらうことになった。
「二人で見て来てくれ」
横河の指示で鈴と小八木が女性のホテルスタッフと一緒に7階の部屋を訪れる。女性スタッフが何度かノックしながら声を掛けたが返事がない。
「では、開けますね」
二人にそう告げてから彼女はロックを解除した。まずは鈴が入る。
「朝枝さーん。起きていますかー」
だが、ベッドには朝枝の姿はない。バスルームにもいなかった。
「先に帰っちゃったのかしら?」
そう言いながらも、もしかしたら自分で病院に行ったのだろうかと別の考えが浮かんだ。
「でも荷物が置いてありますよ。スマフォまで」
小八木がテーブルに置かれたスマフォを指差した時、スマフォの着信音が響いた。一瞬躊躇する小八木。だが、鈴は何の躊躇いもなくスマフォを手にした。
「はい、朝枝さんの携帯です。え?私ですか?先にそちらの名前を言いなさい。ああ、警察ですか。どうりで偉そうだわ。私は朝枝さんが参加しているツアーのスタッフで星里と申します」
鈴は激しい動悸に襲われながらも、しばらく会話を続けてから静かにスマフォを置いた。部屋の壁がゆっくり回っているような感覚だ。
「朝枝香帆さんが死体で発見されたって。岐阜市にある彼氏の部屋で。今から警察がこのホテルに来ます」
鈴が淡々と小八木とホテルスタッフに話すと、スタッフは青ざめた表情で部屋を出て行った。上司へ報告に行くのだろう。鈴は何度も深呼吸をして心を落ち着けながら、部屋の様子をゆっくりと見渡した。
荷物を解いた様子もなく、シャワーを使った跡もない。大垣での自由行動では香帆の姿を見掛けなかった。大垣城での集合時間には遅れずにやって来た。そこで集合写真を撮ってから徒歩でホテルに入った。食事は自由で、みんな気の合った人たちと出掛けて行った。
香帆は体調が悪いと言って何人かの誘いを断っていた。コンビニで何か買って食べると言っていたのを鈴は記憶している。だが、部屋にはコンビニで買った物も、食事をした痕跡も残っていない。
「殺されたのですかね?」
冷静な声で小八木が呟く。悔しいほど落ち着いている。やっぱりこの男は鈍いのだろうか。
「彼氏に殺されたって?」
「愛憎のもつれかも」
そう言いながら、小八木は香帆のスマフォを手に取った。
「パスワード掛かっているわよ」
「196186」
彼は番号を口ずさみながらタッチすると、勝手に中をチェックし始める。
「何であんたがパスワード知ってるの?」
意外に手の早い男なのかと疑ってしまう。
「出発前、全員にツアー受付書を確認しています。別のツアー客が混じることがないように。香帆さんは僕たちがメールで送った受付書をスマフォで見せてくれました。その際、目の前でパスワード入力していましたから覚えました」
「やっぱり気があったのね」
「単なる習慣です」
「あんたの前では絶対にパスワード入力しない」
そう言っているうちにも、小八木はどんどん指を動かして情報を確認している。鈴は若干の罪悪感を覚えているが、彼は全く躊躇していない。もしかしたら、彼は普段から他人のパソコンをハッキングして覗いているのだろうか。
「彼女は友だち少なそうですね。LINE登録もしていない。連絡先の登録も少な目です。彼氏とのメールも頻度は少ない。やはり恋人仲は上手くいっていなかったのでしょうか」
「あまり他人のプライバシーを覗かない方が良いわよ」
「香帆さんは亡くなったのです。自殺や事故かも知れませんけど、もし殺されたのなら犯人を見つけないと彼女が浮かばれませんよ」
何か急に男らしくなって来た。
「あんだが犯人を捕まえる積り?」
「協力するだけですよ。警察のIT能力なんて当てにならないですからね。とりあえず香帆さんのスマフォデータのバックアップを僕のクラウドに転送しておきます。スマフォを警察に押収されても調べられますから」
こっちの世界では妙にたくましい小八木が不思議だ。彼がスマフォの操作を終えた頃、横河が蒼い顔をしてやって来た。
「ツアーはコース変更ね。警察の方がツアー客全員に話を聞きたいと言ってたから、午前中は動けないでしょう」
「マジかよ」
横河の困惑した表情を尻目に、鈴はさっさと部屋を出て行った。
窓ひとつ無い取調室で、安岡警部補は並岡の表情を冷たい表情で見つめている。かなり泣いたのだろう、瞼が腫れている。安岡は現場を確認してから署までやって来た。現場調査はまだ鑑識が続けている。
「こんな狭い部屋ですみませんね、今、事務所は騒々しいものですから」
そんな理由をつけて並岡を取調室に誘ったのだった。若い女性警官が安岡の隣に座ってパソコンを開いている。
「この度はご愁傷様です。お辛いでしょうが、事実確認をしなければなりませんのでご協力ください。あらましは現場の刑事から聞きましたが、詳しく話を聞かせてください」
二人の警官は軽く頭を下げる。
「では、早速ですが今朝の状況をお話しください。職場を出られたあたりからお願いします」
並岡はテーブルに出されたお茶をひと口飲んでから話を始めた。話の内容は次のとおりだ。
朝5時過ぎ。ちょうど日の出時間くらいで東の空がぼんやりと明るくなる頃、並岡は5階建てのこぢんまりとした京明大学中部オフィスセンターの裏出口から出た。建物内には防犯カメラも付いていないし守衛もいない。
彼は自転車で通勤している。自宅までは20分足らずで到着した。その時、自分の部屋の電灯が点いていることに気が付いて消し忘れだと思った。彼は鍵を回してドアを開ける。そして狭い玄関ホールに入ると、扉のガラス越しにリビングで灯が点灯しているのが見えた。リビングに通じる扉を開けて足を踏み入れた途端に身体が固まってしまった。
寝室のドアにもたれて香帆が座り込んでいた。しかも首を項垂れて全身が完全に脱力していた。並岡は大きく息を吸ってから香帆に向かって足早に近づき、緊張と驚愕の中で何とか振り絞った声で、
「香帆!どうした!大丈夫か!」
と叫びながら紐を首から外そうとしたが、固く結ばれていて外れなかった。彼女がまだ生きているかどうかと言う判断よりも、紐を外さないと彼女が死んでしまうと言う意識に支配されていた。
すぐにキッチンの包丁を使って紐を切った。そしてだらりと尻もちをついた香帆の両肩を持って揺する。
「香帆!オイ!目を覚ませ!」
最初は肩を揺すり、頬を軽く叩き、何度も声を掛けたが反応はない。香帆の身体を揺すっている時からその冷たさは感じていた。
並岡がそこまで話し終えた時、安岡が落ち着いた語気で尋ねた。
「香帆さんのスカートの丈は短かいですが、裾は乱れていませんでしたか?」
「いえ」
「下着が露わになっていたのであなたが直したとか」
女性警官が訝しげに安岡を睨む。
「いえ、何もしていません」
安岡はゆっくり頷いてから、
「朝枝香帆さんとの関係を教えてください」
と次の質問に移った。
並岡は、昨年夏頃から京都の職場で知り合って付き合い始めたこと。そして今年になってから岐阜に転勤になったことなどを話したが、個人情報の窃取を疑われたことは話さなかった。
「まだ詳細な結果はわかりませんが、死亡推定時刻は昨夜の20時から翌2時くらいの間です。その間、あなたがずっと事務所にいたことを証明できる人はいますか?」
安岡は鋭い視線で並岡を刺しながら尋ねる。いかつい表情からは、ひとつの嘘も見逃さないと言った迫力が溢れ出ている。
「いえ、18時にデータセンターの担当者から電話で作業開始の連絡を受けた後、朝の5時までずっと待機でしたから……。朝5時前に同じ担当者から終了連絡を受けるまでは誰とも話していません」
「そうですか。では、途中で抜け出ることも可能な訳ですね?」
「しかし、いつ連絡が入るかわかりませんから抜ける訳にはいきません」
並岡は堂々と答えている。
「連絡はどの番号に入ることになっていたのですか?」
「私の席の内線番号です」
「もし、その番号で繋がらなかった場合は?普通は複数の番号を決めておくでしょう」
「外線番号と私の携帯です」
並岡の言葉に安岡は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、
「では、外出も不可能ではない」
と低い声で言った。
「ええ。今までもコンビニへ買い物に出たことはあります」
並岡は、嫌疑の雰囲気を感じてやや憤った語気で答えると、
「私が香帆を殺す理由はありませんよ。私は彼女を愛していますし、二人は結婚を意識していました」
と、反論した。
「まあ、落ち着いてください。何もあなたが犯人だとは言っていません。可能性を確認しているだけです。どうかお気を悪くしないでください」
安岡は、言葉とは裏腹に猜疑の視線で並岡を見つめている。
「夜勤は多いのですか?」
「月に一度。第三か第四土曜日と決まっています」
並岡は仕事の内容をざっと説明した。
「今までの夜勤で、待機時間にデータセンターから連絡があったことは?」
「ありません。私はまだ4回目の夜勤ですけど」
「なるほど。基本的には待機しているだけで、何もすることはないと言う訳ですね?」
何か言いたげな笑みを口元に湛えながら安岡が確認する。
「まあそうですね。だから大抵はソファで仮眠を取っています。昨夜もそうでした」
安岡はポケットから煙草を取り出してくわえる。
「吸いますか?」
「いえ」
「最近の若い人は煙草を吸わないんだな」
そうひとりごちてから安岡はライターで煙草に火を点けた。そして美味そうに大きく煙を吸い込んだ後、
「防犯カメラは設置されていないのですか?あればあなたの言葉の裏付けが取れます」
と煙を吐きながら言った。女性警官が嫌な面になって少し横にずれた。
「いいえ。表の駐車場にはありますが、建物内や裏側にある駐輪場にはありません」
「あなたは自転車で通勤されているんですね?」
並岡が首肯する。
「いつもですか?」
「自動車は持っていませんので」
「そうですか。自動車は持っていないのに駐車場に防犯カメラがあることはご存じなのですね」
「いけませんか?」
並岡の尖った声に安岡は軽く微笑みながら首を横に振る。
「失礼ながら、朝枝香帆さんとの関係でトラブルはありませんでしたか?」
「私がこちらに異動になってからは合う機会は減りました。当然ですが。でも愛情が薄れたとか、別れ話が出たと言ったことはありません」
安岡は少し呆けた表情になって煙を吐いた。
「念のためですが、他に深い仲の女性はいませんか?」
「どういう意味ですか?」
「あなたはイケメンだし、女性にもてるでしょう。ねえ?」
と、女性警官に同意を求める。探るような安岡の瞳に並岡は不服な表情で、
「年初まで付き合っていた女性はいました。でも異動した頃に別れました。お互い納得の上で別れたので、特にトラブルはありません」
と、次第に表情を和らげながら答えた。
「その方とは何年くらいお付き合いされていたのですか?」
「2年くらいです」
「年末まで付き合っていたと言うことは、香帆さんと重なった時期もあったのですね?」
並岡は憮然として口をつぐんでいる。
「念のため、その方のお名前と連絡先を教えてください。他にはいらっしゃいませんよね?」
並岡は首肯しながらスマフォを取り出して、彼女の連絡先を安岡に見せた。
「神野さん……。この方も京都ですか?」
「そうです。職場は違いますけど」
「職場はここですね?」
安岡は、スマフォの情報を見ながらメモ帳に書き写す。そして、はっと何かを思いついたように、
「そうだ。香帆さんはあなたの部屋の合鍵を持っていましたが、神野さんにも渡していたのですか?」
と、メモ帳に視線を置いたまま尋ねる。
「ええ。でも別れる時に返してもらいました。それを香帆に渡したんです」
「香帆さんは何度くらいあなたの部屋に来られましたか?勿論、今の部屋です」
「4~5回ですかね」
「神野さんは?」
「1度だけ。その時に別れ話をして、彼女は鍵を置いて出て行きました」
「ドラマチックですね。いや、失礼」
安岡はスマフォを机の上に置いて女性警官にも記録させた。
「香帆さんとは昨夜会う約束はしていなかったそうですが、あなたが忘れていたと言うことはありませんか?良かったら、メールとか普段連絡を取っているものを確認して頂けませんかね?」
「絶対に約束はしていません。歴史ツアーに参加していることも知りませんでした」
並岡は女性警官から受け取ったスマフォを確認しながら自信たっぷりに答えた。
「今までに、連絡もなく突然部屋にやって来たことは?」
「ありません」
「香帆さんから、ストーカーに狙われているとか、または仕事上のトラブルの話なんかを聞いていませんか?」
「いえ、全く。やはり約束のメールも残っていませんね」
そう言って並岡はスマフォから視線を上げた。
「そうですか」
安岡はひと呼吸置いた。
「あなたの部屋の鍵が掛かっていたのも間違いありませんか?良く思い出してください」
「間違いありません。出掛ける時は、鍵を掛けた後にドアノブを回して確認していますし、戻って来た時も鍵の開く音と手ごたえを感じましたから」
「香帆さんは合鍵を使って部屋に入った。部屋に入る時に鍵を閉めるのは自然でしょうね」
安岡は短くなった煙草を大きく吸ってから灰皿に押し付けた。
「遺書はあったのですか?」
並岡は少し頬を強張らせながら尋ねる。
「部屋の中や香帆さんの持ち物にはありません。ホテルの部屋は別の刑事が確認しています。ツアー客の聞き込みと一緒に。香帆さんの自宅は明日にでも確認します」
何となく自分が容疑者になりつつあることを感じた並岡は、
「死因ははっきりしたんですか?」
と、自殺であることに期待するように尋ねる。
「詳しくは調査結果を待たなければわかりません。が、私の勘では首吊りが原因ではないように思います」
「え?」
並岡の目が丸くなる。
「ご遺体が綺麗過ぎます。例えば、足の届かない位置にロープがあって、足場を蹴り飛ばしたりすれば、体重が一気に首に掛かって失神したまま亡くなることもあります。しかし香帆さんのようにドアノブに紐を掛けて死のうとしても、失神までは時間が掛かります。苦しくなってもがいたり暴れたりする時間があります。でもそんな跡は残っていませんでした。下着も露わになっていなかった。ですよね?」
女性警官がはっとした表情を浮かべる。確かに座った状態で暴れたら、ミニワンピースの裾が乱れてしまうことは体験上想定できる。安岡は続ける。
「香帆さんのお尻は床から数十センチ浮いていただけで、足も床に着いていた」
並岡は静かに頷く。
「そんな姿勢だと自殺を中断することもできると思いませんか?ドアノブで首吊り自殺なんて難しいですよ。精神的にかなり衰弱しているか、余程の覚悟がなければ難しい。そもそも自殺の方法なんて他にいくらでもあるのに、何でわざわざ難しい方法を選んだのでしょう。不自然だと思いませんか?ですから、私は自殺に見せ掛けた他殺だと考えています」
安岡は一瞬たりと並岡から視線を外さずに話した。自殺する原因も見当たらず、外部からの侵入者による犯行でもない。そう結論付けると一番怪しいのは並岡と言うことになる。
「香帆さんの首に巻かれていた濃紺のネクタイは、あなたの物で間違いないですね?」
安岡は追い込みを掛けるように言葉を重ねる。
「はい」
並岡もじっと安岡を見つめた後、強い口調ではっきりと言った。
「私じゃありません」
鈴は蛤御門から京都御所に入り、ほんの数十メートル離れた壁の向こうは、自動車の騒音渦巻く烏丸通りだとは信じられないほどの閑静な空間を歩いている。
まるで、見えない防音壁に囲まれた異次元のような空気の中を、玉砂利の音を響かせながら歩いている。しばらく南の方に下って歩いていると威厳のある閑院宮邸の門が現れる。
閑院宮邸は、御所御苑の中で唯一創建以来の場所にあり、当時の建物や庭園の面影を残している。敷地内には長屋門、門番所、土蔵等が古の香りを漂わせていた。
鈴は池のほとりにあるベンチに腰を掛けて、春にしてはやや強い陽射しを浴びながら池の静かな面を眺めている。こうしてぼんやりと風景を見つめている時はとても幸せを感じる。
歴史ツアーに出掛けたのは3日前。結局、ツアーの2日目は午前一杯の時間を警察の聞き取り調査で費やされた。朝枝香帆の泊まっていた部屋も調べられ、持ち物は全て押収された。
聞き取り調査は全員に対して行われたが、ほとんどのメンバーは香帆と口も効いていない。結局、鈴と小八木が一番香帆のことを記憶しており、かつ言葉を交わした数少ない証言者となった。
調査はひとりずつ行われたが、午後のバスの中では当然その件が話題となり、警察に何を話したのか、全員が共有できる結果となった。全員の話を総合してみると、香帆さんは花粉症の上に体調も悪く、バスの中でもサングラスとマスクをして窓の外を眺め、自己紹介では大学の研究員だと言うことだけがみんなの記憶に残っていた。彦根城でも関ヶ原でも大垣での自由行動でも、ひとりで行動していたようだが目撃者も少ない。
何人かが話し掛けたが、鈴が話し掛けた時と同様に、体調を理由に柔らかに会話を断られた。ホテルにチェックインしてからの姿も、外出する姿も誰も見ていない。ホテルの鍵もフロントには預けずに、持ったまま人知れず岐阜へ出掛けたようで、ホテルスタッフも外出する姿を記憶していない。
当然のことながらツアーは大きく旅程を変更して、予約していたレストランで遅い昼食を取り、その後犬山城を訪れただけで帰京した。
鈴は腕時計を確認してから再び池の方に視線を戻した。昨日鈴の携帯に警察から電話があり、明日、京都府警まで足を運んでくれと言う依頼があった。岐阜から担当刑事が話を聞きに来るらしい。
今日の授業を終えて警察署の近くまでやって来たが、少し時間が早かったので久しぶりに御所の中を歩いてみたのだ。小八木にも連絡があったらしい。横河は、朝枝香帆の如く暗い感じの女性には余り興味が無いらしく、スタッフとは思えないほど無責任な記憶しか無かったので呼ばれていない。
飾り気のない庁舎の中を歩いて、鈴は受付で教えられた会議室へと足を運んだ。警察署と言うのは、もっといかめしい男たちがうようよしているのかと思っていたが意外と普通だ。若い女性警官もたくさんいるし、来客もごく普通の人たちだ。警察に来るのは、犯罪と関わりのある人たちだと勝手にイメージしていた自分が少し可笑しくなった。
鈴は会議室の部屋番号を確認して軽くノックする。
「どうぞ」
男の声がしたので静かにドアを開けると、最初に小八木の姿が目に入った。が、次に視線を移した先に座っている男が目に入るや、鈴は思わず叫んでしまった。
「熊野君!」
昨年の夏、和歌山で巻き込まれた事件の担当刑事だ。
「やっぱり鈴さんでしたか!名簿を見た時にもしやとは思ったのですが、まさか本当に鈴さんだったとは」
熊野は立ち上がって笑顔を振りまいた後、
「こちらは岐阜県警の安岡さんです」
と、40過ぎと思われる、白髪交じりのいかつい小太りオヤジを紹介した。
「はじめまして」
彼も立上って意外に可愛い笑顔で挨拶したが、頑固なオヤジに違いない。
「熊野君は和歌山県警じゃなかったの?どうしてここにいるのよ?」
鈴の脳裏には南紀の青い海が広がっている。
「昨年は、人材交流で半年間、和歌山県警にお世話になっていたんです。本籍は京都府警です」
「へえ、そうだったの」
鈴は小八木の隣に座り、正面には熊野と安岡が会議テーブルを挟んで座った。10人くらいは収容出来る会議室だ。窓からは京都の雑然とした街並みが見える。
「今日はお忙しいところありがとうございます」
熊野が改まって挨拶する。
「そんなに忙しくはないから気にしないで」
鈴の軽い社交辞令を真に受けた感じで安岡が口火を切る。
「そうですか、早速ですが先日の事件のことで質問させてください」
「良いわよ。でも、知ってることはホテルで全部話したわよ、岐阜の刑事さんに」
だが、安岡はそんな言葉など聞こえないかのように、
「朝枝香帆さんは、どう言う繋がりで君たちのツアーに参加したんですか?」
と事務的に話を始めた。鈴がさり気なく小八木を促す。
「SNSでの応募に申し込まれました。僕たちと知り合いだったとか、知人の紹介とか言った関係ではありません」
「他の人たちも?」
「はい、僕たち三人。ああ、もうひとり横河と言うのがいまして、三人のスタッフだけがS大学の歴史研究会に所属しています」
小八木が丁寧に説明した。
「香帆さんの印象はどうでしたか?落ち込んでいたとか……」
「自殺しそうだとか?」
鈴が安岡の真意を口にしてから、
「確かに大人しくて誰とも話してなかったわ。でも、花粉症で鼻水がズルズルだったから仕方ないと思う。それに体調も少し悪そうだったし」
と、事実を話した。
「そんな状態でもツアーに参加したんですね?」
「ええ、だから自殺じゃないと思うの。自殺を考えている人が彦根城や関ヶ原を観光しません」
出過ぎた鈴の言葉を抑えるように安岡は、
「最後に好きな場所を見ておきたかったのかも知れないだろう。歴女って言うのか?」
と、彼女を冷たく見つめる。
「自殺前に行くとしたら、普通は恋人や家族との思い出の場所でしょう。香帆さんの彼氏に、今回のツアーコースに二人で行った場所があるのか確認したの?」
だが安岡は答えずに、
「本人が好きな場所なら、どこへ行こうと勝手だ」
と憮然として言った。歳を取るとダメになっていくオッサンの典型だと鈴は感じた。自分だけが正しくて、他人の意見に耳を貸そうとしないタイプ。
「小八木」
鈴が小声で指示する。
「はい。香帆さんの申込書には、彦根城、佐和山城址、関ヶ原とも初めてだと書いてあります」
「知っていたのならさっさと言え」
安岡がムッとして鈴を睨む。
「言ったわよ、岐阜の刑事さんに。今話したことはみんなホテルで刑事さんに話したわよ。ちゃんと情報共有してよね。あっ、安岡さん、もしかして嫌われてるとか?」
「何だと?」
「まあまあふたりとも冷静に」
熊野が慌てて間に入る。
「鈴ちゃん、同じ話の繰り返しで申し訳ないけど、刑事は自分で直接話を聞きたいものです。わかるでしょ?どうか協力してください」
熊野が軽く頭を下げる。
「良いわよ、でもそちらの質問が終わったら私の質問にも答えてね」
「え?アア、出来る範囲でなら」
気弱な熊野を安岡が睨みつける。
「他に質問は?」
鈴は、熊野の単純さに安堵して急に笑顔が浮かんできた。単純な男が一番扱い易い。
「ツアーの様子を時系列で話してくれ。朝枝香帆の記憶があれば都度話すように」
「小八木」
鈴の指示で、小八木が当日朝からホテルに入るまでの行程を事細かに話していく。実際に言葉を交わしたのは一、二度だけなので、やはりほとんど記憶が無い。夕食にも出なかったと思われること、コンビニで何か買った形跡もなかったことも話した。その他、2日目のバスの中で、ツアーメンバーが刑事に証言したと話していた内容も全て記録していたので、それらも全て小八木が報告した。その間、鈴は退屈そうにスマフォをいじっていたが、小八木の話が終わると、
「香帆さんのスマフォも、彦根城と大垣城で撮った集合写真も岐阜の刑事さんに渡したわよ。見た?」
と安岡に確認した。
「当然だ」
「スマフォに何か残っていた?」
「答える必要は無い」
「そんなあ、仲良く協力し合いましょうよ。ネ?」
鈴が愛想の良い笑顔で安岡を見つめる。
「可愛子ぶってもだめだ」
鈴は内心ムッとして、
「私たちの企画した歴史ツアーを台無しにされたのよ。私たちも犯人を捕まえたいの」
と強い口調で訴える。小八木が驚いたように鈴を見つめる。彼女は何も企画していない。
「犯人は俺たちが捕まえる。学生は勉強していろ」
安岡が鈴を厳しく睨みつける。
「あら、『犯人』だって。やっぱりオジサンも自殺じゃないと考えているのね?」
安岡は一瞬息を飲んだが、
「一般論だ」
と誤魔化した。
「熊野君、このオジサンの階級は?」
「警部補です」
「じゃあ、熊野君の方が上でしょう?部長なんだから」
「だから、前にも言いましたけど僕は巡査部長ですから。会社の部長とは違います。警部補の方が上ですよ」
熊野が苦笑いを浮かべる。
「じゃあ早く出世しなさい。そう言えば、去年の事件で熊野君や和歌山県警のみなさんには大変お世話になったので、お礼を言っておくようにパパにお願いしたんだけど……」
鈴は意味深な瞳で熊野を見つめる。
「確かに、県警本部長から署長にその旨の連絡が入ったようです。僕たちも大変褒められました。ありがとうございます」
熊野の態度に安岡は目をパチクリさせて呆けている。
「私、ちょっとトイレに行ってくるから、熊野君、ちゃんと説明しておいて。小八木、あんたはコーヒー買って来て。ホットね」
鈴は可愛い笑顔を残し、短いスカートの裾をヒラリとさせて部屋を出て行った。
京都御所は本当に静かでいい所です。
鈴と刑事たちの合同捜査が始まります。