古来より 一
大学の歴史研究会に所属している星里鈴は全くの歴史音痴。ネットオタクに分類できる小八木たちと彦根城、佐和山城址、関ヶ原、大垣は水門川、大垣城を巡るツアーに参加。鈴はいつの間にかスタッフに登録されていた。
旅の途中で「恨みますサイト」の存在を小八木から知らされる。
柔らかな間接照明に照らされた静かな店内には、ジャズのBGMが心地よい音量で響き、大人の雰囲気をさり気なく演出している。カウンターの中には鈴の知らないウイスキーやリキュール類のボトルが整然と並び、棚の背面に反射する光で穏やかに輝いている。
「明日のツアーには参加しないの?」
星里鈴は、カウンターの中で氷を割っているバーテンダーに向かって語り掛けた。
「彦根城も、佐和山城址も、関ケ原も何度か足を運んだことがある」
「良いじゃない、何回行っても。あなたも歴史研究会のメンバーなんだから、活動に参加しなさいよ」
「でも、参加するのはお前と小八木、それに横河だけだろう?そもそも公式の活動じゃない」
星里鈴はS大学の三回生。二回生の秋までは男子バレーボール部のマネージャをしていたが、秋のリーグ戦を終えてからはマネージャを辞めて歴史研究会と言う文化会に入部した。
理由は自分でも良くわからないが、昨年夏の事件とそれを解決した経験が大きく影響していることは確かだ。いや、あの南紀で過ごした一週間ほどの体験全てが自分を変えたように感じる。
「え?公式行事じゃないの?」
「横河が、ナンパ目的と女友だちリストを充実させる目的で企画したツアーだ。他校の歴史サークルや一般の歴史ファンに声を掛けている。勿論、全員女性だ」
梅木拓斗は、氷を割る作業を止めて手を拭った。梅木も鈴と同じ大学で同回生。同じ歴史研究会に入っている。だが、彼は部活動には消極的でアルバイトばかりに精を出している。最も、家庭の事情があるようなのでそれを責める訳にはいかない。
梅木は鈴と同学年だが、年齢は二つも年上だ。どこでダブったのかは知らないが、恐らく二浪したのではないかと思っている。実家が余り裕福ではないので国公立大学を目指していたが、二浪しても合格できず、結局私立大学に入ったパターンだと踏んでいる。
「あのヤロウ。騙しやがって」
鈴は、あたかも公式行事かのように自分を誘った小八木の顔を思い浮かべながら小さく罵った。
「これこれ、鈴ちゃん。若い娘がそんな言葉遣いをするもんやない」
この店、バー『やすらぎ』のマスターであるジンが微笑みながら注意した。昔ながらの習慣や伝統を重んじる保守的なオヤジだ。歳の頃は五十代後半か。でも、ダンディで優しい。きっと若い頃は女を選び放題で遊びまくっていたのではないかと勝手に想像している。
「ハーイ。オヤジさま」
鈴は常連客だ。京都府立植物園近くにあるこの店は、北山通をひと筋上がった辺りにある。鈴のマンションからは徒歩で十分ほどなので、一回生の頃から通っている。
梅木も一回生からこの店で働いていて、鈴が歴史研究会に入ったのも彼の勧めだった。場所柄、この店には学生や観光客が多いが、平日はOLが大半を占めている。
地下鉄の北山駅から近いので、四条烏丸辺りのオフィス街に勤めている女性たちが仕事の鬱憤を晴らしに来る。マスターもダンディだが、梅木を含め、全員で六名いる男性スタッフはみんなイケメンで、二十代から五十代まで年齢層も幅広く備えてある。
一度、梅木からこの店の基本方針を内密に聞いたのだが、とにかく女性客の話を大きく頷きながら聞くと言うことらしい。そう言われてみると、どのスタッフもみんな静かな笑みを湛えながら女子たちの憂さ晴らしに付合っている。
しかし、これも梅木から聞いたのだが、鈴が目にしている大人女子の愚痴など可愛いものらしい。鈴はいつも開店早々の早い時間に来て学割価格で飲んで帰るので、深夜の大人時間のことは余り知らない。
「まあ、明日のツアーを楽しんでくれ。彦根城はあの破風が有名だから注意して見るように。それから天守に登るのなら、短いスカートは止めておいた方が良いぞ、お前はいつも短過ぎるからな」
梅木は何の愛想もない表情で事務的に提言した。
「あら、いつも私のスカートを気にしているの?」
「お前より短いのを穿いて来てくださる美人女性はたくさんいるよ。彦根城の天守への階段はかなり急だと言うことを教えてやっただけだ」
「ご親切にどうも」
シングルモルトのウイスキーをロックで三杯飲んだ鈴はゆっくりと席を立った。そろそろ大人の女性たちで席が埋まり始めている。この辺りの引き際は、学割依存の鈴としては心得ている。
「マスター、ご馳走様でした」
「ああ、おおきに。明日の旅行、気いつけてな」
マスターの優しい声を背に受けながら、鈴は木製のドアを静かに押した。梅木は既に美人OLから声を掛けられていた。
翌朝、8時前に京都駅八条口付近の集合場所に鈴が到着すると、小八木と横河が満面の笑みでツアー客たちを迎えていた。二人とも鈴と同じ歴史研究会のメンバーだ。
4月下旬。京都の桜の季節は過ぎたために観光客は少し減少している。だが、好天に恵まれた土曜日だけあって、多くの観光バスが待機している。これから京都の観光地へ向かうのだろう。
「おはよう」
鈴が小八木たちに挨拶すると、二人の表情は愛想顔から素の顔に戻って、
「おはよう。遅いぞ、集合時間は7時30分だ」
と横河が苦言を零す。
「出発は8時なのに、何で30分も前に集合させる訳?計画がおかしいのよ」
身勝手な言葉を吐く割には、鈴は憎めない笑顔を浮かべながら周囲の女性たちに同意を求めるような目配せをして愛嬌を振りまいた。ざっと見渡した感じ、ほとんどが学生らしく見えるが三割程度は社会人がいるようだ。
「では、全員揃いましたのでバスへ移動しましょう」
横河が声を張ってから先導を始める。数十メートル離れた所に小型の観光バスが待機していて、初老の運転手が外に立って出迎えている。
「席は決まっていませんのでご自由にお座りください。席には余裕がありますから、無理に詰めなくて結構ですよ」
横河が全体を仕切っている。小八木は、彼の内気な性格のまま小動物のようにオドオドしながら横河の指示に従っている。どうせ横河に無理矢理誘われて小間使いをさせられているのだろう。
「お前はそこだ」
鈴が席を選んでいると、横河が左列一番前の席を示した。
「どうして?」
「お前もスタッフだろう」
横河は当然のように言う。
「え?」
鈴がポカンとしていると、
「言ってないのか?」
と、小八木を睨んだ。
「すみません、鈴さん。とにかくそこに座ってください。もう出発しますから」
すっきりしない気分でとりあえず席に着くと、隣に小八木が腰掛けた。
「あんたもここ?」
「すみません」
バスがゆっくり動き始める。
「どう言うことよ?」
「スタッフだなんて言ったら、鈴さんは絶対に来てくれないでしょう?」
小八木が小声で説明する。
「当然」
「お客さんが女子ばかりなので女性スタッフが必要なのです。何もしなくて良いですから、お客さんの窓口になってください。僕たちには言いにくいこともあるでしょうから」
鈴は自分が半額でこのツアーに招かれた理由が初めて分かった。鈴は小さく溜息を吐いてから、後ろの客たちをもう一度ざっと見渡した。ほとんどのお客さんは二人掛けシートにひとりずつ座ってゆったりとした姿勢でいる。
「まあ、良いか。どうせ半額だし、席もみんなの半分で良いわ」
鈴が諦め顔で小八木に囁くと、横河が車内マイクを使って挨拶を始めた。
横河は鈴よりひとつ上の四回生。目立ちたがり屋で、歴史研究会でもリーダー的な存在だ。発想もユニークで行動力もあるが、細々とした手続きや作業が苦手なタイプなのか、大抵は小八木が事務局として雑用をやらされている。
このツアーも横河が企画したものだ。どんなルートで募集したのかはわからないが、全員が女性であることから、梅木が言ったように横河の目的は明らかだ。
このツアーで多数の女性名簿を得ると共に、色んなチャネルを作って新たな企画に役立てようとしている。勿論個人的に興味のある女の子たちと遊ぶことも忘れない。
彼は歴史研究と言うよりは企画ビジネスに興味があるみたいで、将来は自分で企画会社を立ち上げたいと思っているようだ。実家も小さな事業を営んでいるらしく、事業家の血が流れているのだろう。
バスが高速道路に入ると、横河の指示で全員がざっと自己紹介を行った。とても一度では覚えられないが特徴的な人も何人かいた。やたら明るくて勢い良く大声で話す人、小声でボソボソと話す大人しそうな人。メイクをバッチリ決めている人やスッピンに近い人。花粉症らしく、マスクをしている人も四人ほどいた。その内ひとりはサングラスまで掛けている。
鈴は小八木の持っている参加者リストを手に取ってみる。連絡先や年齢の他、食べ物に関するアレルギー情報まで記載されている。彼女は年齢の欄をざっと目で追って驚いた。
彼ら三人以外のお客さんは17人。一見、三割ぐらいが社会人かと思っていたが、半分以上の10人が社会人だ。
「どんだけ、若作り……」
自己紹介が終わると、横河が今日の予定の確認と注意事項などを伝えてからマイクを置いた。すると、すぐにあちらこちらで話の輪が広がり、あっという間にバスの中は女子会状態となった。
さすがに歴女たちだけあって、ひとりで参加している人が半数ぐらいいる。共通の興味があるためにすぐに仲良くなれるようだ。勿論、話の輪には加わらず、ぼんやりと窓から外を眺めている人や、スマフォ操作をしている人もいる。
「どう、気に入った子はいた?」
鈴は小八木にリストを返しながらからかう。
「いえ、僕は興味ないので」
小八木が蚊の鳴くような声で答える。
「あんた、女に興味ないの?そっち系?」
「いえ、いえ。男にはもっと興味ないです」
彼は慌てて否定する。
「ネット世界だけで生きてると、二次元の女にしか惚れなくなるわよ」
「ネット世界でも3Dが広がっています」
急にしっかりとした物言いに変わる。
「どの道、想像の世界でしょう」
「本物の人間とビデオチャットもできます」
「あ、そう。お金払って?」
「その手のサービスは使いません」
「あらそうなの。健全なのか不健全なのかわからないわね、あんた」
鈴は軽く笑って窓の外に視線を外した。鈴と同学年のこの男は、普段は小動物のくせに、歴史は勿論、ネットやパソコン系の話になると急に男らしくなる。
小八木はノートパソコンを取り出すと、目を見張る速さでキータッチを始めた。彼はいかにもパソコンやネット世界に住んでいると言ったタイプの男だ。
身体も小柄で身長は鈴より10センチほど高いくらいだから165センチくらいか。しかもかなり痩せている。もしかしたら体重は鈴の方が重いかも知れないと、彼女は時々羨ましく見ている。
しかし、意外なことにこれで少林寺拳法二段らしい。中学時代に親に強制されたそうだが、嫌いではないらしく、今でも定期的に道場で練習しているそうだ。全く想像できない。
「なに見てるの?暗そうなサイトだけど」
鈴が退屈に任せてパソコンを覗き込む。
「『恨みますサイト』を知らないのですか?」
「知ってる方が少数派でしょう」
「巷で噂ですよ」
「異次元の巷でね」
小八木は彼女の言葉など気にも留めずに話し始める。
「このサイトの有料会員になると別室に入ることができて、そこで恨みを晴らしたい相手やその事情を投稿する。サイト運営者によってその情報から個人特定要素を省いて『会員専用恨みますボード』に一覧化される。それを毎週一回の会員による投票で、神罰が当たるべきかどうかを判定するのです」
「何か切ないわね。会員同士で憂さ晴らしして遊んでいるだけでしょうけど、一杯飲み屋で愚痴っているオッサンたちの方がよほど健全に思えるわ。あんたも会員になっている訳?」
「いえ、僕はなっていません。利用規約を読んだだけです」
「じゃあ、何が面白いのよ?」
鈴には全く理解できない。
「神罰が当たるべきだと判定された事例が一般公開されます。勿論、裁判の判例集みたいに更に特定情報を削除して」
「それを見て面白がってるの?裁判官にでもなる積り?」
「僕は情報科学部ですよ」
「じゃあ何が嬉しくて、そんなものを見ているの?」
「実際に神罰が下るからです」
「?」
バスは大津を過ぎて、草津、栗東へと進んでゆく。
「有罪と判定された者は、1年以内に神罰が下って、様々な不幸が訪れます。どんな不幸に遭ったのか、約1年間レポートされます。恨みを投稿した人がサイトに報告したり、有罪者がSNSに投稿した内容などを収集して、有罪者が不幸に遭った情報が公表されます。これが結構面白いです」
「意味不明。他人の不幸が面白いの?」
鈴は若干嫌悪感を覚えている。
「不幸と言っても、転んで足をくじいたとか、セクハラがばれて処分されたとか、左遷されたとか、奥さんに浮気がばれて家庭不和に陥ったとか。まあ、軽い事故か自業自得のものが多いので、他人は笑っていられます」
「それにしても、他人の不幸を面白がるなんて」
「他の人のことはわかりませんが、僕は他人の不幸を面白がっている訳ではありません」
「じゃあ、何が面白いのよ?」
鈴は少し苛ついて来た。
「1年以内に不幸が起きるって、本当に偶然だと思いますか?」
「え?」
鈴は意味がわからないまま考えを口にする。
「1年に1回くらい転ぶでしょうし、セクハラやパワハラだって1年も続けていたら訴えられても不思議じゃないでしょう?浮気もばれていないと思っているのは男だけよ」
「確かに、偶然起きたことを神罰だと言って喜んでいる者がほとんどだとは思いますが、この『恨みますサイト』の信望者たちは半ば神罰だと信じています」
「まるで宗教ね」
鈴は小さく溜息を吐いた。
「まあ、ここまでは単なる遊びですけど……」
更に言葉を続けようとした時、バスが彦根インターを下りて市街地に入った。すると横河が再度マイクを取って、この後の手順や観光順路などの説明を始めた。
一般の観光客のように団体で固まってダラダラ歩くようなことはしない。みんなこだわりのある歴女たちだ。じっくりみたいポイントも違う。出発地点と天守閣前広場での集合時間、主なルート説明だけを行い、現地での行動は自由だ。
「続きはお城見学の後でお話ししますね」
小八木は目を輝かせているが鈴には興味が沸かない。適当に相槌を打ってからバスを降りる準備を始めた。
並岡良二は、やや二日酔いの身体をシャワーの温かい流れで覚醒させている。もう昼前だ。昨夜は岐阜市の繁華街で職場の女性と終電前まで飲んでいた。
並岡は自転車通勤のため電車の時間は関係ないが、彼女は電車通勤している。いっその事、部屋に泊まることを勧めたが断られた。だが、どうでも良い女だから別段残念でもなかった。その後、ひとりでショットバーに入って小一時間飲んでから帰って来た。
今日は土曜日だが月に一度の出勤日だ。勤務時間はいつもと違って夕方に出勤して朝まで勤務する。メインサーバ群のメンテナンスのため、月に一度夜勤をしなければならない。
もっとも、彼が勤めているのは中部地方にいくつかある研究施設の事務作業をまとめて行う事務所に過ぎないので、サーバ設備がある訳ではない。メンテナンス完了後に正常稼働を確認するためと、稀に、コンピュータセンター側から作業指示が出るのでそれに応えるだけだ。
並岡は昨年末まで、京都にある京明大学の研究機関の某産学協同プロジェクトに参加していた。彼の専門は暗号技術だ。それが今年の1月に突然、岐阜市にある事務所に異動となった。
完全に左遷であるが、彼には左遷される理由がある。大学側の調査も入ったが証拠は出なかったはずだ。証拠が出たら懲戒免職もあり得る。それが左遷で済んだのだから御の字だ。
大学側からは処分と言う説明は無かった。極めてグレーなだけなので公に処分できないのか、それとも不祥事はできるだけ認めたくないと言う力学が働いたのか。
恋人である香帆の助言もあって、ここで大人しく1年ほど過ごせばまた研究所に戻れると考えている。最悪、このままでも構わないとも考えている。元来が仕事に打ち込むタイプではないからだ。
大学四回生になっても就職先が見つからず大学院に進んだところ、たまたま研究室の教授に気に入られ、そのまま研究員として大学に残ることができただけで、研究に人生を掛けている訳ではない。
シャワーを終えて、リビングダイニングに入るとテレビを付けてからスマフォをチェックする。香帆からの連絡はない。彼は昨夜コンビニで買ったサンドウィッチと牛乳を冷蔵庫から取り出してソファに腰掛けた。
京都と違って、同じ1LDKでも部屋は広くゆったりとしている。彼はサンドウィッチを頬張りながら朝枝香帆のことを思い浮かべた。
香帆と出会ったのは、並岡が大和田教授の産学協同プロジクトに呼ばれてからだ。確か昨年の夏、6月くらいのことだ。並岡のいた研究室の教授は大和田教授の後輩に当たるらしく、大和田の頼みを断れなかったらしい。
大和田教授は京明大学の看板教授で、雑誌にも良く取り上げられるし、ローカルテレビにも時々出演する有名人であることも影響したのだろう。
勿論、並岡にしても新しいプロジェクトに参加できることは嬉しかったし、マンネリ化していた研究にも張り合いが出た。
暗号技術の専門家として大和田教授のプロジェクトに入ってから、同じプロジェクトで働く香帆と出会い、今までの女にない魅力に魅入られてしまった。
当時、並岡は神野美緒と言う女性と付き合っていたが、2年余りの付き合いでそろそろ飽きてもいた。美緒はもう結婚を考える年齢だが並岡にはそんな積りは無かった。
そんな微妙な意識のすれ違いが生じていたその狭間に香帆が入り込んで来た。香帆も並岡に興味を示していた。元々、優男で女性にはもてるタイプだったし、大和田教授に乞われてプロジェクトに参加したと言うステータスも彼を輝かせたのだろう。
並岡は美緒のことを香帆に隠し続け、二人はどんどん関係を深めていった。そして半年の月日が流れ、彼の気持ちが完全に香帆に乗り移った頃、岐阜への異動が決まった。
並岡はそのタイミングで美緒に別れ話を切り出した。美緒も彼の変化を薄々感づいていたようで、意外にあっさりと別れてくれた。彼女にも他に男ができたのかと疑ってしまうほど簡単だったが、もしそうなら二人とも幸福になれる、願っても無いことだった。
並岡は急に香帆を抱きたくなって、明日の日曜日に京都へ向かうことを頭の中で計画してみた。彼女の都合はどうだろうか。今すぐ連絡を取ってみようとも思ったが、二日酔いのためか今ひとつ乗り気にならない。
彼はゆっくりと立上ってコーヒーを点てながら、京都にいた頃には香帆と職場で毎日顔を合わせ、休みの日も部屋で一緒に過ごし、コーヒーを味わっていた時の風景を思い浮かべていた。
梅木の言ったとおり、彦根城の天守へ上る階段は急だった。いつもの短いスカートを穿いていたら、天守に上がるのは諦めたかも知れない。
梅木のアドバイスに従ってジーンズを穿いてきた自分を褒めながら周囲を見渡すと、さすがに歴女たちは経験豊富なのだろう、みんな歩きやすい靴を履きジーンズやパンツでアクティブなファッションをしている。
自由行動をしていたツアーメンバーたちは、集合時間には全員が揃ってこの天守に上がって来た。鈴は、小八木に案内をさせながら表門橋から天秤櫓、太鼓門櫓を経て天守に辿り着いた。途中で小八木が色々な説明をしてくれた。天秤櫓という名称は、廊下橋を中心に左右対称になっているからだとか、鐘の丸まで敵が攻め入ると、この廊下橋を落として侵入を防ぐのだとか、廊下橋が架かっているのは切堀と呼ばれる戦略的な堀であるとか。
本丸への最後の関門が太鼓門櫓であると聞いた時、鈴は櫓と言う物が戦闘時の要塞拠点であることを初めて知った。更に、高さも幅もまちまちなうえに曲がりくねる階段の設計に、歩き難いと文句を言うと、敵が攻め上がる時に走り難くしてあるのだと答えた。
確かに理屈はわかるが、実際にそれほど効果があったのだろうかと鈴は疑問に思う。その他にも狭間やら石落しの仕組み、お城では大手門を入ると必ず右か左に曲がって敵の勢いを止める設計になっているとか、細々した工夫について説明してくれた。
鈴はいちいち頷いて、色んなことに感心しながらも、そんなことが本当に役に立ったのだろうかと言う疑問はいつも心の隅にあった。
鈴は天守の窓から琵琶湖を眺望した。春の陽射しが蒼い湖面に反射してキラキラ輝いている。昔の人は、ここから湖や街の様子を見て何を考えていたのだろうか。当然、今のように舗装された道路や高い建物もなく田畑が広がっていたのだろう。ほとんどが水田地帯だったに違いない。
この城の縄張りを始めた頃は、まだ関ヶ原の合戦後間もない時代で、まだ豊臣家が大阪城を中心に権威を保っていた。まだまだ戦いが現実だった頃の人たちは、ここから周囲を見渡しながらどんな風に人生を考えていたのだろう。いつ命がけの戦いに駆り出されるのかわからないのだ。
「そろそろ下りましょう」
小八木が声を掛けた。江戸時代の平和な頃には、きっとこの男のように戦闘とは縁遠いお役人さんが日々の退屈な仕事をこなしながらこの風景を見ていたのだろうか。
その頃には、天守そのものが軍事施設としての役割を終えて権威の象徴でしかなかったことは間違いない。
そんなことを考えながら再び急な階段を下りて広場に出ると、ツアーメンバーたちも大方集まっていた。ここで全員揃った記念撮影をする。天守をバックにしたお決まりの場所だ。
「では、スマイルをお願いしまーす」
小八木がカメラを構えているのに声を掛けるのは横河だ。鈴は遠慮して列の端に位置する。花粉症の人たちもみんなマスクを外して笑顔を浮かべている。サングラスの女性も、さすがに写真撮影ではグラスを外して素顔を見せている。綺麗な人だと鈴は素直に感じた。
「はい、お疲れ様でした。これから西の丸を回ってからバスに戻ります。時間の関係で西の丸の中には入りませんのでご容赦ください」
横河は説明を終えるとさっさと歩き始める。メンバーたちも適当なグループに分かれて歩き始める。みんな楽しそうだ。天守の石垣や破風を見上げながらそれぞれの知識を披露し合っている。まだまだ初心者の鈴は話に付いていけず、たまたま近くを歩いていたサングラスの美人女性に声を掛けてみた。
「花粉症ですか?」
鈴の問いかけに小さく頷いた彼女は、
「ごめんなさい、花粉症の上にちょっと風邪気味で声も出にくいの」
と、何度か咳払いをしながら小声で囁いた。話したくないと言う意味だろう。
「ああ、気にしないでください。もし体調悪くなったら遠慮なく言ってくださいね」
鈴は彼女から離れて小八木の横に並ぶ。
「あの人、体調が悪そうよ。名前なんて言う人?」
小八木はポケットから四つ折りにしたリストを取り出して、
「朝枝香帆さんです。27歳、京明大学研究員」
と事務的に答えた。
「女性の年齢を簡単に口に出すものじゃないわよ」
きつい口調で叱ってから、
「でも、案外年食ってるのね」
と、もう一度彼女の容姿を確認した。
一行は再びバスに乗り込んだ。この後、佐和山城址までは数十分で到着する予定だ。その後バスで移動しながらお弁当を食べる。鈴はだんだん小さくなって行く天守を見ながら、昨夜梅木が語ったことを思い浮かべた。
戦国期真只中の時期には、砦や山城が中心で、まさに軍事施設として最低限必要な設備を最短納期で完成させていた。それが次第に山城から平野地域に築城する平城が中心になって来た。
彦根城が築城された頃は戦国末期で戦乱はだいぶ減ってはいるものの、戦争は現実のものだった。そんな時期に二十数年もの期間と莫大な財力を費やして、あんなに大きなお城が必要だったのだろうか?
むしろ新しい武器開発や諜報活動、他国の懐柔などにもっと金を使うべきじゃなかったのか。戦争というのは国の総合力の戦いのはずだ。そう言う意味では要塞に造りに偏り過ぎているように思う。と、彼はそんなことを言っていた。
鈴には良くわからないが、確かに、関ヶ原の戦い以降で実戦を行った城はいくつあるのだろうかと、薄い知識を探ってみたりした。
岡山市内にあるK大学の広々としたキャンパスには、春の陽射しが柔らかく差し込んでいる。緑の豊富なキャンパスには若者たちの活気ある笑顔が溢れている。まさに、この世の春を謳歌していると言った感じだ。
そんな緑とエネルギーに満ちたキャンパスの一隅にセミナー会場があり、その表玄関には、『暗号データによる情報処理』と言う看板が立っていた。
開演時間が近くなるにつれ学生や学者、マスコミ関係者らが次第に数を増して会場に足を運んでいる。
大和田教授は、そのセミナー会場控室で雑誌記者と対面している。午後から始まるシンポジウムでは、数人の研究者が研究発表を行い、その後公開討論会が予定されている。開演までの時間で彼は取材を受けている。
「教授が今取り組まれている研究について簡単に教えてください」
記者が丁寧な口調で質問した。
「簡単に、ですか……」
ソファに深く腰を沈めた教授は、やや突き出たお腹を摩りながら一瞬苦笑いを浮かべて話し始める。
「私の専門は統計学です。最近ではIT技術の発展により莫大なデータが世の中を流通しています。そしてその解析能力も年々高くなり、色んな予測ができるようになりました」
「例えばどのような?」
取材に同行しているカメラマンの放つフラッシュが大和田の顔を何度も照らしている。
「そうですね、身近な例ですと、自動車の自動運転ですとか、自動ブレーキなんかが当てはまります。人や自動車の動きをまさに予測して動いています。後、インターネットを閲覧していると、微妙に興味をくすぐる広告が表示されたりしませんか?勿論、興味の無いものも多いですが」
大和田は大きくふんぞり返ったままで脚を組替えた。
「良くありますね」
「今のインターネット広告は、その人がどんなサイトを訪れてどんな商品を購入したのか、どんな商品を閲覧したのか、そしてその人の年齢、性別、住んでいる地域などの情報を分析して、次に欲しくなりそうな物の広告を表示します。金槌を買った人には釘を勧めるとかね」
「金槌と言えば釘ですね」
そう言って記者は愛想笑いを浮かべた。あまり面白くない。
「このように、私たちの生活の至る場面で統計値や予測値が利用されています」
「はい、それは実感しています」
「それと同時に、みなさんの個人情報や機密情報の扱いについても気になるところです。特に、情報漏えいに関しては脅威に感じられていると思います」
「はい、確かに」
「私どもが今、KG製作所さんと一緒に研究しているのは、暗号化されたままのデータで統計や予測を行おうと言うものです。ネットワークを流れる時も、サーバ、データベースに保管される時も暗号のままです。統計や予測の結果だけ平文、ようするに通常の数値で出力します」
「統計や予測に限らず、色んなコンピュータ処理が暗号データのままで行われれば安全ですね」
記者が同意の質問をした。
「今の研究を応用すると、近い将来その可能性も開けてきます」
大和田がそこまで話した時、シンポジウムスタッフが控室のドアをノックして、
「大和田教授、そろそろお時間です」
と言って彼を招いた。
「と言うことなので」
「では最後にひとつだけ」
腰を上げようとする大和田を記者が制止する。
「KG製作所から供出されている研究費の使途について疑惑があると言う噂を耳にしたのですが、それについてどう思われますか?」
記者の表情が真剣に引き締まっている。大和田は一瞬目を丸くして驚いた表情を浮かべたが、すぐに冷静になって、
「私は初耳ですね。誰がそんなバカな話をしているのか知りませんが、根も葉もない噂です。良くあることですよ、研究が成功しそうになると色々と邪魔をしようとする者が現れる。もう、良いですね」
と、ゆっくり立ち上がった。
「ありがとうございました」
記者も立ち上がって軽く頭を下げた。
「さっきの続きですけど」
割と静かなバスの中で、隣に座っている小八木が急に話し掛ける。佐和山城址を後にしてバス車内での昼食後、関ヶ原では自由行動となった。多くの人たちがレンタルサイクルで走り回ったためか、今は全員が軽い疲労を覚え、穏やかなバスの揺れに自然と眠りに誘われている。
「いつの?関ヶ原の合戦で小早川秀秋が裏切った話の続き?裏切り者扱いされているけど、秀秋だって秀吉に裏切られたって話してたわね」
鈴は、小八木が関ヶ原で話してくれたことを思い浮かべた。
「その続きじゃありませんけど、それも話しておきたいので少しだけ」
「別に無理しなくても」
だが、鈴の言葉に構わず小八木は話し始める。
「秀秋は秀吉の正室、ねねの兄の子。要するに秀吉の甥にあたります」
「最初からそう言えば?」
「当時、秀吉には子供がいなかったので秀秋を養子にとり、跡取りとしてねねが大事に育てた。秀秋は優秀な子どもで頭も良く、7歳の時に丹波亀山に十万石の領地を与えられました。将来は豊臣家を継ぎ関白職に就くと言う自覚は本人にもあり、真面目に努力をした結果、10歳の時には中納言に叙任されます」
「中華料理屋さん?」
だが、彼は無視して続ける。鈴はジョークを流されたことに少々ムカつきながらも聞いている。
「ところが秀吉に実子の秀頼が生まれてしまった。当然、我が子を跡取りにしたい秀吉にとって、秀秋は邪魔者となる。そこで黒田官兵衛が仲介して小早川隆景の養子となりました。12歳くらいの頃です」
鈴は、窓の景色を眺めながら小八木の話を聞いていたが、
「天下の関白候補者から一大名に落ちぶれてしまった訳ね。秀吉のご都合で人生を振り回された訳だ」
と言いながら彼の表情を見た。
「そう言うことです」
「それは恨みに思うでしょうね。忠誠心なんてぶっ飛ぶわ」
「その心理を上手く突いて何かと便宜を図ったのが徳川家康です」
「へえ、さすが狸オヤジ」
「そんな人心掌握術が功を奏して、関ヶ原で裏切らせた訳です」
「なるほどね」
鈴は、先ほどレンタル自転車で回ってきた関ヶ原の広大な平原を思い出しながら、小早川秀秋に限らず、それぞれの武将たちがそれぞれの背負っているもののために、色んな逡巡があったのだろうと想像してみた。
「それから、もうひとつの話の続きですけど」
「他に何かあったっけ?ああ、朝枝さんの体調が心配?ああ言うタイプが好きなの?綺麗な人だしね。でもだいぶお姉さんよ」
「いえ、そうじゃなくて『恨みますサイト』の話です」
冗談にもからかいにも動揺しないこの男は、一体、鈍いのか大物なのか良くわからない。
「ああ、あれね。まだ続きがあったの?」
「はい」
鈴は再び窓の外を流れる田畑や山肌の景色に視線を移した。
「サイトの会員たちが有罪と判定した人たちに神罰が下ると言うところまで話したと思います。鈴さんは宗教みたいだと言った」
鈴は無言のまま小さく頷く。
「誰にでも起き得る小さな不幸を神罰として喜んでいるうちは単なる遊びでした。しかし、会員が藁人形を購入すると、更に次元の違う神罰を下すことができます」
「藁人形?」
鈴がいぶかし気に彼の瞳を見つめた。
「ひとつ百万円です」
「百万!買った人がいる訳?」
「いますよ。そして神罰によって人が死んでいます」
「マジ?」
「個人名は出ませんが、事故死、病死、自殺など、様々な死に方で有罪者に神罰が下ったと言う投稿がされています。藁人形を買ったら、自分にパワハラを続けていた上司が自動車事故で亡くなったとかね。しかもその事故は実際に起きたもので、死亡者も有罪者と一致している」
「そんなの、実際に発生した事故を使って嘘の話くらい作れるでしょう。実際に百万円払った証拠も無いでしょう?」
「でも、藁人形の購入があると、少し後に会員向けにバイトの求人広告が出るのです」
「何のバイト?」
「さあ、わかりません。かなり歩の良いバイトなので、殺人や殺人を手伝うバイトじゃないかと噂する人もいます。全てサイト内での投稿ですけど」
「なんだ、くだらない。全部妄想じゃないの。サイト運営者がフィクションの世界を作り上げているのよ」
鈴は小さく吐息を吐いて再び景色に視線を移した。
「確かに、みんな本心ではフィクションだと思っていますけど、事実かも知れないと考えることによって、ドラマや小説よりもリアリティが生まれて面白いのだと思います」
小八木が感想を述べる。
「リアリティねえ」
鈴は、自分が歴史に興味を持ったのも、歴史は昔の人たちが実際に行った現実だからではないかと思った。先人の人生を学ぶことで自分の人生の教訓を得られるような気がする。
そんなことを考えていると、さっきまで眠りこけていた横河がマイクを取って大垣での予定を話し始めた。時間は15時。ほぼ予定どおりだ。
「バスは間もなく『奥の細道むすびの地記念館』に到着します。ここで少し休憩して頂いて、後はご自由に散策してください。16時30分に大垣城に集合して記念撮影をします。その後ホテルに向かいますので時間厳守でお願いします」
「はーい」
心地よい眠りから呼び戻されたメンバーたちは、まだ眠たげな声で返事をした。
「ご存知かとは思いますが、水門川遊歩道には最近流行っているアニメ映画の聖地と言われているポイントもあります」
横河がしたり顔で言ったが、メンバーたちは当然知っている情報なのか誰も反応しない。
「何のアニメ?」
鈴は知らない。
「さあ、僕はアニメには詳しくないので。でも岐阜県には色んなアニメの聖地があるようです」
「あら、ネットオタクはみんなアニメオタクじゃないの?」
「完全な偏見です」
「そう。それより水門川とか、私はご存知じゃないんだけど」
そう言って鈴は小八木に説明を求める。
「水門川は大垣と桑名を結ぶ運河です。永禄四年に大垣城主氏家直元が、城池改築の際に開いたと伝えられています。江戸時代、この地にあった船町港は、水門川から揖斐川を経て桑名宿へ至る重要な港でした。今でも港の名残として住吉燈台が残っています。住吉燈台は高さ5メートルほどの木造作りです。明治時代には蒸気船による定期航路も開設されて、熱田、桑名、大垣と船で結ばれていました。蒸気船は昭和26年頃まで運行を続けています」
「へえ」
鈴は窓から大垣の市街地を眺めながら聞いている。
「その水門川沿いに遊歩道が整備されていて、大垣駅前の愛宕神社から松尾芭蕉の『奥の細道むすびの地』を終点に総延長約二キロの道のりです。僕たちが間もなく到着する『細道むすびの地記念館』はむすびの地の記念碑そばにあります」
「そもそも、むすびの地の意味を知らないんですけど……」
「奥の細道は知っていますよね?」
「全部読んだことは無いけど」
鈴が交通量の少ない道路をぼんやりと見つめていると、水門川らしい風景が現れてきた。
「松尾芭蕉が江戸を旅立ってから、約五ヶ月を掛けて東北地方を回ってから大垣市まで、全行程約2400キロを旅した後に大垣市で紀行を終えています。ですから、むすびの地です」
「要は終了地点ね」
「そう言ってしまえば味気ないですが……。松尾芭蕉は大垣滞在後に船町港から出立します。『蛤のふたみに別れ行く秋ぞ』と詠んで水門川を伝って桑名へ向かいました」
「あんた、どうしてそんなに詳しいの?」
「さっきからネット情報を読んでいるだけですけど」
鈴はやっと小八木の方を振り向いた。
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火曜サスペンスばりの観光案内をしてしまいました。岐阜へお越しの際はぜひ大垣まで足を延ばしてください。