巣食う蟻 一
とうとう大和田教授を追い詰めます。
密室の捜査会議から三日後の金曜日夕方。岩沢事件を管轄する所轄の刑事である谷崎、山中の二名と熊野。岐阜県警から安岡。捜査協力者として鈴、小八木、そして神野美緒が京明大学を訪れた。所轄の谷崎は少々緊張気味だ。彼が岩沢事件の責任者であり、大和田教授の逮捕状を上着の内ポケットにしまっている。
大和田にアポイントは取ってある。最終講義が終わったら話を聞くと言うことで、午後4時頃に鈴たちは大学までやって来た。総務課で受付を済ませてから大和田に指示された大教室に向かった。ちょうど終業のチャイムが流れて、学生たちが次々に廊下へ出ているところだ。少しの間廊下で待って、教室内に学生がいなくなってからゆっくりと教室に入った。
「こんにちは、大和田教授。お久しぶりですね」
鈴が最初に入って声を掛ける。
「何だ、君か。まだ捜査を手伝っているのか?」
「ええ、でも今日が最後です」
鈴は愛らしく笑って教壇に近づく。後からぞろぞろと刑事たちが入って来る。美緒の姿が目に入った大和田は驚きの面がひずんだ。
「今日は何の用ですかね?もう、お話しすることは何もありませんよ」
大和田が冷たい声を流す。だがそんな言葉にはお構いなしに鈴はスタスタと進んでゆき、教壇を上がり教卓の前に立つと、
「大和田教授もそちらにお掛けください。私はここで良いです。一度ここに立って話してみたかったの」
と、静かに笑った。大教室は、前の教壇を中心にして放射状に公聴席が広がっていて、後ろに行くほど席が高くなっている。大和田教授は、教壇の端に置いてある講師用の椅子に腰を下ろして、窓から見えるキャンパスの景色を背中にした。この教室は三階にある。公聴席の最前列には刑事たちが座り、美緒は大和田から一番遠く離れた端の席に座った。
「熊野君はここよ」
熊野に自分の横に立つよう指示する。全員が位置に着いたところで鈴が改めて挨拶を始めた。
「今日はお忙しいところ、お時間を頂きましてありがとうございます」
「礼には及ばない。私の邪魔をしている認識があるのなら、さっさと質問をして早く終わらせてくれ」
大和田が相変わらず冷たい語気で言い放ったが、美緒がいるせいか不安の波動が鈴に伝わって来る。
「今日はお話を聞きに来たんじゃなくて、刑事さんたちがあなたを逮捕しに来ました。KG製作所の岩沢さん殺害容疑で」
突然の宣言に、大和田だけでなく刑事たちも一瞬眼を大きく開いてフライング気味の鈴を静かに睨んだ。
「そうですか。この前から警察の方が来ては、ネチネチとそのような意味合いのことを言っていますが、何ひとつ確証はなく、私にとっては業務妨害でしかありません。逮捕すると言うのなら、今日はちゃんと証拠を見せて頂けるのでしょうね?」
益々虚勢を張っているように見える。
「わかりました。じゃあ熊野君、始めて頂戴」
熊野がやや緊張気味に咳払いをしてから話し始める。
「まず神野美緒さん、マスコミにも発表されましたけれども、あなたはアルバイトで仕事を請け、5月3日京都9時55分発のぞみ6号東京行に乗った。そこへ乗り込んで来た大和田教授と名刺を交換し、写真を撮って東京まで一緒だったと言う証言をした。しかし本当は、教授は名古屋で降りていた。間違いありませんね?」
「はい」
心持ち緊張している美緒は小声で返事を返して静かに頷いた 。
「今、神野美穂さんが証言されましたが、あなたが5月3日京都9時55分発のぞみ6号東京行に乗り、そして名古屋で降りられた。それからどうされましたか?」
熊野の頼りない視線を嘲笑うかのように大和田が口元を緩め、
「名古屋から再び京都へ戻りましたよ」
と、堂々と答えた。
「京都へ戻ってからどうされていましたか?」
「前にも言ったでしょう。ずっとマスコミに追い掛けられていて大変なのだと。ひとりになりたかっただけです。あの日もひとりで京都を徘徊していました」
刑事たちが一斉に疑念を抱く。
「マスコミから逃げたいのなら、そのまま東京へ行けば良いじゃないですか。どうして、あなたを追っているマスコミがたくさんいる、しかも顔が売れている京都でひとり歩きをする必要があるのですか?」
熊野も強い語気を吐き、一瞬大和田の表情が曇った。
「どこを歩こうと私の勝手だ。私は京都の街が好きなんですよ。東京のような混雑した所は大嫌いだ」
「わかりました。京都のどの辺りへ行かれましたか?」
大和田は少し考える仕草をしてから、
「バスに乗って大原へ行った。三千院や寂光院を回り、夕方には河原町へ戻って食事を取った。三条辺りの店だ。その後鴨川の川原でぼんやりと酔いを醒ましながら、最近起きた色々なことを考えていた」
と淀みなく答えた。
「教授なら、祇園や先斗町にひとりで行ける店があるでしょうに。よほど他人に顔を見られたくなかったのね」
鈴の皮肉に大和田は反応しない。
「では、東京の上野で岩沢さんから電話を受けたというのは嘘ですね?」
熊野が確認する。
「電話を受けたのは事実だ。上野ではなく鴨川の川原だったが。二条大橋の辺りだったと思う。三条や四条は若いカップルが多くて落ち着かないからな」
「どんな話をされましたか?岩沢さんは」
「この前言ったとおりだ」
大和田はかなり警戒している。過去の発言と相違があると、そこを指摘されてボロを出すかも知れないからだろう。熊野がメモを取り出して、以前に大和田が話した内容を復唱する。
「岩沢さんの話した内容として『とにかく申し訳ないと謝りっぱなしでした。とにかく一度会ってゆっくり話そうと諭したのですが、かなり興奮気味と言うか酔っている感じで、元妻にプロポーズした思い出の場所でゆっくり頭を冷やすと言って切れました』こう言われました。間違いないですね?」
「ああ」
その答えを聞いた熊野が少し興奮気味に、
「それは変ですね。私たちは岩沢さんの元奥さんに会って確かめたのですが、プロポーズを受けたのは嵐山ではありません」
と、攻撃の一波を投げつける。大和田教授の目が驚愕の色を成して丸くなった。その様子を見た熊野が更に続ける。
「元奥さんの話では、あの場所がプロポーズされた場所だと言ったのは、大和田教授に対してだけなのです。2年前、あなたは元奥さんと会われていますね?まだ岩沢夫妻が離婚する前です。冷え切っていた二人の仲をあなたが何とか取り持とうとして、奥さんと話をされたとか。その時に奥さんから聞いたのではありませんか?あの場所でプロポーズされたと」
熊野はじっと大和田の眼を睨みつける。
「さあ、どうだったかな。そんな昔のこと」
大和田が惚けている様はいかにも白々しい。
「実際のプロポーズは、どこかの安い居酒屋で、しかも岩沢さんが酔った状態でされたそうです。しかし、あなたに岩沢さんとの馴れ初めを話しているうちに恥ずかしくなって、学生時代にボーイフレンドと遊びに行った時の事を思い出し、あの場所を口にしたそうです」
「そんなことが、どうかしたのか?」
事実をさらされた大和田は、漠然と不安を感じているようだ。
「はい、大事なことです。奥さんは、あなたに嘘を言ったことを岩沢さんにも話していなかったそうです。要するに、あなただけが知っている虚構の事実だと言うことです」
しばらく大和田は青い顔色で口を閉ざしていたが、
「岩沢さんが電話でそう言ったのだから仕方ない。なぜ彼がそんなことを言ったのかは分らない。私は事実を言っているだけだ。違うと言うなら岩沢さんがそう言っていないことを証明してくれ。もしかしたら、奥さんと岩沢さんが口裏を合わせて、嵐山をプロポーズの場所にしようと言う話になったのかも知れない。そのことを奥さんが忘れてしまっていることだって有り得るだろう」
と、もっともらしい言い逃れをした。
「わかりました。悪魔の証明は無理です。では、岩沢さんが本当にそう言ったとして、彼が置かれていた状況や、思い出の場所に行くと言う言動を聞いてあなたは何もしなかったのですか?」
熊野がやや挑発的な口調で彼の不作為を暗に責める。
「話をしようと諭したが応じなかったのだから仕方ないだろう。それに酔っている様子だったし、頭を冷やすと言ったのだから、それ以上どうしようもない。私が行かなかったから彼が自殺をしたとでも言う積もりか!」
大和田はやや興奮気味に語尾を強めた。しかし、そんな様子にはお構いなしに熊野は畳み掛ける。
「それで?岩沢さんからの電話を受けた後も川原で考え事をして、その後わざわざ深夜に京都駅まで足を運び、入場券を買い、構内でバイトの男からEXカードを取り返して、ご丁寧に改札ゲートのアラームを鳴らして駅員さんと話をした。一体何のためにそんなことをしたのですか!」
やや熱い空気が漂う教室内で、大和田は興奮を収めるように無言で俯いている。しばらく不自然な沈黙に包まれた。刑事たちは大和田の回答をじっと待っている。こんなに不自然な行動をしておいてどう説明するのか。
「女だよ。わかるだろう?女性と約束をしていた。相手のことは言えない。相手も家庭のある人なので」
瞬間、刑事たちの失望が広がった。上手く逃げられた感がある。熊野も微かに動揺している。しかし、そんなオヤジたちの心根とは別次元の鈴が口を開いた。
「女好きも大概にしないと、身を滅ぼしますよ」
冷たい語気だ。しかし大和田は無視して話しを続ける。
「インターネットに或るサイトがあって、アリバイ作りを手伝ってくれるサービスがある」
「『恨みますサイト』ですね?」
熊野の問いに一瞬ためらったが大和田は認める。やはり喫茶店では知らないと惚けていたが、本当は『恨みますサイト』のことを知っていたことになる。
「そうだ。あの日は家内にも東京へ行くと言ってあった。マスコミにしつこく居場所を聞かれたら、東京へ行っていると告げるように指示した。もし、後々マスコミに調査されるようなことがあっても、東京に行っていたことを証明できるものが欲しかったのだ。サービス料として20万も取られたがな」
あのサイトが浮気のアリバイ作りまで手伝うかどうかは疑問だが、
「20万円も出して浮気ねえ。余程の美人なのでしょうね」
と、鈴は皮肉を零した。しかし、大和田は全く無視している。そんな彼のふてぶてしい態度に安岡がむっとして、
「マスコミに追っかけられている時にわざわざ密会か?しかもそんな日に偶然岩沢が自殺したって?いつまでもつまらない言い訳を続けてないでさっさと認めろ。あんたがアリバイ工作をした理由は、自殺に見せ掛けて岩沢を殺すためだろう!」
と、辛抱堪らずに声を荒げた。
「あなたが怒鳴ろうと、喚こうと、事実だから仕方がない。そもそも、私には岩沢さんを殺す理由がない。裏リベートの証拠も作り物だし、今回の慈善団体への寄付行為もこちらには落ち度がない。KG製作所さんの社内統制の問題で、岩沢さんも全ての責任は自分にあると書き残しているだろう。上司にも謝罪の電話を入れたそうじゃないか」
大和田も興奮気味に応酬した。
「裏リベートの証拠である会話録音データに関して、あなたは合成された物だと主張しているようですが、合成を疑う余地はないと鑑識は言っています」
熊野が冷静な声で二人に割り込み空気を落ち着かせる。
「それは科学的に証明すべきだ」
すると、いきなり鈴が大和田を指さしてポーズを決めてから、
「あなたは、裏金の受渡し場所を岩沢さんに暗号メールで指定していた。その暗号を私たちは解読したのよ!お猿さんの暗号を!」
と、張りのある声で叫んだ。だが、大和田を含めた全員が呆気にとられたまま、見ない振りをしている。安岡も、打ち合わせと違う進行に戸惑っている。彼女の言葉を聞いた小八木が、慌てて全員の前に印刷物を配布する。
そこには、大和田と岩沢のやり取りしていたメールの文章及び署名のコピーと、十二支に番号を付与した一覧表、岩沢のパソコンに残っていた関数と、そこから導き出される緯度経度の座標数字が表記されていた。その書面を目にした大和田の顔色が蒼白に変わっていく。
「オッサンのメール署名に、可愛い動物キャラなんてキモいと思ったのよ。最初は香帆さん宛のメールにだけ可愛い子ぶっているのかと思っていたけど、岩沢さんにまで同じ署名を使っていた。キモ過ぎるわ」
大和田は、書面を見つめたままゴクリと唾を飲み込む。
「大和田さんはもうご存知だと思うけど、小八木、刑事さんたちにも分かるように説明してあげて」
小八木が、署名の動物キャラは十二支に出てくる動物で、十二支にまつわる番号の意味を持たせていること、関数に数字を代入して得られる数字が緯度経度の座標を現し、過去の暗号メールで指定された場所と、リークされたリストに記載されている受渡し場所が一致していることを説明した。谷崎も山中も小さく唸っている。
「あなたはKG製作所から裏リベートを貰いながら、岩沢さんにも分け前を与えて、持ちつ持たれつの腐れ縁を続けていた。けれども、今回の不正流用が明るみになってしまった。この件は岩沢さんが責任を取る形で決着をつけようとしたけど、逆に岩沢さんに借りを作ってしまうことになる。もしかしたら既に脅かされていたのではありませんか?全ての責任を引き受ける上に裏リベートの秘密も守る。だから、それに見合うだけの見返りを要求されたのではありませんか?そしてあなたは予感した。この脅迫は永久に続くと」
鈴の指摘に大和田は何も言えず、ただ彼女を睨みつけている。
「岩沢さんが全ての責任をとって消えてしまうことが、あなたにとって一番都合のいい結果です」
熊野が追撃する。しかし、大和田も気を持ち直して再び逃げの言葉を流し始めた。
「そんな関数式は見たこともない。お前が勝手に作ったのだろう!」
大和田が鈴を指さす。
「この関数式は、岩沢さんと香帆さんのパソコンにあったのよ、警察が証明するわ。第一、私にそんな難しい関数何て作れる訳がないでしょう!」
鈴が自信を込めて言い放った。
「これが難しい関数式か?」
大和田が小馬鹿にしたような視線を鈴に送る。
「あら、良く御存ですね。これだけ証拠が揃っているのに、まだ惚けるつもり?」
鈴が白々しいほど大仰に驚いてみせる。
「状況証拠ばかりじゃないか。そんな物や誘導尋問で逮捕する積りか?私が犯人だと言う確たる証拠を示せ!」
再び興奮してきた大和田に、鈴は溜息を吐いてから、
「仕方ないわね。安オヤジ、お願い」
と言うと、今度は安岡がA4サイズの印刷物を全員の前に配った。それは誰かの手紙のコピーだった。それを目にした谷崎と山中が一番驚いている。
「そう言うこと。それは岩沢さんの遺書に使われた手紙の全文よ」
大和田の顔面は、さっと蒼白に染まってゆく。手紙の内容は、去年の7月に岩沢から大和田に宛てたもので、今回の入札では便宜を図って頂いたにも関わらず、製品の納期が間に合わず、納品を断念せざるを得ないこと、お約束したリベートはお渡しできないことを詫びている。そして最後に、全ては自分の責任である旨と謝罪の言葉が並んでいた。
「最後の部分が遺書と同じだ」
山中が興奮気味に小さく叫んだ。
「あの遺書はバランスが悪すぎたの。だから熊野君に調べてもらった」
「何のバランスですか?」
山中が丁寧な口調で尋ねる。
「紙の大きさです。便箋でもなく、A4用紙でもなく、B5用紙でもない。一体何の用紙に書いたのか不思議だったの。調査の結果、カッターのような鋭利な刃物で切り取った跡が見られた。それで、あの遺書は遺書として書かれたのではなくて、何かの一部を切り取った物だと考えたのよ」
鈴がドヤ顔をして見せる。
「それで、この手紙をどこで手に入れたのですか?」
所轄の谷崎刑事が今度は安岡に尋ねた。しかし鈴が即座に答え始める。
「実はこの教授は大変なスケベ教授で、自分の教え子に手をつけていたの。先日亡くなった朝枝香帆さんのことです。香帆さんは、高校時代から夢育英会と言う、貧困で進学できない学生を援助するNPOに参加していました。その夢育英会の理事をやっているのが大和田教授です」
「ちょっと待て!何を言い出すんだ。殺人の次は教え子との不倫か?証拠もなしに他人の名誉を傷つけて、お前たちはどうなるのかわかって言っているんだろうな!」
大和田は怒りを露にしているものの、夢育英会のことを持ち出されたためか、警戒と畏怖が瞳の奥で揺れているように見える。
「証拠ならいくらでもあるわよ。香帆さんがあなたの誕生日をスマフォのパスワードにしていたこととか!ラブラブのメールとか!今ここであんな恥ずかしい内容をぶちまけて欲しい訳?」
ラブラブメールは嘘だ。しかし、鈴が堂々とハッタリをかましている様子を見て、安岡がニヤリと笑った。大和田は疑心暗鬼な表情で鈴を睨みつつも、それ以上抗うことはしなかった。
「このスケベ教授は、まだ高校生の朝枝香帆さんに便宜を図って大学に入学させ、自分の研究室に入れた。いつから男女の関係になったのかは知らないけど、彼女が大人になっても打算的な男女関係を続けていた。ところが、昨年研究室に招いた並岡さんと香帆さんが恋愛関係に陥ってしまった。そして香帆さんが大和田教授から離れようとした頃、大学内で起きた個人情報漏洩事件の容疑者として並岡さんの名が挙がった。そこで教授の立場を利用して、並岡さんを岐阜の事務職に左遷させた」
教室内には、わがままな権力者に対する侮蔑の雰囲気が漂っている。
「本当は懲戒免職に相当するものを、事務職への異動で許してやったんだ。彼には感謝されるべき措置だ」
大和田が言い訳をする度に、苦しい吐息が聞こえて来そうだ。
「並岡さんが、漏洩事件の犯人だと特定する決定的な証拠は出なかったのでしょうP?」
沈黙している大和田を尻目に鈴は続ける。
「恐らく、香帆さんは並岡さんと結婚する積りだったと思います。だから並岡さんに研究室へ戻ってもらいたい。だが、左遷に大和田さんの個人的な感情が入っていると判断した香帆さんは、何とか大和田教授の弱みを握ることを考えた。あなたの悪事については薄々感じていたのでしょう。でも証拠がなかった」
鈴は、ここでひと息入れて大和田の反論を待ったが彼は無言でいる。
「そんな時に、香帆さんがこの詫び状を偶然見つけたのでしょう。彼女はそれをPDFファイルにして並岡さんに渡していた。約束の1年を経ても研究室に復帰できなければ、この詫び状を使って、大和田教授と交渉する積りだったのだと思います。あなたが裏金を貰っていたと言う証拠を突き付けてね」
鈴がここまで話すと、熊野が続けた。
「これは想像ですが、あなたは岩沢さんのこの手紙を読まずに、どこかにしまっておいたのではありませんか?岩沢さんからは直接謝罪を受けていたし、謝罪文など形式的なものには興味も持たずにそのままにしておいた。香帆さんがどうやって謝罪文の存在を知ったのかはわかりません。しかし、あなたと近い距離にいた彼女が、あなたが放置していた手紙を見つけたとしても不思議ではありません」
するとまた鈴が口を挟む。
「そして、岩沢さんの偽装殺人を思いついた時に、あなたは謝罪文の存在を思い出した。指紋が付かないように手袋でもして手紙を読んだ。そして遺書として使えそうな部分だけをカッターで切り取り岩沢さんの殺害現場に置いた。だから遺書からあなたの指紋は出ない。そんなことが出来るのはあなただけよ」
ようやく大和田が口を開く。
「香帆が並岡に送ったと言うPDFが岩沢さんの手紙かどうかはわからないだろう」
「そんなもの、筆跡鑑定をするまでもなく、誰が見ても明らかだ」
安岡が遺書のコピーを謝罪文のコピーと並べて見せる。
「遺書に付いているこの黒い斑点が、手紙のコピーにも写っている」
大和田は、少しずつ追い詰められている自らの状況に焦りを感じたのか、思い付きの言い訳を始める。
「並岡がPDFを印刷して、岩沢を殺したのかも知れないだろう。岩沢のことだ、研究員だった並岡に接近していたかも知れない。そこで何らかのトラブルがあったんだ。そうだ、個人情報窃取の証拠を岩沢に握られていたんだ!」
哀れなほど荒唐無稽な作り話に苦笑しながら、小八木が冷たく説明する。
「残念ながら、この詫び状のPDFファイルにはパスワードが掛かっていました。並岡さんはパスワードを忘れていましたので、僕が解読ツールを使って初めてファイルを開きました。フォルダやファイルへのアクセスログから、初めて開いたことは証明できます」
「第一、並岡はこの数週間一歩も岐阜を出ていない。刑事が見張っていた」
安岡が補足する。
「あら、まだ並岡さんを疑っていたの?ご苦労様」
呆れ顔で安岡を見つめた鈴は、しばらく大和田を凝視する。彼は呆然自失となっているのか、言い訳すら考えているようにも見えない。鈴は、そろそろとどめを刺すべく、大きく深呼吸をしてから大和田に向かって叫ぶ。
「大和田教授。ひとつ言い忘れていましたけど、岩沢さんの遺書からあなたの指紋は出て来ませんでしたが、香帆さんの指紋が検出されています」
大和田の頬がピクリと反射しただけで何も言わない。
「岩沢さんの遺書に香帆さんの指紋が付いていたと言うことは、香帆さんが生きている間に岩沢さんが書いたと言うことよ。そしてそれは、岩沢さんがあなたに宛てた手紙であることが証明された。その手紙を岩沢さん殺害に利用できるのはあなただけ」
鈴はここで少し間を置いてから再び話し始める。刑事たちの鋭い視線が大和田を射抜いている。
「そして、あなたには京都でのアリバイがない。どうせ愛人の名前何て言えないでしょう、嘘だから。それにね、あなたはもうひとつ大失敗をしていたことに、まだ気が付いていないの?」
鈴の言葉に熊野も安岡も驚いている。もうネタは全て出し尽くしたはずだ。
「岩沢さんが亡くなった翌日、警察署近くの喫茶店であなたはアリバイについて話してくれました。まあ、結局は嘘だったけど。でも、どうして最終新幹線で京都に帰って来たところでアリバイ説明が終わったの?」
その言葉に熊野もはっと気づいた。
「そうよ、熊野君。あなたに警察の担当者の方を教えてもらって直接確かめたの。大和田さんが岩沢さんの葬儀を行うからと、警察に出向いて話をした担当者にね。女性でした。彼女は断言してくれました。岩沢さんの死亡時刻については一切触れていないと。だって、正式な死亡推定時刻はまだ調査中で、彼女自身も知らなかったのですから」
安岡は、口を少し開けて驚きの眼で鈴を見つめている。
「喫茶店でも、あなたに死亡推定時刻の話は一切していません」
熊野も興奮気味に言った。大和田が更に収縮したように感じる。すると、鈴は突然背筋を伸ばし、キリリと凛々しい表情になって大和田を指さした。また何を言い出すのかと、全員が不安そうに鈴を見つめる。すると彼女は透き通る声で、
「警察庁でコツコツ働く星里崇の名に懸けて、あなたの悪事はお天道様の裏までお見通しよ!」
と、高らかに叫んだ。
「まったく意味が解らん……」
安岡が呆れている。一瞬固まった山中は、ゆっくりと立上って大和田に近づくと逮捕状を開いて見せ、
「大和田武、岩沢静男殺害の疑いで逮捕する」
と、逮捕日時を告げながら手錠を掛けた。大和田は完全に脱力しきっている。そんな大和田を山中が立たせようとした時、
「ちょっと待って!」
鈴が再び声を上げた。




