序章
今から約10年前、京都は宇治川のほとりでひとりの女子高生が川に落ちて水死した。そこからこの事件は始まった。
京都じゅうが紅葉と観光客に包まれる十一月が過ぎ、枯葉が切なく舞い上がるようになると急に冬の訪れを身近に感じる。特に、この三日間降り続いた雨が上がった今日は底冷えさえ感じるほどだ。
そんな、晩秋から初冬へと移り変わる季節の中、ひとりの初老男性が段ボールを引きずりながらふらふらと歩いている。いかにもホームレスといった風体で、右に左に蛇行しながら力なく歩道を歩く。
宇治川沿いの道路は交通量も多く、車がブンブン男を抜いてゆく。男は堤防沿いに延びる歩道から河川敷にある公園に下りた。公園にはゲートボール場と子供用の遊具が並ぶ芝生の遊び場がある。降り続いた雨のために宇治川の水流は増し、濁流が音を立てて流れている。
男は堤防につくられた階段をゆっくりと下りた。今日は空き缶の回収が多く集まり、久しぶりに昼飯と安酒にありつけた。男は河川敷公園に入ると、防災用具倉庫の横に段ボールを敷いて横になる。寝床は少し先にある橋の下だが、久しぶりの酒に酔いが回ったのでここで休むことにした。午後四時を回った頃だろうか。
冷たい風が酔った身体には心地よく、小一時間ほど眠り続けた。しかしすぐに体温は下がり、男が肌寒さに目覚めた頃、太陽は西に大きく傾いて西の空を赤く染めていた。と、その時、男の視界に二人の女子高生の姿が目に入った。何とか顔が判別できるほどの距離で二人とも可愛い容姿をしている。男にとっては、昔一緒に暮らしていた娘よりも若い子供たちだ。
背の高い子の後ろを小柄な子がついて歩く。やがて二人は川の流れに面した石造りのベンチ前に立った。そしてそこに腰を掛けるかと思いきや、二人は立ったままで口論を始めた。何やら必死で言い合っている。話の内容まではわからないが、時折緊迫した声が届いてくる。二人は益々興奮してゆき、どちらからともなく相手を軽く小突き始めた。周囲には誰もいない。彼女たちは男の存在にも気づいていないようだ。
とうとう小柄な子が何かを叫びながら両手で相手を強く押した。だが押された方はびくともせずに、逆に小柄な子を両手で激しく突き返す。すると小柄な子は弾けるように後ろへ数歩下がるが、川に落ちかねない危険な状況だ。
何とか4歩目で踏ん張ったものの、彼女の足はぬかるんだ地面に足を取られ、ズルリと川土手から外れて宙を踏んでしまった。慌てた彼女は後ろを振り返ろうとして体勢を崩し、そのまま川の流れに吸い込まれていった。
男は上体を起こして様子を伺った。寝ぼけ眼でぼんやり見つめていた男には、目の前で起きたことが現実なのかどうか自分でも疑わしい。残った女子高生は慌ててどこかに電話を掛けている。恐らく警察か消防に掛けているのだろう。しかし、電話はなかなか終わらない。彼女はベンチに腰掛けたまま話を続けている。緊急自動車のサイレンも聞こえてこない。
そんな様子を見続けていた男は、やはり自分は夢を見ていたのかと思い直し、こっそりと女子高生を眺めてから、最初からひとりだったのかも知れないと考え直した。
ようやく電話を終えた彼女が再び電話を始める。別の友だちとでも話しているのだろう。男は女子高生への興味は失せて、再び段ボールに横たわって目を閉じた。少し寒いがまだ眠い。だが、ものの数分もするとけたたましいサイレン音が遠くで響き、いくつものサイレン音が色んな方向からこちらに向かって集まって来る。
男は立ち上がってベンチに座っている女子高生を不思議な気持ちで見つめながら元来た歩道へ上り、警察が到着する前にその場を離れて行った。