ショートショート041 他人の一日
青年が実家で見つけたそのボタンは、亡くなった祖父の遺品を整理しているときに出てきたものだった。
小さな台に、四角いボタンがひとつ。他には何も付いていない。何のボタンなのか、まったく分からない。
処分しようかと思ったが、すぐに考え直した。不思議なものを集めるのが、祖父の趣味だった。何か、いわれのある品かもしれない。
青年はそのまま、ボタンを懐に入れた。
翌日、昼過ぎにアパートに戻った青年は、録画しておいた映画を再生した。椅子に座って画面をながめつつ、なんとなく、例のボタンを押してみる。
次の瞬間、青年は知らない部屋にいた。自分の部屋の数倍は広い。家具も豪華だ。
なんだ。いったい何が起きた。
驚いた青年は、きょろきょろと室内を見回したが、見覚えのあるものはひとつもない。
ふと、壁に掛けられた姿見が目に入った。
そこに写っていたのは自分ではなく、さっきの映画に出ていた、大物俳優だった。
これは、いったいなんだ。まさか、入れ替わりというやつか。そんなばかな。
混乱の中で、青年は窓の外に目をやった。
む、この風景は見覚えがあるぞ。俺が住んでいる町じゃないか。そうか、ここは最近建てられた、近くの高級マンションか。
青年のアパートはすぐそこだったので、急いで戻り、おそるおそる中に入った。
自分が椅子に座って寝ていた。
つついたり、声をかけてみたりしたが、反応は無い。心臓はちゃんと動いているようだ。
元の自分がここで眠っている。ということは、入れ替わりではなく乗り移りか。そういえばボタンを押したとき、この俳優のことを考えていた。だからこいつに乗り移ったのか。
そこまでは分かったが、これからどうなるのかは、いくら考えても分からなかった。
まあ、なるようにしかならないさ。
青年はそう割り切って、この奇妙な現象を思う存分利用し、楽しむことにした。
すぐに俳優のマンションに戻り、高価なスーツに着替えた。財布にぎっしりと入っていた金を使い、高級レストランで豪勢な食事を堪能した。ファンにサインをねだられたので、適当に書いて渡した。そのままぜいたくな夜を過ごし、朝になってようやくマンションに戻り、泥のように眠り込んだ。
昼ごろ、青年はうるさい電話の音で目を覚ました。俳優のマネージャーからだった。
「いったい、今どこで何をしているんです。もう打ち合わせは始まっているんですよ」
青年は焦った。俳優の仕事なんてできるわけがない。どうしよう。
次の瞬間、青年は椅子で寝ていた。自分の部屋だった。手には、あのボタンがあった。
元の体に戻ったのか。
壁の時計に目をやる。ちょうど昨日、ここでテレビを見ていたのと同じ時間だ。
どうやら、一日で元に戻るらしい。つまり、一日だけ他人の暮らしを経験できるわけだ。
ボタンの機能を理解した青年は、しめしめと思った。これを使えば、特に困った問題もなく、いろいろな人間に乗り移ることができる。さえない人生を送っている自分が、豪華な暮らしを味わえる。腹の立つやつに仕返しだってできる。これを使わない手はない。
それからというもの、青年は休みのたびにボタンを押した。政治家に乗り移り、派手な接待を受ける。大企業の役員に乗り移り、気の済むまで秘書を怒鳴りつける。きれいな恋人がいる同僚に乗り移り、破局に追い込む。
青年はボタンを使い、乗り移りを何度も楽しんだ。
それからしばらく経った、ある休日。
テレビをつけると、億万長者の話をしていた。その資産たるや、そこらの金持ちなど相手にもならないほどだという。
こんな人間は、いったいどんな暮らしをしているのだろう。
ふとそう思った青年は、今度はこいつに乗り移ってやろうと思い、ボタンを押した。
次の瞬間、青年は暗闇の中にいた。やたらとまぶたが重い。身動きもとれない。なんだ、どうした。何がどうなっている。
目は開かないが、かすかに声は聞こえた。
「先生、患者の様子が」
「……ご家族をお呼びして」
なに。患者。家族。どういうことだ。ちょっと待ってくれ。俺はどうなるんだ……。
青年の意識は急速に薄れ、暗闇の中に溶けていった。