始まり~これは、鷹村悠の1日~
鷹村悠は高校2年生だ。
この日本に高校生が何千人居るか知れたものでは無いが、全国の彼ら彼女らの内の一人として、悠に特別な点はなく、そう浮くでも沈むでも無い平凡な日々を謳歌している。
そんな彼を思い浮かべる為に幾つかセンテンスを並べてみよう。
目元は切れ長な一重、身長は170cmくらい、運動は割りと得意、成績は中の上、同年代と比べると落ち着いていて、必要だと思った事はハッキリ言う性格、恋人万年募集中、まぁこんなところだろうか。
だがこんな特徴は、たとえそれらの集合とは言えあり触れていて個人の特定には情報不足だ。やはり平凡な一高校生といったところだろう。
これから彼が体験する、ちょっと変わった出逢い以外は。
そんな未来を知る由も無い悠は、今日と言う日もいつも通りの平常運転。
平時よりやや繰り上げとなって、いつもより早めの下校時間。馴染みの仲間達と笑いながらは校門を潜る彼は、大分通い慣れてこれまた馴染みとなった喫茶店へと向かっていた。
明日から開始となる中間試験に向け勉強会兼情報交換会をやろう、と言うのが目指す喫茶店での目的である。
実際は勉強の部分はすでに個々で終わらせていて…あるいは諦めと言う心の整理をつけた…入学当初に見つけた洒落た喫茶店でお気に入りの一杯を楽しみながら、明日への英気を養う会だ。
そういう訳で、皆この日は万難を排して集合した。バイトとか。家事手伝いとか。
まぁ、試験前日に万難有っては困る。そこは言葉の上での話だ。正直、試験も含めて難はいらない、と言うのが学生皆の偽らざる本心と言うヤツだろう。
集まったのは悠を含めて4人。馴染みの喫茶店IRISの扉を引き開け、お決まりの窓側店奥の席へと2人ずつ向かい合い腰を落ち着ける。
席はこの4つだが、男3人が暗黙に定めたマナーにより、この集まり唯一の女の子をいつも通路側にする。席を塞いで、彼女にお花摘みを申告させ無い為だ。ま、実際気にはし無いかもしれないが軽い気遣いである。男どもの着席はその日の気分なので特に意味は無い。閑話休題。
悠たちの入店時、確かにカウンターの向こうでコーヒー豆をミルにかけていた筈のマスターは、4人が一息整うのを測った様な完璧なタイミングで席の脇へと現れた。
整えられた口髭とオールバックに纏められた髪。均整の取れた引き締まった身体を、シワひとつ無い真っ白なワイシャツに包み、ベストをはじめズボン、靴は黒で統一。肘の辺りの袖釣りバンドを彩る蒼い石が、唯一のアクセサリーだ。
場所が違えば一流のホテルマンか執事に見えるだろう。
そんな彼の登場と共に、おしぼりとミントの葉を添えたミネラルウォーターのグラスが四つ、いつの間にかテーブル上にある。そして「ご注文は?」と言う静かでいて良く通る声が4人にはじめてその存在を気づかせた。
カウンターからこの席まで結構距離もあるのだが。そんな訳で、店内に隠し通路でもあるのでは?と馴染みの客の間では常々噂になっている。
「マスターさん、こんにちは。私はアイスロイヤルミルクティーと自家製ストロベリーパウンドを」
この一年ちょっとですっかり常連となり、マスターの摩訶不思議な移動術と配膳術にも慣れた4人だ。
真っ先に、いつものアレとばかりに注文を返したのは、悠の隣に座る紅一点、高木遥。髪はショートの黒。身長160。全体的にしなやかな猫ぽっい。陸上部所属、元気印の快活少女だ。
文化祭にミスコンテストが有れば学年5位内かもな、とは他ならぬ悠の嘗ての言である。
「マスター、俺はエスプレッソを。オレンジピール有りで」
悠の向かい側に腰を落ち着けるのは、真田彰。彼は基本、悠に輪をかけてクールだ。銀縁のメガネごしにメニューをざっと見る横顔や視線の運びは、高校生よりむしろ、経済新聞か社内資料に目を通すキレのある頭脳派ビジネスマンを連想させる。
ちょっと気障なのが玉に傷だが、話上手で親しくなれば面倒見もいいので人を引き付ける魅力がある。
遥のあとに続く、そんな彼の渋いオーダー。これも、いつも通り。
「僕は、アールグレイのホットでーす」
早くもテーブルへ突っ伏す結城隆はちらっと斜め前の悠を見た後、いつもは長々と迷うマスカットのフレーバーティーとの二択を今日はあっさり決断した。
猫っ毛のくしゃくしゃな髪、伸長低めで、ちょっとぼんやりマイペースな彼はいつでもニコニコ癒しキャラだ。
彰曰く、こいつの全身からは眠気を誘うマイナスイオンが出ていて危険、である。
慣れたテンポで仲間たちが次々と注文を済ませて行く中、トリとなる悠は少し迷う。
「お前ら、昼はどうする?」
「俺は、後で追加する」
「食べると、寝ちゃうかも」
「ケーキがご飯。それ以上はやめておくわ、...体重の為にも」
3人から短い返事を聞き、2秒程して悠は注文をマスターへと伝えた。
「マスター。俺はさっき挽いてたジェニュインアンティグアを。それと、一時間くらいしたら冷めても美味しいホットサンドを3.5人まえ。以上。お願いします」
無言の賛成票が三票入った空気を確認し、微かに驚いた表情だったマスターは静かに一礼した。
それから少し態度を崩して、「寛いで行ってくれ」と親しみあるハスキーな声とウインクを残して離れて行った。常連の学生相手には茶目っ気をみせてくれるのだ。それも、この店の魅力だと4人は思っている。
「悠。なんでマスターの挽いてた豆の種類が分かったんだ?」
鞄から自作のルーズリーフを3人に配る彰が、マスターの背を確認しながら唐突に悠へと問いかけた。ルーズリーフの中身は、今回の数学のテスト範囲の内でキモになると予想される部分を書き出したモノだ。
「あー。あの手品師と魔法遣いの間みたいな人が、この店の豆や葉を切らしているの見た事ないだろ?なのにカウンター後ろの棚の右から3番目、ビーンズストックスのポットが無かった。多分、俺たちが店に入った時丁度手元にあったんだ」
「なるほど。相変わらずだな悠、よく見てる」
「たまにはこっちも、あのマスターを驚かせてやらないとな。藍より青しってヤツさ。弟子入りはして無いけど」
悠は彰から有難くルーズリーフを受け取りながら、手品と言う程でも無い推理の種を明かした。
「「彰?悠の、何が変わら無いの?」」
意味有りげに付け加えられた彰の一言を、隆と遥が声を揃えて掬いあげた。
彰は、よくぞ拾ってくれましたとばかりにニヤリと笑う。
「さて、それでは皆様お立会い。今明かされる真実!昔々、あるところに一人の悪党が居りました」
「おい、こら彰。人聞が悪いし、危なっかしいネタじゃないか?」
「うーん、まぁ。時効って事でイイんじゃないか」
名調子の語り手ーーキザにその銀縁メガネを押し上げて見せる彰に、悠は抗議した。だが、『今明かされる真実』と云う煽り文句に興味津々の観客2人との多数決にあっさり破れ去ったのだった。民主主義は強しである。
☆
話が核心部分に近づいて、周りを憚る様に彰が少し声量を落す。
「と、ま。そんな訳で、俺らしくもなく入試の真っ只中、予備までまとめて消しゴムを失くして焦り全開。時間ギリギリだったしな。その時、こいつは試験官がくしゃみをした一瞬の隙を突いて、偶然席が隣ってだけの赤の他人の俺に、自分の予備を転がして寄越した。試験中、物の受け渡しは厳禁なのにな。で、落ち着きを取り戻した俺は、九死に一生を得た。でかい借りだな。でかいと言えば、くしゃみもでかかった」
「で、無事、悠の消しゴムが使えたのね」
「いや、すぐさまポケットに突っ込んだ。それから、手を挙げて試験官に自分のが遥か彼方へ転がってったと伝えたよ」
話半ばに饗され、手に持ったままだったエスプレッソカップを置くと、フレッシュミントの香るミネラル水に口をつけ、彰は喉の調子を整える。
「なんで、使わなかったのさ?」
隆がやや冷め始めたアールグレイを傾けながら話の先を促した。
「消しゴムの表面に、『焦るな阿呆。テストも転がる』って書いてあったのさ。なんだか戦友から贈られた遺言ぽくて、カスにするのは惜しい気がした。『焦るヤツから死ぬ、気をしっかり持て』・・・みたいな感じだな」
「誰が、戦友だ。どこからも弾が飛んできた記憶はない。しかも、サクッと俺を殺すな。むしろ救いの女神だろ、俺は」
「いや、いや。共に闘い抜いただろ。倍率競争って名の戦場を。だが、試験官出し抜くあたり、やっぱり最初に言った通り《愛すべき悪党》だな悠は」
「確かに。女神はないわね」
《悪党》には、感謝と一年半程の間で培われた友人への信頼の響きが感じられた。
4人の笑い声が、他の客の迷惑になら無い程度に店内に響く。
マスターが、何故かジェニュインのおかわりをマグカップで悠にサービスしてくれた。
真っ白なマグカップの側面には、これも何故か筆文字で『戦友』と大書してあった。
☆
気がつくと18時半を過ぎていた。
悠のよみ通り、遥はサンドイッチを欲しがった。彼女曰く、人には抗えぬ宿命が有るとかなんとか。隆は申告通り、お腹いっぱいの子猫みたいな顔して中盤30分位テーブルに突っ伏した。
必殺闇稼業と称した遥のシャープペンが悠の額に刺さっては、笑い。彰が少々卑猥な響きの化学の語呂合わせを大真面目な顔で暗唱して見せて、また笑った。
まぁ、こんなもので大丈夫だろう。明日は、国語に化学に数学だ。必要な装備はフィーリングと語呂合わせ、彰のルーズリーフ。三種の神器は揃っている。結論を一致させた4人は本日はこれにて解散、となったのだった。
悠は一先ず全員分をまとめて支払い、他の皆は出入り口をふさがない様に先に外で待つ。
マスターはお釣りを渡しながら、「ちょっと待ってて」と奥へ、戻って来ると小さな包みを差し出した。コーヒーの香りがする。
「良かったら、忙しくない時に齧ってみてくれ、君からの評判が良かったら次回は皆んなにも。良く眠れて、疲れも吹き飛ぶ」
「ありがとうございます。頂いてみます」
悠は、軽くお辞儀してポケットに包みを入れると店を出た。
明日から試験だか、悠の帰宅の足取りは重くは無かった。日頃から授業は真面目に受けているし、前日になってジタバタした所で飛躍的に結果が良くなったりはしない。そんな風に思っている。
最寄り駅を降りて、自転車で10分。自宅の玄関を開け、ただいま!と心持ち声を大きくすると、悠はキッチンダイニングへ足を踏み入れた。
お帰り。と母親が返してくれながら、ソファを立ちキッチンへ入って行く。
パスタは10分程で茹で上がる様だ。ソースの鍋も火にかけている。
一度着替えるべく部屋を出て、悠は自室へ向かう為階段を上がった。
母親と二人夕食を摂りながら喫茶店での話をして笑う、シャワーを浴び、化学の暗記カードをめくり、帰った父親の晩酌に一口だけ付き合う。 彰のルーズリーフを参考に数学も公式の最終確認をしながら応用問題を少し解いた。
明日の為に、そろそろ寝ようか。そう思って歯を磨きに階下に行こうとして、悠はふと思い出した。
喫茶店のマスターにもらったポケットの中の包み。
ポケットに入ったままだったそれを取り出し確認すると、中身は3粒のコーヒー豆だった。
興味を惹かれ、まだ歯も磨いていない事だしと一粒を齧ってみた。カリッといい音がして甘い香りと軽い苦味が口に広がる。寝る前にカフェインはマズかったかなと思いつつ、残り半分を口に放り込んだ。ガリガリと噛み砕かなくても、ふわりと口の中で溶ける。もしかしたらコーヒー豆ではないのかも。残り二つぶを机にしまい、悠は改めて階下へ降りた。
目覚まし時計のアラームをセットし、明かりを消す。
悠はベッドでタオルケットを被り、目を瞑った。良く眠れそうだった。
今日も平凡な1日で、良い1日で、楽しい1日で、友人と笑いあえる1日で、無事な1日で、普通の1日で、大切な1日だった。
それでもいつかは忘れてしまう1日だろう。
彼女に出会う瞬間まで、悠はそう思っていた。