第2話 不傷 God_and_Extremer
まるで天使にも見える少女――エルシアは、銀色の髪を揺らしながら階段を下りるかの様な動作で空中を歩いていく。金色の瞳は一直線にオルフェリスを見つめていて、他には何も映していなかった。
黒拳獣の存在など意に介していない。
対する黒拳獣も、どういう訳か動けずに固まっていた。
天から降り注ぐ銀色の光はエルシアが地に降り立つのと同時に薄れていった。
「だ、れだ……?」
掠れた声で尋ねる。
オルフェリスの目の前まで移動したエルシアは、整った顔を悲痛の色に染め、
「大丈夫か? 痛いよな、辛いよな……すまない、今の我はどうやら万全ではないらしい。フェリスの『傷』を治す事は出来ても、『痛み』を癒すことはできない」
初対面であるはずなのに、オルフェリスの事を親しげに『フェリス』と言う略称で呼ぶエルシアは、表情を曇らせてそう言った。
「な、にを……言って…………?」
「今は説明している暇はない。まずはあの魔獣を何とかしよう……と言いたいところだが、我にはその力もないらしい」
自嘲気味に笑ったエルシアは、倒れたオルフェリスの赤く濡れた頬をその手で撫で、尋ねる。
「単刀直入に聞く。このまま死ぬか、我を受け入れて生きるか。そろそろフェリスの生命力的にマズい。……決断してほしい」
エルシアの言葉の意味は上手く理解できなかった。
彼女が一体何者で、どうして自分の事を知っているのかも分からないし、受け入れるという言葉の本質も見抜けない。
それでも、彼女に与えられた選択肢には生きるという道があった。
黒拳獣に断ち切られた腕。切断面から溢れ出した血の量は凄まじいもので、このまま止血しなければ確実に死ぬ。例え止血できたとしても、黒拳獣はそれを見逃さないだろう。
それでもこの少女は――治癒神を名乗る少女は生きる道を提示してきた。
なら。
「――生きたい」
「……うん」
掠れた声でそう言ったオルフェリスの、何も映さないくすんだ瞳に微かな光が宿ったのを見て、エルシアは満足げに眩しい笑顔を浮かべて頷いた。
彼女はもう片方の手も持ち上げ、オルフェリスの頬に触れると、顔を近づけて言った。
「目を、瞑って」
抗わなかった。
オルフェリスは自然と下がってくる瞼を閉じ、エルシアの言葉に従った。
その直後。
「――ッ!?」
唇に柔らかな感触を感じ、目を見開いた。
その瞳が映したのは、超至近距離で目を閉じるエルシアの可愛らしい顔。陶器の様な白い肌に長い睫毛、鼻筋の通った顔立ち。文句の言い所がない、十人が見れば十人が可愛いと言うだろう美少女の顔が、目と鼻の先にあった。
つまりコレは――
(キス……されてんのかっ!?)
これがファーストキスだった事も忘れ、ただ驚いていたオルフェリスの前で、直後、光が弾けた。
あまりの眩しさに目を強く瞑る。数秒の間顔を背け、光が収まったのを確認して目を開けた時には、既にエルシアの姿は無くなっていた。
「……は?」
素っ頓狂な声を上げ、夢だったのかと右手で目を擦った時に、気がつく。
「右手で……?」
右腕が生えていた。
オルフェリスの視線の先には、何事もなかったかの様に無傷な右腕が生えていた。肘はあらぬ方向に折れ曲がったりなどしていなく、手首も真横に倒れて骨が見えるなんて惨劇にはなっていない。気になるのは、着ていた白のミリタリーコートの袖が肩口から無くなっていて素手が晒されている事と、思い出したかの様に腕を断ち切られた事による痛みが舞い戻ってきた事くらいだ。
「どうなってんだ……?」
あのまま消え去ってくれればよかったのに、と思わせるような尋常じゃ無い痛みに顔を顰めたオルフェリスは、呆然としながら呟いた。
心なしか、体調は先程よりも良くなっている気がする。
『なるほどー、ここがフェリスの中か。思っていたより居心地がいい、流石というべきかな。上手くいって良かったよ』
生え治った右手の指を動かしていると、突如体の中から幼い少女の陽気な声が聞こえてきた。
エルシアのものだ。
「な……どうなって? 声が体の中から聞こえてくる……?」
『ああ、驚かせてごめん。お主がそう感じるのも無理はないよ、我は今文字通り、フェリスの中にいるからな』
「???」
イマイチ言葉の意味を理解できていないオルフェリスは、うつ伏せの状態から座り直り、首を傾げる。
「つまりどういう事だ?」
『神懸り』
質問に対し、エルシアは端的にそう答えた。
『先程のキスで上手く我とフェリスの関係力が強まった様だ。お陰でちゃんと成功したよ。我のファーストキスだった……と思うからそれで許して欲しいんだが?』
「いや、俺もそうだけど……思うから?」
妙な違和感を感じ言葉を溢すが、エルシアからの返答は無かった。
『ともあれ、聞いた事くらいはあるだろう?』
「そりゃあ聞いた事くらいあるけど……腕も生え治ったし、若干体調も良くなってる気がするし……あれっ? と言う事はエルシアは本当に」
『なんだ疑ってたのか。我は正真正銘魔の神、魔神だよ』
エルシアが得意げに胸を張ってそう言った……様に感じた。
「なんという事だ俺の中で『神様』ってヤツのイメージ像が崩壊していく!? もっと厳ついおじさんとか萎れた老人とか想像してたのに、ただの美少女じゃねーか……」
『び、美少女! ……うふふ、悪い気はしないな。ありがとう』
「今更だけど、敬語は?」
『いらないさ。対等で行こう』
「了解」
完璧に感覚が戻ってきた右の拳を強く握り締めたオルフェリスに、エルシアの声が掛けられた。
『フェリス!』
「え?」
その声で顔を上げ、一瞬身体を硬直させた。
黒拳獣がゆっくりと動き出す。
「な、いきなりどうして!?」
『専門的な話をしたところで理解はできないだろうが、我がこの場所に顕現した際の「残光」が奴の精神を妨害していたのだろう。魔獣で例えるなら「殺人衝動」だな』
「全く分からん」
『理解できなくても問題はない。それよりフェリス、対抗策は?』
「残念ながら何もないよ。木剣は粉砕、俺が使えるのはショボい治癒の力だけだ。取り敢えず今は、ロエルとノエルが町で雇った冒険者を連れてきてくれるまで待つしかない!」
黒拳獣が距離を詰めてくる連れて早口になっていったオルフェリスが、歯を噛み締め身構える。
背を向けて逃げたところで追いつかれる事はついさっき検証済みだ。
それならば――
「逃げずに周囲を動き回るしか無い訳だが……」
『容易ではないな』
エルシアの言葉に重ねるように、黒拳獣に拳が振り上げられた。
大地を砕く一撃。
それを真っ直ぐ見据えたオルフェリスは、態勢を低くして前方に身を投げ出すことで回避した。
ゴバッッッ!!! と、背後で轟音が炸裂した。魔障気で出来た拳が地面を粉砕する惨劇を横目で見てゾッとしつつ、態勢を立て直して黒拳獣の股の下を潜り背後に移動し距離を取る。
「あっぶねぇ……でエルシア、お前が俺に神懸る事で俺にどんなメリットがある?」
『傷が出来ない』
「……は?」
『傷が出来ない』
「いやそれは聞こえてるよ!」
ツッコミをしつつ、その本質を尋ねた。
「傷が出来ないってつまりアレか? そのままの意味か? 例えば殴られても切られてもダメージを受けないいわゆる無敵みたいな」
『残念ながらそこまで性能がいい物ではない。無敵とは程遠い権能だ。我の「不傷」が遮断するのは「傷」だけ。「痛み」から守る事は出来ない』
「傷は防げるけど痛みは癒せないって言うのはそういう事か。要するにどんな攻撃を受けても痛みはあるけど傷は出来ないんだな?」
『そういうことだ』
傷はできないが痛みは感じる。それはつまり、致死的な攻撃を受けても死ぬ事はできず、本来なら感じることの無い激痛の地獄に見舞われるという事だ。
ぶっちゃけ勘弁願いたい。
「でも、死なないってんなら上等だ」
『……本来ならば死ぬ程痛いのに死ねないという状況は、人の精神に多大な負荷をかけるモノだと思うんだがな』
呆れた様子でエルシアが溢した。それでもその声音に嫌悪は感じられない。
オルフェリスは笑みを浮かべ、視線を背後へと巡らせる。
その先では、地面から拳を引き抜いた黒拳獣がゆっくり振り返り、その一歩を踏み出そうとしていた。
「それで、他には?」
『あるにはある。だが今は役に立たない。まずは生き延びることだけを考えよう』
「外傷的には死なないんだろ?」
『外傷的にはな。でもフェリスの精神面は別だ、さっきも言っただろう。膨大な「痛み」を受けて、何らかの反応を起こしてもおかしくはないよ。今のフェリスの特性は前例の無いモノだからな。傷を受けず、痛みだけを感じ続けた者の末路なんて聞いた事もない』
「おおうふ……」
ブルリと身を震わす。
何故だか、エルシアと話しているだけで安心感が芽生える。今もすぐ近くには、人の命を脅かす敵がいて、ついさっき殺されかけたばかりなのに、軽口を叩き会えるような余裕もできた。
「エルシア様々だな」
『ん? 何か言ったか、フェリス?』
「いや、何でもないよ。ありがとな」
苦笑を浮かべるオルフェリスの前方で、遂に黒拳獣が走り出した。その瞳には狂気の光が爛々と輝いている。
「さて。冒険者逹が来るまでの間、何とかして生き延びようか」
『だがフェリス、「自称」凡人のお主にそんな芸当ができるのか?』
「出来る出来ないの問題じゃない。やらなきゃいけないんだ。ここで俺が逃げ出せば、町にも被害が出ると思う。それだけは避けたい」
『……お主は立派な勇者だよ』
「違うさ」
生え直した右手の拳を握り締めたオルフェリスが走り出す。
「切り傷程度しか治せない、ただの底辺治癒術師だよ」