第1話 降臨 God_and_Extremer
大体全改訂版です。
小さな町から少し離れたところに小さな草原があった。
一見何もない、ただの草原である。脛の辺りまで伸びる草本に、ゴツゴツとした大きな岩、隣接する森。一回転して辺りを見渡してもこれくらいしか目に付くもののない、何の変哲もない場所だ。
ただし、ちょっとした特異点も持っている。
安全地帯。ここは、その性質上『魔物』が決して近づいてこない様に出来ている草原なのだ。厳密に言えばそう出来ているのは草原ではなく、この周囲に生息する魔物の方にそういった特性やら習性がある訳なのだが、そんなのはどちらでもいいだろう。
雲一つない晴天。太陽が自己主張激しく直射日光を送ってくる昼間刻。風が冷たいのであまり気にならないが、これで無風だったら暑くて非常にげんなりしていただろう。
十六歳の少年、オルフェリス=ウォーカーは、そんな草原へと続く整えられた道を歩いていた。
「今日も天気良いなあ」
目元に注ぐ日光を手刀で遮りながらオルフェリスは呟く。
彼の腰には使い古されたひと振りの木剣が吊るされている。
草原に向かうオルフェリスの目的は、五年間続けて習慣となっている素振り。
とある宿に居候させてもらっている身である彼が、女将の手伝いやら何やらで七割方埋まっているスケジュールの合間に欠かさず行っている修練の一つだ。
……残念ながらその成果はあまり芳しくない。
宿の手伝いの所為で十分な時間が取れない――彼自身了承済みである――というのも原因の一つかもしれないが、オルフェリスはなにより『才能』が無かった。
父に初めて稽古をつけてもらってからずっと続けている剣術だが、惰性が無いとはオルフェリスも言い切れない。
ただし、彼がやりたいからやっているという側面もある以上、無意味だとは言えない習慣だった。
(なにはともあれ、いくらなんでも昼飯直後に運動って言うのもなぁ。この時間帯しか禄に出来ないから仕方ないっちゃないけど)
時刻はお昼時。ここからは二時間程やる事が無くなるので、剣の修練には丁度いいのだ。……あくまで丁度良いのは時間的な話だけで、お腹の調子的にはあまり良くはない。
やがて目的地の草原へと辿り着いた彼は、二つの人影を発見した。
「ん?」
藍色の髪を持つ二人の少女だった。
こちらに背を向けているため顔は見えないが、二人はそれぞれ髪型が違っていた。片方がポニーテールで、もう片方がツインテール。歳は十代前半と言った所だろう、まだ幼い。
彼女等は、大きな石の上に腰をかけて談笑していた。
(あの二人は……ロエルちゃんとノエルちゃん?)
ロエル=シーリウスと、ノエル=シーリウス。
オルフェリスと同じリンシアの町に住む一見普通の幼い双子の少女逹。
しかし、他の住人とは決定的に違った『普通』では無い点を持っている。
先天的な魔術の力。
彼女等も、生まれながらにその身体に特殊な異能の力を宿した魔術師だった。
(……も、か)
彼はそんな二人の少女の後ろ姿を見ながらポツリと溢した。
リンシアの町で先天的な魔術の力に恵まれたのはロエルとノエルの二人だけではない。
オルフェリス=ウォーカー。この少年もまた、生まれつきその身に『治癒』の力を宿した『普通』ではない点を持つ一人だった。
――治癒と言っても、ちょっとした切り傷を治すくらいしか出来ない低効力な力だが。
「……?」
「……こ、こんにちわ。ロエルちゃん、ノエルちゃん」
こちらの存在に気がついて振り向いた二人に、オルフェリスが軽く手を挙げて声を掛けた。
「あ、こんにちわ。えーと……オル、オルセリスさん?」
「惜しい、オルフェリスだ」
「ごめんなさい、間違えました」
苦笑しながら頭を掻くロエル見て、内心でオルフェリスは少し驚いていた。
(俺が一方的に知っているつもりだったんだけど……?)
オルフェリスは二人の『先天魔術』が開花したという話を聞いて知っていたのだが、まさか相手まで自分のことを聞き及んでいるとは思っていなかった。少なくとも、面と向かって会い、話すのは初めてである。
しかし、二人が何となくオルフェリスの事を知っているのも何らおかしくはなかった。
今は亡き両親の功績。
オルフェリス自身による町での働き。
彼は知らないが、主にこの二つによって『オルフェリス=ウォーカー』という名前はそれなりに通っていた。
「……まあいいか。俺いつもここで剣の素振りをしてるんだ。これから始めるつもりなんだけど、危ないから出来れば二人共近寄らないようにしてくれるか?」
「分かりました、お兄さん!」
「分かった」
ロエルとノエルがそれぞれに可愛らしく頷くのを確認して無意識下に頬を緩めると、オルフェリスは木剣で肩をトントンと叩きながらなるべく離れた位置まで移動した。
「さて、と。今日はどれくらい振れるかねぇ」
元一流の剣士だった父に教えられた通り、軽くストレッチをしてから素振りを開始する。
その直後だった。
「……ッ!?」
肌に突き刺さる様なチクリとした感覚を覚えて息を呑んだ。
文字通り大気が揺れ、何かが一点から溢れ出していくのを感じ取る。
背筋が凍り、全身にぶわっと鳥肌が浮かび上がった。
本能が、明らかに有害なモノを察知する。
全ての感覚から状況を的確に読み取ったオルフェリスは、額に汗を浮かべて言葉を漏らした。
「魔道が、乱れた――っ!?」
空気中には魔力が存在し、それに障られた動物は魔物と成る。これはこの世界の誰もが知る一般的な知識である。
ただし、空気中に存在するのは魔力だけではない。
魔障気。
主に人間が魔術を行使する際に極少量生み出される物質だ。そしてその性質は魔力と全くの正反対。
魔力を正とするなら、魔障気は負。
ゼロから一〇〇までが『有害』で出来た存在だ。
魔道とは、その魔障気が通る空気中にある『道』の事を指す。
「嘘だろ、こんな時に……」
魔障気が通る道である魔道が乱れた。それはつまり、上手く循環していた魔障気の流れに支障が来されると言う事。
結果、魔障気が魔道を外れて空気中に漏洩される。
「まずいっ!!」
おそらく、この場にいる他の二人も魔導の乱れを感じ取っているだろう。
ギリッ! と強く歯を噛み締めたオルフェリスが、魔道が乱れた背後――ロエルとノエルが談笑していた方向へと振り返った。
そして、見る。
限りなく黒に近い紫色の物質が空気中に拡散されていた、と思えば、次の瞬間に一点に集まり凝縮し、丸い形を象った。変化はそれだけで終わらない。その紫色の球体は、内側から叩き広げられたかの様に変形し、徐々に人型になっていった。
最終的に出来上がったのは、オルフェリスの二倍ほどの巨体を誇る黒い巨人だった。
『巨人・黒拳獣』。
魔障気の集合体。
人間の敵。
「魔獣……ッ!」
本能の赴くままに人間を攻撃する殺人動物。どういう仕組みで魔障気が生命体に変化しているのかは未だ不明だが、ゼロから一〇〇までが『有害』で出来た物質によって生まれるソレは――
災害そのものだ。
「ちょっ、と……待てよオイ!」
黒拳獣の爛々と輝く眼が、竦んで動けないロエルとノエルを見据えているのに気が付いたオルフェリスは、無意識に声を上げていた。
このままでは間も無くロエルとノエルは叩き潰される。
そうされて二人が生き残るビジョンは到底見えない。
状況は最悪。
彼女達は目尻に涙を浮かべて震えていた。
「クソッたれが……ッ!」
目の前に突きつけられた現実を恨みながら呻いた彼は、次の瞬間に走り出していた。握っていた木刀を逆手に持ち帰る。
恐怖心よりも、二人を助けなければいけないという気持ちが優っていた。
黒拳獣の視界には、ロエルとノエルしか入っていない。
太く長い黒い腕をゆっくりと持ち上げる。それを、殺人衝動に身を任せて振り下ろした。
そして――
「うォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
惨劇は訪れなかった。
空を切り、唸りを上げて、黒拳獣の腕は叩きつけられた。
轟! と爆音と衝撃が炸裂し、大地が砕ける。
動けないロエルとノエルを咄嗟に抱きかかえ、前方に跳んで殴撃を回避していたオルフェリスは、風圧に押されて地面に身体を打ち付けながらも、二人の安全を確認してすぐ立ち上がる。
背中を押す。
「二人は今すぐ町に戻って雇われの冒険者を呼んできてくれ! それまで俺が何とか黒拳獣を引き付ける!!」
「で、でも、お兄さんは!?」
「大丈夫」
二人を安心させるために、力強く頷く。
「俺が君たちの背中を守る。だから早く!」
黒拳獣は、オルフェリスの姿を見て苛立たしそうに喉を震わせる。新たな獲物が現れたことに対する喜びよりも、邪魔をされたことへの怒りの方が優っていた。
ロエルとノエルの二人は、オルフェリスの必死の剣幕を見て息を呑み、走り出す。
途中、ポニーテールを揺らすロエルが顔だけで振り向いて叫んだ。
「お兄さん、絶対に死なないで!」
「……ああ!」
ゆっくりとした動きで向き直る黒拳獣を見据えながら、オルフェリスは笑ってそう返した。
二人の背中が遠ざかる。
それを視線だけで確認したオルフェリスは、表情から余裕を無くして舌打ちした。
「と言ったはいいが……全く、参った」
武器は実践ではあまりにも頼りない古びた木剣と、その身一つ。
切り傷を治せる程度の治癒の力じゃ役に立たない。
ロエル逹が冒険者をここまで呼んでくれるのにも時間は掛かるだろう。
「ザッと確認しても状況最悪じゃねえか」
冷や汗を浮かべ、吐き捨てる様にそう言った。
黒拳獣はそんなオルフェリスの都合にも構わず、動き出す。
衝撃。
大気を揺るがす咆哮が鼓膜を叩いたと思えば、次の瞬間には地面が大きく振動していた。
黒い巨人がたったの三歩で目の前まで接近し、視界が真っ黒に染まる。
「――ッ!?」
黒拳獣の丸太の様な腕が振り上げられていた。
それは、躊躇なく叩き落とされる。
本能が危険を確認した瞬間、オルフェリスは無意識に――反射的に真横へと跳んでいた。
ゴバッ!! と轟音が生じ、大地が砕かれ衝撃波が発生する。四方八方へと飛来する地面の破片がオルフェリスの脇腹に直撃し、風に煽られ吹き飛んだ。
「がァッ!?」
背中から地面に落ちた彼は苦悶の表情で呻いた。空気を絞り出されキリキリと痛む肺に、酸素を求めて必死に喘ぐ。
黒拳獣は止まらない。
眼だけで喘ぐ小動物を追った黒い巨人は、すぐさま身体の向きを変えて吹き飛んだオルフェリスに向かって歩き出す。
「かはっ、がばげぼ!? ちょ、待――ッ!!??」
いつまでも倒れていられない。
迫り来る『死』に恐怖を覚えた彼は、おぼついた様子で立ち上がり背を向けて走り出す。
――逃げきれるはずがない。
黒拳獣は、一歩でオルフェリスのおよそ三歩分の距離を進む。
案の定一瞬で間合いを詰められた彼は、黒拳獣の一挙一動を見逃さぬように目を見開いた。
霞む視界が捉えたのは、振り上げられる黒い腕。
「お、おおおァァァあああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
迫り来る死への恐怖を振り払うために絶叫したオルフェリスが、横に跳んで体を捻り、態勢を低く構えた。続けて木剣を逆手持ちに握っていた右腕を左手で抑え、振り抜かれた黒拳獣の腕の側面に突き立てる。
バギィッッッ!!! と。
音を立て、使い古しの木剣はまるで小枝の様に容易く折れ、凄まじい衝撃が両腕を襲った。
それが『痛み』だと認識するまでに、一瞬の間が空く。
「痛ァっ!?」
腕が折れてどこかにいってしまったのではないかと思わせるような鈍い激痛に顔をしかめる。視線を向けてみれば、右肘から先がおかしな方向へと折れ曲がっていた。更に手首は真横に倒れ、肉が裂けた所から白いモノが見えた。そこから血が溢れていく。
理解しがたかった。
理解したくなかった。
普通にしていれば絶対になりえない右腕の惨劇に頭が真っ白になる。
自分の腕の二つの関節が、それぞれおかしな方向に折れ曲がっているという現実味のない状況を見て、オルフェリスの脳は刹那、『痛み』と言う感覚を途絶させた。
「……んだよ、これ?」
呆けた表情で声を漏らす。黒拳獣の存在すらも一瞬忘れ立ち尽くした彼は、さらなる追撃を受ける。
空振りした拳を手刀に変えた黒拳獣が、それを振るった。黒い残像を残して速く鋭く振るわれた手刀は、折れ曲がった右腕がつながる肩に下段から斬りかかる。
男にしては細い、オルフェリスの肩から先が宙を舞った。
「――あ?」
気が付いた時には、オルフェリスの身体も同様に吹き飛んでいた。
凄まじい衝撃に身体は宙に浮き、まるでゴムボールの様にバウンドする。
絶叫が草原に響き渡った。
断ち切られた右腕が空中で旋回し、やがて力なく地に落ちる。既に身体から離れた右腕の断面、そして腕の宿主である少年の肩にはプツプツと赤い液体が弾け、勢いよく噴出した。
身体の右側から発生する激痛は『熱』となり、それはオルフェリスの身体を焼き焦がすような勢いで全身に駆け巡る。
倒れた彼の周りには既に大きな赤い沼が出来ていた。下敷きになった雑草も赤く染まっている。
「嘘、だろ……?」
掠れた声でそういうオルフェリスの視線は、真っ直ぐに自信の右腕――否、今はもうただの肉塊でしかないモノに向けられていた。
下手をすれば意識を失ってしまいそうな激痛に、唇を噛んで対抗する。
流れ出ていく血が気持ち悪い。身体から力が抜けていくこの感覚は、出血に伴うものだろう。このまま倒れていれば、出血多量で絶命するのは免れない。
無意識下で痙攣する身体を無理やりに動かそうと試みる。しかし、残った左腕は役に立たず、明滅する意識と歪む視界が右腕の傷口を抑える事を許さなかった。
――これはマジでヤバイかも……。
身体を焼き尽くすような熱は未だに消えない。いや、おそらくこのまま死ぬまで終わらない。目を閉じてしまえば、次に瞼を持ち上げる力なんてもう無いと確信した彼は、必死に目を見開いて黒拳獣を睨みつけた。
黒い巨人は無様に倒れるオルフェリスを見て、もう彼は逃げる事ができないと悟ったのだろう。ニヤリと笑った黒拳獣は、今までよりもゆっくりとした動作で歩き出す。
「クソッたれが……」
キンとした耳鳴りが耳鳴りが脳を劈く。
朦朧とする意識は、もう終わりだと彼に伝えていた。
黒拳獣はオルフェリスにトドメを刺した後、きっとすぐにでも新たな獲物を探して町に向かって動き出す。
「ロ、エル、ノエル……」
後はもう、あの双子が町に雇われた冒険者や魔術師の人を呼んでくれて、この魔獣を倒してくれる事を祈るしかない。
――俺は、死ぬだろうけど……。
地面が冷たい。身体も冷たい。出血量が凄まじい所為か、身体が異様に軽く感じる。今なら冗談抜きで風に吹かれただけで宙を舞ってしまいそうなくらいに。
せめて平凡な自分は、柔らかなベッドの上で、平凡なりに人生を全うした満足感を得て、痛みを感じずに安楽死――と言うのが理想だったのだが、もうそれも叶わないだろう。
でも。
――最後に二人を助けられて、良かった……。
胸いっぱいの満足感を感じ、迫る死に抗わず身を委ねようと目を閉じかけた、その時だった。
光が天空から降り注いだ。
金色の粒子を撒き散らし、黒拳獣からオルフェリスを守る様に。
見ているだけで痛みを忘れ、心地の良い癒しの感覚に包まれるような、そんな光。
そしてオルフェリス=ウォーカーの耳に、澄んだ美しい声が届いた。
「やっと……」
少女のものに聞こえるその声からは、大きな安堵の色を感じ取れた。
降り注いだ一本の光はやがて全方向に拡散していき、巨大な丸型になったそれは唐突に弾ける。
光の中から現れたのは、神が手掛けた芸術品か何かなのではないかと錯覚させる様な、神秘的な美しい少女だった。輝く銀髪に金色の瞳、見た目は幼く十四から十五歳程のモノだが、妙な威厳を感じる。
そして、その少女は小さく整った唇を動かし、言葉を紡いだ。
「我は治癒神エルシア。オルフェリス=ウォーカー、お主を助けに来た」
未来が、変わった。