宝石にならない言葉
その町では、冬の朝になると、人々の言葉が「きらきら」に変わります。
「おはよう」と言えば、金色の粉が舞い、「寒いね」と呟けば、銀色の小さな結晶がチリンと音を立てて地面に落ちるのです。だからこの町の人たちは、朝起きるとまず、箒を持って玄関を掃かなければなりません。
けれど、トトの家の前だけは、いつも真っ黒でした。
トトは言葉を持たない少年でした。嬉しい時も、悲しい時も、喉の奥がきゅっと締まって、音が出てこないのです。みんなが「きらきら」を吐き出しながら笑い合っているのを、トトはいつも窓の隙間から見ていました。
「僕の中にも、きらきらはあるのかなあ」
トトは心の中でそう呟きます。でも、声にならなかった言葉は、重たい泥のようになって、トトのお腹の底へ底へと沈んでいくばかりでした。
ある日、町に「買えないものはない」と豪語する、不思議な旅の商人がやってきました。商人の馬車には、見たこともないほど眩しい「きらきら」が山積みにされています。
「さあさあ、寄ってらっしゃい。喜びの金色、愛のピンク色、勇気の赤色。あんたに足りない『きらきら』はどれだい?」
トトはおそるおそる、その馬車に近づいていきました。トトが欲しかったのは、派手な宝石ではありません。たった一粒でいい、自分の中から出てくる光が見てみたかったのです。
商人は、大きな眼鏡の奥からトトをじろりと見下ろしました。
「おや、坊主。お前さんからは何も聞こえないねえ。財布が空っぽなら、せめて景気のいいお世辞の一つでも言ってみな。そうすりゃ、その口からこぼれた『きらきら』を拾って、代金にしてやってもいい」
トトは首を横に振りました。口を開けて見せますが、そこには暗い闇があるだけです。
商人はふん、と鼻を鳴らしました。
「なんだ、『石なし』か。言葉を持たない人間なんて、この町じゃ影と同じだ。価値がない」
商人の冷たい言葉は、トゲトゲした鉄くずとなって地面に落ちました。カラン、と寂しい音がします。トトがうつむいて立ち去ろうとしたその時、商人がニヤリと笑って呼び止めました。
「待ちな。……可哀想な『石なし』に、いいものをやろう」
商人が差し出したのは、虹色に光る飴玉のような一粒でした。
「こいつは『仮初の言葉』だ。これを舐めれば、誰でも美しい言葉がスラスラ出てくる。詩人のような愛の囁きも、王様のような立派な挨拶も思いのままだ」
周りの大人たちが「おお!」とどよめきました。
トトはその飴玉を受け取りました。これがあれば、僕もみんなと同じになれるの? お腹の底の泥を、全部きらきらに変えられるの?
トトは震える手で、その飴玉を口に含みました。
するとどうでしょう。トトの意思とは関係なく、勝手に唇が動いたのです。
「世界は素晴らしい! あなたは美しい!」
トトの口から、見たこともないほど大きなダイヤモンドのような結晶が飛び出しました。町の人々は歓声を上げ、先を争ってそれを拾おうとします。
けれど、トトの心は冷え切っていました。
(違う。これは僕の言葉じゃない)
口から出る宝石は眩しいのに、胸の奥の泥は少しも減らず、むしろ冷たく固くなっていく気がしました。
トトはたまらなくなって、口の中の飴玉を地面に吐き捨てました。
「あっ、もったいない!」と叫ぶ大人たちを背に、トトは逃げ出しました。嘘のきらきらなんていらない。僕が探しているのは、こんなものじゃないんだ。
息を切らして家に帰りついたトトを待っていたのは、激しい咳の音でした。
「ゲホッ、ゲホッ……」
ベッドの上で、お母さんが苦しそうに胸を押さえています。その枕元には、苦痛の言葉が変わった黒い石が、いくつも転がっていました。
「ごめんね、トト。何もしてあげられなくて、ごめんね」
お母さんが泣くたびに、ガラガラと崩れるような音がして、灰色の砂が積もっていきます。その砂は冷たく、トトの足元を凍らせていきました。
(違うよ、お母さん)
トトは心の中で叫びました。僕は不幸じゃない。お母さんが手を握ってくれるだけで、温かいスープを作ってくれるだけで、僕は十分だったんだ。
伝えなきゃいけない。綺麗な宝石なんかにならなくていい。ただ、この冷たい砂を止めなければ。
トトは、お母さんの痩せた手を両手で包み込みました。
喉の奥にある、ずっと開かなかった重たい扉を、渾身の力で叩きます。
息を吸うと、肺が焼きつくように熱くなりました。お腹の底の泥が、ぐつぐつと煮えたぎります。
「……だい、じょう、ぶ」
カチリ、と音がして、扉が開きました。
その瞬間です。
トトの唇から溢れ出したのは、ダイヤモンドでも、ルビーでもありませんでした。
それは、液体のような、気体のような、とろりとした金色の光でした。
光は床に落ちることなく、ふわリと宙に浮くと、暗い部屋の隅々までを一瞬で照らし出しました。それはまるで、小さな太陽が生まれたようでした。
「……あ」
お母さんが目を見開きます。
光に触れた黒い石たちは、朝露が消えるようにシュワシュワと溶けていきました。冷たかった部屋に、ポカポカとした春のような温もりが満ちていきます。
それは商人が決して売ることのできない、そして誰も奪うことのできない、命の輝きそのものでした。
やがて光が優しく部屋に溶け込むと、お母さんの顔には血の気が戻り、穏やかな寝息を立て始めました。
トトは、自分の胸に手を当てました。
お腹の底に溜まっていた重たい泥は、もうどこにもありません。代わりにそこには、ぽっと灯った温かいランプのような何かが、静かに息づいていました。
次の日の朝、商人は町を出て行きました。トトの家の窓から漏れる不思議な光を見て、「あんなものは箱に詰められないから商売あがったりだ」と文句を言いながら。
トトの家の前は、相変わらず「きらきら」は落ちていません。
けれど、トトが「おはよう」と口の形だけで笑いかけると、誰もが足を止めて、ふんわりと温かい気持ちになるのでした。
それはどんな宝石よりも素敵な、トトだけの「きらきら」でした。




