予言証
ポカポカ陽気。男子校生はいつもの、大きな工場の前を歩く。下校中だ。
道路向かいには何軒かのアパートが立ち並んでいる。アパートの横に停めた車から、イカした野球帽の男が降りた。男子高生は野球帽に目を奪われ、その澱んだ眼を見逃した。野球帽の男は階段を上り、二階の一室へと消えていった。「こんな昼間からどこへ行ってきたんだろう」男子高生は考えた。休日というのは土日以外になく、大人は皆、昼間は働きに出ているはずなのに。野球帽の男がとても謎めいた人物に思えた。
男子高生は橋までやって来た。ここからはサクラの木が名物の公園が見渡せる。ちょうど満開であり、花見用の提灯がズラリと並んでいる。橋の手すりにカードのようなものが置いてあった。手に取る、それは運転免許証だった。
---第一発見者は、公園の駐車場で黒皮の財布を拾った。商品の配送中、公園のトイレへ寄ったのだ。車から降りると足元に落ちていた。中身は千円紙幣が三枚と小銭ばかり。こんなものを失敬して、万が一、横領の罪なぞに問われなどしたらたまったものではない。だからといって交番に届けるのも面倒である。三〇分、下手をすると一時間は時間を取られるだろう。まだまだ取引先を回らなければならないのだ。財布には車の運転免許証も入ってた。持ち主は隣の県の男性。生年月日から十歳年下だと分かる。「おやおや、若いのに」思わず呟いた。持ち主はさぞかし困っている事だろう。そうだ、と次の取引先である、近くのショッピングセンターへ向かった。
商品の配送を済ませ、宝くじ売り場の隣にある、郵便ポストの中に黒皮の財布を放り込んだ。「これで自分が横領の罪に問われることはない」胸を撫でおろした。恐らく、ポストを開けに来た郵便局員が交番に届けてくれるだろう。警察が持ち主に輸送してくれるかもしれない、中には運転免許証だって入っているのだから。善行をした気にさえなって、次の取引先へ向かった。
財布の持ち主は、狼狽した。翌日になって黒皮の財布が無い事に気づき、交番に遺失物届をした。実に三〇分以上の時間の浪費だ。「転勤した途端これだ、だから花見なぞしたくなかったんだ」交番を出て悪態をついた。これから免許証の再交付にもいかなければならない。せっかくの休みが台無しである。
黒皮の財布は記念品だった。財布の持ち主は何年か前から大切なものを次々と失っていった。追い立てられるかのようにこの田舎町に転勤させられたわけだ。唯一残った大切な財布を失くすのも、必然だったといえる。まだ希望はある。中には免許証が入っているのだ。誰かが交番に届けさえしてくれれば戻ってくるはず。財布の持ち主にはクセがあった。苦境に立たされたとき笑みを浮かべる、というもの。それは予行演習である。万が一再会できた時に、一番いい表情で大切なヒトを迎えるための。恐らくその時はやってこない。しかし、笑みを浮かべると救われた気になるのだった。
笑みを浮かべた後は、いつもの澱んだ眼に戻っていた。
第二発見者は、郵便ポストを開けた後、なるべく普段通りにふるまい赤い車に戻った。
財布が入っている!中に入っていたのは現金が三七七二円。これだけあれば十分。ボクはついている!早速宝くじ売り場で買えるだけ買う。「あーら、いつもありがとう」売り子のオバサンがアクリル板の向こうからマイク音声で声をかけた。「今日こそ当てるよ、ボクは」第二発見者が得意げに言い放つと、オバサンは笑みを浮かべた。
さて、もう黒革の財布に用は無い。クレジットカードやら何やらには手を付けないほうがいい。足がつくからね。第二発見者は赤い車の窓を開け、道路沿いのドブ川に黒皮の財布を放り込んだ。バシャン!派手な音がする。通りかかった老人が不審に思ったが、ドブ川を覗き込もうともしなかった。
黒皮の財布はドブ川の底に沈んだ。浮力で免許証だけが水面に上がってきた。免許証の表面がキラキラと陽の光を反射する。それに反応したカラスが水面から啄み、拾い上げ、飛び去った。しばらく飛ぶと一陣の風が吹いた。免許証はカラスの嘴から零れ落ち、ヒラヒラ宙を舞い、川にかかる橋の手すりに着地した。
財布の持ち主は、免許証の再交付を終え、明るいうちにアパートの駐車場に着いた。二階の部屋に戻りイカした野球帽を脱ぐ。手を洗い、顔を洗う。手洗い場の鏡を覗き込む。眉間の皺が日に日に深くなっている。リビングの窓を開けると、眼下の橋を、男子高生が渡っていくのが見えた。「オレだって男子高生だった、それが、あっという間に顔中皺だらけ」独り言ちた。あの頃何を考えていただろう、思い出そうとしてすぐ辞めた。どうせロクな思い出はない。
---男子高校生は免許証をマジマジと見た。自分より二〇歳上で、隣の県に住んでいて、裸眼で、澱んだ眼をしていた。何処かで見た気もする。・・・二〇一号室、裏には転居先の住所も書いてあるが、まだ気づかない。今に至るまで誰も。証明写真の男は何か、謎を投げかけているようにみえる。
男子高生は運転免許証を取っておくことにした。大人になれば分かるかもしれない。あと一〇年か二〇年後かに。その年月が、彼には途方もない未来のように思えた。