バーニャカウダ
「今日は暖かいから、森でピクニックしようよ」
キキがノエルの周りを飛び回りながら誘う。
「そうしようか」
と言いつつ、ノエルはあまり気乗りしない様子だった。
「どうした? 何だか元気がないな」
ニコラから貰ったアンチョビをお裾分けしに来たゴードンが、心配そうにノエルの顔を覗き込む。
「ちょっとね。でも大丈夫だよ」
ノエルは安心させるように微笑んだ。
キキはそんな二人のやり取りにはお構いなしで、張り切って材料を探し始める。
「ニンニクはあるわね。アンチョビも手に入ったことだし、バーニャカウダソースを作ろう! ノエル、このお鍋に牛乳を搾ってきて」
ノエルは小さな片手鍋を受け取ると、牛の乳を搾りに行った。
「ゴードンはアンチョビを細かくしておいて」
キキが魔法でナイフを投げつける。
ゴードンの顔の真横を飛んできたナイフは、壁に突き刺さって止まった。
「危ないな! 刃物は手渡しするもんだって、ガキでも知ってるぞ!」
ゴードンはナイフを抜き取りながら怒鳴りつける。
ノエルが戻ってくると、牛乳の入った小鍋に皮を剥いたニンニクを入れた。
「牛乳が半分くらいになるまで煮込むのよ。その間に、バゲットを食べやすい大きさに切っておいてね」
キキはノエルにバゲットを押し付けると、自分は休憩をしに行ってしまった。
「ノエル、キキに付き合って無理することないんだぞ」
ゴードンの声かけに、ノエルは黙って微笑んだ。
しばらくして戻ってきたキキは、フォークで鍋の中のニンニクを潰しながら指示を出した。
「刻んだアンチョビを全部と小麦粉をふたつまみ、それからオリーブオイルとチーズも少し入れてちょうだい」
キキの言う通りに、ゴードンは次々と材料を鍋の中へ入れてかき混ぜる。
「とろみがついたらバーニャカウダソースの出来上がり! さあ、早く森の中へ行って食べようよ」
ノエル達は、ラディッシュ、パプリカ、トマトにキュウリなどの生野菜を軽く水洗いして、バーニャカウダソースやバゲットと一緒にバスケットに詰め、精霊の森の中へ出かけた。
春の植物が育っている辺りは、暖かな陽気で気持ちのいい風が吹いている。
木の切り株に腰掛けて、それぞれ好きな野菜を手に持つとバーニャカウダソースを付けて齧りついた。
ガツンとしたニンニクの香りが鼻を抜け、強い塩気が舌を刺激する。それを瑞々しい野菜の清涼感が洗い流していく。
「野菜ってこんなに美味しかったんだな」
ゴードンはしみじみとした口調で言った。そして、ふと顔を上げるとギョッとしたように目を見張る。
「おい……ノエルの体、透けてないか?」
キキがそちらに目をやると、ノエルの姿は透き通ってぼんやりとした輪郭だけになり、向こう側の景色が見えていた。
「ちょっと体調が悪いからかな」
ノエルが乾いた声を出す。
「いやいや、おかしいだろ! 具合が悪くて体が透けちゃうって、どんな体質だよ!」
ゴードンが青ざめながら叫ぶ。
「先に戻っているね」
ノエルはそう言うと、逃げるように走り去っていく。
ゴードンは少しの間ポカンと口を開けていたが、ハッと我に返ってキキを急きたて、帰り支度を始めた。
「早く片付けろよ! 後を追わなくちゃ」
キキは素知らぬ顔で食べ続けている。
「行きたきゃ一人で行きなさいよ。私、まだ食べてるんだから」
「お前、ノエルのことが心配じゃないのかよ?!」
「心配したってしょうがないじゃない。体が透けちゃうなんて、普通じゃないもの。たぶん、ノエルは人間じゃないよ」
「人間じゃなきゃ、何だって言うんだよ?!」
「知らないわよ。本人に聞けば?」
ゴードンはキキを連れて帰るのは諦め、荷物もそのままにしてノエルの後を追いかけた。
途中で捕まえることが出来ずに、ゴードンは結局ノエルの小屋まで戻ってきた。扉を開けて中に入ると、ノエルが椅子に座って項垂れている。さっきよりは幾分はっきりとした姿になっているが、やはりまだ少し透き通って見えた。
「ノエル……お前、幽霊なのか?」
ゴードンがおそるおそる尋ねると、ノエルは少し笑った。
「違うよ、幽霊じゃない。僕は悪魔なんだ」
ノエルの告白があまりにも予想外だったので、ゴードンは何も言えずに立ち尽くしてしまった。
「最近、人の悪意に触れていなかったから力が弱まっていたみたいだ。そんな時に精霊の森に入ったから、危うく消滅しそうになっちゃったよ」
ノエルが弱々しく微笑む。
「何言ってるんだよ……お前みたいに優しい奴が悪魔なわけないだろう? どっちかって言ったら、キキの方が悪魔みたいじゃないか」
ゴードンは半信半疑の様子だ。
「僕は出来損ないだからね。今までに人間の魂を奪えたことなんか一度もない。だから、悪魔の世界には居場所がなくて逃げ出してきたんだ。それからずっと人間の世界を彷徨っている」
ノエルは穏やかに語り続けた。
「今まで黙っていてごめんね、ゴードン。ここは居心地がよくて……このまま幸せに暮らせるんじゃないかって、叶うはずのない夢を見ちゃったんだ」
そこまで話すと、ノエルは立ち上がって扉の方へ向かい、小屋から出て行こうとする。
ゴードンが動けずにいると、扉の隙間からキキが飛び込んできた。
「ちょっと、何やってんのよ! 出て行くノエルを止めようともしないで、あんた本当に友達なの?!」
二人を前にして、キキが捲し立てる。
「話は聞いてたわよ。でもさ、だから何? 私はノエルが何者でも構わない。だって、ノエルは私の大切な友達だもん」
それからキキはゴードンに詰め寄った。
「あんたはどうなのよ!」
ゴードンは、しどろもどろになりながらも言葉を紡ぐ。
「俺だって……ノエルが人間じゃなくても、友達だって思っているよ」
「……悪魔が怖くないの?」
ノエルがゴードンに尋ねる。
「怖いよ! 怖いに決まってるだろ!! だけど、それ以上にノエルのことは大切で、いなくなって欲しくないって思うんだよ!!!」
ゴードンは大声で言うと、その場にへたりこんだ。
「それじゃ、ここでピクニックの続きをするわよ!」
キキは魔法でバスケットを小屋に運び入れ、中身を取り出してテーブルに並べた。
「たまには町の酒場にでも行って、人間の悪意を吸収してきなさいよ」
野菜をかじりながらキキが言うと、ゴードンは不思議そうな顔をしてノエルに尋ねた。
「なあ、性格も口も悪いキキからは、悪意のエネルギーを吸収出来ないのか?」
「出来ないよ。だって、キキからは悪意のかけらも感じられないもの」
ノエルが笑顔で否定する。
「キキは悪気なくあんな言動をしているのかよ……それはそれでタチが悪いな」
ゴードンは渋い顔をしたが、ノエルとキキが楽しそうに食事をする姿を見て、すぐに口元を緩めた。
そして、悪魔と妖精と人間とで囲んでいるこのテーブルを、世界でいちばん幸福な食卓であるかのように感じていた。




