処刑人の愛
一、
或る国では、人を殺めたものには、その殺めた方法と同じ方法で死刑を執行するというふしぎな風習をいまだにつづけていた。だからたとえば夫を刺し殺した悲劇の妻は処刑人の短剣で一突きであったし、貧苦にあえいで父を絞め殺した若い娘は絞首刑となった。そうして何百も何千も、人々がむごたらしく死んでいった。しかし今となってはもういつの、誰が元首のときの法務大臣がそれを決めたのかなど誰も知らないから、特に議論の俎上にのぼることもなかった。
或る処刑人の男は、この日も朝早く刑場に姿を見せると、いやに晴れた眼下の街を見廻した。そうして寂寥の感に苛まれた。今日は男がこの国で処刑人となって、ちょうど四十年である。だから今日はこの年老いた処刑人の退官の日であった。この国で最も嫌われた「処刑人」という役を、この男が四十年もつづけたということは、まさに奇跡に近いといえよう。なぜならこの男のほかに、これだけこの仕事に拘りつづけたものは、一人の親しき老処刑人を除いていなかったからだ。そういった意味ではこの男は、自分が処刑人であるということに矜りをもっていたといえるかもしれない。
「最後の日に絞首刑じゃあ、あまりにもさみしすぎるな」
「そのくらいがいいさ。派手よりは手短なほうがいい」
と、男は同じく今日の日に退官を迎えるさきの老処刑人と言葉を交わした。
そのころ時間は十時をまわっていた。いつもならば、そろそろ馭者やら刑吏やらが、囚人を連れてどかどかと刑場に押し寄せる頃合である。しかし、今日の刑場の前の大路は閑としたままである。
「ばかに静かだな」
「これは恐れていたことかもしれないぞ」
昼になるまで、刑場は男達の終わりの日にふさわしくない静けさであった。
二、
正午をすこし過ぎたころになって、ようやく向うから大ぜいの者がどかどかと、喧しく押し寄せてくるのが聞えた。馭者や刑吏が何十人と、刑場に向ってくるのが確かに見えた。
「来た、来た。あれは大ごとをやっていそうな者だ」
老処刑人は亢奮した様子で、少しいきり立っていた。
そして彼等は一目散、刑場を出て、馭者や刑吏をかきわけて、はじめて囚人の顔を見た。しかしそのとき、男は囚人の顔を見るやいなや言葉も出なくなってしまった。
今日の日に処刑人の男が処刑するのは、男の愛する妻その人であった。はじめて男と目があったときでも、妻の顔は毅然としているように思われた。
以下は刑吏の残した調書によるものである。
女(処刑人の妻)は、夫(処刑人)と、七十七になるその父と暮していた。処刑人の夫に代わって病身の義父を女は懸命に看病していた。義父は時には妻に非道い言葉を浴びせることもあったけれども、愛情をもっていた。
しかしある日、果のない義父の看病に疲れた女は、夫が仕事で宅へ戻れない日がつづくことをよいことに、この機に義父を殺そうと思い立った。
そうして一昨々日のこと、女は宅にあった夫の短剣で、床に就いたばかりの義父の胸と喉を一突きした。そのときは亢奮しきっていたけれども、小一時間経って自分が突如こわくなり、警吏に自白した。
老処刑人は、男に何も言葉をかけないことこそがやさしさであると思った。しかし、刑場へ引き出されたときの妻がそうであったように―夫である男もまた、その顔は心做しか曇りがなかった。
十三時、ようやく刑吏から男の手に短剣が渡された。刑場を包む空の色より鈍い、青銅の短剣である。男にはこの短剣が、これから女の体ではなくてわが心を裂くのではないか、と思われた。
三、
石の神殿のような執行場の真ん中に、妻は坐していた。そのあたりを何十人もの刑吏がとりかこんでいる。そのまわりはざっと、子どもや老人や、若い娘や中年の禿頭の男どもらの群衆が犇めいている。執行場の祭壇にはその日の朝の市にあがったもっとも上等な花が三、四本ずつ供えられていた。
男と老処刑人が執行場にやってきた。そのとき、全員の顔を、ひとしく太陽が照りつけた。短剣の光の反映が妻の顔を照らした。そのときの顔は、いままでに見たことがなく、比べようのないくらい美しかった。死を待つ女神の微笑みを湛えているように見えた。その顔のまま、男の顔を一瞥した。
裁判官が調書を読み上げた。それに妻は相違ないと答えた。そこで群衆がまた犇めいた。男の顔は険しくなった。
「ではこれより、刑の執行へとうつる」
重苦しい裁判官の一言が、人々の犇めく執行場を静寂に変えた。
このとき男は、自分の背中から頭から、総身に刑吏や群衆の目が集まっていることを感じた。そしてそのなかに一際強い、体を射抜くように目を向けているものがいることを悟った。
妻のほうへと一歩一歩、男は歩いていった。徐々に徐々に、妻の自信すら感じられた顔が痩せていくように見えた。強い日射しに、妻の頬のなにかが一閃と光った。
「こんなことで僕を脅かそうとしたのか」
「御免なさい。御免なさい」
「きみは謝らなくていいんだ。それより僕を赦してくれ。僕は四十年もかけて、誰も守ることができなかったんだよ」
「いいえ。御免なさい。御免なさい。死ぬときまで貴方の腕の中にいさせてください」
「ああ。ああ。こわがらないで呉れ。きみが苦しまないようにする」
一度地に打ち置いた短剣を再び拾い上げた。一度妻の胸に突き立てた。あとは両腕に力を込めるだけである。
「なにを恐れているの。四十年もたって」
「きみが死ぬことに耐えられない。僕の眼の前できみが死ぬことに」
「罪を持ったままではわたしは生きられないわ。わたしはまた貴方のところへきますから、貴方の手で、わたしを白くしてください」
「すまない。すまない」
男はこのときはじめて、涙が止まらなくなった。妻の顔は涙でとうに濡れて、それでも美しかった。
「ありがとう。また生まれ変わって、ここでないところにこよう」
「ええ」
「いい夫婦だった。何もなかったが」
夫と妻の交わす言葉は、これでよかった。男は決心した。男は妻の胸にもう一度短剣を突き立てると、ひと思いにそれを力強く一突きした。そしてすぐさまそれを抜くと、紅く血飛沫のたった喉元へ、もう一度短剣を一突きした。そのとき、はたと妻を抱擁したまま一分の時を過ごした(この訳は男にも、後にも解らなかった)。真白な執行場の石畳のちょうど中心は、紅く染まっていた。男は、このとき自分が「処刑人」ではなく「殺人者」であることを強く自覚した。このまま日に灼かれて死ぬべきである、という想念がよぎった。
四、
夕暮れが街を呑み込む。刑場の水溜りは赤く反射していた。男と老処刑人は、朝のように眼下の街を見ていた。
「おれ達は生きているんだなあ。おれはもうそろそろ生きられなくなるんじゃないだろうか」
あのとき立ち尽くしていただけの老処刑人までもが疲れ切っていたから、その言葉は力を失っていた。男はしばらく黙ったままであった。なにか考え込んでいるようであった。そしてその永い沈黙を破ったのは男の言葉であった。
「生きるというのは悪いことではないかもしれないぞ。君はまだわかっていないだけだ。僕は生きようと思うよ」
老処刑人は男の真意を図りあぐねていた。
そして男は一息ついて煙草を咽んだ。煙は高く上っていった。それから男はその煙草の味のなかに、生きるとはこういうことである、ということを見出した。