閑話『黄泉路にて』
「ここは……」
目覚めた少女は、そう零した。
眼前には、巨大な河があった。
辺り一面には深い霧が立ち込めており、視界が良いとは言えない。
河の色は透明で、少しの波も立っていない。さながら、あらゆる生命が死に絶えているかのように、静かな場所だった。
記憶を掘り返しても、覚えているのは胸を貫いた壮絶な痛みだけ。
冥界の邪神の力を前に、捨て身の神言魔術は届かなかった。
己が師から授かった切り札──冥界神ヘカテーの力を借りてなお、異端の司教の命を掠め取ることはできなかったのだ。
最後まで握っていた筈の鎌は手元にはなく、彼女は手ぶらに裸足の状態で川辺を歩いていく。
(誰もいないし、そもそも人の気配が無い……生き物も、何もいない……)
クロノの前に広がる世界は、まさしく異界。
最果てにある祝福の楽園、あるいは海の彼方にある林檎の島に迷い込んだ旅人のようだった。
しかし、クロノはその空間について情報を得ることはできない。
ただ──、
────これが、本当の冥界……。
足を止め、霧のかかる河の先を見つめて推測する。
死者の魂の行先たる冥府。罪人を苦しめる地獄。冥界であると同時に、魂が休息を得るための楽園。
いずれも、古来より語り継がれた「死の先」である。
神話を語り継いだ人々は、死を一つの通過点としか考えていなかったのだろうか。
死と生は表裏一体。
必ずしも死は終焉ではなく、次なる生へのスタート地点、あるいは楽園への旅路の始まりだったのではないか。
────あぁ。私にも、迎えが来たんだ。
遠くを見つめるクロノの下に、一隻の小舟がやってくる。
誰か乗っているのは見えるが、身体をフードとローブで覆っているため、その素顔までは判別できない。ただ、彼女に「乗れ」と言わんばかりに舟を進め、クロノは河の中に足を踏み入れる。
五感は機能しているのか、冷たい感覚が足から全身に伝わる。
波に逆らい、歩いていく。己の生の終わりを受け入れ、旅立つ為に。
小舟の前に辿り着く頃には、膝の辺りまで水が浸かっていた。
不思議と、怖さはなかった。
クロノが感じていたのは、少しの後悔と、安らぎ。苦しみのない世界へ行けるのだと理解していたのだ。
子舟の漕ぎ手が、彼女に手を差し伸べる。
対するクロノが銀貨を手を取り、舟に乗り込もうとした────その刹那。
「──待て、カロン。その人間はたまたま迷い込んだだけの生者だ。己の職務を全うするのは構わないが、死者と生者の区別すら付かなくなったのか?」
冷徹に、侮蔑するかのような調子で、クロノの後方から声が届いた。
舟に乗る渡し守は、はっと気付いた様子で手を引っ込める。
言葉こそ発さないものの、彼女と声の主に対して焦ったように頭を下げ、舟を再び河の向こう側へと漕ぎ出した。
「全く……長年アケローンの渡し守をしている癖に、亡者の出入りが数千年途絶えた程度で感覚を鈍らせるとは。黄泉路の者が聞いて呆れる」
「え……?」
気が付けば、クロノはいつのまにか砂浜へと戻っていた。
最初から河に入っていなかったかのように、足に水はついていなかった。
声の主はクロノの横に立ったまま、彼女に向かって語り掛ける。
「この河は現世と黄泉の境目だ。アケローン河を渡ろうものなら、二度と現世には戻れないぞ」
「あ、えっと、ありがとうございます……うわっ!?」
クロノが振り返ると、そこには一対の黒翼を生やした男──青年の姿があった。
ローブを思わせる黒一色の服を纏い、袖から伸びる腕はあまりにも細い。冷たくも力強い声色とは正反対だった。
両目が隠れる程に髪を伸ばしており、見る者全てを見下しているかのような瞳が覗く。
「今更何を驚いている。これだけ冥界に関わり、あまつさえヘカテーの力さえ手繰ってみせる人の子が」
「あぁいや、こんな人気のないところに人がいるとは思わず……というか、さっきアケローン河って……」
「お前も知っているだろう。西方世界の冥府──ハデスの世界を取り巻く大河の支流の一つ。英雄でない魂はここを渡り、冥界に赴くことになるが……貴様はまだ生者だ。そもそも、この場は本当の黄泉路では無いからな」
「……つまり、まだ死んでいないってことですね?」
「ああ、あくまでも再現された冥界の風景に過ぎない。凡そ、貴様が此処とは異なる冥界の気に触れたことで、貴様の魂と我が繋がったんだろうよ」
「貴方と、私が? じゃあ一体、貴方の名前は……」
「それはお前が見つけるべき答えだ、クロノ・レザーラ。生憎、我はハデスのように情に流される程甘くはないからな。……だが、貴様が振るう鎌の事についてなら、幾らか教授してやろう」
言うと、男の手にクロノの鎌が顕現する。
彼女の家で祀られていた大鎌。本人曰く、下手をすれば神期にすら遡るほどの歴史を持つ代物だ。
刃毀れしない業物だが、所持者のクロノは「鎌の名前が思い出せない」という悩みを抱えていたのだ。
「貴様の先祖が一体どんな目的でこのような細工をしたのかは知らん。──所持者が冥界を垣間見なければ名を思い出せないなど、担い手が現れる一縷の望みに賭けているようにしか思えんな」
「私の先祖が、誰かに使わせるためにこの鎌を保管し続けていたってことですか? 私の家、ちょっぴり毎年豊作なだけの、ただの農家ですよ?」
「鎌は命を刈り取る死を意味するが、同時に豊穣の象徴だ。いくら数千年が経過したとはいえ、本来の持ち主……農耕神の僅かな残滓が漏れ出ていたんだろう。──もしかしたら、貴様は最初から鎌の担い手になる為に、ゼウスの父に似た名前を付けられたのかもしれん」
「ゼウスの、父……」
クロノは、その名前に行き着いていた。
全能の雷神ゼウスの父。巨神族ティタンの長として、自らも父から王座を簒奪した神々の王の名。
目の前に立つ男は、かつての神話の全てを知っているかのようだった。
原初の混沌、カオスより始まる創世。
父神から子神への王座の交替。
全世界の支配権を巡る、神々と巨人──雷神ゼウスと、暴嵐竜テュポエウスの闘争。
今を生きる人々が神話として語り継いだ物語を、自分が見た「記憶」として保持していた。
「……心して聞け、人の子」
「……はい」
「この鎌、ひいては我の権能を振るおうというのなら、青銅の如き心を持て。遍く命を裁定する者、黄泉路へ導く者として、他者の命を刈り取ることに無慈悲になれ」
語る青年──神の言葉は、忠告だった。
遥かな過去に生きた先達。魂を冥界へと運び続けた者としての激励だ。
たとえ死の神、生命を断ち切る者であっても、それは大自然の摂理を動かす上で必要不可欠なもの。
死なくして生はなく、輪廻転生が世の理だ。
人でありながら不死を謳い、あまつさえ歪み果てた神の世界を目指す輩がいるのなら──それを正す者がいなければならない。
「我のような一介の冥神では不服かもしれんが、魔神どもの権能と渡り合うには十分な筈だ。ヘカテーの寵愛を受けたほどの貴様であれば、この鎌も使いこなせるだろう」
「寵愛だなんて……私はただ、ヘカテーの力を魔術で再演しているだけです。それに、さっきはその魔術でも、相手を仕留めることはできませんでした。神様たちの武具の使い手が、そんな私でも良いんですか?」
「良い悪いの話ではない。担い手になるのなら、相応しい者にならなければならない。──少なくとも、貴様の傍にいた男にはその覚悟があったぞ」
「────っ」
神の言葉に、クロノははっとしたように言葉を止めた。
一体どれほどの代償があろうと、戦う力があるのなら手を伸ばす──彼女の大切な仲間であるアウラは、常にその思考で生きていた。
事実、彼は自分が契約した神にその気概を認められ、雷霆を振るう「偽神」となったのだ。
「……私の悪い癖ですね、すぐ後ろ向きになっちゃうんですよ。神の時代の鎌の使い手になれたのなら、有難く使わせてもらうのが礼儀ってものですよね」
「我は貴様について多くは知らん。ただ貴様は、貴様自信が思っているほど弱くはないことを自覚すべきだ。──たとえ相手が神に近しいモノであろうと殺し切る。その気概があれば、鎌も応える筈だ」
二人がそんなやりとりを繰り広げると、辺りにかかっていた霧が一層強くなっていた。
「あっ、霧が……」
「どうやら、時間だ。誰かが貴様を黄泉路から引っ張り上げようとしているんだろう。このまま川辺を歩き続ければ、魂は現世に戻れる筈だ」
「ありがとうございます、冥界の神様。短い間でしたけど、話せて良かった」
「礼は不要だ。それよりも、二度と此処に来ないように精進するんだな」
互いに言葉を交わし、クロノは歩き出す。
冥界の禁忌──決して振り返らず、何も口にしてはいけないというルールを守りながら。
生者への世界へと、彼女は戻っていく。
書きたかった部分。彼女が出会った神の名は伏せましたが、結構な有名どころ。
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