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ファルベ

作者: 小夜時雨

空が傾き始めた、深夜は3時半。

机の上のグラスを指で弄ぶ。氷を入れたグラスは汗をかき、僕の指を不快に濡らした。氷なんて入れなければよかったなと独りごちた。

かちり。金属の回る音。彼女が帰ってきた。今日も帰ってきたと安堵する。この報われない安堵はもう何度繰り返されたろうか。

「おかえり」

足音が2、3聞こえて彼女が顔を出す。褪せた部屋に彩が広がるのを感じた。

「ただいま」

無理に笑うせいで顔が引き攣っている。彼女が僕に自然に笑ってくれなくなってだいぶ経つ、もう傷つきはしない。

彼女の耳に青のピアスが揺れた。彼女の耳に穴があいていることを今初めて知る。僕の知らない色が、また彼女に混じった。

「……寝るね」

「おやすみ」

僕から目を逸らすと彼女は自室に篭もった。体のどこかがつきりと痛む。僕もグラスをシンクに沈め寝室に戻った。


寝室は元々彼女と2人で使っていた。カーテンは僕が、ベッドは彼女が選んだ。彼女は採寸ミスをして、ベッドは2人で眠るには少し狭かった。だがあの頃の僕らにはそれが心地よかった。狭い狭いと言い合いながら近くにある互いの手を取り、落ちちゃうよなんて笑いながら眠りにつく。朝起きぬけに互いの顔を見て近いよとまた笑いあい、食事を作り同じ食卓で食べる。仕事に行く僕を彼女は見送る。仕事中に彼女から送られてくる「今家を出ました」に「気をつけて」と返事をする。働く。疲れて帰って互いを労いながら酒を交わし、また笑いながらベッドに潜り込む。

平凡でありふれた幸せ。それが崩れたのはいつ頃だったっけ。

1人では広く思えるベッドにそろり潜り込む。彼女は自分の部屋で同じ事をしているのだろう。彼女はいつから僕がいなくてもぐっすり眠れるようになったんだろうか。僕は今でも1人で眠るのが苦手だ。どうしようもなく、痛むから。


夜眠る前、暗い部屋で1人ベッドに寝転んでいると思考はよく回る。それも良くない方向に。1人ではその思考を止める事は到底できず、ただでさえ短い睡眠時間がぐっと削られる。

彼女を待たずに眠ればいいのは分かっている。だがそれができていたら、僕らはもうこの色褪せた部屋にいる訳が無いのだ。






頭上の目覚まし時計がけたたましく叫ぶ。

気がつけばもう朝の6時。仕事に向かう準備をしなくては。

つい2、3時間前に寝付いたばかりだと言うのにと自嘲する。頭がぼうっとした。



朝食を作るのは僕の役割だ。前はお互い早く起きた方がしめたものだと言う顔で作って今日は私の僕の勝ちだとしたり顔をしていたのだが、彼女が遅く帰るようになってからは僕の役割になってしまった。

食事を作るのは嫌いじゃない、彼女は僕の作る食事を食べてくれるから。彼女が僕の作ったものを食べてくれる限りは、この部屋は色味を保っていられるのだと思う。

冷蔵庫を覗き卵を二つ、ウィンナーの袋を一つ手に取りし扉をめる。今日は頭が痛い。簡単にスクランブルエッグでも作ろう。

小さなフライパンでウィンナーを炒る。小気味良い軽い音と一緒に香ばしい匂いがキッチンとリビングを染め上げる。睡眠不足のせいで腹は減っていなかったが、この香りがあれば食べる事が出来そうだ。こんがりと焼けたウィンナーを皿に移し卵を割る。前に彼女が「片手で卵われる人と結婚したい」等と零した為、僕は片手で卵を割る行為を習得する羽目になった。その時期は躍起になって卵を割り続けていた。食事は毎食卵焼きだった。はっきり言う、同じ食材が許されるのは3食までだ。

昔の事を思うと、頬が緩む。そして今を思い出し頬を引き締める。どこかが痛む。

あの頃は幸せだった、等とは死んでも言わないぞという気持ちが口元を真一文字にする。あの頃は、なんて言わない。僕は今でも、彼女の傍にいられるだけで幸せだ。

出来上がったスクランブルエッグとウィンナーを二つの皿にわける。片方にラップをかけ置いておく。トーストした食パンに何につけようかと冷蔵庫の前で少し悩んだ後、いちごジャムを取り出した。

あつあつの食パンにはいちごジャムが一番だ。そういえば、彼女は瓶ジャムに関する悪い癖が抜けなかったなと思い出す。

彼女はジャムをスプーンで取りパンに塗った後、スプーンを舐めてしまうのだ。舐めてしまうともう瓶に入れられないから、舐めずに渡してくれと何度も言ったが直らなかった。彼女は一人っ子だった。




彼女と食卓を囲んでいた頃に思いをはせながら食事を済ませ、皿をシンクに沈ませる。帰ってから洗おう。

コーヒー用のお湯を火にかけ、その間に着替えを済ませようと自室に戻る。火の元を気にかけながらネクタイを選ぶためクローゼットを開けた。

僕はネクタイを選ぶ時間が嫌いだ。理由は簡単、センスが欠片もないから。同じ寝室で彼女と寝ていた時はいつも「貴方は本当にセンスがないな、ださいよ」と笑われていた。そして彼女が選びなおし僕の首元に巻いてくれたのだけれどな。

さて、ないものをねだるのはよそう。今日のネクタイを早く決めてしまわないとお湯が沸いてしまう。赤青黄色紫薄緑……ドットストライプボーダー無地……決めることが多すぎやしないか?とぼやく。面倒だから1番に手に触れたやつにしよう、そうしよう。目を閉じて手を伸ばした瞬間に何かが足元に落ちた。おや、と拾い上げると一本の深紅のネクタイだった。苦虫を噛み潰したような顔になる。

いつぞやの誕生日に、彼女に貰ったものだった。少し悩んだ後で、諦めて僕はそれをつける事にした。選ぶ手間が省けたしいいだろう。



そうこうしている内に、やかんが赤ん坊のように僕を探し出した。

火を止めてコーヒーを淹れる。いつからか朝はこの苦みがなくては動けなくなってしまった。軽い中毒のようなものかもしれない。薄く笑いながら苦みを啜った。

時計を見やると家を出るまで後15分少々だった。これを飲んで歯を磨いて髭を剃り髪を整えて……少しのんびりしすぎたな、と思い至りコーヒーをぐっと喉に押し込んだ。

手早く一連の準備を済ませて玄関に向かう。革靴に足が上手く潜り込まず、靴ベラでぐっと押しやる。傷が汚れが目立つようになったな、そろそろ買い替えようか。ようやく革靴に足をおさめて立ち上がると、背後に気配を感じた。

「寝ててよかったのに」

笑いながら言うが、彼女は僕の足元に視線を落としたまま何も話さなかった。

「ご飯置いてあるから」

「……」

「じゃあ、いってきます。」

彼女が顔を上げ両手を少し広げた。僕は目一杯に手を広げ彼女を包む。

これは朝の習慣……いや、今や儀式か。

一緒に暮らし始めてからずっとやっていたことだが、彼女が夜遅く帰るようになってからはただの機械的な儀式に変わり果てた。口を聞く回数は日に日に減り交流はほぼ絶えているにも関わらず、僕らは出がけの無言の抱擁を欠かさない。彼女は何を考えているのだろう。毎朝ドアが閉まる瞬間まで彼女の瞳を覗き考える。今日も答えは出ない。










僕は彼女の何を話せばいいだろうか。

僕は彼女を知っている。勿論、彼女の全てを知っているだなんて薄気味悪い事を言うつもりはない。けどきっと、この世のどの男よりも、知っている自信だけはあった。

彼女とはもう5年になる。大学の食堂で彼女は本を読んでいた。食事もせず黙々と本を読む彼女はとても綺麗だった。偶然、彼女が読んでいた本は自分も好きなものだった。普段は消極的でシャイな方である僕だが、何故だか無性に彼女に話しかけてみたくなって声をかけた。きっかけはそれだった。

後々彼女に聞いてみると彼女は悪戯っぽくこう言った。「貴方があの本を読んでいたのを見かけて、興味を持ってもらえるかと思ったの。」彼女は進んで読書をするタイプではなかった。彼女は透明で硝子のように透き通った心の持ち主だと思った。いじらしくて堪らなかった。


僕と彼女は趣味が合い、すぐに仲良くなった。好きな映画や小説ドラマの話に花を咲かせ綺麗な景色を見に行き美味しい物を食べた。自然な流れで僕の部屋に彼女の色が増えていき、手狭のベッドを買うに至ったわけだ。

控えめに言って僕らは相性が良かったと思う。決してそう言った意味ではなく、ただ純粋に。いや、悪かった訳では無いが。

お互い楽しくやっていたし、自分の時間も持っていた。毎日笑い合い労い合い楽しく幸せに過ごせていた。





彼女との関係が変わりだしたのは1年と少し前の事だっただろうか。

彼女の帰りが少しずつ遅くなりだした。彼女は事務の仕事をしていて帰りはいつも7時前だった。そんな彼女の帰宅時間は8時、9時、12時と月日と共に遅くなって行った。

僕は何も聞かなかった。彼女も何も言わなかった。彼女を信じていたし、僕も彼女もまだ若いんだ。夜遊びの一つや二つ友人としたっておかしくない。そう思った。

そうして深夜の帰宅は今に至る。










電車の窓に映る自分を見ながら、また途方もない思考を巡らせていたようだ。「次は……」僕の降りる駅を知らせるアナウンスが耳に届いた。降り過ごさなくてよかったと胸をなでおろす。

通勤定期を改札に滑り込ませ、少し肌寒くなった街に出る。ふぅ、と息を吐いてから家に向かって足を動かした。雑踏を右へ左へ避ける。誰も自分を知らない事がほんの少しだけ心地よい。このまま何も言わずにどこかへ駆けたら僕は一体誰になるのだろうな。












「ただいま。」

誰もいない部屋に向かって独りごちる。

シンクに向かい手を洗うついでに皿も片付けてしまおうと考える。と、目が止まる。今朝僕が作った朝食が、手付かずのままに残っていた。

僕はしばらくの間シンクの前で動けないでいた。僕が朝食を作る。彼女が食べる。その皿を僕が洗う。この部屋を支えた唯一の柱が、僕の目の前に手付かずで放置されている。

また、どこかが痛んだ。左の胸のような、鳩尾のような、目のような、喉のような気がした。けれどはっきりとは分からない。ただ漠然と、彼女との距離が開く度にどこかが痛くてたまらなかった。

僕は黙ってそれらをレンジに入れ、自分の夕飯にした。温めてる間に皿を洗う。冷水のまま泡を流す。視界が滲んだ気がした。





皿の水気をさっとふき、定位置に置いてから自分の顔に冷水を浴びせた。

何も言わないでおこう。

彼女にもなにか考えがあって、今はそれを纏めている時間なのだろう。彼女は僕の気持ちを分かったいるし、僕も彼女の気持ちを分かっている。急がせるのはしのびない。きっと大丈夫だ、僕は彼女に委ねる事にした。





「おかえり」

今日は玄関まで出迎えに出た。彼女の存在を確認したかった。

「……ただいま」

今日も頬が引き攣っている。鳩尾の辺りだろうか、痛んでいたが気が付かないフリをした。

「おやすみなさい」

「……うん、おやすみ。」

僕の横を素早く彼女はすり抜けようとする。その足がふらついた。何かに躓いたのだろうか?慌てて床に手をついた彼女を見やると、そのロングスカートの裾がふっと浮いて捲れたまま床に付している。

白く形の整った足が露わになっていた。と言っても、膝少し上程度までだが。

真っ白な陶器のような肌に、似つかわしくない浅黒い斑点が見える。

彼女はさっとスカートを戻し部屋に小走りに逃げた。僕は何も言う事が出来なかった。






その次の日、彼女が腕に同じ様な跡を付けているのを見た。

浅黒い斑点。

僕は堪らずに尋ねた。

「その痣は、どうしたの。」

彼女はまた引き攣った様な顔でへらっと笑い「転んだ」と言った。

そんな日がしばらく続いた。彼女はよく転ぶ。


















秒針の音というのは、何故こうも人の神経を逆撫でるのだろうな。

親の仇のような目で時計を見る。子供の針が6時少し前を指している。今日は土曜で、僕の仕事はない。空が白んでいる。もう夜は明けてしまった。硬い机を指で不規則に叩く。

彼女が、帰ってこない。

こんなに遅い事は初めてだった。いつも3時空回りにはこの部屋に戻ってきていたのに、今日は何の音沙汰もなくこの時間まで帰ってこなかった。何かあったのだろうかと気を揉む。携帯は繋がらなかった。

また懲りもせず氷を入れてしまったグラスは、部屋の暖房に負け表面張力で何とか溢れず凌いでいる。

頑張るな、すごいもんだと水面を眺めていた。



鍵の回る音がする。

僕は玄関に駆け寄った。鍵を開けた後しばらくの間、ノブは回されなかった。僕は黙ってドアを眺め続ける。きぃ、と蝶番がなる。

「……ただいま」

彼女は笑った。いつもより引き攣った顔で、笑った。

僕は息が止まるかと思った。「おかえり」とは、言えなかった。

何も言うまいと思っていたのに、言わずにはいられなかった。

「何が、あったんだよ……?」

情けなくも僕の声は酷く潤んでいた。


彼女の左の頬は腫れ上がり、そちら側の目元は黒紫に変色していた。両目は腫れぼったく酷く泣いたのだろうとひと目で理解できた。顔は蒼白していたが口の端だけは鮮やかな紅がのっていた、切れているのだろう。

「転んだ、の。」

彼女は笑った。両手を体の前、腹部の辺りに組んで所在なさげに佇んでいた。

僕は静かに床に膝をつき、優しくその両手を退けた。彼女は少し抵抗したが、腕が痛むのか弱々しかった。僕は「ごめん」と一言謝ってから彼女の薄手のセーターをたくしあげた。このセーターは彼女の勝負服だった。

細い腹部、雪のような肌が廊下の冷気に晒される。鳥肌がうっすら立っていた。その雪原は荒らされ痣だらけだ。黒、青紫、黄色がかったもの迄、沢山の痣で埋め尽くされていた。

「見ないで」

視線を上にあげると、彼女は涙を零していた。

僕は黙ってセーターを戻し立ち上がると彼女に手を差し伸べた。

「話を、しよう。」

彼女は首を振って拒んだ。

「いや、」

「お願いだから」

泣きそうな声で懇願する。彼女は苦しそうに瞳を揺らすと、僕の手を取ってくれた。









冷凍庫からなるべく形の鋭くない氷を取り出し袋に入れる。チーフで包んで冷たさを確認した後、彼女の小さな手にそれを乗せた。

「ありがとう」

「口の中、痛む?」

「少しだけ」

「話すと痛むかもしれないから、文字でも何でも、使ってくれていいから。」

目の前にペンと紙を置く。

「多分、大丈夫だから。」

「……そっか。」

時計の音が響く。あの時計はいずれ外してしまおう。

「その痣は、いつから?」

「……3ヶ月少し前から」

「その人とは、いつから?」

「1年くらい前から、友達になった。」

「友達。」

彼女は僕をまっすぐ見た。

少し躊躇ってから口を大きく開け、傷が痛んだのか少し閉じてから言葉を紡いだ。

「そう、友達。相談にのってもらっていて、食事や遊びに出かけていた。そして数ヶ月前から、そういう事をするようになった、友達。」

そういう事。僕も若いが伊達に大人をやってはいないから、その真意が分からない訳はなかった。まぁ気が付いてはいたが、彼女の口から直接聞いてしまったショックはやはり大きい。

「そっか。ずっと暴力があった訳じゃ、無いんだね。」

「うん。彼は優しいよ。」

「優しかった、だろう?」

「ううん、優しいの。」

彼女は窓の外に視線を投げた。「優しいんだよ」ともう一度呟いた。

僕は理解に苦しんだ。DVを受けた人はこんな感じなのだろうかとぼんやり思う。

「そうか、優しいんだ。」

「少なくとも、貴方よりは。」

「……僕より?」

「うん」

「そんなはずないさ。」

「ある」

「どういう事かさっぱりだよ。僕より暴力をふるうそのお友達の方が優しいのか?」

少しだけ声が荒だった。しまったと彼女を見る。

「怒鳴らないで」

「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。ただ純粋に、知りたくて。」

「彼は優しいよ。私の言葉をちゃんと聞いてくれる、そして彼も話してくれる。」

「理解してくれるって事?僕じゃ、理解が足りなかった?」

彼女は悲しそうな目をして「彼の方が優しい、優しくて可哀想で愛おしい。」と呟いた。



僕は優しくなかったか?僕は彼女を理解できていなかっただろうか?大切に慈しんでは居なかっただろうか?困惑した。僕は暴力をふるうような最低な男に負けている。その事実を受け止められないでいた。



「私ね、彼に愛されてるの。」

「……彼は友達なんだろう?」

「貴方がいるから、まだ友達。」

「……そう。少なくとも愛されてはいないと思うけどね。」

思っていたより、卑屈な声が出た。

「愛されてる」

「どこが?そんな顔になるまで殴られて、それで愛されてるって言うの?」

「これは、」

彼女は自分の頬を撫でた。

まるで宝物を慈しむかのような手つきで撫でた。

「これは、彼の想いだから。」

「……想い?」

「痛い程まっすぐ、私に向けてくれた愛。」

彼女の瞳は澄んでいた。硝子のように、彼女の透明な心を映し出すように。



「そんなのは間違ってる。」

絞り出すように呻いた。認める訳にいかない、そんな危うげで君を殺すような愛なんて。

「……どうして」

静かな声だった。疑問のような、肯定のような不思議な響きを持った声だった。

「どうして、これが間違ってるなんて、貴方は言えるの?」

彼女の問いにドキリとした。

じゃあ僕らの関係は正しかったの?そう聞かれたような気がした。

頭を振る。今は僕らの関係の事はいい。

「常識的に考えてよ。それはただの暴力だ。そんなのは愛でもなんでもない、違う?」

常識。自分で言っていて馬鹿馬鹿しいと思った。

僕らの関係が常識的だったとでも言うのだろうか。僕らに常識的な愛があったとでもいうのか。

もう1人の自分がそう問いかけてくる。ぐらぐらする。吐きそうだった。

「そうね。常識的に考えて、これは愛じゃないかもしれない。ううん、愛なんかじゃない。……でも私はもう戻れないの。」

彼女の毅然とした目を見て僕は愕然とした。彼女が嘘をついてるのは明らかだった。

彼女の瞳の奥には、ほんの少しだけ愛情に似たものが見て取れた。愛ではなく、それ似たもの。それが何なのかは分からなかったが。体の見えないどこかがまた、ちりちりと痛む。

彼女は分かっていた。こんな暴力は愛とは呼ばないことを。

それから嘯いていた。自分が戻れないなんて。彼女は正気だった。正気の上で、敢えてこの状況に身を置いている事が、何故か僕には分かってしまった。

「さようなら」

彼女は囁いた。

頬が濡れていた。別れを告げているのは君なのに、なんで泣いているの。彼を手放せないのも、僕を捨てるのも、泣くのも君の役目になったら、僕は……僕は一体何をしたらいいんだよ。

嫌だと言いたかった。僕はまだ納得なんてしてないと。けれど口をついたのは真逆の言葉。

「分かった。おしまいにしよう。」

君が嫋やかに泣くのなら、僕は死んだように笑うしかないだろう。

彼女が心配だった。それは昔も今もそうで。けれど言葉は途切れたままどうにもならなかった。

気がつけばグラスから水が溢れて机を濡らしている。表面張力では限界を迎える程、水位が上がったようだった。







彼女は自室で荷物を纏め、この会話から数時間後に玄関をくぐった。

もう戻らない部屋から自分の荷物を余すこと無く抱え、朝の街に消えていったのだ。

こうしてこの部屋は、大切な色を失った。


























僕は変わらない生活を送った。

朝6時に起きて、朝食を作り二つに分けてラップをする。ネクタイの色に頭を悩ませコーヒーを飲んで支度をサッと済ませ会社にいき、定時に上がり電車で窓に映る自分を見ながら考えを巡らせて雑踏の中を歩み家に帰る。朝作った食事を温めてる間に皿を洗って着替えをし夕食を取って午前3時まで氷の溶けるグラスを眺めて眠りにつく。

何も変わらない生活をした。あぁ、ただしリビングの時計は音のしない物に取り替えた。





彼女からの連絡にすぐ気がつけるよう、携帯はいつも手元に置いていた。

僕は彼女が居なくなった事をどこか夢のように思っていた。だから今日もまた、帰ってこない彼女の帰りを待っていた。

便りがないのは良い便り。彼女は元気なのだろう。

グラスを眺めながら思った。













気がつくと、カーテンの間から光がさしていた。はっと顔を上げると壁掛け時計がお昼の9時すぎを教えてくれる。リビングの机に伏せて眠っていたようだ。今日が休日で良かった。

変な姿勢で眠ったせいで背中も肩もばきばきだ。朝食……いや、ブランチはトーストだけで済ませてしまおう。

トースターに食パンを放り投げ、いちごジャムを冷蔵庫から取り出す。コーヒーも一緒に飲もう。やかんを火にかけた。


無彩色の部屋の中でぼうっとトースターとやかん報せを待つ。

この時間は嫌いじゃなかった。彼女をより鮮明に思い出せるから。



暴力も、愛か。

確かに考えればそう思えなくも無いんじゃないか?

強い想いの表れが拳になって彼女に降り注いで、痛みを残し傷を残し跡になる。確かに、目に見えた愛。

そこまで考えて頭を振った。

馬鹿馬鹿しい。考えを揃えたって、何になるんだろう。そんな事をしたってろくに意味なんて無いだろう。

トースターとやかんがほぼ同時に声を上げた。美味しそうなトーストとコーヒーを机に用意して座る。

コーヒーをひと啜りした後にいちごジャムの瓶を開けてスプーンの背に真っ赤なジャムをたっぷりのせる。いちごの甘い香りが鼻腔を刺激した。

熱々のトーストにジャムを押し当て伸ばす。じわり、熱でジャムが溶けだす。美味しそうだ。




ジャムを眺めながら呆然と考えていた。

彼女は何を思って今生きているだろう。

手がスプーンを口元に近づける。

彼女は何を考えていたんだろう。

甘い香りが再度僕を刺激した。

彼女は僕の事を、どう思っていたんだろう。分からない。さっぱり、何も、僕には分からない。答えは出ない。唯一答えを知ってる彼女はもうここにいないから。どうしてだよ、何で、分からないよ。彼女も僕の事を分かってなかったんじゃないか。僕が何を思ってどういう気持ちでいたか。なら、それならどうして、もっとちゃんと


「言ってくれなかったんだよ」


口内に甘みが広がる。それから少しの鉄臭さ。僕はスプーンを舐めていた。それはもう、ほとんど無意識に。






ぼろっと、涙が溢れた。

口元からスプーンを離し、涙の流れるままにただ何も無い空間を眺めていた。

僕は彼女と別れて以来、初めて泣いた。

そして初めて気がついた。自分の犯した過ちと、彼女の気持ちに。



スプーンを眺めた。

彼女は一人っ子だった。彼女がジャムを使った後に、再度その瓶にスプーンを入れる人はいなかった、だから彼女はスプーンを舐める。

彼女はずっとスプーンを舐めていた。

1人きりの彼女は、ずっと、スプーンを。

自分が恥ずかしくなった。

悪い癖だと決めつけるだけで、その本質を僕は見てこなかったんだ。



僕と暮らしていても、彼女は1人のままだった。






僕は彼女の何を見て、彼女は僕の何を見ていただろう。

傷つく事を恐れて、そんな自分の臆病を隠す為に聞くことも話すこともしなかった。信じている大事に思ってる分かっている、そんな言葉で綺麗に着飾って。

痛むのが恐ろしかった。体のはっきりしないどこかが、つきつきと痛む事が怖くてたまらなかった。

伝える事も受け止める事も彼女に甘えて怯えて、何一つ僕らは分かり合えてなんていなかったのに。想った事感じた事その全てを君に伝えればよかった。下手くそでも言葉を必死に選んで君に伝えればよかった、ただそれだけだったのに。彼女の綺麗な髪も瞳もその透き通った心も小さな口も全て僕だけのものにし続けたいのだと、伝えればよかった。口に出して、声にして、僕が、僕だけの言葉で。

そうすればその心がどれだけ透明でも、僕の目に映らなくなる事は無かったのに。



体の、左胸の、鳩尾の、目の、どこかがまた疼いた。

痛くて痛くてたまらなかった。

これこそが愛だと、どうして僕は僕に教えてやれなかったんだろう。こんな痛みなんて取るに足らない程に、彼女を愛していたとなぜ教えてくれなかったんだろう。




君の想いが見たかった。僕の想いを見せたかった。目に見える形にして隣あわせに並べられたら、どれだけ良かっただろう。

伝えたい気持ちはいつも心のどこかにあって、けれど言えずに今日まで時間は経って、どうしようもない温度だけがここにつのってしまった。

この部屋が変わりゆくのは仕方なく、色褪せることも仕方がなかったかもしれない。けれどその中で僕らには出来る事が沢山あったはずだ。

今更気がついて頬を濡らして、本当に馬鹿だ。




僕らがこの部屋で過ごした時間を想う。

拙いながらもお互いの気持ちを精一杯持ち寄ってたあの頃。彼女は彩やかだった。僕らの色褪せた部屋に取り残すには勿体ない。ここで蹲ったまま褪せていくのは僕だけで充分だった。





もう一度、あの頃の彼女と出逢えるとしたら僕はきっとまた彼女を愛するだろう。次はもっと沢山の言葉をかけて、その手に触れて、毎日愛してると言おう。黙って想っていても何一つ伝わらないのだから。彼女の話をよく聞こう、もっと沢山出掛けよう。ベッドの採寸は間違おう、笑いながら寄り添おう。

僕はこれから先、何度の朝を迎えても静けさに虚しくなるんだろう。今ようやく教わった、もうこの先誰にも向ける事のないであろうこの気持ちを抱えて一人、静けさに苛まれるだろう。君と積み上げた歳月がまるで花のように咲き開いて僕を離さないんだろう。でもそれが、僕へ残されたものだ。分かったフリをして痛みだけを知ってしまった愚かな僕が持てる唯一のもの。






僕はもう一度彼女と出会いたい。きちんとやり直して愛したい。

その為に一人きりの朝を繰り返そう。

そうしてどうか。

次はちゃんと、僕から「さようなら」を言ってあげれますように。

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