名前のない猫
この短編は某小説大賞に応募、選考落ちした小説です。
故に大した作品では無いかと思われます。
半ば供養のために投稿しましたが、もし楽しんでいただけたなら幸いです。
《1》
猫を轢いた。
周囲を林に囲まれた田舎道。バイトを終えた夕方に、原付バイクを走らせた家路の途中の事である。
ブレーキも間に合わず、転倒するほどに切ったハンドルも意味を為さなかった。
言い訳をするなら、どうしようもなかった。
原付バイクの法定速度としてはスピード違反だったのは確かだが、その猫の道路への飛び出しはあまりに唐突で、素早かった。
猫はしばらくの間痙攣を繰り返し、しかし当たり所が悪かったのかもしれない。割とあっさりと、動かなくなった。
自身の血だまりに眠った。
猫は子供連れだった。
青い瞳の、真っ白な毛並みの小さな子猫。
この事故であえて幸運な要素を探すとするなら、子猫はかすり傷一つ負わなかった事だろうか。
事故を回避しようと車体を傾け、転倒してしまった原付バイクと自分の体をどうにか持ち上げる。
痛む体とそこかしこの擦過傷の事も忘れて、その子猫の様子をじっと見つめる。
子猫は呆然としているように見えた。
本当に親子だったのか確信は無いが、しかし動かなくなった猫に向けて、にゃあ、と何度も弱々しく鳴いた。
自身は身動き一つせずに、じっと視線は猫の死骸へと向けたまま、ただ、何度も小さく鳴いた。
良心の呵責だったのかもしれない。
あるいは、偽善的な何かだったのか。
少しでも善行と呼べる何かを、この出来事の中に残したかったのかもしれない。
親猫の亡骸と、傍らで鳴き続ける子猫を、事故の衝撃でいびつに変形したバイクのカゴに乗せた。
子猫は抵抗しなかった。
ただ、にゃあ、と鳴き続けた。
《2》
連れ帰った子猫と、親猫の亡骸を題材に簡単な家族会議が開かれる。
内容としては、あの子猫を飼いたいのだけど、どうだろうという話。
子猫の素性から、そんな事を言い出した経緯を話し終えた頃には、反対する者はいなかった。
両親は何も言わなかった。
祖母は静かに頷くだけだった。
少し歳の離れた妹は無邪気に喜んでいた。
本当なら真っ先にすべきだったのだろうけど、しかし連れ帰った子猫とぼろぼろの服と怪我について問い詰められたので致し方ない。
自宅について一時間余り、ようやく親猫の埋葬をする。
ずっと、片時も親猫から離れなかったであろう子猫は、もう鳴くことはしなくなっていた。
ただじっと、静かに親猫の亡骸を見つめていた。
親猫の亡骸を取り上げた時も、子猫は鳴かなかった。
じっと、こちらを見つめていた。
そこに何の感情があったのだろうか。
少しだけ、その瞳が怖かった。
スコップがザクッ、ザクッと土を掘り返す音だけが、もうすぐ夜の帳が下りる自宅の庭に響く。
どれくらい掘ればいいんだろうと考えて、深ければ深いほどいいような気がした。
じっと、静かに親猫の亡骸を見つめる子猫を見て、何となくそう思った。
気付けば深さ50cmに達しようとしていたその穴に、亡骸を横たえる。
そうして、掘り起こした土をかけていく。
子猫は微動だにしなかった。
ただ一度だけ、亡骸が完全に見えなくなった時、にゃあ、と小さく鳴いた。
埋葬が終わって、墓標代わりに適当な石を置く。
ふと、後で花を植えようかと思った。
できるだけ珍しい花を。
あまり思い出したくはないのだけど、しかし忘れてもいけない気がした。
ともあれ、今は親猫と自分の血で汚れたシャツの心配をする事にする。
そうして家に戻ろうと子猫を見やれば、相変わらず墓標をじっと見つめていた。
静かに、微動だにせず、鳴きもせず。
花を植えるのは、早い方がいいのかもしれなかった。
《3》
懐かない猫だった。
元々、猫は気ままな生き物だと言われているし、以前に他の猫を飼った事があるわけでもないので比較もできないのだが、それにしたって誰かに甘えるような素振りは一度も見たことがない。可愛くない猫なのかもしれない。
アルバイトとはいえ働いている身の上としては平日昼間の子猫の様子は分らないが、猫同様にひなたぼっこをして過ごす祖母に聞いたところによれば、日がな一日、庭先でじっとしているらしかった。
庭先に何があるか、なんて野暮なことは言うまでもない。じっと親猫が埋められた石の前に佇み、微動だにしない。昼間の何時間かを、まるで黙とうを捧げるような静けさで、ただ毎日を過ごしているのだそうだ。
親猫が死んだことがまだ信じられないんじゃないのか、かわいそうに――妹と祖母は口々にそんな事を言いつつ、親猫を殺した張本人を遠回しに責め立ててくる。
自分を正当化するわけではないのだけど、少しだけ、それは違うんじゃないかとも思う。
バイトが休みの日、親猫の墓の前にじっと佇む子猫の後ろ姿を見つめて、その子猫の墓参りが終わるまでずっと様子を眺めていて、そう思った。
猫の気持ちが分かる、なんていうほど猫好きなわけでもない。何を考えているのかなんて想像もできない。それでも静かに、本当に静かに佇むその姿は、何となく親の死を受け入れられないような、か弱い子猫の姿とは思えなかった。
少し気取った言い方をするのなら――子猫は、色々な事に決着をつけようとしているんじゃないか、と思ったのだ。
それは自分の気持ちであり、現状であり、あるいは他の何かだったのかもしれない。
延々と、せっかくのバイトの休日を、微動だにしない子猫の後ろ姿を眺める事に費やした人間の顔を、墓参りを終えた子猫が一瞥をくれ、一声かけるでもなく脇を素通りして家の中に入っていく。そろそろ晩飯の時間である。
それは、どこか呆れたような視線だった気がした。
その翌日、かねてよりの墓に花を植えるという計画を実行に移す事にした。
何となく面倒くさいという理由でもあり、死んでしまった者に対して冷淡な自分の性格が災いし、無期限に先延ばしになっていたのだった。
どうせ死んでしまったものに、そんな感傷は必要ない。ましてや見知らぬ猫に。そんな風に思っていたのかもしれない。
適当に見繕っただけの墓石も、慣れてしまえばそれなりに味のある形をしていた。何となくその墓石はそのままに、その墓石の周囲に買ってきた苗を植える。
財布と相談してケチったパンジーの苗…のつもりだったのだが、母親曰く、それビオラよ、だそうだった。
そんなグダグダの様相を呈した園芸作業により、その日の墓参りの日程遅延を余儀なくされた子猫が、若干迷惑そうな目つきでこちらの土いじりを見つめていた。
それでも、意地でも墓参りを実行したかったのだろうか。パンジー改めビオラを少々植える作業にして遅々として進まない手際を、子猫はじっと後ろで見つめていた。離れているとも言えないけれど、決して触れる事はできない距離で。
そうしてようやく終わった作業に一息つけば、やっと終わったのかと言わんばかりに子猫が墓の前に立ち、そして石像のように動かなくなる。
その様子を見て、少しはマシになっただろうか、と思う。
死んでしまった者の為に花を植えるのは面倒だったのだけど、しかし毎日何時間も墓参りをする者の為になら、やぶさかではない。
だって延々と、来る日も来る日も、石だけを見て過ごすのはつまらないと思うのだ。
さて、手を洗うついでに土まみれの服も着替えてしまおうかと踵を返したところで、不意に視線を感じた。
振り返れば、普段は悩める賢者のごとく視線を動かさない子猫が、こちらを見上げていたのだ。
僅かな間。相変わらず表情の読めない子猫が小さく、にゃあ、と鳴いた。
鳴き声を聞くのは久しぶりな気がした。それで用事は済んだとばかりに、墓へと視線を戻して、石像に戻る。
できれば、ありがとう、なんてしおらしい言葉を期待したいのだが――案外、余計な事をするなこのバカ、だったのかもしれない。
猫の気持ちも言葉も、人間には分からないのである。
《4》
名前をどうしようか、なんて話になった。
連れてきた当初から割と話されていたのだが、唯一命名する事に乗り気だった妹以外の家族は、まあなんでもいいんじゃない? という反応である。その状況に業を煮やした妹が、いよいよもって夕飯時、家族会議の様相を呈して子猫の命名を議題に挙げた。
無難なところでタマでいいだろ、というこちらの言葉に目を剥いて拒否する妹は、ジョンとかスミスとかいうノリの名前を乱発する。いくらなんでもあんまりだという母親と喧々囂々と意見を戦わせていたが、不意に発せられた父親の言葉に場が凍りつく。
曰く――そもそも、そいつは男なのか?
失念と言われれば失念していた。自分用に宛がわれた餌用茶碗の中身を空にして、のんびりと顔を洗う子猫の性別は、言われてみればどっちなのか。
正直に言えばあまり気にしていなかったのだが、しかし妹の中では文句なしにオスのつもりだったようだ。ギラリと目を煌めかせ、食後の伸び運動をする子猫の一瞬の隙をついて襲いかかる。ぐにょんと伸びていた子猫がギョッとしたように態勢を立て直そうとするが遅く、妹に四肢を押さえつけられ、組み伏せられる。
イヤイヤと暴れながら叫び抵抗する子猫に、それを無理やり押さえつける妹。若干犯罪的な情景が脳裏によぎったりしたのだが、結論から言えば子猫はメスであった。
その事によほど衝撃を受けたらしい。ナニがついてない事を確認した妹は呆然としつつ、無言で食事に戻る。以降、名前に関わる議論はお開きになった。
とまあそんなエピソードが物語るように、家に住み着くようになってかれこれ半月は経つというのに、ようやく雌雄確認が済んだ『彼』改め『彼女』の日常は、果たしてペットであるという事すら疑わしい奔放ぶりを見せている。
否、奔放と言うと少しだけニュアンスが違う。彼女の行動範囲は恐ろしく狭く、動物特有の縄張り争いに一切の興味はありませんとばかりに、マーキング的な行動を見た覚えもない。姿が見えないと探せば、確実に家のどこかで寝ているか、庭先で墓参りをしている。
ただしありがたい部分もあって、非常に手の掛からないペットである彼女は、トイレも庭のどこかで済ましているらしく、家の中が糞尿臭くなる事はなかった。猫特有の爪研ぎも同じく。こちらに関しては、庭に生えている栗の木でバリバリやっている姿が見られるらしいが。
この家で過ごすようになってから、彼女の行動は現在までに特に変化はない。
朝はやけに早く、同じく朝が早い祖母曰く、五時には大抵起きてリビングにいるらしい。その代わり昼間はほぼ寝ていて、不意に起きたと思えば常時用意されている乾餌を食い、そして姿を消し、時折珍しい場所で寝ている姿を発見される。
屋根であったり床下であったり、洗濯機と壁の隙間に納まっている事もあるらしい。敢えて洗濯機の隙間を選ぶ理由は不明だが、洗濯機が回りだすと一目散に逃げ出すあたり、洗濯機に思い入れはないのだろう。
ただそれでも、少しだけ変化はあった。
バイトの休みの日には子猫の動向を観察するのが日課になってしまったせいで気付いたのだが、以前よりも少しずつ、墓参りの時間が短くなっていた。
飽きたんじゃないの、とはにべもない妹の言葉ではあるが、そこはもう少し前向きに解釈したいところだった。
多分だが、ある種の整理がついてきたんじゃないのか、と思うのだ。仮にも親の仇である身の上で偉そうな話だが、その事に関しては、ほっとしていた。
理由を問われれば浅ましい部分もあって――子猫が墓参りする姿を見る度に、その微動だにしない背中に責められている気がしていたのだ。
だったらそんな姿を見なきゃいいだろうと自分でも思うのだが、そんな事にさしたる意味もないのだけど、それでも見ていた方がいいのだろう。
何故かそんな事も思い、そうしてじっとしている子猫の姿は、何となく目を離す気にはなれなかった。
《5》
時間は全てを洗い流す、などという言葉もある。子猫を巡る事柄もどうやら例外ではなさそうだったのだが、それでも例外はあるようだった。
かの親猫の墓に植えたビオラはあっという間に花の季節を終えてしまった。時期が遅かったのだろう。季節は移ろいかつての穏やかさとは一転、厳しい日差しが容赦なく降り注ぐ。
子猫が家に来て、三ヶ月が経とうとしていた。
常に素っ気ない子猫の近寄るなオーラが夏の熱気の為に五割増ほどになってはいるが、相変わらずクールな我が家のペットにべったりの妹は、今日も子猫に渾身のタックルをもって寝技に持ち込もうとする。うんざり気味の雰囲気漂う彼女にあしらわれているが。
ともあれ、妹を筆頭に家族の誰にもこれといって懐かなかった子猫は、今は大人しく撫でられる事もあるようだ。機嫌の良い時はじゃれついたりもしているらしい。その話を聞いた時は軽くカルチャーショックを受けたのだが。
というのも、全く懐かないのである。親の仇にだけは。
考えてみれば当然だとも思うのだが、それでも少しだけ残念であり、理不尽さを感じてしまうのは反省と悔恨と誠実さの足りない自分の心故かもしれない。
まず、絶対に体に触らせない。
気持ちよさそうに子猫の毛並みを撫でまわす妹が羨ましくなり、実は何度か、曰く彼女のもふもふした毛並みを体感せんと手を伸ばしているのだが、大抵は冷たい瞳で一瞥をくれて一目散に逃げ出す。酷い時には爪で容赦なく引っかかれたりもした。触りたいのは毛並みであって爪ではないのだが。
もっと言えば、近付いてこない。
距離は常に1メートルほど空いている。センサーか何かを仕掛けているんじゃないかと思うくらいに、寝ている子猫に近付いても敏感に気付き、距離を空ける。起きている時はそもそも、近寄るなと言わんばかりのオーラが出ていて近づきにくい。ただ家族の者に言わせれば、出てねえよそんなの、ということらしいのだが。
そんな話をした時、祖母は意味ありげに微笑んで口にした。おまえだから見えるものなのかもしれないねぇ、と。そして、そんなものは最初からないのかもしれないよ、とも付け加えた。意味はよく分からなかったのだが。
ただ不思議なのだが、誰が見ても険悪に思えるであろう一人と一匹の関係は、外から見ればまた違うものに見えるらしい。
言い出したのは妹。子猫との関係を事あるごとに羨ましがられるのだが、どうにも理由が分からず、どこが羨ましいのかと問い返した。
曰く、こういう事らしい――ここ一カ月ほど、猫を探して家の中、あるいは庭を探すと、どういうわけか兄と一緒にいるのを見かけるというのだ。初めは偶然かと思ったのだが、どうもそうではないらしい。猫がいなくなれば兄を探せば大抵見つかる。そんな法則ができあがりつつあるそうなのだ。
そんな馬鹿なと家族に聞きまわっても、これが返ってきた返事は同じ。子猫は大抵、親の仇である男の周囲でうろうろしているらしい。
自覚なかったの? と友人の片想いに気付かない男を責めるような口調で妹に言われ返事に窮してしまうが、そう言われてみれば確かに一つ思い当たる不可解な話はあった。
それは子猫の夜の寝床の話。それまでは特に決まっていないようだったのだが、しかしいつからだったか、朝起きてみると机の前に置かれたキャスター付き椅子の上で丸くなっている事が多くなっていた。
それは自分の部屋で地味に値の張る家具である革張りの回転する椅子なのだが、当初はそこで寝ていた子猫を見て、なかなかどうして目が肥えているなどと思ったものだった。
この滑らかな座り心地のために、万の金を払い買った椅子である。小学校から使い続けている味気ない学習机とは明らかにアンバランスな社長椅子だ。
無駄な椅子自慢はともかく、彼女の行動に関してつまりどういう事なのかと考えれば、まあ悪心にも似た何かが湧きあがってくるのである。
もしかしたら俺、嫌われてないんじゃね? とか何とか。
今までのつっけんどんな、というか海の底の如く冷たい態度も、そういう前提であれば見方も変わってくるものである。
あの冷たさはある種の好意の裏返しである――実際根拠はないが、あるような気さえしてくる。むしろそう決定した。
《6》
というわけで某日、長く諦めていた悲願を達すべく行動を起こす事を決意するに到る。
決行はいつもの就寝前。ノックなぞする気もないとばかりにぬるりと身を滑らせて部屋に入ってくる子猫は、ベッドに腰掛ける男のいつにない雰囲気に一瞬だけ胡散臭げな視線をくれたものの、それ以上は特に気にするでもなくいつもの寝床である社長椅子に跳躍、即座に丸くなり背を向ける。
まさしく倦怠期の夫婦よろしくに、疲れてんのよ、構わないで、とばかりの空気が防壁のように立ちはだかるが、しかし今日の自分はそんな事では怯まない。むしろ都合の良い方向へと 脳内変換すら可能としている。
よろしい、これが世に名高きツンデレであれば定番だ。この一見何者の接近も拒むプレッシャーの先に、悲願のなでなでもふもふフラグが立つに相違ない。
油の切れたロボットの鈍さでベッドから立ち上がると、まずは部屋のドアを閉める。そして一歩、椅子に丸まっている子猫へと歩み寄る。
と、まるで熟達の殺し屋の如く気配に気付いた子猫が体勢を変えてこちらを向く。そして薄目を開けて男の動向をつぶさに警戒する。まさか寝込みに乗じて近付かないよな、ええ? とブルーの瞳が語っている。
まずい、と内心で舌打ち。これでは後ろからそっと近付き、不意を突いてそっと背中を撫で、子猫はびっくりしながらも、もうしょうがないわね、と男の愛撫を寝たふりをしながら受け入れるというシナリオは断たれた。
もうこうなっては正面突破、我が妹の如く無理矢理に抱きすくめ、ゴロゴロと喉を鳴らすまで撫で回す強硬策に出るしかない――などと強姦魔のような事を考える。
もはや退路はない。獲物に襲い掛かる獣のように素足を絨毯にめり込ませ前傾姿勢を取る、がしかし、さすがに相手は正真正銘の獣、敵の気配を敏感に感じ取り眠気なぞ何するものぞと椅子から飛び降りる。
地面を蹴り、子猫に素早く肉薄せしめるも、子猫は持ち前の体の小ささを武器にひらりとかわす。そしてこちらを睨みつけ、フーッと威嚇する。ある種の怯えのようなものすら感じる。
おかしい。これではまるで脈の欠片もない相手に無理やり迫る勘違い男のようではないか。頭の中で妹の高笑いがこだまするが、しかしここで引いて得るものはあるだろうか。いや、否である。ここまでくれば、既に子猫のもふもふを堪能する以外に到るべき帰結はあり得ない。
最後の一撃を交わす戦士の心境で子猫に襲い掛かる――もとい、迫る。
俊敏性において大きく子猫に劣りはするが、しかし場所は狭い部屋。格闘の末、徐々にではあるが部屋の隅へと誘導する。畜生と人間の頭の違いを見せつけるべき時だ。じわじわと追い詰めながらも、威嚇を絶やさぬ子猫が逃れる道を一筋、空ける。
果たして子猫は一瞬の隙を突いたかのように、首尾よくその隙間を駆け抜けようと試みるが、それは人間の狡猾な罠。ギラリと眼を煌めかせ、とったぁっ!! の雄叫びも雄々しく、脇をすり抜ける子猫の体を抱え上げる。
確かにもふもふした手触りを感じながらも、この家に越してきて初、至近距離で子猫と見つめあう。子猫は一瞬だけキョトンとしたようにこちらの顔を見つめて固まるが、しかし雪解けの時とはいかないようであった。
次の瞬間には血液が沸騰したかのように、フーーーッ!!!! と威嚇の声を上げて睨みつけると、捕縛の歓喜により拘束を忘れていた両手の爪を構え、ざくり、と強姦魔の頬に三筋の傷痕をつけてくれる。
思わず悲鳴を上げて子猫を離すと同時、さっきからの戦闘によって生じた騒音に我慢の限界に達した母親が文句を言う為に部屋のドアを開ける。天の扉が開いたとばかりに離脱する子猫に、打ちのめされた男が力なく項垂れる。
困惑した母親が、文句も言わずに部屋を出て行った。
まあ冷静になって考えれば、馬鹿な話ではあった。
子猫が自分の周りをうろつく理由はよく分からないが、仮にそうであっても自分に対する好意には結びつかない。というか、嫌われる理由はあっても、好かれる理由がない。
それだけ分かれば十分である。きっちりと付けられた嫌悪の象徴である頬の傷跡をなぞって、とりあえずは子猫とのキャッキャウフフは諦める事にした。一瞬ではあるが、触れた事は触れたし。もう彼女はここを寝床とする事はなかろう。チャンスはしばらくお預けだ。
とか考えていた計画頓挫の翌日、就寝前。子猫が入ってくるからという理由で半開きが常になっていた部屋のドアの隙間を、いつものようにぬるりと滑り込むようにして、子猫がやってきた。
子猫はトコトコと驚き顔の男の前に立ち、しばらくじっとその顔を無表情に眺め、そのまま固まったように動かなくなる。
もしかしたら、傷の心配をしてくれているのでは。そんな事がふと頭を過ぎり、慌てて心配ないとばかりに笑って見せた。急だったもので、かなりいびつに。
そんな男の顔に呆れたとでも言うように、子猫はプイっとそっぽを向くと、いつもの定位置である社長椅子に駆け上がり、丸まった。そしてすぐに背中が穏やかに上下を始める。
さて、と考える。しばらくチャンスはおあずけかと思っていたのだが、まさかのチャンス到来である。とはいえ、さすがに昨日の今日、そんな気にもなれない。恐らくは昨日の蛮行は水に流してくれたという事なのだろう。せっかく許してくれたのだから、これ以上グダグダにするのはよろしくない。
部屋の電気を消すためにベッドから出て、子猫の横を通り過ぎる。薄っすら射し込む月明かりを頼りにベッドに潜り込み、ふと思う。
何の気なしに通り過ぎはしたけれど、今日は警戒する様子もなかったな、と。
子猫の静かに上下する背中を見やり、勿体なかったかな、などと思った。
ちなみに余談ではあるが、それから数日後に子猫は椅子の上ではなく、机の上で寝ている姿が発見された。
なんで机の上なんだろうか、椅子はあるのに。というか椅子に思い入れがあったわけじゃないのか、などなどの議論が第一発見者である妹との間で交わされたが、翌日にはいつものように子猫は椅子で眠っていた。
故を考え、ふと気付く。
その日、椅子は机の前に無かった。特に理由はないのだが、多分就寝直前までの自分の行動により、椅子はベッドに近い位置にあった。何となくピンときて、ベッドから机と椅子のある辺りまでの距離を測ってみる。
案の定というか、その距離1メートル弱。なるほど、と苦笑を浮かべてしまう。どうやら彼女にとって大事なのは、寝床の質よりも距離であるようだった。
翌日から、就寝前には椅子の上に座布団を引いた。フカフカとした繊維が柔らかい、少し高級なやつである。
最初こそ子猫は胡散臭げに見ていたが、特に文句も言わないまま、今日もまたその座布団の上で眠っている。
《7》
季節が秋と呼べるものになるにつれ、子猫の運動量は劇的に増えていった。同時にエンゲル係数も跳ね上がっている。
夏にテンションが低かったのは夏バテだったのか、という噂も囁かれたが、特に関係はなさそうである。どうであれ食欲の秋とスポーツの秋を堪能しているようだった。
ちなみに妹のタックルも、気温が下がるにつれて避ける頻度は減っているらしい。
その妹は、いつからか子猫を『フラン』と呼んでいた。聞いたところによれば、どこかの国の言葉で白を意味するそうである。
いちいち凝った名前をつけるものだと思いながら、しかし呼ばれればそれなりに返事の鳴き声を上げるあたり、子猫の中では自分の名前として認識しているのだろう。
ちなみに、母親は子猫を『シロ』と呼んでいる。どうやら我が家の家系はペットの名前を色で決めるようである。犬の名前じゃんか、と妹は嫌がっているが、どっちかと言えばその妹をおちょくるのが楽しいのだろう。母親はシロを頑として譲らない。
しかしながら、こっちの名前でもやはり子猫はきっちり反応するし、返事もする。案外、名前なんて彼女にとってはどうでもいいのかもしれない。
さて、それではそれにあやかり子猫の名前も決定しようと思う次第である。いつも内心では『猫』と呼んでいただけに、少々感慨深いものがある。
だがしかし、これが上手くいかないのである。具体的に言えば、返事をしない。犬と違って猫はそういう部分がドライであるらしいのだが、妹や母親、あるいは父親でも祖母でも、そのどちらの名前で呼んでも返事をするというのに、どういうわけか長男の呼び掛けには一切答えない。いつものように不機嫌そうな瞳で一瞥をくれるだけである。
おまえも名前をつけてあげたらいいんじゃないの、とは祖母の談である。しかし既に我が家の自重しない母子によって複数の名前がつけられているというのに、これで新しい名前をつけたら三種類である。
人呼んでなんちゃらの渡世人やら某国の諜報員じゃあるまいし、名前は一つにしておくべきであろう。
と思っていれば、祖母が分かってないねぇ、という顔をする。何が分かっていないのかは語ってくれないのだが。
《8》
子猫はあまり、墓参りをしなくなった。
それがどうだという話でもない。単に秋になって外が寒くなったから自重しているだけなのかもしれない。
正直言えば、少しだけそれはありがたい事だった。
あれからずっと、休みの日は子猫の墓参りを頼まれもしないのに見守っていたのだが、秋となれば外でじっとしているのにも少々寒い時期である。じゃあやめればいいだろうというもっともの意見は家族の各方面から寄せられていて、確かにその通りと思いはするのだが、何となく意地のようなものがあったのかもしれない。
誰に頼まれているわけでも、誰が得するわけでも、何の意味があるわけでもなくても――それでも子猫が墓参りをする限り、それに付き合う。そう決めたのだ。
轢いてしまった親猫に何かの感情があるわけでもない。今となっては姿形も顔も思い出せない。あの事故の状況を詳しく説明しろと言われても、それほど印象深いものでもない。冷たい話ではあるのだろうけれど、それが正直なところだった。
そんな自分が墓参りに付き合うのは、いつだって後ろめたい気分はあった。子猫も、背後で無意味に佇む男が邪魔だと思っているのかもしれない。
それでも今日もまた、親猫の墓の前で黙とうする子猫の背後で、その姿をじっと見つめる。いつもの距離、今や一人と一匹の暗黙のルールになった、約1メートル離れた場所から。
そんな真面目な話はさておいても、やはり外は寒い。子猫の墓参りの頻度が下がるのは歓迎すべき事だ。
不遜な考えを叱責するように不意に吹いた木枯らしで、込みあげたクシャミをどうにか堪える。我慢しなくても、なんて思いはするが、しかし邪魔はしたくないとも思う。
子猫は振り返り、こちらに一瞥をくれて、脇を通り過ぎる。いつもより少しだけ早く切り上げた墓参りの時間は約十分。かつては半日以上墓の前で立ち尽くしていた事を思えば、まるで通り過ぎただけのような時間。
もしかしたら、後ろで無駄に佇む人間に気を使ってくれたのだろうか、などと思ってしまうが、スタスタと振り返る素振りすら見せずに歩く子猫の背中に、そんな妄想は期待すべくもないと書かれている。
ところで秋になり、子猫の好物が発覚した。
普段は10㎏で五百円以下の乾餌をカリカリと無心に食らい、今まで食卓に顔やら手を出すような真似はしなかった。
妹は魚が食卓に並ぶ度に子猫に分け与えていて、確かに出されれば食べはするが、それを求めて妹に擦りつくような事は無かった。あるいは彼女のプライドが許さなかったのかもしれない。
それがどうであろうか、その食べ物を前にすれば妹の足元にゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄るどころか、家族の誰も与え尽くしたとなれば、こちらにちらりと視線を向け、おねだりしようか否かを本気で葛藤するほどである。
そんな魔性の秋の味覚こそ、猫まっしぐらな秋刀魚――ではないのである。
その正体は、事もあろうに松茸である。父親がある時、会社の営業先から貰った物だと家に持ち帰ったのだ。一般家庭ではお目にかかれないほど見事な太い松茸に、家庭内は軽くお祭り状態に陥った。
その様子を特に興味なさげに見つめていた子猫ではあったが、さっそく母親が松茸の炊き込みご飯、松茸の吸い物、果ては松茸の網焼きまで調理し始めたところで態度は急変した。
さすがにキノコ界の匂いの王様、子猫の鼻に届くや、マタタビの如く子猫を魅了した。本物のマタタビにはそれほど反応しなかったくせに。
愛しい子猫の為ならば自らのおかずが減る事もなんら厭わない妹であってさえ、さすがにこれを与える事には躊躇したらしい。しかしつぶらな瞳にねだられ葛藤すること数分、果たして妹の子猫に対する愛は本物だった。自らも初めて食す松茸のほとんどは、子猫の胃袋に消えた。
これで良かったのよ、と自らの行いを省みる妹に礼の一鳴きを残し、子猫のおねだり行脚が開始される。食卓をぐるりと一周、祖母と父親は面白がって与えたが、母親は一切れたりとも与えない。それどころか、足元でにゃあにゃあと鳴く子猫に対し、なんで秋刀魚辺りにしとかないのっ、と謎の逆切れを起こす。食い意地の張った女である。
さて、ぐるりと一周しても所詮はキノコ、腹にたまるはずもない。もう誰も与えてくれないとみるや、ようやく避けて通った場所へと視線をくれる。
予想通りであり、計画通り。にやりと不敵に笑い、この状況を見越して取っておいた一際大きな網焼き松茸を箸でつまみ、ゆらゆらと子猫に見せつけてみる。猫は一瞬目を輝かせ右足を前に出し、しかし次の瞬間には思い直したかのように引っ込める。
前に出し、引っこめ、前に出し――右足で軽快なステップを踏む子猫を、家族全員が猿の芸を見るような視線で見つめる。
はっと我に返った父親が、おいビデオカメラはどこだ、などと席を立つが、子猫の忍耐力はそこまで高くなかった。生けとし生けるもの、これ須らく食い気には勝てない。ゾンビですら腹を減らすくらいだ。
地雷原でも歩いているような慎重な足取りの子猫は、本当に、もう本当に渋々といった雰囲気で、いやらしげに松茸を揺らす男の元へと歩み寄る。
これはもう勝利を確信していいのではなかろうか。箸を持たぬ左手がわきわきと、かつての雪辱を晴らさんと武者震いしている。跡形もなく消えたはずの頬の古傷も疼く。
げに恐ろしきは松茸の魔力か、魅入られるように歩み寄る子猫は、既に撫で回されるのを覚悟したのか一気に距離を詰め――にゃあ、と鳴く。
唐突といえば唐突な鳴き声。その声に一瞬だけキョトンとしてしまい、次の瞬間には驚きの早業で箸の先の松茸を叩き落とす。そして口に銜え奪い去った。
思わず茫然としてしまうが、妹のゲラゲラ笑いに我に返る。この左手はどうしてくれよう。せっかくの高級食材をねだっておいて、あの態度はどういう事か。許せん。
無言で立ち上がると、少し離れた場所で松茸をもしゃもしゃと頬張っていた子猫が、殺気に気付き振り返る。スタートダッシュの時点で既に勝負は見えていたが、しかしこの期に及んでも松茸を銜えて逃げる卑しい性根を叩き直すべく捕獲を試みる。
まあ結論から言えば、逃げに徹した子猫を取り押さえるのは到底無理があったのだが。
さらに言うと、追跡開始から数分、諦めて食卓に戻れば松茸は残らず消えていた。個々に割り当てられた分まで。一瞬神隠しが起きたのかと唖然としたが、ふと妹の頬がもしゃもしゃと動く。視線も落ち着きなく揺れる。
こちらはあっさり捕獲に成功、松茸は戻らなかったがおしおきはできた。愛しの子猫の身代わりになれて妹は幸せそうだった。泣きべそをかくほどに。
《9》
北国というほどではないにしろ、冬になればちらほらと雪が舞う土地柄である。今年もまた例年のように、うっすらと景色は雪化粧を始める。
秋の夜長も十分に人恋しいが、しかし冬になればさらに夜は長い。しかも寒い。それは猫とて例外ではなかったらしく、ちょっとした珍事が起きた。というか、正確にはそれは秋頃からだったんじゃないか、と言われているが。
何が起きたかと言えば、縮まっていたのである。距離が。本当に微細に。何の話かと言えば一人と一匹の、固定されたような暗黙の1メートルが、である。
それに気付いたのは、またしても妹。どれだけ注意深く観察してるんだと問えば、わたしのフランちゃんの事だもん、とふんぞり返る。まあ確かに傍目からの方が気付きやすいのかもしれない。
衝撃的な事実に困惑しながらも、間違い無いと主張する妹の協力を得てそれとなく距離を測ってみる事になった。
相変わらず何となく近くにいる子猫との間を、妹がすかさず滑り込んで右手に煌くはメジャー。露骨すぎる、と言ってはいけない。妹とすれば最大限のさりげなさなのだろう。ギンギラギンもいいとこだが。
果たして驚愕の結果、本当に縮まっていた。胡散臭そうな表情の子猫が計測途中でどこかに行ってしまったので正確には不明だが、その距離80センチほど。偶然だろうという主張を論破すべく果敢にも妹がメジャー片手に一人と一匹をストーキングする。確かに、そのことごとくが80センチ前後。1メートル以下であった。
いきなり近づいたら絶対もっと早く気付いたもん、という妹の言を信じるならば、子猫との距離は本当に少しずつ、以前から縮まっていた事になる。
言うまでもあるまい、これは僥倖であろう。寒い季節がそうさせたのかは定かではないが、しかし子猫はこちらとの距離感が曖昧になっているのだろう。あれほど拘っていた1メートルが破られるとは。
ならばこの状況を利用しなければ嘘だ。一つの計画を立て、自室で一人ほくそ笑む。距離にしてほぼ1メートルの椅子を、ほんの数センチ、ベッドに近づける。ばれてしまっては元も子もないので本当に僅かに、誤差の範囲を演出する。
そしてその夜、特に何かに気付いたわけではなさそうな子猫が、いつものように椅子の上で丸まったのを見て、内心で快哉を上げた。
子猫との距離がそうだったように、ほんの少しずつ寝床をずらす。そして気付けば、その距離は手が届くほどになっている。
おやすみのなでなでから、モーニングタッチな挨拶を交わす事も決して夢ではない――かつては妄想でしかなかった計画も現実性を帯びた。
そして現在までに、それは驚くほど順調に推移している。1メートルが80センチと気付いてからひと月ほど、椅子とベッドの距離もまた、80センチほどに縮まっている。
そして今日もまた、一気に椅子の位置をずらしたくなる誘惑に耐え、椅子の位置を僅かにずらすのだ。
あまりに順調な経緯に嬉しくなり、リビングのこたつで安穏とみかんを食らう祖母と妹に、その計画を語って聞かせた。
別に喝采を期待していたわけではないのだが、しかし二人ともどこか呆れるような表情を浮かべ、妹は溜め息、祖母は可笑しそうに笑う。
そして二人は口を揃える――ほんと、似た者同士だよね――と。
誰と誰がだ、という質問には答えずに妹は少々不機嫌な顔をして、もう好きなだけくっついちゃえばいいじゃん、とか何とか言っている。できるものならそうしたいのだが、それができないからこんな小細工をしているのだが。
そんなこたつにのこのことやってきた子猫が、ちらりとこちらを一瞥し、向かいに座る祖母のこたつ布団の横で丸くなる。もう少し良い位置があるだろうに、という微妙なポジション。間に座る妹が、どこから取り出したのか無言でメジャーを伸ばす。
75センチ、といったところだった。
ちなみに、その僅かに移動している子猫の寝床こと社長椅子の位置を見て、妹が顔をしかめる。曰く、不自然過ぎだよ、との事。
確かに、僅か過ぎて自分でもあまり気付かなかったが、椅子はあきらかに机の前から離れている。一見すれば何事かと思うかもしれないが、しかし日々の忍耐の結果によって子猫には気付かれていないはずである。特に気にした風もなく寝床に入っているのだから。
気付いてるに決まってるじゃん、などという妹の言葉に触発されたわけではないのだが、確かに気になり始めると気になる。この微妙に不自然な椅子の位置。
これを解消するには、そもそも机の位置をずらすしかない。約5年来変えていない家具のベストポジションではあるが、しかし計画の障害となるのなら致し方ない。猫の為にそこまでしなくても、とも思うが、これは半分は意地のようなものなのである。
問題はキャスターのない、滑りの悪いカーペットの上に鎮座している机である。引き摺るのは難しい。じゃあ持ち上げれば、などと簡単には言えない代物である。
机自体の大きさはさほどでもないが、引き出し、棚にみっしりと詰まっている荷物が問題だ。下ろすのは面倒くさい。では選択肢としては、無理やり持ち上げる他にない。
ふんぬ、と気合を入れて抱えるように机の引き出しに手を差し込む。僅かに机が浮く。よしこのまま――と思えば、掴んだ引き出しの木枠が嫌な音を立てる。バキッと。やっちまったという感覚より先、嫌な汗が伝う。次の瞬間、机の脚が足の甲を踏み潰す。
声にならない悲鳴を上げて机をちゃぶ台返し、ぐらりと体勢を崩した机が、ミシッと音を立てて壁に僅かにめり込む。しかしそれどころではなく、激痛で床にのたうち回る。反転したその視界の先、部屋の入口で、子猫がじっとこちらを見つめていた。
そして、はあ、と溜め息を吐いたような気さえする表情を浮かべ、無言で部屋を出て行った。
机の位置は、夜までには無事にずれた。壁に穴は空いたが、計画自体は順調である。
《10》
普段よりも少しだけ積もり、今もまだ降り続ける雪の中、その小さな墓石を覆い隠す白の世界の中でも、一匹と一人は墓の位置を間違えたりはしない。
一体どれほどの時間を、ここで過ごしたのだろう。
一匹の猫を殺してしまった代償は、どれだけ払い続ければいいのだろう。
どれほど経てば、子猫は親猫の墓参りを止めるのだろう。
降り積もる雪の中、そんなつまらない事を考えてしまう自分に軽い嫌悪感を覚える。外が寒すぎるせいかもしれない、なんて言い訳もしてみる。
白い子猫は、まるで世界に溶けて消えてしまうように、じっと静かに佇む。いつものように。
子猫は何を思うのだろう。いつも、何を思っていたのだろう。
もう半年以上、子猫の墓参りに付き合ってきたというのに、今になってようやくそんな事が気になった。
殺した猫の為に祈るでもない、自らの過ちを悔いるでもない、ただ漠然とここにいた自分は何を思っていたのだろう。
いつかの自分の気持ちと、今の自分の気持ちは違うのだろうか。
何のために。そう、何のために。
何のためにやってんだ――いつまで続けるんだ――不意に父親のそんな言葉を思い出す。冬の寒空、ただ子猫に付き合っての墓参り。何も思うところはないのに、何のために?
猫を轢いた。あっちが勝手に飛び出してきたんだ、俺は悪くない、文句あるか――口にこそ出さなかったけれど、それはいつも奥底で反芻されていた自分の心。どれだけ口先の反省を唱えてみても、それだけはいつも変わらない自分の心の芯だった。
そして今も、それはきっと変わらない。
世界に溶けた白が動き出す。日に日に短くなっていく子猫の墓参り。それを嬉しく思う自分。単純に、この時間から早くに解放されるという理由で。
踵を返し、雪原に消えるように歩き出す子猫の背中をじっと見つめる。今日はその背中を追いかける気にはなれずに、猫の墓の前から。
子猫は本当に、そこにいるのだろうか?
今も、そこにちゃんといるのだろうか?
縮まった距離。しかし触れあうには遠すぎる距離。その体の感触は、以前に無理やりに捕まえた夏の日以来、感じた事はない。
あの時、自分の両手は子猫の鼓動を感じていただろうか。息使いはどうだったろうか。妹の部屋にいくつも飾られている、猫のぬいぐるみと何がどう違っただろうか。自分の両手を見下ろしてみても、今はもう思い出せない。
ふと、小学生の頃に仲の良かった友達を思い出した。あの頃一番の仲良しだったのに、もうろくに顔も思い出せない、四年生の時に遠くへ引っ越した友達の事。
彼はどんな顔をしていただろうか。どんな話をしただろうか。必ず続けると誓った文通は、何回かの往復の後に、忙しない日々に埋もれ存在すら忘れていった。
人間は――自分という人間は、そんなに長く覚えていられない生き物だ。どれだけ大事なものでも、目の前になければ、触れていなければ、あっという間に忘れてしまう。
にゃあ、という声が聞こえた。
長い逡巡から我に返り顔を上げれば、家の軒下、いつものように感情の読みにくい表情で、子猫がこちらを見つめていた。距離は遠い。何メートルも先。子猫の事など何も分からない。たった70センチの距離でさえ、分からないのに。
それでも、と足を向ける。いつものように子猫の背中を追って。70センチの距離、子猫はそれを確認して踵を返す。
それでもいつか、分かるかもしれない。そういつか、この距離が縮まって、触れあえるくらいに近付く事ができたのなら。
子猫が何を思っていたのか。
どれほど傷付いて、どんな気持ちで自分を見ていたのか。
子猫の親を殺したという事が、どれほどの意味を持った事だったのか。
何のためにやってるんだ――今はまだ分からない。だけど――
いつまで続けるんだ――その質問になら、答える事ができる。正解とは限らないけれど、それは自分で決めた事だから。
子猫が墓参りを止めるまで――そんな日は来ないというのなら――いつか子猫の隣に立って、二人で親猫の墓参りをできるようになるまで。
決して忘れえぬよう、子猫の存在の感触を、自分の体が覚えて離さなくなるまで。
《11》
今年こそパンジーを、とも思うが、しかし考えてみればパンジーに思い入れがあったわけではない。パンジーに比べれば小さなビオラの花弁もなかなか良かったし、そもそもは苗の中で一番安いという理由で選んだだけだ。
親猫の墓の周囲を花壇にしようという計画が母親から持ち上がった。そこまで大げさにしなくてもと思ったが、しかしあの場所が賑やかになるのは良い事なのかもしれなかった。
そんな母親の計画にやたら乗り気な妹は、『春の花百選』という学校の図書館で借りてきた本をリビングの机に広げ、花壇の計画を立てている。そこに載っている花は、今ならどれも花屋に並んでいる事だろう――季節は、春である。
コタツが仕舞われてからというもの、リビングに顔を出す時間が減っていった子猫ではあるが、家族の者が集まっていれば顔も出す。寂しがり屋なところがあるのかもしれない。
つい最近測った記録によれば、その距離50センチ。今はもう、手を伸ばせば届く距離――と言いたいところではあるが、問題は高低差。子猫を撫でまわさんと屈めば、気配を察して子猫は射程外へと離脱していく。
ここまで来たならいいんじゃなかろうかと思ったが、ふと考えてみれば、触るという事はゼロ距離である。
50センチと0センチの間には途方もなく長い距離が横たわっている。奇しくも半年かかってその事実を思い知ったところだ。
とはいえ、そろそろ子猫が我が家にやってきて――否、連れ去られてきてから、そろそろ一年になろうとしていた。彼女の生活も、当初から思えば何だかんだで変わってきている。
顕著なところでは、子猫は頻繁に外出するようになった。
猫の生態から物を言えばそれがどうしたというところではあるが、しかしこの冬まで家の敷地外には一切出ない筋金入りの引きこもり状態だった事を考えれば、もしや何かの殻を破って大きく成長したのか、と感動すら覚える。
冷静に考えれば、子猫は元々野良だったのだから、引きこもりも何も無いが。
そして、来た当初はこちらに近寄るどころか視線すら合わさなかった彼女は、季節を一周した今、いつでも何となく近くにいる存在となっている。
そんな事は秋頃から言われていたけれど、今一つピンと来ていなかった。しかし今は確かな実感をもって言葉にできる。相変わらず触れられない距離でも、仕事を終えて部屋で一息ついている時に視線を感じれば、いつの間にか部屋に潜り込んでいた子猫がベッドの上で丸くなっている。そんな日常だった。
ここ半年で何度目かの模様替えを行ったベッドと机の距離は、今は約50センチ。椅子とベッドを交互に使う一匹と一人。ポジションチェンジの際に距離が縮まり交錯する瞬間を何度か狙ったが、子猫は華麗な動きで見事にこれをかわす。
以前に一度、バランスを崩して壁に顔面から突っ込んで悶絶してからは、そのタイミングを狙う事は諦めたが。
そうして子猫成分が欠乏した妹が息を荒げながら、お兄ちゃんフラン来てるでしょっ? と部屋に飛び込んできてそのままベッドにダイブ。子猫の悲鳴と妹の嬌声が響き渡る部屋の風景もまた日常となりつつある。
ところでそんな二つの変化が、彼女に少々珍しい趣味をもたらした。
それは何かと言えば、ドライブである。あの事故で拉げた原付の前カゴは現在、素人仕事で無理やり矯正してあるが、どうもそのカゴに乗り込むのである。
さて出掛けようかというこちらの気配を敏感に察知した子猫は、一足先に前カゴに乗り込みスタンバイ、そのまま降りずに出先までついてくる。
何故そんな事に、と理由を問えばよく分らないのだが、思い当たる出来事はあった。
約ひと月前、子猫は体調を崩した。下痢や嘔吐を繰り返し、餌も食べずに寝たきりになったのである。
妹は軽くパニックを起こしていた。母親は近所の動物病院に片っ端から電話を掛け、すぐに見てくれると言ってくれた隣町の動物病院へと担ぎ込む事になった。
とはいえ平日の出来事、父親は当然仕事でおらず、その日は偶然休みだったサービス業の息子に子猫を預けた。
車は父親が乗っていった一台しかないし、そもそも息子は普通自動車の免許がない。というわけで原付の前カゴに子猫を押し込み、これでもかという防寒対策を施して動物病院を目指した。
結論から言うと、原因不明だった。恐らく何か変なものでも食べたんじゃないのか、とは医者の見解。乾餌と松茸にしか興味が無いと思いきや、猫らしい事もしていたようである。
入院と相成ったものの、三日後に引き取りに行った時には、もう子猫はピンピンしていた。
仕事を早退して現れた原付男を相変わらずのクールな視線で出迎え、感動の抱擁とは到底行かない様子で医者の手から飛び降りる。そしていつもの距離をとった。
良かったなと抱きかかえるでもない、会いたかったと擦りつくでもない、そんな一人と一匹の様子を見て、医者は怪訝そうにしていた。
そんな前置きはあるものの、当然その帰りも子猫は前カゴに乗って帰った。来る時はまさしくミイラのような処置を施されていて気付かなかったのだろうが、もしかしたら風を切るバイクの走りが彼女の琴線に触れたのかもしれない。
以来、子猫は事あるごとに原付の前カゴに乗るようになった。もちろん仕事場に連れて行くわけにもいかないし、一日がかりの用事や、かなりの距離になる場所への遠出の場合もある。
とはいえどかす場合は簡単で、触ろうと手を伸ばせばいい。勝手に降りてくれる。
そうしている内に仕事とプライベートの区別がついてきたのだろう、どうやら遊びに行くらしい、という気配だけを選りわけて現れるようになった。何かと器用な猫である。
運命、というものが実在するのであれば、それは恐ろしく周到な事をする輩だ。
ほんの数日後、そう思っている自分がいた。
《12》
親猫の墓周辺の花壇化計画も佳境、もはや机上で論ずるところはない。そこまで突き詰めた。妹と母親が。子猫は終始興味なさげだったが。
ビオラ全同色の単調な景色が気に入らなかったという母親が、これでもかというほど緻密な図をもって花壇の完成予想と必要な花の苗を書いてよこした。つまり買って来いという事である。お前の金で、というおまけつきで。
花の名前なんて詳しくない。ピンとこない名前がほとんどだった。首を傾げながらも、まあ花屋で聞けば答えてくれるだろうと頷く。
原付の鍵をキーホルダーの輪っかでくるくる回しながら、メモ片手にふと前カゴを見やれば――いつものように子猫がスタンバイ完了である。
さっきまで欠伸をして、話なぞ少しも聞いていないようでいて、目ざとい猫だった。
早く出せ、とばかりの視線を向けてくる。思わず苦笑を浮かべてしまうが、しかし断る理由はない。子猫を撫でない、という奇妙な了解の合図で、原付のエンジンを回した。
何をとち狂ったのか、母親から渡されたメモには、あまりここらの花屋やホームセンターには売ってないという花の名前が書かれていたらしい。最も近場の小さな花屋の店主が申し訳なさそうに頭を下げた。
アホらしいとばかりに、ある分だけ買って帰ってもいいのだが、しかしふと前カゴでこちらをじっと見つめている子猫と視線が合う。
大げさではあったが、あの完成予想図はなかなかのものだった。あの通りになるのだとしたら、少しばかり面倒を買う価値はあるかもしれない。これから一年、花の時期を思えばもっと短いのかもしれないが、それでも華やかなら、そっちの方がいい気がした。
知らない顔というわけでもなく、義理というものもある。揃えられる分はそこで揃え、後の数種類は少し遠出をして探す事にする。
医者に担ぎ込んだ一件以来、子猫は町を越えてまでは遠出の経験はない。機嫌は若干気になったが、しかしそう悪くはなさそうだった。どうやら本格的に原付でのドライブが気に入ったらしい。中型免許でも取って、原付なんかじゃなく大きなバイクなら、もっと喜ぶだろうか。そんな事をふと思った。
花の苗自体は、そう苦労せずに見つかった。少々郊外に店を構える大型ホームセンターには、需要不明なほどに充実した品揃えがあった。しかし花の名前でピンとこなかったらしいバイトのお姉さんが同僚に聞いて回った時間が無駄なロスと言えばロスだったが。
色とりどりの花の苗を荷台にぐるぐる巻きにしたが、それでもバランスが悪く乗り切らなかった苗は前カゴに。ここでようやく子猫の機嫌が低下傾向を見せた。
それでも、きっとすぐに機嫌も良くなる。本日のお使いの内容をざっと確認して頷く。これだけ絢爛なら、きっと毎日の墓参りもそう悪くないものになる。
今はもう、ほんの数分程度で済むようになった墓参りであっても、それが子猫にとって大事なことである限り、続いていくのだろうから。子猫が続ける限り、自分もまた続けるのだろうから。
一匹と一人の為に、それを何となく見ていてお節介を焼く人たちの為に、その全ての心に少しでも明るいものが消えないように、たくさんの花を道連れに。
《13》
――驚いてしまう。
それはいつもの帰り道で、いつも見ていた風景。仕事場が隣町にある自分にとっては、そこはいつも通る道。
決して忘れた事はない。それでも、何かの感慨を持った事もない。
ふと気付けば、ちょうど一年前。
ここで、猫を轢いた――
原付を道路の脇に止め、なんとなく、その何でもない道端に立つ。
寂しい場所だ。周囲は林で家もなく、車の通りもそれほど多くない。
人間であれば誰かが供えるであろう供養の花束も、そこにはない。自分だってずっとそんな事を思っていたのかもしれない。ここで何かが起きたなんて、想像すらできない。それほどまでに、何もない道端だ。
子猫が前カゴから飛び降りる。表情らしい表情は浮かんでいない。自分が抱いている感傷の欠片も感じていない。そんな顔だった。
猫を轢いたこと。子猫を連れ帰ったこと、その今日までの軌跡――そんな感傷は、人間だけのものなのかもしれない。事実ここには何もない。あの猫の亡骸だって、家の庭だ。
だからここは、少し気取った言い方をするなら、始まりの場所。
ここで自分が立ち止ったのは、多分、今も続き日々変わっていく、自分の気持ちのようなものの原点を忘れまいとする為の、確認みたいなもの。
50センチの位置から視線が合う子猫に苦笑を向ける。これは猫には分からない、人間の気持ちなのだろう。
そうして、ふと、思う――じゃあ、子猫はどうして付き合ってくれるのだろうか。
買物だって用事だって、誰かと話している時だって、前カゴから興味なさそうにこちらを見つめるだけの子猫は、この場所では自分の隣に立っている。
やはり彼女にも、それなりに思うところがあったのか――あるいは、もしも彼女に何の感慨もないのだとしたら、それは誰かさんの行動に似ているのかもしれない。
理由はないけど、そこにいたかった。
気持ちは分からなくても、傍にいなければいけない気がした。
一人でも大丈夫なんだろうけれど、見守っていなければ不安だった。
それは大きく違っていたけれど、違っていなかったもの。
距離は遠かったけれど、近かったもの。
触れる事はなかったけれど、溶け合うように同じだったもの。
花を植えようと思った。この場所に。
前カゴの一番手前にあった、名前もよく分らない花を取り出す。今はここで一輪、お役目を任されてもらう事にする。
死んでしまったもの、失われたもの、消えてしまったもの――それらは全て、忘れられていくもの。いつか、薄らいでゆくもの。どれだけ大事にしていても、気が付けば、無かったことになっているもの。
だからここに、今も、これからも続くものを残そう――そう思った。
そのついでに、失われたものを思い出そう。不遜であっても、不誠実であっても、それでもそうする事でしか自分という人間は覚えてはいられないのだから。
素手で地面を掘る様子を、子猫はじっと見つめていた。いつかの園芸作業のように、遅々として進まない不器用な手つきを見つめていた。
植えられた白く小さな花は、既に周囲に挨拶は済ませたとばかりに景色に溶け込んでいる。看板でも立てなきゃな、と苦笑。これからも続くものを、忘れるわけにはいかない。
ともあれ、今日はこれで帰ろうか。そう言おうとして、脇に控える子猫に視線をやる。
音が聞こえた。さっきまで一台も通っていなかった寂しい道に、車の音。あまりこんな場所を見られては、何を勘繰られるか分からない。さっさと帰らなければ――
遠く、カーブから現れた車に自然と視線が吸い込まれた。
特に何の変哲もないワゴン車だった。
スピードも出し過ぎという事もない。蛇行運転をしているわけでもない。普段であれば、ただ視線をやって、見送るだけの車だった。
それでも一つ、いや二つ、ぞっとするものを見た。
車がカーブを曲がった向きをそのまま斜めに、まっすぐこちらを目指していた。
そして運転手は、携帯電話らしきものに目を落として、前を見ていなかった。
子猫の鳴き声が聞こえた気がした。
まるで魅入られたように、体は動かなかった。
衝撃と共に、視界が踊り狂った。
《14》
なんだこれ――そんな事を、まず思う。
これは誰の視界なのだろうか。おかしな風景だ。何もかもがまるで反転しているような、見た事もないくらいに、奇妙な風景だ。
夢か何かなのだと思っていた。
体は動かない。何も感じない。何も聞こえない――
視界の隅で、走り去っていく何かが見えた。それがさっきのワゴン車だと理解するに時間を要した。自分が轢かれたのだと理解する事には、もっと時間を費やした。
待ってくれ――救急車を呼んでくれ――死んじまう――どんな言葉も、届かない。届けるべき相手がここにはいない。
――不意に、思い出す。何があったって、忘れるわけにはいかない。
これからも続くもの。続かせてみせると自分に誓ったもの。
視界の隅に、子猫が顔を覗かせた。ひょっこりと。彼女には似合わない、まるでこちらを心配するような顔で。思わず吹き出すように笑ってしまった。
怪我、しなかったか――その自分の言葉は、果たして口から出てくれたのだろうか。
ああ、としかし思い直す。言葉なんて通じないんだっけ。猫相手に。
だから霞れていく視界の中で、どうにか子猫の体を確認する。平気そうだ。でもこの子猫はあまり顔に出ないし、実は少し意地っ張りなところもあるし、油断はできないのだが。
せめて手を伸ばそうと思うけれど、手の感覚がない。残念、と笑う。これじゃせっかく触る事はできても、きっと何も感じない。もう触らなくてもいいか、と思う。
ああ、死んでしまう、酷い話だ、ふざけた話だ――取り留めもない思考が頭を過ぎっていく。
何かを恨もうと思うのだが、しかし何を恨めばいいのか。顔も知らない、あのワゴン車の運転手を? この最期の時に、わざわざ? 馬鹿らしい話だ。
子猫が、口を開ける。鳴いたのかもしれない。
勿体ない、と笑う。滅多に聞けないのに、何も聞こえない時に鳴いてくれなくても。
――なあ、どうやって帰る? こんなザマで、結構遠くまできたのに、歩いて帰れるか? 別に心配ないか。いつだって、一人でも大丈夫って顔してたもんな。でも疲れるだろ、送ってやれなくてごめん――
まるで洪水のように、言葉が次から次へと浮かび消えていく。何の意味があるのかという言葉ばかりが。
――もしかして、ざまあみろって思ってるか? いや、いいけどさ、それでも。そりゃもう少ししおらしい事考えててくれれば嬉しいけど、でも、それって悲しい事だよな、多分。だからそこにいろ、ほら、そこが50センチだろ。一匹と一人の距離だ。手を伸ばしても、まだ届かない距離だ。それなら、最期まで触れなくても、諦めもつく――
あの時の子猫も、こうして親猫を見下ろしていたのか。あの時の親猫も、こうして子猫に見下ろされていたのか。
親猫はなにを思っただろうか。声すら上げる間もなく死んでいったあの猫は、自分の子供に伝えたい事も伝えられなかったのか。今の自分のように。
あいにくと、伝えたい事はない。きっと心配すべきこともないのだろう。自分がいなくなっても、きっとこの子猫は一人で生きていくのだろう。もしかしたら、代わりに妹との距離を縮めていくのかもしれない――それでいい。
本当に、それでいいと思えた。伝えたい事はない。思う事があるとすれば、一つだけ。でもこれは口に出す必要もない言葉だ。どうやら話す事もできていないような今の自分には、ありがたい事だった。
それでも、自分の口が僅かに動いたという感覚があった。
声に出たかどうかは、分からない。
――無事で良かった――
唐突に、全てが闇に閉ざされた。
《15》
風が吹いた。
いつの間にか、目は覚めていた。
空は青く、地面は一面の緑。他に何もない。もしかして天国とか? と呑気な事を考えたりもした。しかし死者とすれば重要な事である。少なくとも地獄とは思えない事に安堵する。
にゃあ、という声が聞こえた。
いつからそこにいたのだろうか。いつもと同じ50センチの距離、手を伸ばしてもあと少し届かない距離で、子猫が佇みこちらを見上げている。
さて、子猫がここにいるという事は、ここはあの世ではないのか。
正直なところを言えば、ここがどこだとか、どうして自分がここにいるのだろうか、という疑問はどうでもいい事に思えていた。
多分、自分は死んだのだ。奇妙な事ではあるが、それだけは確信をもって言えた。
子猫はじっとこちらを見上げ、いつものように無言に戻る。二人っきりだなぁ、なんて冗談めかして言う男を、子猫はどこか呆れたような表情で見つめる。いつもと言えば、いつもの事。
仰向けに体を投げ出す。遠くにすら雲一つない空は、どこか不思議な空だった。
ふと気配を感じて顔を横に向ければ、子猫の顔がそこにあった。距離にして10センチ。あり得ない距離。しかし、望んでやまなかった距離。
こんな至近距離で見つめ合っているのに、やはり分からない。子猫は何を考えているのだろうか。触れてみれば、わかるのだろうか――背後から伸ばした手を、すいっと潜り抜けるようにして、子猫は身を離す。
やはりというか、やっぱり駄目らしい。
子猫は少しだけ躊躇うかのように動きを止め、しかしすぐにプイっと踵を返す。
いつものように、静かに素気なく、どこかへ向かって歩き出す。
慌てて立ち上がり、子猫を追った。一匹と一人の距離はよやくここまで縮まった。もう一度、これ以上離れるのは寂しい事だ。
しかし子猫は不意に立ち止まり、振り返る。
本当に静かな瞳で、静かな声で、にゃあ、とだけ鳴いた。
どうしてだろうか、その鳴き声だけは、何かの冗談みたいに彼女の意思が伝わった。
――ついてくるな――
彼女は間違いなく、そう言った。そんな確信があった。
思わず立ち止まるこちらを見やり、今度は躊躇う素振りも見せずに歩いていく。
こんなにも見渡しのいい場所なのに、どうしてだろうか。子猫の姿は風景に溶けるようにして、消えた。まるで最初から、何かの見間違いだったとでも言うように。
不意に、世界は光で満ちた。
子猫の名前を呼ぼうとして――でも、なんと呼べばいいのか、分からなかった。
《16》
即死、としか思えない状態だったらしい。
結局は轢き逃げにあったという事なのだが、じゃあ誰が救急車を呼んだのか、という話をすれば、次にその道を通った車の運転手らしい。
道端で倒れている男を見つけて怪訝にも呼びかけると意識がない。おまけに全身ずたずた。ホラー映画の幽霊を見たように声を跳ね上げ、救急車を呼んだらしい。どれほどの時間が経っていたのかは分からない。
意識不明は基本中の基本として、骨折も各所に見られ、何より心肺停止状態ですらあったらしい。集中治療室に担ぎ込まれてあらゆる蘇生を試みたものの、心臓は止まったままだった。
家族が到着する頃には、ほぼ医者も諦めかけていたらしい。ご臨終です、の台詞がまさに医者の口から出ようというところで、死んだはずの男は謎の復活を遂げた。
実は機械の調子が悪かったんじゃないかとでもいうように、心電図はほぼ平常通りの山型波形を描く。せき込むようにして意識を回復し、体を襲う激痛に悶えた。
という話を母親から聞かされたのは、集中治療室を出て翌日の事だった。どんな特異体質なの、と妹は呆れていたが、まあ細かい事は分からない、医者にも分からないのだから。
入院の手続きやら準備やらで忙しそうにする母親に、しかしこれだけは聞いておきたかった。
猫は、どうしてる?
その質問には、妹が代わりに答えた。曰く、あれから家に戻っていないらしい。一緒に轢かれちゃったのかもしれない、と悲しげに呟く妹の言葉を、まず否定した。あれが生死の境を彷徨った為の幻覚でなければ、子猫は傷一つ負わなかったはずだ。
その言葉に、これでもかというほど表情を明るくすると、じゃあ探さなきゃ、とか言いつつ病室を出て行った。
息をするだけで痛みの走る体を横たえて見上げた景色は、味気のない白い天井。子猫の事を心配していると思ったのだろう、母親が少しだけ躊躇うように、言う。
もしかしたら、場所が分からなくて戻ってこれないのかもしれないわね――その言葉に、頷いておく。
多分、誰も真面目には聞いてくれないであろう記憶は、自分だけが知っていればいい事のように思えた。
溶けるようにして消えた子猫。
もう、子猫は戻らないような気がした。
《17》
足の骨折が酷かったらしい。事故から一か月経つ今でも車椅子を手放せない。
長い事使っていたせいで、今では操縦の腕はそれなりになっている。事あるごとに売店で時間を潰しては散財するため、母親が舌うちをしている。余計なスキルをつけやがって、と。
そうこうしている内に轢き逃げ犯が捕まった。ニュース風に言うなら、容疑に関しては否定しているらしい。が、警察にはバレバレでもあるようだ。何度も病室に顔を出しては根掘り葉掘り聞いてくれた刑事の方々はきっちりと仕事をしてくれたらしい。
関連して、仕事が事実上のクビになった。この右足の複雑骨折は、どうやら完全には元に戻らないそうである。立ちっぱなしの仕事であり、重い物を持ったりもする仕事。どうやら続ける事はできそうになかった。
なので、いつの間にか話が進んでいた裁判では多額の慰謝料を請求する事になるそうである。病室に顔を出した弁護士がそんな事を言っていた。
半分キョトンとしながら聞いている息子の顔を見て、たまに顔を出した父親が苦笑する。まあ、お前は心配するな、と。
子猫の話はしなくなった。そんな暇すらなくなった。
何もかもが足早に通り過ぎるような日々。大事なものは、塗り潰されていくようだった。
――暇を見て抜け出した病院の中庭で、空を見上げる。
どこかくすんだ青は、いつか見た空よりは印象深くはなりそうもなかった。もしかしたら一緒に見上げたかもしれない、あの不思議な空。
それでも、この空だって悪くはない。そういう事にして、日々を過ごす。
墓参りに行ってないな、なんて事を思った。
今、あの場所はどうなっているのだろう。花壇になっているのだろうか。あの場所はいつまで、ただの花壇ではなく、墓として扱われるのだろうか。
子猫がそんな状況を見れば、どう思うだろうか。案外、何も思わないのかもしれないが。
――にゃあ、という声が聞こえた気がした。
猫の鳴き声なのは分かる。もしかしたらあの子猫の声かもしれない、なんて事を思って、そんなわけないか、と首を振る。
なあ、お前、どんな声だったっけ――ここにいない彼女に問いかける。
判断しようにも、聞きなれているほど聞いた覚えのない子猫の鳴き声。もしかしたら妹なら判別できるのだろうか。自分には分からない。
なあ、どんな感触だった? 体はどれくらい温かかった? どんな息使いだった? もしも白い子猫がいて、どうすればお前だと分かるだろう。とりあえず、松茸でも食わせてみればいいのか?
――あれだけ一緒にいた男は、一体お前の、何を知っていた?
埒もない考えに首を振り、小さく笑う。
退院時期はまだ未定、なのに裁判はもうすぐ始まる。仕事はクビで、この体でできる仕事を探していかなきゃいけない。
失われたものは忘れゆくもの――それだけは、どうしたって変えられない。覚えていられるのは、今も続くもの。誰かさんがそれを望んだなんて、思い込みながら生きていく。
大きく息を吸い、吐き出す。しっかりと顎を引き、腹に力を込める。
どこかで鳴いたかもしれない子猫に一瞥をくれ、車椅子に乗り込み踵を返した。ただ前に進むために。
考えなければならない事は山ほどあった。
あんな名前の無い猫のことなど、きっといつの間にか、忘れてしまうのだ。
名前の無い猫 / 完
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