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春待ち人に告げる歌

作者: かずさ

 重苦しい沈黙の中、革靴の鋭い足音が耳を打つ。前を行く男は振り返りもせず、ただ進み続ける。足取りに迷いはなく、長身ゆえに、その一歩一歩は大きい。歩調を緩める気遣いなんて、欠片もない。おかげで私は急ぎ足でついていかなくてはならなかった。


 もし、私がこのまま立ち止まってしまったら、この男はどうするのだろう。もしかすると、私の存在すら、とうに忘れてしまっているのではないだろうか。そんなことをぼんやりと思っていると、いつのまにか黒い背中は遠くなってしまっていた。


 私が男に引き取られてから数ヶ月。その間、一度も父と呼んだことはない。父として見ることは、どうしてもできなかった。


 はじまりからして、腑に落ちないことばかりだった。ある日突然、孤児院を出るように言われ、追いたてるようにして黒塗りの車に乗せられた。どこかに引き取られるのだろうということはわかった。だけど何の予兆もなかったのに、なぜこういうことになったのか、どうしてもわからなかった。


 時折、孤児院には、見知らぬ大人たちが訪れた。たいてい彼らは先生と何かを話しながら、私たちが遊んでいるのを遠目に見ていた。きっと、どの子を引き取るのかを相談していたのだと思う。そんな人たちが来た後には、いつも誰かが居なくなっていたからだ。

 幸せになった子もいただろうし、そうでなかった子もいただろう。私たちはそれをわかっていたけれど、いなくなった子たちのその後を口にすることは、決してなかった。いつの間にか口にしてはいけないと思うようになっていた。みんなどこかで諦めていたのかもしれない。ここにいる限り、自分の運命を自分の手で選ぶことはできないのだろう、と。


 子どもたちは神隠しにあったわけじゃない。いつだって何かの前触れがあった。みんな、そういうのにはひどく敏感で、だけど気にしないふりをしながら覚悟を決めていたのだと思う。なのに、私はそんな時間ももらえないまま、車中の人となった。


 そうして行き先もわからぬままたどり着いた先は、大きな屋敷。私はしばらく呆然とした。なんせ私の居た孤児院の何十倍、何百倍も大きかったのだから、無理もないと思う。

 次第に、悔しさがこみあげてきた。なぜ、こんな見るからに裕福そうな家の人間が、私みたいにみすぼらしい孤児を引き取ろうとしたのだろう。なぜ、自分で顔を見に来ることもなく、なかばかどわかすように連れてきたのだろう。ただの金持ちの道楽だとしか思えなかった。けれど、私にはどうすることもできるはずがない。それがひどくむなしかった。


 車から降りると、初老の紳士――後に、家令なのだと知った――に、応接間に通された。促されるまま、革張りのソファに腰掛けると、面白いくらいに沈んだ。

 自然と、孤児院のみんなの顔が浮かぶ。あの子たちなら、この上で跳ねまわり、はしゃぐに違いない。誰かの歓声が響くのが当たり前の生活。それが、今日からはまるで変わってしまうのだと、今更ながらに実感した。


 物心ついたときから、私はずっと孤児院にいた。けれど、寂しいと思うことはなかった。あそこは、いつでもたくさんの子どもたちがいて、ひとりになりたくてもなれないくらい、にぎやかだったから。


 ここまで付き添ってくれた家令は、一礼を残し、去ってしまった。時折微かに足音が響くが、この家の主はいっこうに現れない。がらんとした広い部屋に、ひとり。私はなんとなく背を丸め、自分の両膝を抱え込んだ。


 知らないうちにうとうとしていたらしい。目を覚ますと、すっかりあたりは薄暗くなっていた。起き抜けのけだるさを振り払うように、軽く頭を振る。


「起きたか」

 さらりと落とされた声に、弾かれたように顔を上げた。気づかぬうちに向かいに座していた男の、他を圧倒させる威に、一瞬怯んだ。一目で、彼がこの家の主なのだとわかった。

 何か言おうと、私は口を開きかけた。だが、男はそれを待たずに立ち上がり、踵を返す。

「ついてこい。部屋に案内しよう」


 私のものになるという部屋は、やはり広かった。クローゼットには、既に何着も服が掛かっていたし、清潔そうなリネン類もきちんと用意されていた。まるで、貴族の娘のような待遇。だけど、あまり嬉しいとは思わなかった。こんなにも広いと、かえって落ち着かない。


 無言のままの男を、横目でちらりと見たが、何を考えているのか、まるでうかがい知ることはできなかった。

「本当に、何から何までありがとうございます」

 私は、ようやくそれだけ言った。

「いや」

 男は、相変わらずの無表情で、短く答えただけだった。


 それ以来、ほとんど男とは喋っていない。喋ったとしても、事務的な会話だけ。そもそも、仕事が忙しいだとかで、顔を合わすこと自体が極端に少なかった。


 端から端まで距離のあるテーブル一杯に、きらびやかな料理が並べられるたびに、思う。すこしずつ、みんなで分け合って食べていた、孤児院での食事の方がずっとずっと美味しかった。一人で食べる食事は、まるで味がしない。

 たまに、男が向かいに座っていることもあった。けれど、その時の方がもっと苦しかった。この上なく優雅に扱われる、ナイフやフォーク。視線がこちらに向くたびに、咎められているような気分になって、たまらなかった。


 帰りたい、と何度も思った。この大きな家に私を一人残す位なら、あのにぎやかな場所にそのままいさせてくれたらよかったのに。私よりも、お金や仕事をとる人間に、どうやって懐けというのだ。いつだって、私の気持ちを知ろうともしないくせに。


 今だってそうだ。私が居ないことに、気付いてもいない。考えても仕方のないことだ。今更、孤児院に帰ることはできないのだから。

 結局、いつもの結論に達してしまい、ため息をついた。


 男を追いかけなければ、と頭の隅では思ったけれど、なんだかそれも癪で。とうとうその場に立ち止り、持たされた花束を抱え直した。途端、ふわりと優しい香りがくゆる。どこか懐かしいその香が、ほんの少し気分を鎮めてくれた。

 降り注ぐ光のもと、色とりどりの花はあでやかに咲き誇る。まるで、己を誇るかのように。


 ――花にまつわる、忘れられない光景がある。私にとっては、愛おしくてたまらなくて、そしてすこしだけ悲しい記憶。


 いつのことだっただろう。私はひとり、今にも泣きだしそうな曇天の街を歩いていた。せわしなく行きかう人々は、まるでモノクロームの影のよう。だから惹かれずにはいられなかったのだろうか。不意に、真っ赤なカーネーションの花束が、目の前を横切った。

 思わず振り返り、花束の主を確認すると、だらしなく服を着崩した、中年の男。花束なんて全く似合わないのに、とても大切そうに抱えて、その姿が、なぜかとても眩しく感じた。


 その姿を見送ってから、気が付いた。今日は、母の日だったのだと。気づいたところで、私には花を贈る相手もいない。なにより、花を買う余裕なんてない。


 その頃、孤児院には、私よりずっと小さい子が沢山居た。その日その日で、食べるのもやっとの生活。だから、私はお腹をすかせた彼らのために、街で働かなくてはならなかった。

 あかぎれだらけの手を、厭ったことはなかった。血のつながりのない弟や妹に、笑顔をあげられるのが誇らしかった。だから、私は間違いなく幸せで、それを疑うことすらなかった。

 でも、時々言いようのない寂しさを感じた。不安定で、自ら運命を選ぶことすらままならない身の上にいらだち、なぜ、と問いたくなることもあった。この日なんかは、特にそうだった。


 花を贈られる人は、きっと幸せだろう。それから、花を贈る人も。何かを伝えたいと願う、そんな相手がいるのだから。


 手の中の花束を、抱きしめるようにきつく抱えた。確かにここにあるのだと、無性に確かめたくなった。日溜まりの中、大切に育てられたに違いない、鮮やかな色の花。今、これほど近くにありながら、私からはほど遠いもの。だからこそ、憧れてやまないのだろうか。


 屋敷にいるのは、つらい。だから、外に出たら、何かが変わるかもしれないと、どこかで期待していた。けれど、結局、どこへいても、同じなのかもしれない。


 そもそも、発端は、今朝、男と食事を共にする羽目になったことにあった。それだけでも珍しいことなのに、男は、自分の食事を終えても、部屋を出ていこうとしなかった。そんなことは、初めてだった。怪訝に思いながらも、極力目を合わせないよう、うつむいた。


 男はそんな私に構うこともなく、傍に控えていた家令に何かを命じたようだった。彼はいつものように優雅に一礼を残し、静かに部屋を辞す。やがて控えめなノックの音が響き、男がそれに応じると、一抱えほどの長細い箱を抱えた家令の姿。男はごく自然に箱を受け取り、すぐさま梱包を解きにかかる。箱の側面の表記からすると、おそらく中に収められたものは花なのだろう。

 咄嗟に、私は大輪の薔薇の花束を連想する。体の芯から貴族が染みついたような男には、そんな花束が相応しいように思えた。実際、あのすらりとした長身には、豪奢な花束がよく映える。もっとも、それはただ整った絵であるというだけで、あのときの光景と違って、何の感動も覚えないだろうけれど。


 とにかく、私は冷めた目で、包装を解く男の手元を見ていた。だから、それが姿を現した時、思わず声を上げそうになった。豪華な薔薇とはかけ離れた、色とりどりの可憐な花束。まるで似つかわしくないそれを、男は大切そうに抱えた。

 思わず、私は男の顔を凝視した。それがまずかった。視線に気が付いたのだろう。こちらを向いた男と目があった。反射的に目を逸らしかけたが、なんとなく癪で、私は男をにらみ返す。気まずい沈黙が降りたような気がした。


 先に沈黙を破ったのは、男の方だった。

「ついてきたいか」

 ごく簡潔な言葉から、その詳細は一切知ることができなかった。

 でも、なぜだろう。妙な迫力に気圧されたせいか、それを問うより先に、私はとっさに頷いてしまった。自分でもわからない。どうして頷いてしまったのか。どうして、ほんの少しとはいえ、男に関心をもってしまったのか。

「そうか」

 男はわずかに俯くと、表情を変えないまま、それだけ呟いた。


 そこからの男の行動は素早かった。すぐさま立ち上がり、部屋の扉を開け放った。ぼんやりとその背を見送っていると、男は振り返り、しかめっ面を作る。

「何をぼうっとしている」

 それだけ言い残し、足早に部屋を出て行ってしまった。しばらくあ然としていたが、開け放たれたままの扉を見て、はっとした。暗についてくるように言っているのだと、ようやく気付いた。

 慌てて後を追い、たどり着いたのは車庫だった。無言で車の傍に佇む男が私の姿を認め、数歩、距離を詰める。私は思わず一瞬身構えた。

「わ」

 唐突に、腕に花束を押し付けられた。一瞬あっけにとられて男を見上げた。だが、あまりの無表情に、私は慌てて腕の中の花束に視線を落とした。

「持っておけ」

 男は、そんな私をとがめ立てることはせず、自ら運転席に座した。ほっとしたような、拍子抜けしたような変な気分で、私も車に乗り込んだ。

 そこから、一時間ほどだろうか。その間、一切口はきいていない。だから私は相変わらず、目的も何もかもわからないまま。


 ――そして、今に至る。


 私は再び辺りを見回した。建物の中は、どこもかしこも、白くて、清潔で、そして眩しい。少し張りつめたような、でも人を柔らかく包み込むような空気がその場に満ちていた。

 ここまでくれば解る。男は、誰かに逢いにきたのだ。花束を手渡し、何かを伝えるために。

 あの男にも、そういう相手がいるのだと思うと、ひどく不安になった。伝えるべき相手も言葉ももたない私が、本当にこの花束を持っていてもよいのだろうか。


 次第に、この先に進むことがひどく億劫になってきた。だけど、もう引き返せないところまで来てしまっている。仕方なく、のろのろと足を進めた。男を追いかけることは、とうに諦めている。


 半ば花束に顔を埋めるようにしながら歩いていたせいだろうか。人影に気付くのが、一瞬遅れた。あ、と思う間もなく、手に持っていた花束を、男に奪われた。


「何をやっているんだ、お前は」

 苛立っているというよりは、むしろ呆れている、といった声色だった。恐る恐る見上げると、案の定、男の眉間にはきつい皺が寄せられていた。

 私は溜息をついた。そのせいで男の表情はますます険しくなったが、もうどうでもいい。


「帰ってもいいですか?」

 ふて腐れたように言い放った。使い慣れない敬語。態度が不遜なままなのは、もう仕方がないだろう。

「だめだ」

 間髪入れずに返される。予想はしていたが、やはり面白くない。もう一度溜息をつくと、私は足早に歩き始めた。慌てたように男が隣を歩き始めるのを見て、少しだけ、気分が良くなった。


 帰られては困るとばかりに、今度は男も私に歩調を合わせてきた。最初のうちはそうでもなかったが、終いには鬱陶しくなってきた。私が帰り方すら解らないという事実は、すっかり頭から抜け落ちているのだろう。

 横目で男の様子をうかがった。奪われた花束は、今は男の手の中にあった。

 やはり、似合わない。なんとなく、また溜息を吐きたくなった。そんなことをしたら、また何か言われるだろうから、しないけれど。


 階段や長い廊下を抜けた先、いくつもある扉の一つの前で、ようやく男は立ち止る。一度呼吸を整えてから、数回、扉を叩いた。けれど、中からの返事はない。


「入るぞ」

 その声は一体誰にかけたものなのだろうか。私か、それともこの部屋の中にいるはずのひとになのか。いつにもなく堅い声だった。

 言葉通り、男はノブに手を掛けた。躊躇うようなそぶりを見せたのは、一瞬だけだった。男が部屋の中に入ったのを見届け、扉が閉まりきらないうちに、私も続いた。


 瞬間、鼻をかすめたのは、名前も知らない花の香り。持ってきた花束とは違うものだった。

 開け放たれた窓の向こう、木々の間で揺れる光が、部屋中に踊る。ふわり、と風で揺れたカーテンを目で追いかけ、そこで、ようやく私は彼女の存在に気付いた。いや、本当は、最初から気づいていた。なのに、なぜかその存在を意識に入れることを、どこかで拒んでいた。


 彼女は、白い清潔そうなシーツに身を委ねきっていた。痩せこけた輪郭に、病的なまでの肌の白さ。青紫に近い色の唇は鋭く結ばれていて、閉じられた瞼はぴくりとも動かない。布団の上にきちんと重ねられた手もやはり青白く、まるで透けて消えてしまいそうに儚い姿でありながら、えもいわれぬ生々しい質感をもって、彼女はそこに存在していた。だからだろうか。彼女から、目が離せなかった。


「よく、眠っている」

 少しだけ安心したように、でも哀しそうに男が言った。今まで聞いたことのないような、深い声。


 その言葉で、私はようやく我に返る。そうだ、この人は眠っているだけなのだ。だけど、どうしても、私にはただ眠っているだけには見えなかった。まるで、どこか遠いところに心を置き去りにし、抜け殻だけがここにあるようで。

 だから、目が離せなかったのだろうか。でも、それだけではないような気がした。他に、目を離さずにはいられない何かがあるはずだ。


 答えを求めるように、思わず私は男を見上げた。それに気が付いた男は、少しだけ目を細めた気がした。

「花を置いて帰ろう。目が覚めたときに、寂しくないように」

「いいんですか?」

 思わず、聞き返した。

「いいんだ」

「いいんだ、これで」

 声の出し方を確かめるように、男は呟いた。彼女を見つめるその横顔は、どこか吹っ切れたようにも見えた。


 行きと同じように、後ろの座席に座る。助手席は、空席のままだ。

 一度だけ、後ろを振り返った。この街で一番大きな病院は、傾きかけた日を仰ぐようにそびえ立っている。やがてそれが小さくなった頃、私は窓を閉めた。今日みたいな小春日和が続くようになったとはいえ、この時間になると、少しだけ風が冷たい。


 彼女が眠っていたあの部屋の窓は、もう誰かが閉めたのだろうか。きっと、彼女が自分で閉めることはないだろう。あれは、長患いをしている人のもつ空気そのものだった。ともすれば、起きあがることすらままならないような。


 男は、彼女にいったい何を伝えたかったのだろうか。伝え手がそこにいなければ、花に託す伝言は、美しくも儚く、心もとない。少なくとも、私はそう思う。

 だけど、男は、伝わることを信じて疑っていないように見えた。


 ――これでいいんだ。

 そう言って、彼女に向けられたまなざし。あれは、どうしても忘れられそうになかった。どこか哀しみの混じった、優しい目だった。彼女が病を患っていたからだろうか。でも、私を見る目も、なんだかいつもと違うような気がした。そう、あれでは、まるで。


 そのことに思い当たった途端、言わずにはいられなかった。

「あの」

「何だ」

 短い呼びかけに、やはり男も短く答えた。当然ながら、視線は前に固定されたままだ。

「連れてきてくれて、逢わせてくれて、ありがとうございました」

 男の方から私の顔が見えないのをいいことに、いくらか早口に言った。


 少しの沈黙の後、男は口を開いた。

「覚えていたのか」

 心なしか、声が震えていた。それで、確信した。やはりそうなのか、と。

「そういうわけじゃないんです。なんとなく、そうじゃないかって思っただけで」


 あの人が、私の母親なんだ。

 実感は、遠い。彼女の像は、記憶の中で上手く結べない。でも、眠る彼女から感じた何かは、確かに遠い昔、感じたことのあるもの。私の焦がれてやまなかった何かと同じもの。


 滑るように走っていた車は、いつの間にか、赤信号で止まってしまっていた。

 鏡越しに、男と視線がかち合う。どこか途方にくれたような、迷い子のような瞳。今までは冷たい印象しかなかったのに、今は、必死で動揺を抑え、努めて無表情を装おうとしているように見えた。


 ――そうか、この人は、私に無関心なんかじゃなかったんだ。


 いつか、家令から聞いた話を思い出す。男はずっと海外を拠点に生活していたという。つい最近、どうしてか急に戻ってきて、私を引き取って、そうして前よりずっとずっと忙しくなってしまったのだと。

 今まで、男のことを信じようとしなかった。引き離された過去だけに追いすがるあまり、現実を見ようともしなかった。でも、真実を知ってしまった今、ようやく少し、信じられるような気がした。


 たぶん、この人は私の父親で間違いないのだろう。血の繋がった、本当の父親。きっと、最近まで知らなかっただけなのだ。私のことも、母が病を患っていることも。いつもそうだ。肝心なことは言わないで、何もかも、一人で勝手に済まそうとする、不器用な人。


 ――私は、捨てられたわけじゃなかった。決して意味のない存在じゃなかった。いつだって、私は確かに愛されていたのに。


 今はただ、溢れてきそうになる涙に気づかれないようにと、じっと窓の外を眺めていた。

 夕焼けが、ふわりと優しく街を包む。鳥の影が、帰るべきところへ帰るために、群れをなして空を渡る。いつもはもの悲しい景色が、今日はなんだか違って見えたのは、きっと視界が滲んでしまっているからだ。

 お互いに、何も言わなかった。でもそれは、もう、居心地の悪い沈黙なんかじゃない。



 春が来たら、もう一度あそこを訪ねよう。私の好きな、春の花を両手一杯に抱えて。

今度は、母が起きるまで待って、それから、そうしたら今度こそ、この人のことを父と呼べるかもしれない。


 父は、どんな反応をするだろうか。驚くだろうか。喜ぶだろうか。それとも、やはりいつものような無表情のまま、そっぽをむいてしまうだろうか。

 どれにしても、それは、きっとひどく幸せな光景だろう。


 ――ただ、今は、春を待とう。


(初出:2006.12.17)

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