意識のシームレス化
10月1日から「ネット小説大賞」が始まっているようで。
文字数の多寡やポイントで絞られないというのは、良いですね。
なろうで主流ではないジャンルであったり、あるいは好まれない話の流れだったとしても、チャンスはあるんでしょうか。(ランキングに流行りの作品は、大まかに主流とまとめます)
主流でない作品の場合でも、実際に「読める」方は多いとは思っています。
ただ、主流で人気の作品より数段階あるいは別次元的に実力が勝っていないと「読まれない」というのが正直な感想です。
そんなすごい作品なら、むしろ普通の賞に応募した方が良い立ち位置でスタートできる気がしますが。
なろうでピックアップされてる作品や、例えば「ネット小説大賞」の前身であるなろうコンの受賞作品などは、「読みやすい」「主人公の動機が明白」は利点かと思います。
(読みにくいと思うものや、動機を表すまでが端折りすぎでは、という感想も、もちろんあると思います)
読みやすさは、第一話部分での「簡潔さ」に通じます。「書いた方が良さそうな部分もダイジェスト気味に済ませる」のは別問題ですが、明快で分かりやすい文章は導入部で特に必要となります。
少なくとも、意味の読み取りに四苦八苦する文章は、作品世界に入る力を減じてしまうでしょう。
今日は次のステップ。
一文単位あるいは段落単位で簡潔さ、分かりやすさを実現できても、今度は「内容の流れが読む人の意識にうまく流れ込むかどうか」の問題があります。
導入段階の早いうちにスッと、意識に入り込んで、そのまま勝手に文字を追ってしまうという状況を作る必要があります。
冒頭にショッキングなシーンを持って行け、とか、謎をもってこい、はこれに関連したアドバイスでもあります。
字を見て、読者の意識に引っ掛かりが起きぬよう、作品世界を段階的に浸透させていく必要があります。
このあたり、映画のカメラワークのように、意識の動きをシームレス(流れが途切れにぬよう)にするのが大事かと。
以前取り上げた、共起関係の表現で言えば、私は以前「風で砂が飛沫きをあげる」というような書き方に挑戦してみました。もちろん狙ってです。
これは「しぶく、は水などで使うから砂で使うのは違和感がある」とダメ出しを喰らいました。
物語の冒頭部で、唐突に出して、しかもうまく共起・非共起を扱えてなかったからだと、今では思っています。
その時の舞台は砂漠だったのですが、もしこの時、砂漠を海に見立てるような書き方を少し前に出していれば、「砂が飛沫を上げる」といった書き方は砂=水として、違和感が持たれなかったかもしれません。
(なお、この文はある文学賞に応募しようとして、その冒頭部を人に読んでもらった時の話です)
カメラワーク的な書き方と言えば、芥川氏の「羅生門」は冒頭部がそれにあたるようです。
『ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男の他に誰もいない。』
夕暮れ→羅生門→男(と、その周辺状況)に徐々にクローズアップしていく形でしょうか。また、下人と言う言葉は、その言葉の使われた時代背景をさりげなく示し、「雨やみを待っていた」は現在完了形に近い使われ方をしているので「下人は少し前から雨が止むのを待っていた」と分かります。
さりげなーく、そうした情報を短い言葉で、意識に送り込もうとしていますね。
この後『ただ、ところどころ丹塗りの剝げた、大きな円柱に、蟋蟀※(コオロギのこと。この時代はコオロギのことをキリギリスと読むので、ルビはきりぎりす)が一匹止まっている。』と続きます。
羅生門は平安京の南はしにある門で、言ってしまえば大きな玄関口……でしょうか。それが「ところどころ丹塗りの剝げた」ということは、ただ柱の状況を書くだけではなく、煌びやかな権勢がない状態→管理が行き届いているはずの場所に手入れが行き届いていない状態、と分かります。
また、蟋蟀については、今の季節が秋であることが分かります。
短くしつつ、内容が伝えてくる情報量は多い。こういう文をさらりと書くのは難しいですが、「芥川やるじゃん」とうそぶきつつ(周りから「何様だ」って言われますが)、吸収し超えていきたいです。