芸術文=実用文+α
私が「ラノベ」というものに出会ったのは高校生入学の年だった。最初は楽しかった。
夏休み直前の七月、私が読書好きと聞いたクラスメイトが本を二冊持ってきた。
どうも肌に合わなかったらしい。よければ買ってくれないか。
たしかそんな内容だった気がする。
読書好きと言っても、週末に図書館に行くくらい……クラスメイトが判断したのはそういうところらしい。
おためしで読ませてもらった一冊目は、ある組織に属する超能力者の少年が主人公の話だった。
結局それが原点になった。
ただ、最初読んだときは「小学校低学年か、五年生くらいまでが読む本かな?」が正直な感想だった。
当時は「グィン・サーガ」や「スタートレック」「剣客商売」など、自分が生まれるはるか前に書かれたものを好んで読んでいた。それと同じ感覚で読んでいたら、半分以下の時間で読み終わった。
少々物足りないが、面白くはあった。
言葉遣いなどが妙に幼く感じるが、まあ面白くはあった。
この程度なら、自分でも書けるかな。
実際の所は、巻末に100万円(300万円だったかもしれない)という大賞賞金の金額に目がくらんだ。
そんな感じで、クラスメイトから購入するに至った。
グィンサーガやスタートレックのような話を自分で作るなど想像もできなかったが、手の中にした本くらいなら楽勝。それくらい当時は手にした本を軽薄だと見ていた。
年明けくらいには、ルーズリーフで100枚を少し超えたくらいの話ができていた。
内容は、超能力者の少年が主人公の話だった。
自分の書いたあの作品は、今思い返しただけでも体中をかきむしりたくなる。
その後十年ほど読むことも書くことも激減したが、なんやかんや一念発起して小説家になろうに登録した。
そのころからだんだん、子どもの頃読んだ川端康成や芥川龍之介を読み返すようになった。
面白いのは、当時は訳の分からなかった内容や解説なども、理解をもって読めたこと。
同時に思ったのは、出版された時代の違いこそあれ、ラノベ(一般文芸も含む)の一部で見たような妙な言い回しが少ないこと。少なくとも「文豪の作品」に予想していたほどではない。
作文の本には、否定しているものもあるが、谷崎潤一郎は「文章読本」において、韻文でない文章に実用文と芸術文の区別はないとしている。
以下はそのまま抜き出したというより、要約したものに近い。
『芸術的な目的で書いた文章も、実用的に書いた方が効果がある。(中略)文章をもってあらわす芸術は小説であるが、芸術は生活を離れて存在はせず、小説で使う文章こそ最も実際に即したものでないといけない。(中略)簡単な言葉で明瞭にものを書きだす技術が、実用の文章においても同様に大切。できるだけ無駄を切り捨て、不必要な言葉を省く。短く引き締めることで、より一層印象がはっきりするように書く。簡にして要を得るとはそういうこと。すなわちもっとも実用的に書くことが、芸術の手腕を要するということ』
私はこの考えに賛同したい。というより、自分をライターと小説家の中間のような存在と思っているので、このような考えで書くのが最も良い文章だと感じている。
前の話では文豪の技術などを――ほんの少しだけど――見たわけだが、まずは第一条件である「わかりやすく」さえできればあとは内容の勝負――展開がおかしいとか、つじつまが合っていないとか――になる。
というより、実際は第一条件の練度が低くて、作品の魅力を減じる場合が殆どだ。
渡辺富美雄著『日本語文章力』にて、著者は実用文は芸術文と違うとしたうえで、「名文と上手い文章は違う」と、上手い文章の条件を次のように上げている。
・最後まで引っかかりなく読める。
・テーマ(主旨)が分かりやすく書かれている。
・簡潔な文で書かれ、言葉や表現の無駄がない。
・読み手の誤解を招かない。
・論理的に矛盾がない。
・誤字・脱字・語字句の誤用がない。
・表記や文体が統一されている
・書き手の文体が確立されていて、個性が感じられる。
なにをもって「名文」とするのか例がなかったので分からないが(筆者は「小説家や随筆家が書く非日常的な文」としている)、テーマ以外はほぼ、小説文における必須条件ではないだろうか。
個人的に「名文」と思う条件は、ここに文学的な表現や読み手の共感を得るようなリアルな書き方、あとは人を感動させうる物語内容がある、となるだろう。
さすがに実用文=芸術文ではないが、実用文作成の基本は小説の書き方の基本でもある。ある程度は実用文の要諦(ものごとの大事な部分)を押さえ、ここぞという時、小説ならではの技巧やとっておきの表現を使うのが良い。
先んじて書いていた内容はここまででとなりますので、以降は不定期投稿となります。