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オンリーワンの表現

 以前、ある人にこう言われたことがある。

 答えをすぐ人から得ようとするのは間違い。自分で気づいて考えて辿り着いたものは取得経験値が違う。


 良い言葉だが、鵜呑みは禁物である。

 たとえ自分で気づいて考えて辿り着いたものでも、

 オンリーワンの要素が少なければ意義は小さい。


 上記は年単位、十年単位のスパンで考えた時に有効な成長法だ。

 鵜呑みは禁物なだけで、大事な考え方である。

 しかし、得られた情報(答え)からさっさと次を考え、自分にとってより重大な、複雑な問題に時間を費やした方が有意義な場合もある。


 何が言いたいかというと、前話の最後。

 五感を揺るがすにはどうするか。

 自分で一から考えてもらちが明かない。他人の文を吟味しようにも時間がない。見れたとして、自分の判断が良いのか否か自信はない。


 だから、他人の文をさらに他人が解説した本を読む。

 大事なのは理解した後「自分はどうするか」だ。


 中村 明著「文体トレーニング 名文で日本語表現のセンスを磨く」の、『散文のリズム』を読んだ。太宰治、小林秀雄をはじめとする作家の代表作の一部を抜粋し、その調子について解説している。リズムといえば七五調ばかりかと思いきや、いくつかの技法を融合させて書いている。


 内容をそのまま言うのはどうかと思うので抜粋すれば、文節が同じ拍数の連続であったり、構造や意味内容が同じ文が続いたり、同じ文末表現が連続していたり(意味の連鎖と形式の反復)、同語の反復使用でシリアスな内容の中にリズムを付けていたり、文末表現が多彩であっても、各文の中の文字イメージと呼応させることで快適な調子を出している……等々。


 一番気に入った箇所は、川端康成『伊豆の踊子』の冒頭文「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さでふもとから私を追って来た。」の解説。次のようになっている。


 『この有名な書き出しも快い諧調で流れる。意味をとりながら口を動かして読むときのリズムは、三・六・三・四・七・六・五・五・三・五・三・五・五・四・五・五・五というぐあいになるだろうか。なめらかな五音をベースに、時おり弾むような三音をはさむ。若々しいマーチのしらべで流れるように展開する。』


 伊豆の踊子の冒頭文は好きだが、このように音の数で調べるということはなかった。最後の方の「五・五・五」は、「五・四・五」の方が良いような気もするけれど、大差はない。

 むしろ、五音が『なめらか』、三音が『弾むような』という感覚が気になる。


 もし、人が文を読んで五音を「なめらか」、三音を「弾むよう」と無意識に思うようなら、大いに活用したいものだ。


 『伊豆の踊子』の冒頭部は、字面の面でも言及しておくと、「つづら折り」がたとえば「九十九折り」だったり、「すさまじい」が「凄まじい」だったら、たとえば後者は雨のすさまじさが減っていたのではないかと感じる。


 このあたりの私の感覚は、梶井基次郎の「檸檬」がもし「レモン」や「れもん」なら、「それじゃあ手りゅう弾にならないだろうが!」という意味合いに近い。

 ひらがな片仮名、漢字の使いどころ・比重は、作品の雰囲気と合うかどうかで考えると奥深い。


 話は戻って『伊豆の踊子』。

 私は「雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」のイメージ喚起力、想起力こそ、すさまじいと考える。


 何故そう思うのか考え、時には真似などして書いてみるが、どうにもおかしい。上手くいかない。

 最近読んだ北原 保雄著「達人の日本語」に、成長の指針が書かれていた。

 次のような内容である。


 『(略)いわゆる擬人法である。「雨脚が杉の密林を白く染める」というような表現は普通しない。というよりも、普通の人には、思いもつかない。そこが新感覚派たる所以だが、このような表現は、他にも、(中略)。

 しかし、その普通でないところ、変わっているところが、新鮮なのである。(中略)その見方、感じ方がユニークなのである。こういう表現が行われるためには、表現する前に、まず、そのようなとらえ方、感じ方がなければならない。それがあってはじめて表現が可能になる』


 この後、川端の感覚は我々と大きな違いがあり、すぐには書くときのお手本にならないが、こういうユニークな感覚は大いに刺激になる、としている。

 このトピックの終わりにおいて、筆者はまた、『とらえ方だけが新しくても、また感じ方がユニークでも、川端なような表現にはならない』とし、その要因の一つが共起関係を利用した表現方法としている。


 共起関係とは、「花がー咲く」「水がー流れる」みたいに、普通こういうでしょ、という語と語の関係だ。これが

 「花がー笑う」「水がー旅する」だと、普通は用いない。こういう時、花と笑う、水と旅するのあいだに共起関係はないという。筆者は最後にこう結ぶ。


『共起関係にないものを無理に共起させると、意味の通じない表現になってしまう。しかし、その許されるぎりぎりのところを共起させると、非日常的な、それだけで新鮮で効果的な表現となる。(中略)下手にまねるのはよくないが、非日常的な表現の効果について、いろいろ考えておくことは重要である』


 翻って冒頭の話に戻る。「自分で考えろ」と言った時に、例として道を示せるのが人を導ける、すごい人だと私は思っている。「共起」そのものを自分で考えて気づいたって、大した武器にはなりえない。表現者である書き手は、その表現効果をどう自分に落とし込むかで、オンリーワンへの道が広がると思う。

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