8話
買い物袋を計四つほど俺と奏が持ち、蛍は俺たち二人を率いて次から次へと店をはしごしていた。そして次でついに五軒目を迎えようというときに、少し休憩がしたいと奏が言い出し、やっとの思いで休憩を手に入れた。
「後どれくらいで十二時だ」
ベンチに腰を下ろしながら尋ねる。そして同じくベンチに腰を下ろした奏が公園に設置された時計を見上げどこか嬉しそうに言った。
「あと五分じゃ」
「もうそんな時間なの!?」
目を大きく見開き、心の底から驚いているといった様子の蛍だが、荷物持ちとして連れまわされている方からしてみれば、まだそんな時間? といいたいくらいだ。
「もう帰らないとな」
「じゃあ続きは午後だね」
「続きなんて物はないんじゃよ」
悪気なんて物はきっと微塵も存在していないであろう蛍の言葉に、奏が生気の消えかけた目をしながら言った。
「ちなみに午後は何を?」
「お洋服とか」
「洋服ならワシも――」
さらっと態度を変えそうになった奏に、一生呪ってやるぞと耳元で囁くと、どうやら思い止まってくれたらしく、咳払いをし、ベンチから立ち上がった。
「さあ、すぐに帰ってすぐに出発じゃぞ」
「この疲れを引きずったままやらなきゃいけないのか」
昨日万全の状態だったにもかかわらず、かなりの疲労だったことを考えると、今日は体力が持たないかもしれないと本気でそう思わずにはいられなかった。
「我慢するんじゃ。明日からしばらくは午前中好きなだけ寝ていられるんじゃからな」
「素晴らしい、夢だな」
「じゃろ」
なんとも言えぬ高揚を味わいながら交わす言葉は、とても素晴らしいもののように感じた。
「二人とも、家まで頑張って」
今だけは頑張ってと言う言葉が恨めしい。
そんなときだった。甘い香りの混じったそよ風が吹いたのは。そしてそよ風に乗って言葉が運ばれてきたのは。
「もう終わりかしら?」
その言葉は、声は、ここにいた三人全ての表情を凍らせ、即座に臨戦態勢に入らせるには十分過ぎるほどの衝撃を与えた。
何が、とか。
どうして、とか。
そんな言葉を使って今感じたものを表現することは出来そうにない。もっと感覚的な、本能的なものだったのだ。それも人間のではなく、動物として生命体として、自らの完全なる上位の存在と遭遇してしまったときに感じるような激しい恐れと、焦り。
「まあ怖い、武器をしまってくださいません?」
「まさか……」
小さな声で奏が呟いたが、気にするまい。
女は公園内部に設置された街灯の上で、足を組み、顎を手で支え、妖艶な笑みを浮かべていた。
耳はエルフのように尖り目の毒としか言いようがないような体つきをしている。さらに、その体を隠す物ははだけた着物のみ、背中からは黒々とした蝙蝠のような羽が伸びている。見た目からして確実に人間ではない。
「それとじっと見つめられたら恥ずかしいわ」
言葉とは裏腹に、まったく恥ずかしがる素振りは見せない。
けれどあの女と向き合っているはずのこちら側の女性人二人によって、俺には一切視線を向けることなく、あくまであの女を見たまま蹴りが飛んでくる。
「まあ、可哀相な坊や」
それなりに手を抜かれていたのか、痛みはまったくなくバランスも崩すことなく、立っているが、精神的な驚きは十分にあった。
再びそよ風が吹くと、その風に乗り女は蛍の首もとに腕を絡ませた。そして誰が動くよりも早く飛び退き、距離を開けられる。
「はぁ、美味しそう」
頬を赤らめた女は、舌を蛍の首筋に這わせると、そのまま首に絡ませていたはずの腕を片手のみ、外した。
「よいか、行くぞ」
「ああ」
奏が武器も持たずに駆け出す。すぐに目で追えるギリギリの速度に達し、その頃になってようやく二本のナイフを手にした。気が付けばもう女の脇に回りこんでいて、少し手を伸ばせば確実に脇腹を突き刺すことが出来るであろう位置まで来ていたのにもかかわらず、女が投げキッスをしたその瞬間、世界が凍り付いてしまったと思えるほどにありとあらゆるものの動きが止まった。
しかし、その現象は時間として数えられる単位よりも遥に短い、まさに刹那の間だけだった。が、その世界に囚われてしまったかのように、奏だけが微動だにしない。
前かがみで両足共に地面から浮いた状態で、完全に停止してしまっていた。
「マジか……」
「マジよ、ふふ」
微笑む女の表情に警戒の色が一切無いのをいい事に、即座にハンドガンを出現させてから、一切の時間を空けずに引き金を引く。
銃声、火薬の匂い、そして――停止する弾丸。
「危ないじゃない」
決して崩れることのない笑みに恐れを抱かずにはいられない。
「女の子にそんな物向けるなんて。この子も悲しむわよ? ねぇ?」
その問いかけに蛍は言葉を返さない。
いや、どうしたんだ? 完全に動いていない?
「じゃあ坊や、三秒で動けるようになるから」
そんな言葉と共に女は投げキッスを放つ。回避方法、打開方法、一切分からぬその攻撃を回避するために、最大限横に飛ぶが、その行動は虚しくも意味を成さず完全に足を囚われてしまう。
「気に入ったから足だけにしてあげる」
女はそう言うと、地をそっと蹴り飛び出した。蛍は支えを失い受身を取ることさえせずに転がってしまう。
俺は見逃さなかった。女の手からこぼれる七色の光を。
三、
二、
一、
「どういう事じゃ」
即座に姿勢をかがめ、女が飛び去った方角に飛ぼうとしたそのとき。十二時を告げる鐘が、乾き切った冬の空気を揺らした。
「まあよい、雫おぬしは何があったのか見ておったのか?」
「ああ」
「そうか、じゃあこっちはワシに任せるんじゃ」
「いや、いくらなんでも無理があるだろ」
「ワシが何年生きとると思っとるんじゃ? いけ!」
奏の言葉を信じることとし、女が飛び去った方角に照準を合わせ、力強く地を蹴った。次の瞬間には女を捉えるには十分なくらいの高さに達していた。
辺りをぐるっと見渡し、そして空中を闊歩する女を発見しだい、そこへ向けて落下していく。
女を見つけ出すのはあまりにも容易で、思わず頬が緩んでしまうほどだった。
「流石に着物着て、羽生やして、耳を尖らせて、空を飛んでりゃ目立つよな」
そこからは体が痛いほどの速度で落下していき、女が速度を緩め高層ビルの最上階の窓に体を沈めていくその瞬間、高速で落下していく俺の体は、速度調整などできるはずもなく女に絡まるようにして窓ガラスの中に入り込んだ。
いや、溶け込んでいった。
体中がふやけていくような気持ち悪い感覚を味わいながら飛び出した場所は、高層ビル最上階の一室などではなく、教会だった。
どこからどう出てきたのか、ここがどこなのか、それはまったく分からない。完全に不明だ。
起き上がろうと床に手を付くと、感触は今までに味わったことのないような弾力と、やわらかさだった。
「あぁん」
甘ったるい声が俺の下から上がるのを聞き、思わず飛び退いてしまったが、完全に失態を犯したと言うしかないことに気が付いたのは既に飛び退いた後だった。触っていた場所が場所だっただけに本来ならばこの行動は正しいものだったが、あの状況なら、銃口を額につけて七色に輝く幸運の結晶を奪い返せたかもしれなかった。
「せっかくならもっと味わってもよかったのよ?」
物欲しそうな視線を送ってくるが、今はそんな物に惑わされている場合ではない。いや、いついかなるときであろうと、正体不明の羽の生えた生物に惑わされるべきではないだろう。
「奪った物、返してもらおうか」
「やーねー、あの子が落としたものを拾ったのよ」
くるりと一回転し、そして七色に輝く蛍の幸運を教会のステンドグラスから差し込む日にかざして見せた。
日が幸運を透過し、地面に複雑な形の虹を作り出す。
「じゃあ、落し物を拾ってくれてありがとう。後は俺が持ち主に返しておくよ」
「君、名前は?」
人の話を聞こうというそぶりすら見せずに尋ねてきた。
「お前なんかに教えるつもりはない」
「お前、じゃなくて、影宮落葉お姉さん」
影宮落葉と名乗った女はやけに胸を強調するポーズを取った。
「いいから返せ」
「へぇ、雫クンね。女の子みたい、あらやだこの子も同じこと言ってる」
一人でキャキャと何かを言っている。なんだコイツ。
「早く、返してくれ」
「やーよ。力ずくで奪えば? でも、弾みで砕いちゃうかも。ふふふ」
幸運を強く握り締めて見せながら妖艶な笑みを浮かべた。その笑みの向こう側に見え隠れする恐ろしさのせいで、まともに手が出せない。下手をすれば一発でこちらの負けが決まる。しかも、あの幸運を砕かれてしまえば体内に取り込まれるよりも厄介だ。砕かれてしまったらすべて綺麗に回収という風にはいかないだろう。
「ちっ」
こうなったら力ずくに賭けてみるか。
踏み込むと同時に両手に作り出したハンドガンを落葉にむけ、引き金を引こうとしたその瞬間。
「かっかしないの」
右手はしっかりと捕らえられ、体はほぼ密着している。
いける。そう確信したのは当然と言えよう。右手は捕まれていようとも、左手はフリーだ。
即座に左手にナイフを作り出し、そしてそのまま脇腹を抉るように。
「だーかーらー、かっかしないの」
丁度狙いを定めた先に、ギリギリ静止が利くタイミングで蛍の命とも呼べる幸運の結晶を差し出した。
「そんなに怖い顔しないの、お姉さんは笑った顔を見たいわ」
「生憎笑顔は品切れだ。まあそれを返してくれるんなら、入庫を検討してやる」
「うーん、そうねぇ。どうしましょう?」
首をかしげて見せているが、悩んでいる様子も疑問を浮かべる様子も微塵もない。むしろ余裕の笑みを見せ付けてくるだけだ。
「お姉さん今日は疲れたから帰ってもらえるかしら? 続きはいつでもしてあげるから。じゃあサヨウナラ」
何かに襟首を引っ張られるようにして俺は教会の入り口らしきところまで引きずられた。
「手荒でごめんなさい。でも早くしないとね」
「おい! ちょっと待てよ!」
「元気でね」
その声と同時に外に放りだされてしまう。
もちろん外に広がっているのは高層ビルが立ち並ぶ都会。そして突然の浮遊感、しかしその浮遊感はすぐに重力によって高速で落下していくと言う恐怖へと書き換えられた。が、体勢を整え落下の衝撃に備える。
落下した直後全身を痺れるような衝撃が走っていき、そして強烈な痛みが遅れて全身を駆け巡る。
「ってぇぇぇぇぇ!」
痛みが和らぐわけでもないが、とにかく大声を上げていないと耐えられそうにない。だがしかし、そんな痛みも一分もすれば大方消えてなくなってしまった。
これをいい事に俺は全力で地を蹴り、天を貫くほどの大ジャンプを見せる――はずだった。しかし現実は普段ジャンプできるような本当にたいしたことのないジャンプ。それだけではなく、着地の瞬間、全身の力が抜けその場に倒れこんでしまう。瞼すら開けられないような虚脱感が襲いかかる。辛うじて耳だけが周りの状況を知らせた。
「まったく、何しとるんじゃ」
そんな声が聞こえた。
そして誰かに抱え上げられる。
「おっと、ジャンプはできんのぉ、仕方ない」
その声を最後に以降ぱったりと脳に情報が送られてくることはなくなった。
というわけで、8話でした。
至らぬ点が多々あるとは思いますが、少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。