第1章 2話
【第一章 2】
広い部屋の中には、様々な家具や調度品があふれていた。
どれもこれも新しく、高価なものであることが一目で分かる。
複雑なデザインの彫刻を施されたチェスト。猫足の大きな椅子。天井は大人の男性が二人で肩車しても届きそうにないほど高く、壁には繚乱の花々を描いた壁紙が貼られている。
そんな豪華なドールハウスを大きくしたような室内で、淡い若草色のドレスに身を包んだ少女がぽつんと座っていた。
新月の夜みたいに真っ黒な髪を腰まで伸ばし、同色の瞳を持つ繊細な顔立ちの少女は、何の表情も浮かべずに開いた本へと視線を落とす。
読むのではなく、眺める。
華奢な身体に不釣り合いな分厚い本には、たくさんの写真が載っていた。
皮の表紙は僅かに綻びて、煌びやかな室内ではそれだけが浮いている。けれど、中の写真は色褪せないまま、鮮やかな『青』を映し出している。
一昔前の航空写真。世界を空から見下ろした景色。海を渡る鳥たちと同じ、遥か高い視点。
それは少女が六つの誕生日に母から贈られたプレゼント。
『ジェミーに私の宝物をあげる』と、そんな言葉と共に。
以来、ジェイミー・メイスフィールドにとって、空を閉じ込めた本は何より大切な宝物になった。
地上からでは決して見ることの出来ないその光景は――飛行士だった母が、いつも見ていた景色だったから。
ジェイミーの母親は、帝国でも十指に入る優秀な飛行機乗りだった。
ナディア・メイスフィールドといえば誰もがその名を知っている。男性でも難しい試験や訓練をクリアして、史上初の女性パイロットになった美貌の軍人。
平民の出自ありながら気高く凛々しい彼女の生き方は、異性だけでなく同性をも魅了した。たまの休暇に街へ出掛けた時、立ち止まった人たちが母に向ける熱に浮かされたような眼差しを、いまでもよく憶えている。
ナディアはジェイミーの憧れだった。
いつか自分も飛行士になって一緒に空を飛ぶのだと、そう、思っていた。
――母が原因不明の墜落死をとげる、その時までは。
「……支度は済んだの?」
不機嫌な声に顔を上げると、扉が開いていた。
ノックは聞こえただろうか。
本に夢中で気付かなかった。
「まあ! まだ髪も結ってないじゃないの! あれほど早く準備しなさいと言ったのに!」
侍女を従えて入口に立つ女性が、端正な顔を怒りに歪めて声を荒げた。
輝く金の髪を結い上げて、宝石飾りをつけた三十代後半ごろの美しい貴婦人だ。纏うドレスもジェイミーのもとは比べようもないほど華やかなデザインで、光沢のあるボルドーの生地が彼女にはよく似合っている。
名前はなんと言っただろう。たしか発音しづらい長い名前だった。
……母が亡くなってから、ジェイミーの意識はひどく希薄だ。
死んだと聞かされていた父がこの国の貴族だと判った時も、その父の元に引き取られた時も――母の墜落死から一年が経った今も、まるで生きているという実感がない。
「部屋付きのメイドはどうしたの!」
「それは、奥様が先日解雇されて……」
「黙りなさい! 言い訳などしている暇があったら、すぐに代わりの者を手配しなさい! お前も居場所を失いたいの?」
「も、申し訳ありません……すぐに……」
ヒステリックな声でどやしつけられて、気弱そうな侍女が腰を折って部屋を後にする。
髪結いの出来る者を呼びにいったのだろう。侯爵夫人付きの侍女である彼女は上手く結えるはずだが、主が嫌う義理の娘になど触れられるわけがない。
気性の荒い夫人が使用人を不条理に罵倒するのは、この屋敷ではよくあることだ。
見掛けないと思っていた女中さんは彼女に解雇されていたらしい。
それも、よくあること。
「ドレスもそんな粗末なものを……何? その薄汚い本は」
「……触らないで」
ふいに伸ばされた腕から、ジェイミーは本を守るように身を屈める。
小さな声には、きっぱりと拒絶の意思が滲んでいた。
「このっ……! 庶民の小娘ふぜいが生意気な!」
目尻をギッと吊り上げた夫人が片足を上げる。
怒りに任せて振るわれた爪先が、椅子の上で丸まった少女の脇腹にめり込んだ。
「あ、ぐぅっ!?」
身体を貫くような激痛。椅子から転げ落ちたジェイミーは、絨毯の上で這いつくばった。
目の奥がチカチカと明滅する。息が、できない。
必死に吐き気を堪えながら、それでも少女は本を守ろうと精一杯に身体を丸める。
この女に奪われれば、屋敷に相応しくないモノがどうなるかは明白だ。
「まだそんな態度を! お前のせいで、屋敷は滅茶苦茶になったのよ! 少しは悪いと思わないのかしら! この、薄汚い淫売の娘が!」
二度、三度と背中を蹴られる。そのたびに鋭い痛みが奔った。堅く尖ったエナメル靴の先が、凶器となってジェイミーを襲う。
痛い。痛い。痛い――――けど、こいつは何と言っただろう?
十三の小娘でも、「淫売」という言葉の意味くらいは分かる。
屋敷が滅茶苦茶になったことをジェイミーのせいだというなら、それは別に構わない。実際、奇妙なことが起きたのは知っている。それは自分が侯爵に引き取られてから起きるようになった怪奇である、ということも。
騒ぎがあるのは夜中だ。意識はないが、無意識に事故を引き起こしたと言われても弁解のしようがない。ジェイミー・メイスフィールドには、その「力」があるのだから。
怪異が起きるその時、ジェイミーは夢と現の狭間にいる。
地面に向かって墜ちていく母を、何とか自分の元に引き寄せようと足掻く、幻の中に……。
だから、自分が罵倒されるのは構わない。だけど、お母さんのことはダメだ。
――――雨が、見える。
赤く、糸を引いて絨毯の下へと滑り落ちる光の線。室内でも消えない異形の雨。
涙で霞む眼を背後に向けると、口端を歪めた女の顔が見えた。
分厚い本をかわして、腹部に重い衝撃。ごぼ、と粘つく音と共に、胃の中身が逆流する。
汚物を眺めるような目で義理の娘を見下ろす女が、忌々しげに舌打ちした。
屋敷を汚されたのが許せないのだろう。トドメの一撃とばかりに足を振り上げる。
その足元に吸い込まれる紅い光の先端――女の心臓あたりから墜ちてきた「雨」を、掴んだ。
「奥様! おやめ下さい!」
しかし、両者の動きは、入り口からの悲愴な声に遮られた。
「お嬢様が、死んでしまいます……」
侍女の絞り出すような訴えに、夫人はハッと目を見開いた。どうやら自分が何をしようとしていたのか、その重大性に思い至ったらしい。
ジェイミーを引き取ると決めたのは、彼女の夫であるベルギウス侯爵だ。平民との間に出来た子とはいえ、彼と血の繋がった実の娘を殺せばどうなるのか。それが分からないほど、彼女は計算の出来ない人間ではない。
「……すぐに仕度させなさい」
「かしこまりました」
礼をした若い女中を置き去りに、侯爵夫人はさっさと部屋を出る。気遣わしげな視線をジェイミーに向けた侍女も、何度か振り返りながら後に続いた。
残されたのは、か細い息を漏らす娘と、無関心を決め込んだような女中だけ。
彼女の選択は正しい。この屋敷では、問題に関わらないことが長生きする秘訣だから。
「さ、お嬢様。支度いたしましょう。その前に、身体を綺麗にしませんと……」
事務的に告げた女中が、ジェイミーを抱き起こす。ズキッと、蹴られた場所が痛んだ。
きっと痣になっているだろう。でも、そんな傷は少女にとって大した痛みではなかった。
淡々と世話を焼かれながら、願うことは一つ。
帰りたい。
お母さんが居た、あの家に。
お母さんがいた、あの日々に――。
◇
馬車を降りて巨大な門の前に立つと、その奥に聳える屋敷の頂上が僅かに見えた。
両脇に立つ門番へ家名と主の爵位を告げ、持参した招待状を差し出す。続く数回のやり取りの後、ようやく重々しい鉄製の門が開いた。
「ずいぶんと厳重な警備ですわね……」
「欲しい物は何があっても手に入れる、と有名なベルギウス侯爵の屋敷ですからね。招待客とはいえ、蒐集品に手を出す危険人物がいないか調べるよう厳命されているんでしょう」
敷地に足を踏み入れたレオンは、そう言って口元に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
……それもそうだ。
マーガレットは、その表情の意味を正しく理解する。
安全を確保したいなら、侯爵家は最も屋敷に入れてはいけない人物を招いてしまった。
雇い主の嗜虐的な微笑に薄ら寒さを感じつつ、マーガレットは視線を前方の建物に移した。
屋敷というより、辺境の砦と言った方がしっくりくる外観の建物だ。石造りの重厚な壁に洗練された印象はまるでないが、威圧感や防御力の面で見れば群を抜く機能性を発揮するだろう。いくら高価な物があっても、「じゃあ忍び込もう」とはちょっと思えない。
森の一部をそのまま切り拓いたような広い庭園には自然が溢れ、私有地の境目では屋敷を外界から遮断するように野生の木々が密生している。
まさに天然の孤城。
帝都から馬車で一時間以上かかる東の森の奥深く。人目を阻むように建てられた屋敷の当主の名は、ディートヘルム・L・ベルギウス。
爵位は侯。国内有数の蒐集家にして大貴族である彼は、今日、シュタインベルガー伯爵が招かれた『奇品展覧会』の主催者でもある。
大層な名をつけてはいるが、要は金持ちが自慢のコレクションを見せびらかすための集いであり、珍しい物に興味のないマーガレットにとっては心底どうでもいい催しだった。
大昔の呪いに使われた仮面や絶滅種の昆虫を閉じ込めた化石など、眺めて何が楽しいというのだろう。それなら可愛らしい家具やぬいぐるみを見ていた方がよっぽどマシだ。
相変わらず金持ちの考えることは分からない。
などとマーガレットが元貴族令嬢らしからぬ愚痴を胸中で呟いていると、ようやく古城の玄関が見えてきた。
広大な敷地だけあって、門から住居までの距離が長い。すでに五分ほど歩いている。
本来は所有する馬車で中に乗り入れるのだろう。民間の辻馬車では貴族の敷地に入れないので、二人は徒歩で向かうしかなかった。
なんとか辿り着いた屋敷の前には、執事らしき男性が待機していた。寒気をものともせず微笑を浮かべた彼は、慇懃な態度で一礼して巨大な扉を開いてくれる。
外観に劣らぬ広いエントランスホールで客人を出迎えたのは、ボルドーの豪華なドレスに身を包んだ美しい女性だった。
「まあ! お久しぶりね、ヘル・レオン」
「ごぶさたしております、フラウ・ツェツィーリエ。本日はこのような素晴らしい場にお招きいただき、ありがとうございます」
相手の呼びかけにすぐ反応して、レオンもファーストネームに帝国古語の「夫人」をつけて挨拶を返す。とても成人前の少年には見えない、堂々とした態度だ。
古語を使うのは貴族の言葉遊びみたいなものだと、いつかレオンが言っていた。とはいえ、どんな相手にでもすぐ対応できる頭の回転はさすがとしかいいようがない。
ツェツィーリエ・L・ベルギウスという発音の難しい名がこの美しい侯爵夫人のフルネームである。今日ここに来るまで、マーガレットは何度も言い間違えないように練習した。
「伯爵、そちらのお嬢さんは?」
「ああ、彼女は新しく雇った使用人でマーガレットといいます。手を火傷してしまったので、補助役として同行させているんですよ」
そう言って、レオンは白い手袋をはめた左手を軽く振ってみせる。
あまりにも堂々と吐かれた嘘に浮かんだ驚愕を押し殺して、マーガレットは淑女の礼をしながら自分も名を告げた。当然、使用人への返事は軽く頷くだけだ。
「それは大変だったわね……何か不自由があれば、気兼ねなく我が家の者に言いつけて頂戴。貴女もシュタインベルガー伯爵に細心の注意を払うのよ」
「かしこまりました」
「お気遣いありがとうございます、ベルギウス夫人」
労わるように左手をとって包み込む婦人に、レオンは微笑んで感謝の意を述べた。
……それにしても、距離が近すぎやしないだろうか。
貼り付けた笑顔の奥で、マーガレットは華やかな美女をやや警戒する。
美しい貴婦人から美貌の少年伯爵に送られる、妖しい視線。
しかし、レオンはあっさりとそれを受け流して、ホールの奥へと顔を向けた。
「あちらの方、ひょっとすると道に迷っているのではありませんか?」
「え? ……あら、いけないわ。私はここで失礼させて頂くわね。シュタインベルガー卿、どうぞゆっくりしていって頂戴」
即座に表情を変えて会話を切り上げたツェツィーリエが、頼りない足取りで屋敷を歩く老紳士の後を追う。その優雅な振る舞いからは、さっきまでの情念など微塵も感じられない。
驚くほどの変わり身の早さだ。
「――香油のつけ過ぎですね。鼻が曲がりそうだ」
……そしてこちらの変わり身も素早い。
不機嫌な声で吐き捨てて、レオンが整った顔をしかめる。それも、周囲に人の気配が全くない絶好のタイミングで。
ほんの数秒前の和やかな空気はどこに行ったのだろう?
貴族って怖いな……と、やはり元子爵令嬢らしからぬ感想を抱いたマーガレットは、一人だけ取り残されたような気分でその場に立ち尽くしていた。
◇
外に比べると、当然だが屋敷の中はかなり暖かかった。
各部屋で焚かれた暖炉や部屋の四辺を通る暖気を流すためのパイプもあるが、なにより隙間なく詰められた堅牢な石壁が冷たい外気の侵入を防いでいるようだ。
人の出入りを嫌う屋敷は、北風にもその効果を発揮したらしい。
家令の案内でゲストルームに通されたレオンは、顔見知りへの挨拶を終えて壁際で佇んでいた。
広い客間には昼食と酒が準備されているものの、特に空腹でもないので出されたホットミルクティーを飲んでいる。氷砂糖を溶かして生クリームを加えた、甘い紅茶だ。
大半の国民が好む伝統的な飲み方らしいが、甘味が苦手なレオンにはかなり重い。
とはいえ出されたものを突き返すわけにもいかないので、ちびちびと舐めるように飲み下していた。
「やぁ、レオン君。久しぶりだな!」
甘ったるいミルクティーを半分ほど消費した頃、ハリのある低い声に名を呼ばれた。
顔を上げると、がっしりした体格の髭を蓄えた紳士が見えた。かなりの長身だ。小柄とはいえ男のレオンが見上げる位置に、白髪混じりの金髪を梳きつけた頭がある。
「ごぶさたしております、ベルギウス卿」
ティーカップとソーサーをテーブルに置いて、丁寧に礼を返す。
さっき招待客に囲まれていて挨拶できなかった侯爵が、わざわざ人垣を抜けて顔を見に来たのだ。年齢だけでなく爵位も家格も下の人間が、気安く返事をするわけにはいかない。
「少し会わない間に随分と男前を上げたもんだ。最後に見たのはいつ頃だったか……」
「父の葬儀があった時です、卿」
さらりと告げられた答えに、ディートヘルムは僅かに気まずそうな顔をした。
「そうか……いや、すまない。余計なことを思い出させてしまったようだ」
「いえ、もう四年も前のことですので。その節はお世話になりました」
声のトーンを落とす侯爵に、レオンはあくまで平然と返答する。
実際、父の死についてはすでに折り合いがついていた。今さら思い出したところで、特に気にするようなことはない。
「君は相変わらず落ち着いているな。とても十五とは思えん。流石は『英雄』の子息といったところか……しかし、そうか。もう四年も経つのだな……」
そう呟いて、壮年の紳士はどこか遠くを見るように顔を上げた。
濃茶の瞳には、故人を悼むような、早すぎる死を惜しむような色が滲んでいる。
レオンの知る限り、父と侯爵の間にそこまで深い繋がりがあったようには思えない。父は元が平民だったせいか、貴族とウマが合う性格ではなかったのだ。
それほど「英雄」の顔が知れ渡っていたのだろうと、胸の内で結論付ける。
家族にしか見せなかった本性を知れば、大半の人間はガッカリしそうな人物なのだが……。
「偉業を成し遂げた者ほど短命なのは世の定めか……いや、過去を振り返ってもキリがないな。レオン君、困ったことがあったら言いたまえ。我がベルギウス侯爵家が力になろう」
「ありがとうございます。おかげさまで、今のところ目立った問題はありません……それより、ベルギウス卿もお屋敷の方が大変なのではありませんか? なんでも相次いで怪奇現象が起きているとか……」
相手を気遣うような、それでいて好奇心も僅かに滲ませた表情で、レオンは内情を探るための質問を投げてみる。
一瞬バツの悪そうな顔をしたディートヘルムだったが、すぐ呆れたように苦笑を浮かべた。
「まさか君にそんな子供っぽいところがあったとは。いやはや驚いた」
「すいません。不躾な質問をしてしまいました」
「構わんよ。ああ、確かに屋敷では奇妙な現象が起きているんだ。とはいっても、真夜中のことで私は目にしていないんだが……家の者によると、ひとりでに家具が引き摺り倒されるらしい。所謂、ポルターガイストというやつかな」
「ポルターガイスト……?」
「ああ。まったく、幽霊だかなんだか知らんが、床が傷だらけになってかなわんよ」
そう言って、恰幅の良い紳士は肩を竦める。
どうやら迷惑に思っても恐れてはいないらしい。
見た目に違わず、剛胆な性格のようだ。
「奥様やお嬢様は怖がっているんじゃありませんか?」
「ん? ……ああ、そうだね。特に家内がまいっているよ。最近は少し神経質になっているようでね……実を言うと、今日の展覧会も半分はツェツィーリエの気分転換になればと思って開いたんだ。大勢の人間と触れ合っていれば、気が紛れるだろう?」
「そうですね。玄間で奥様とお会いしましたが、とても元気そうでした」
余計なことは言わず、素直に頷いておく。
奥方が二十も年下の男に色目を使っていたなどと、聞かされて嬉しい者はいないだろう。
それに、ツェツィーリエが誰かと浮気したとしても、レオンには関係のない話だ。
「アレは社交的な性格だからね。結婚してすぐの頃も、家でおとなしくさせるのに苦労したもんだ……おっと、そういえば君の使用人はどうしたんだね? 確か、可愛らしいお嬢さんを連れていると執事に聞いたんだが」
「すいません。外が寒かったもので……」
「ああ、そうか。いや、女性なら仕方あるまい。それにしても、道に迷っていないかな? 自慢じゃないが、この屋敷は広いからね」
「そういえば少し遅いですね……探しに行ってもよろしいでしょうか?」
そろそろ切り上げ時かと、探索の許可を乞う。
家の者をやろうかという申し出には、自分の使用人ですのでとやんわり辞退した。
幸い、この屋敷は父が生きている頃に訪れたことがある。レオンが道に迷うことはない。
それに、万が一のことがあっては困るのだ……色んな意味で。
「分かった。まぁ、今日は楽しんでいってくれたまえ、レオン君。また後で話そう」
「ありがとうございます。ベルギウス侯爵」
一礼して、他の招待客の元へ去っていく侯爵を見送る。
飲みかけの紅茶を置き去りにするが、許してもらおう。使用人の捜索があるから仕方ない。
などと心にもない言い訳をしつつ、レオンは賑やかな客間を後にする。
「……随分と欲深い顔をしますねぇ、侯爵は」
ぽつり、と誰にも聞こえない声で呟いた。
その脳裏には、会話の途中で見たディートヘルムの表情が浮かんでいる。
一年前に引き取ったという平民の娘の話題を出した時と、彼がマーガレットの所在を気に掛けた時。四十を越えた紳士の眼には――確かな欲望の色があった。
一見、外面が良いので騙される者は多いが、ベルギウス侯爵は黒い噂の絶えない人物だ。
曰く、『欲しいモノは殺してでも奪い取る男』。
――そして、それは決して「物」だけに限った話ではない。
一年前、帝都には侯爵の新たな噂が流れていた。
……空軍の訓練中に起きた不可解な墜落事故は、ディートヘルムが何か仕組んでいたのではないか、と。
根拠はない。物的証拠という基盤を持たない、ただの噂だ。
しかし、彼がその女性飛行士にひどく執着していたという情報もある。
望むモノは全て手に入れてきた侯爵が、唯一、思うように出来なかった女性、ナディア・メイスフィールド。
彼女が亡くなった後、ディートヘルムは残された一人娘を引き取った。
血の繋がりを認め、「ナディアを襲った」という不名誉な疑いをかけられてまで、彼女に瓜二つの忘れ形見を手にしたのだ。
庶子として育った娘は、母の死に直面して間もなく屋敷に連れてこられたという。
外界から遮断されたこの地に帝都の密やかな噂は届かない。侯爵の欲は尽きず、ツェツィーリエも決して無欲な人間ではなかった。
そんな場所に、ディートヘルムが三年前に蒐集した『偽石』がある。
人の欲求に反応する石は、確実に異形の細胞を生んでいるだろう。負の感情を喰らう細胞がどのていど成長しているかなど想像もつかない。
屍鬼が一体までならレオンの異能だけでも何とか対処できる。しかし、二体、三体と増殖すれば、もはや人の手には負えない。消滅させるのに一個師団が必要だ。
「厄介な物を遺してくれたものですね……父さん」
人類を救う『マザー』になり損ねた奇石。
大昔から続いてきた研究には、レオンの父も関わっていた。
冒険家の父は偉業を成し遂げた後、なぜか率先して開発に参加していた記憶がある。
生み出された鉱石がいずれ『偽石』と呼ばれ、人々に災厄をもたらす危険物として、大元の国が回収指令を出すともしらず――。
呆れ果てたというように溜息を吐いた少年は、人影のない廊下を足早に歩く。
目指す先は、マーガレットを向かわせた当主の部屋があるフロア。
ディートヘルムの性格を考えると、貴重な物は傍に置いている可能性が高い。探すならまずはそこからだ。
硬質な靴音を響かせて――国家黙認の「盗賊」は、仄暗い空気の漂う屋敷を進んでいった。