第4章 終
【第四章 終】
遠くで爆発が起きた。
張り詰めた空気を伝って大きな音が響く。
肩を震わせた少女は、慌てて海の向こうへと視線を向けた。
濡れた翡翠の瞳に、巨大な氷柱が消えていく様が映る。
短く息を呑んだ。
駆け寄って必死に伯爵を探しても、そこには凍りついた風景が広がるだけ。
どこにも、小柄な少年の姿は見つけられなかった。
「伯爵……」
ようやく止まった涙がまた零れそうになる。でも、マーガレットはそれをぐっとこらえた。
伯爵は懸命に闘った。待っていた自分が、めそめそ泣いているわけにはいかない。
彼のことだから、きっと無茶をしているだろう。きっと、たくさん傷ついているはずだ。
アナスタージアは車の中で待機してくれている。見つけたら、すぐに彼女の元へ連れていって、治療の手伝いをしなくては。
……ぎゅっと拳を握りしめて、静かになった白い風景に目を凝らした。
前方を凝視する少女の目の前で、分厚い氷に亀裂が奔った。瞬きをする暇もなく、鈍い音を響かせた銀色の大地が、真っ二つに割れる。
伯爵は、無事だろうか……?
脅威が去った安堵よりも、その不安のほうがずっと大きかった。
帰ってきて欲しい。もし傷を負っていたら、治るように全力でサポートする。異形の細胞に飲み込まれていても、彼が生きてさえいるなら、それでいい。
だから、どうか――。
祈りながら雇い主を探すマーガレットの瞳が――――大きく、見開かれた。
それは、きっと。……思いつく限りでも、最悪の光景だった。
爆発のせいだろうか。潮の流れが速い。氷のプレートが、少しずつその間隔を開けていく。
生まれた大きな波は、遠くからいくつもの流氷を運ぶ。
――その中の一つに、白銀の塊が乗っていた。
「…………ぁ」
息の抜けるような声がもれた。喉の奥が痙攣して、うまく音が出ない。
酷く、ゆっくりと。彼を乗せた氷の塊は、水際へと流される。
肉眼でその姿を完全に捉えられる位置まで来た時、一際高い波が少年の身体をさらった。
「伯爵っ!?」
悲鳴をあげて、マーガレットは駆け出した。
ずっと氷に覆われていた海は、身体が芯から凍りつきそうなほど冷たい。なのに、彼女はなにも感じなかった。もっともっと奥のほう。――心が、止めようもなく冷たくなっていく。
レオンは動いていなかった。息さえしていないように見えた。
鼓動が速くなる。心臓が強く脈打つたびに胸が締めつけられて、呼吸ができない。
かちかちと歯を鳴らしながら、少女は腰の高さにある氷塊を掻き分けて進む。手足の先が痺れる。でも、かまってなんかいられなかった。
この海岸は遠浅だ。どれだけ歩いても、まだ肩から上が出る。
……そんな近くの場所で、流されたレオンは沈みかけていた。
必死で水を掻いて彼の元まで辿り着くと、慌てて身体を抱きあげた。反応は、まったくない。
呼びかけようとした。けれど、声が出なかった。
抱き締めたボロボロの身体は、まるで氷みたいに冷たくて。
――どうしようもないくらい、生きることをやめていたから。
起きてと言おうとした。でも、喉が詰まったように、やっぱり言葉は出なかった。
……本当に悲しい時、人はなにも言えなくなるのだと、はじめて知った。
なにも出てこないのだ。声も、涙も。痛みを逃がすための吐息さえ。
心の中が空っぽで。外に出るものが、なにもない。
伯爵が帰ってきたら、「心配ばかりかけて!」と怒るつもりだった。そしたら、きっと彼は「貴女は他人の心配より自分の頭を心配しなさい」と、にくたらしい皮肉を返してきただろう。
くだらないやりとりでいい。伯爵と、話がしたかった。つまらない質問をして、いつもみたいに叱られたかった。それでも答えてくれる不器用な優しさに、もっと、触れていたかった。
なのに、彼はなにも喋らない。――もう、なにも言ってくれない。
水に濡れた顔は、人形みたいに静かで。まるで、眠っているかのように見えた。
その頭を胸に抱く。ギュッと、強く抱き締める。彼が、二度と凍えることのないように。
瞳を濡らしたマーガレットは、微かに喉を震わせた。
「……帰りましょう、伯爵…………」
絞り出した声と一緒に、冷たい雫が頬を伝う。
それは堰を切ったように次々とすべり落ちて。
凍てつく海の中に、流れて消えた。
◇
立ち尽くす少女と物言わぬ少年の頭上で、今年はじめての雪が舞い始める。
遠くで音が響いた。そうして取り戻した日常の足音さえ、風がすべて吹き消してしまう。
まるで二人を世界から切り取るように、儚い細雪は、しんしんと降り続けていた。




