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第4章 4話

【第四章 4】


 ――彼と出逢ったのは、国境沿いの寂れた町だった。

 そこは活気に乏しく、見返りさえ支払えば犯罪行為すら平気で許される町だった。

 領主や自警団の不正が日常風景の一部となった土地。帝都の華やかな光が少しも届かない町に――突然、屍鬼が現れた。

 無差別に人を襲い始めた異形の姿に、なにも知らない住民たちは悲鳴をあげて逃げ惑う。マーガレットを拘束していた貸金業者の男たちも、慌ててどこかに走り去ってしまった。

 当然、マーガレットも避難しようとした。安全な場所を探して周囲を見渡した時、視界の隅で逃げ遅れた小さな女の子が転んだのが見えた。

 そこからのことは、あまりよく憶えていない。ただ、必死で。泣きじゃくる女の子の元へ駆け寄って、小さな身体を抱えながら、懸命にその子を連れて逃げてくれそうな大人を探した。

 けれど、いくら異能の力を借りても、そんな人は見つからない。

 ……町の危機に残った住民なんて、一人もいなかった。

 せめてその子だけでも助けようと、しがみつく腕を無理矢理に引き剥がして、家屋の中に押し込めた。

 震える手で置き去りの農具を握り、巨大な化け物と向かい合った。

 見えたのは白く濁った眼。その時の恐怖だけは、いまでもはっきりと思い出せる。

 近づく絶望から死を覚悟したマーガレットの前に――――彼は、舞い降りた。

 白銀の髪と冷たいアイスブルーの瞳。おそろしく整った美貌とはあまりにも不釣り合いな、ゴツゴツと隆起した異形の左腕。

 繰り出される凶悪な攻撃をすべて躱し、ものの数分で化け物を消滅させた小柄な少年は、腰の抜けたマーガレットを振り返ると、こう言った。

「……何の力もないくせに。変な人ですね、貴女は」


 小型の軍用車両が、枯れた景色の中を駆けていく。

 気温は帝都を出たあたりからぐんと下がった。風のない車内にいるのに、吐く息は白い。

 アナスタージアの運転で西部海岸を目指しながら、マーガレットは過去の出来事を思い出していた。

 伯爵との出逢い。彼の振舞いは、初対面の時から傲慢で不遜だった。

 貸金業者を小切手一枚で追い払ったかと思えば、知り合ったばかりのマーガレットに「これから貴女に人権はありません」と言い放つ。実際、その瞬間から馬車馬のごとく働かされて、状況が飲み込めない内からバラエティー豊かな皮肉を浴びせられてきた。

 褒められたことなんて、憶えている限り一度もない。

 ずっとワガママで、身勝手で。……いまも、そんな彼を追いかけて、史上最大の災害が迫る危険地域に向かっている。

 訪れた旧第一発電所にレオンの姿はなかった。代わりに、大量の血痕と瓦礫が残されていた。

 本当に、自分勝手な人だ。

 いつも無理難題を押しつけて、こちらの意見も聞かずクビにして。そのくせ、命に関わるような選択は一人で決めて、なにも言わずにどこかへ行ってしまう。

 ……納得なんて、できるはずがない。これでさよならなんて絶対にいやだ。

 握りしめた掌に、ぎゅっと力が入った。

 早く、早く。傲慢な伯爵が、どこか遠くへ行ってしまう前に。

 焦る心は置き去りのまま。小さな車は、目的地にまだ辿り着かない。

「マーガレット君は、彼を止められると思うかい?」

 ずっと沈黙していたアナスタージアが、唐突に尋ねてきた。

「……わかりません」

「うん、私もそう思うよ。レオン君の心を変えるのは至難の業だ。常人には荷が重いだろうね」

 あっさりと肯定した。

 質問の意図が分からず首を傾げたマーガレットに、研究者は子供みたいな視線を向ける。

「でもね、君なら彼の定めた未来を変えることができるかもしれない」

「未来を……わたしが、ですか?」

「ああ。なぜなら、彼は君を認めているからね。『小心』に生まれたまま抗うマーガレット君が、『傲慢』を持つレオン君にどんな影響を与えるのか。――実に興味深いテーマだ」

 声には踊りだしそうな好奇心が滲んでいる。

 この人は本当に骨の髄から科学者なのだと、少女はいまさらながら理解した。

「わたしは、弱い自分に抗えているのでしょうか? ……いつも、結局は現状を受け入れてしまっているように思うのですけど」

 うつむいて、小さな声で呟く。

 伯爵を止めるのに、アナスタージアは抗う力が必要だという。

 本当に、自分はそんな力を持っているのだろうか?

 両親の死も、突然クビにされたことも……結局、最後は受け入れてしまった。泣き叫んで嫌がることもできたはずなのに、自分はそれをしなかった。

 最後まであきらめない人は、強いと思う。マーガレットにはそこまで傷つく覚悟がない。

「当然だよ。それを完遂できるような者は、もはや人間じゃない」

 しかし、アナスタージアは肯定とも否定ともつかない言葉で断じた。

「『アンビバレンス』という精神分析の用語がある。二つの相反する感情は誰もが潜在的に持っているものなんだ。その内の都合が良い方を、人間は無意識に選択してしまう」

 でもね、と研究者は続ける。

「君はいつも自分の本質にとって都合の悪い方を選ぶんだよ。マーガレット君は紛れもなく『小心』だ。最後に自我の防衛反応を示すとしても、何度も無意識に不都合な選択をするのは理論上ありえない。……安心したまえ。君は、あの傲慢な少年の辿り着く先を変え得る素質を持っている」

 結論づけて、強くアクセルを踏み込んだ。ブオンと金属の咆哮のような音が聴こえる。

 道は大きなカーブを抜けて、直線に入ったようだ。

 モスグリーンの無骨な車が瞬く間に加速していく。

「――さぁ、追いついたぞ」

 その言葉に、マーガレットはハッと視線を前方に戻す。

 アナスタージアの視線の先には、道端に停められた最新の軍用車両があった。

 漂う空気は車内であっても震えるほど冷たい。海上で渦巻く巨大な災害の影響だろう。

 いたる場所が白色に凍りついた景色。その中に、よく見慣れた背中があった。

 吹き荒ぶ風に銀髪をはためかせた彼が歩くたび――薄い氷の上に、赤い水滴が落ちた。

「伯爵っ!」

 思わず、ドアを開けて飛び出した。

 鋭利な空気が肌を刺す。しかし、少女は躊躇うことなく極寒の中を駆けた。

 ――伯爵は酷いケガを負っている。

 見れば、血は車から途切れることなく続いていた。彼は、あの発電所からずっと傷を抱えてここまでやって来たのだ。放っておけば死んでしまう。その事実に、足が竦む。

 震える手足を懸命に動かして、何度も彼を呼んだ。

 五回。渦巻く風に邪魔されながら声を放った時、ようやくレオンは振り向いてくれた。

 右向きに顔だけを向けた伯爵が、僅かに驚いたような顔をした。

 安堵の息がもれる。よかった、とマーガレットは思った。彼の眼はまだ死んでいない。これなら、アナスタージアに治療してもらえれば大丈夫だ、と。

「伯爵、こちらに……」

「来てはいけません」

 冷たく響いた声に足が止まる。そこには、これ以上ないほどの拒絶が含まれていた。

 怒られるのも、皮肉にも、慣れている。けれど、ここまで冷酷な視線を向けられるのは、はじめてだ。

 混乱した少女は――――振り返った伯爵の姿に、絶句した。

「やぁ、随分と『喰われた』ね」

 気がつけば、アナスタージアが隣に立っていた。

 ひどく気楽な口調で彼女は言う。

 なぜそんなに平然としていられるのか、マーガレットにはまるで理解できなかった。

「ええ。左側は、もうあまり感覚がありません」

 淡々と答えたレオンは、大きな輝石を抱えた腕を見下ろした。

 その顔の左半分は…………異形の鈍色に、覆い尽くされていた。

「はく、しゃ……」

「来るなと言ったはずです。何度言わせるつもりですか、このバカ女中」

 いつものように罵られる。しかし、その声は感情が完全に欠落していた。

「……左腕の制御が利きづらくなっています。近づけば何が起こるかわかりませんよ」

 警告を発して、踵を返す。そのまま、再び何事もなかったかのように歩き出した。

「は、伯爵……わたしも、いっしょに……」

「足手まといです。それに貴女は解雇したはずですよ。さっさと故郷へ帰りなさい」

 絞り出すような声は呆気なく遮られた。

 もうレオンは振り向きもしない。ただ、前だけを見て、自分の決めた結末へと進んでいく。

 駆け寄ればまだ手の届く距離。なのに、彼はこんなにも――遠い。

 俯いたマーガレットの唇が、微かに開いた。

「ば……」

 湿った言葉が漏れる。その短い音を皮切りに。理性が、はじけた。

「――バッカじゃありませんの!? なんでも一人で抱え込んで! かっこいいとでも思ってるんですか! そんなの、ちっともかっこよくありませんっ! もっと周りを頼ってくださいませ! もっと……」

 あふれる感情にまかせて叫び続けた少女は、震える喉をぐっと詰まらせた。

 赤くなった頬を、幾筋も涙がすべり落ちていく。

 止まらない。冷たい雫があふれるのも、これまで過ごした日々が巡るのも。

 ――失くしたと思っていたものは、彼が取り戻してくれた。

 忙しくて、文句ばかり言われて。余計なことを考える暇なんか、少しもなくて。

 ベッドに潜りこんだらすぐに眠くなるような毎日は――とても、幸せな日々だった。

「……もっと、生きたいと、願って…………わたしは、あなたともっと一緒にいたい……」

 嗚咽とともに、切実なこころが零れ落ちた。

 胸が、焼け切れそうに痛い。この悲しみは、きっと受け入れることなんてできない。

 滲む視界の中で、レオンが一度だけ振り返る。

「変な人ですね、貴女は」

 それはほんの僅かな時間。白く煙る突風の隙間に、彼が――幽か、笑っていた。

 まるで冬越えの蕾が綻ぶような。静かで、柔らかな、歳相応のあどけない表情。

 やがて、吹き荒ぶ強風に、幻のような微笑みは掻き消えた。

 マーガレットが顔をあげると、伯爵はすでに歩き出したあとだった。けれど、

「たかが災害ごときに、僕は敗れません」

 傲慢に言って、レオンは前へと進む。彼の視線の先には、緩やかに終焉を運ぶ天災が聳えていた。

 それきり、もう振り向かない。左腕に異形と鉱石を携えて、間もなく訪れる未来を自分から迎えに行く。

 次第に小さくなる後ろ姿を見送って、少女はその場に膝をついた。

 とても珍しい彼の慰めの言葉は、しかし、胸の痛みを消してなどくれなかった。


 遠ざかる背中は、もうどうしようもないほど。……「さよなら」を、告げていたから。


                  ◇


 足を踏み出した先には、幻想的と形容するにふさわしい景色が広がっていた。

 見渡す限りの銀白色。すべてが静かに凍りついた海。

 分厚い氷は割れも軋みもせず、レオンの体重を受け止めている。ひょっとすると中まで凍結しているのかもしれない。

 危なげない足取りで、眠りについた海原の上を歩く。

 霞む視界は、それでもしっかりと前方の標的を捉えていた。

 白く聳える氷の柱。目算で直径五百メートルを超えるそれは、もはや柱より「壁」といった方がしっくりくるような様相だった。

 一歩を踏むたびに、全身の骨が軋む。肌に感じるのは寒さを通り越した痛み。それも、時間が経つごとに消えつつある。

 触れたものを凍らせる天災は、今もゆっくりと大陸を目指していた。

 ……強欲に溺れた人類を、余さず罰するために。

 甲高い悲鳴のような音が響く。氷壁の内に封じ込められたエネルギーが、間隙を縫って吹き出した音だ。

 唸りをあげる渦を眺めながら、ふと、レオンは想像する。

 先の人類も、『マザー』を手にしたのだろうか?

 現代よりも遙かに高度な知識と技術力を有していた古の文明。

 千百年前に滅んだ、太古の世界。

 何千年も続いたという古代文明は、今と同じく氷漬けにされて最期を迎えたのではないか。繁栄の驕りから、『マザー』の怒りを招いて。

 ――だとするなら、これほど皮肉な話もない。

 人類は再び同じ過ちを繰り返している。滅亡という惨劇を忘れるのに、千年という時は短いのか長いのか。

 いずれにせよ、レオンにとっては簡単に容認できない話だ。

 やがて、少年の足は巨大な氷渦の前で歩みを止めた。

「これが、ブライニクル」

 なんの感慨もなく呟いた。全身が呼吸困難になるほどの風に包まれる。息を吸えば、肺の中から凍りつきそうだ。

 目前に迫る、圧倒的な『死』。それでも、少年が僅かでも怯むことはなかった。

 ほぼ異形に喰い尽くされた左腕を、目の高さまで持ち上げる。

「貴女の眠りを妨げたことに関しては謝罪します。ですが、僕は世界の意思ごときに殺されてやるわけにはいきません。未来を一方的に押しつけられるのは、ひどく不愉快です」

 輝石を握る手に、強く、力を込めた。

「だから――これで、終わりにしましょう」

 ……躊躇うことなく、左腕を氷壁の中に突き込んだ。

 全身に衝撃が奔る。触れた指先は、一瞬で凍結した。そのまま、肌を突き破るような鋭い痛みが、ゆっくりと這いあがってくる。

 生きながら凍りつく感覚に、レオンは奥歯をかみしめた。

 少しでも気を抜けば意識を失いそうだ。さっき受けたダメージと共に、身体中から力が抜け去っていく。

 氷柱の内部に封じられたエネルギーに反応したのか、『マザー』が一際鮮やかに発光した。

 鉱石が強烈な熱を生じる。しかし、ブライニクルを破るにはまだ足りない。

 片足を踏み込んで、体勢を変える。渦とは逆向きに人外の腕を突き出した。

「オオオオオオオオオオオオオッ!」

 咆哮が響く。両脚が折れそうになるくらい力を込め、吹き圧される身体を支えた。

 不壊の腕が、天災の壁を少しずつ削り取る。

 白い氷粒が舞い、キラキラと輝石の紅い光を反射した。それは場違いなほどに美しく、刹那的にはじけて消えていく。

 まるで儚い花火のようだ。けれど、レオンにそれを眺めているような余裕はない。

 すでに肘まで蒼白い氷に覆われた。

 『不壊の腕』は傷つかない。しかし、生身の部分まで凍気が辿り着けば、人間の脆い肉体など容易く砕け散るだろう。それまで命が保つかも怪しい。

 それでも、ここで喰い止めなければ。絶対に、陸地まで辿り着かせるわけには――


 レオンは、目を見開いた。


 ――今、自分は何を考えた。

 なぜ、陸に辿り着かせてはならないなどと思ったのか。

 その結論は、いくら考えても一つしかなかった。

 それは、あまりにもレオン・シュタインベルガーらしくない答え。

 ……己の本質を貫き通すのではなく、ただ一人のため。――たった一人の少女を守るため、天災の進行を阻止したいと願った。

「が、あ……っ!?」

 ブライニクルと接触した腕に、これまでとは比べ物にならない激痛が奔る。

 「不壊」が、脆くなっている。生身に近い感覚を呼び戻された肉体は、絶対凍結の災害が与える衝撃に耐えきれない。

 骨が軋む。肩の付け根が、不快な音をたてた。

 少年の得た解は、レオン・シュタインベルガーという人間の存在を揺るがせた。

 全身を切り刻む痛みに苛まれながら、レオンは従者の少女が抱えてきた「恐怖」を知る。

 異能を得てからは、ひたすら強くなり続けた。前だけを向いて、過去など振り返りもせず。ただ自分が誰よりも優れた存在であろうとした。

 必要なもの以外はすべて削ぎ落としてきた人生において、はじめて直面する事態。

 ――自分の「弱さ」を認めることは、こんなにも恐ろしい。

 自分さえいれば良かった。他に欲しいものなど、何一つとしてなかった。

 そうして磨き抜いた己の核が、マーガレット・ヴァレンタインという小さな存在を認めた瞬間から、いとも容易く崩れ落ちていく。

 ……否、兆候はあった。

 はじめて少女と出逢った時。震えながら屍鬼と対峙する頼りない姿を見つけた瞬間に、心が揺れた。

 闘う技能もなく、どう見ても臆病者のくせに。自分より弱い者を守ろうと、圧倒的な恐怖に立ち向かう。

 そんな人間をレオンは知らなかった。気づけば、足は少女の元に駆け出していた。

 彼女が自身のために異能を使ったことは一度もない。……いつも、誰かの力であろうとした。

 ――ああ、認めるしかないのだろう。

 左の二指が折れた。鉱石を取り落としそうになる。残った指と掌に力を込めて、天災を砕き得る可能性を必死で支えた。

 衝撃と共に、手の先から凄まじい熱が伝わる。

 ずっと忘れていた感触。これが、左腕の痛覚。

 ――認めよう。レオン・シュタインベルガーの力は、あの少女よりも劣っている。

 追いつくことは不可能なのかもしれない。それでも。――そこに、届きたいと思う。

「……お前ごときに……ウチの従者はやりませんよ」

 途切れる声で吠えて、左腕に犬歯を突き立てる。下がりそうになった腕を、首の力で持ち上げた。

 この感情に、きっと名前はない。自分自身には、欲するものが何もなかったから。

 ただ、彼女に生きていて欲しいと思う。

 それだけが頭の中にあった。

 少しずつ、氷壁の渦が小さくなっていく。比例して呼吸も途切れがちになるが、銜えた腕は落とさなかった。

 明滅する意識の中、レオンは、父の手記にあった文言を思い出した。

『幸せなんてものが、そう簡単に手に入るわけがないというのに』

 ……自分の人生は、幸福だったろうか?

 分からない。これまで、幸せである必要性を感じなかった。

 結局、そんなものの基準は主観でしか測れない。自身で理解できないのなら、答えなど出るはずもないだろう。

 ……ああ、でも。

 おそらく自分は幸福だ。

 命を賭して、守りたいものができた。

 その事実は、殺伐とした人生の終わりを飾るには充分すぎる。

 ――だから、守ろう。

 この存在すべてを懸けて。


 ――――最期まで、己の『傲慢』を貫き通す。


 掠れたアイスブルーの瞳に静かな光が灯る。

 気がつけば、「不壊」はその硬度を取り戻していた。

 折れた箇所はそのまま。……けれど、残りの天災を撃ち砕くには十全に事足りる。

 氷柱から距離を置く。軋む骨格も千切れそうな肉も無視して、迎撃の構えをとった。

 目標の規模は直径十メートルほど。竜巻でもまだ巨大と呼べるサイズだ。絶対凍結の機能は、まだ失われていない。

 凍結した左腕を引く。骨の壊れる音がした。構わず、両の脚に意識を集中する。

「世界の終焉ごときが僕を阻むなど――百万年早いですよ」

 傲慢に吐き捨てて、銀の大地を蹴った。

 速く、疾く。吹き荒ぶ風のような速度で、赤黒く汚れた少年が疾走する。

 硬いブーツの底が氷を踏むたび、分厚い氷が不穏な音をたてた。

 ブライニクルが弱体化した影響か。もし完全に破壊すれば、この白く輝く大地も消滅するのかもしれない。

 けれど、レオンは止まらない。

 彼の手の中で、輝石が眩しい光を放つ。それはまるで、僅かとなった命の残滓に感応するような。燃え尽きる瞬間の焔によく似た、凍気を切り裂く鮮やかな紅だった。

「……これで、終りです」

 冷厳に告げて、強く一歩を踏みこんだ。足元で甲高い音が響く。

 眼前には、巨大な白色の柱。その氷壁を目掛け――不壊の腕を、直線上に振り抜いた。

 金属を抉るような音が鳴る。反動を受けた身体が悲鳴をあげた。『マザー』の発した熱で、ブライニクルが溶けだしていく。

 視界が白く染まる。呼吸が途切れた。もはや痛みすら懐かしく感じられるほどの、無感覚。

 ……それでも、目指すべき場所は分かっていた。

 蒸気を浴びながら、ついに、少年の左腕が死の氷柱を貫く。

 全体を両断されるその一撃は、天災にとってこれ以上ないほどの止めとなった。

 エネルギーが四散するように爆風が起こる。至近距離にいたレオンは、正面からその煽りに巻き込まれた。

 傷ついた身体が遥か後方へと吹き飛ばされる。まるで仕返しとでもいうかのような残撃に、小柄な少年は為す術もなく全身を投げ出した。

 ボロボロの人形のように、血濡れの身体が転がっていく。

 けれど、レオンにとってそれは何の意味もない衝撃だった。


 ――レオン・シュタインベルガーの心臓は、もう、とっくの前に止まっていたから。


 薄れる意識の中、赤紫の塊が、遥か深海へと沈んでいくのが見えた。

 人の夢も欲望も、すべてを光の内側に飲み込んで。

 やがて、氷蒼の瞳はその役割を終えて暗転した。

 とろりとした暗闇に意識が溶ける。

 最期の瞬間に聴こえたのは、守りたかった少女の泣き声。

 涙に濡れながら彼女が口にした言葉を思い出して。……その通りにしたかったな、と。最後にそんな、どうしようもないことを思いながら。


 ――少年の命は、静かに終わりを迎えた。




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