第4章 3話
【第四章 3】
少女は長い時間をかけて、資料を読み終えた。
自分の頭が良くないことは知っている。それでも、レオンの考えを知りたかった。
……そして、マーガレットは理解した。資料が示す、その結末を。
慌てて踵を返すと、駆け足で屋敷の外へと向かう。
伯爵の考えが分かった。――――理解ってしまった。
彼は自分の身をまるで顧みない。そんな姿を、ずっと近くで見てきたから。
「伯爵……っ!」
こぼした声には、心を切り刻まれたような焦りが滲む。乾いた空気が吐息を白く凍らせた。
息を切らせて屋敷を飛び出した少女が、無人の道を駆けていく。
祈るように。願うように。
何度も何度も、ただ一人の名を呼びながら――。
◇
小型の軍用車を降りたレオンは、大小様々な建造物の並ぶ発電所を見上げた。
汚れた壁は塗装が剥がれ、設備の一部らしき金属には赤茶けた錆がびっしりと浮かんでいる。施設の周囲の土地にはいくらか空白があるものの、建物が複雑に配置された中央部はまるで迷路のようだ。
異常事態が起きてからは、軍による周辺警備も解除されている。
おそらく、これが最後の盗賊としての仕事だろう。
特になんの感慨もなく予見して、レオンはトランクを持ったまま、軽々と外壁を飛び越えた。
ざん、と雑草を踏む音がする。そのまま、何事もなかったかのように歩きだした。
雨風に曝され続け、朽ちかけた光炉の集合施設は、暗い空の下で不気味な雰囲気を漂わせている。まるで、建物自体が亡霊と化したような。どろどろと肌にまとわりつく不穏な気配。
中でも重い雲を貫くようにそびえ立つ背の高い建物が、アナスタージアの言う十五番光炉のある場所だ。
そこはヘルマン准尉の一派に爆破された施設でもある。
『マザー』の眠る施設が破壊され、極大の災害であるブライニクルが呼び寄せられた。
それは、封印を解かれた輝石が、自らの意思を示したかのような錯覚を抱かせる。
否、それ以上に――
――ふと、レオンは覚えのある匂いを嗅いだ。
削ぎ落とされた肉が放つ、紅に塗れた「死」のにおい。
生命のレールを外れた化生の腐臭が、光炉の奥から漂ってくる。
「……この近くで行方不明者は出ましたかね」
不穏な気配を感じ取りながら、それでも少年が足を止めることはない。
成すべきことは一つ。氷柱を破壊するため、止まっている暇など微塵もなかった。
レオンは『傲慢』を核に持って生まれた人間だ。――その最期を、世界の終焉ごときに決められてはならない。
焼け焦げた大穴をくぐり、光炉を有する施設に入る。中には、血の饐えたようなにおいが充満していた。
薄暗い通路を黙々と進む。ブーツの底が硬い床材を踏むたび、高い音が施設内に響いた。
張り巡らされたコードや配管は、やがて円筒状の変換機へと収束する。どこか、巨大なストーブを彷彿とさせるカタチの設備だ。
かつて帝都中にエネルギーを配給していた帝国最大の光炉。
――――その目前に、灰銀と紅の絡みあう肉塊が聳えていた。
仰ぐほどの巨躯は、いままでの個体とは比べ物にならない。
金属を思わせる鉄と血の肌はまさに異形そのもの。
白く濁った眼球に静かな殺意を宿し、史上最大の『屍鬼』が、小さな侵入者を見下ろした。
「まさしく化け物ですね……っ!」
呟く声と同時に、前触れもなく拳が振り下ろされた。
無人の施設に響き渡る轟音。破片を飛び散らせた床には、人が埋まるほどの穴が穿たれた。
――紙一重で飛び退った少年は、その威力を視認する。
振りかぶりもしない。ただ、腕を突き出しただけ。……それだけで、硬質な石材が一メートル近く抉られた。人間の肉体など、一度の接触で千々に粉砕されるだろう。
レオンは認識した。あれは、いままで遭遇したどんな化け物よりも強い。純粋なまでに圧倒的な――「敵」なのだと。
「……『不壊の腕』開放」
呼びかけに応じて、引き締まった左腕が異形へと変貌する。
与えられた時間は三百秒。それで勝てる相手だとは、レオンも考えていなかった。
しかし――
「屍鬼ごときが、生意気ですね」
――――傲慢に、彼は笑う。
たとえ、それが触れた者を確実に凍らせる天災であろうと、悪夢のような力を振るうケダモノであろうと、負けるつもりなど毛頭ない。
迎撃の構えをとる少年に向けて、暴風のような凶襲が押し寄せる。
横凪ぎの一閃を大きなバックステップで躱し、削られた床を蹴って懐へ跳ぶ。鋭利な膝がきた。しかし――退かない。
「こざかしい!」
分厚い骨に向けて、人外の左腕を振り抜いた。
砲撃のような音が響く。小柄なレオンの身体は、いとも容易く吹き飛ばされた。
しかし、氷蒼の瞳は敵の巨体が揺らぐのを捉えた。
空中で身を捻って体勢を整える。足が地を掴んだ瞬間、すぐ追撃を放つために滑走した。
……スピードや力で敵わないのなら、まずはその機動力をそぎ落とす。
合理的に。ただ単調に、敵を「殺す」ためだけの行動を選択する。
白銀の軌跡を残し、細身の体躯が疾走した。――しかし、異形の化物はその更に上を行く。
ケダモノが咆哮する。右の剛腕が振るわれた。
レオンは外へ跳んで回避する。巨体に比例して一撃の隙は大きい。そのまま再び懐目掛けて弾けた身体を――――骨格を無視して鞭のようにしなる化生の拳が、捕らえた。
……味気ないほど一瞬の出来事。けれど、生命活動を脅かすには充分すぎる一撃。
鮮血を撒き散らした少年の身体は、木偶人形のように薙ぎ払われた。
◇
少女が辿り着いた時、特務機関の事務局には、アナスタージア一人だけが残っていた。
「やぁマーガレット君。どうしたんだい、そんなに慌てて」
尋ねる声はいつもと変わらない。普段通りに珈琲をすするその姿が、こんな状況では彼女の異常性を際立たせている。
「アナスタージアさん! まだ避難していなかったのですか!?」
「逃げても意味がないからねぇ。結果が同じなら、最後まで自分の好きにするさ。……それに、ここにいる時点で君も同じだろう?」
「あ……そ、それは、そうですけれど……」
「なにか用事でもあったのかい? ずいぶんと急いでいるようだが」
矛盾を揶揄するでもなく、異能の研究者はのんびりと先を促す。
あまりにも泰然としたその姿につられて、マーガレットも僅かに冷静さを取り戻した。
切れた息はそのまま、翡翠の瞳を年上の女性に向ける。
「あの! 伯爵はこちらにいらっしゃいませんでしたか?」
「来たよ。さっきまで色々と人がいたんだけどねぇ。みんなどこかに行ってしまった」
「そ、それで、伯爵はどちらに?」
申し訳ないと思いながらも、マーガレットは知りたいことだけを尋ねた。
いまは時間がない。早くしないと、レオンが手の届かないところへ行ってしまう。
「んー。教えてもいいけど、たぶん君は傷つくことになると思うよ」
「え……?」
「まず間違いなく、レオン君は死ぬからね」
――心臓が、嫌な音をたてた。
「う、うそ……」
「気づいていただろう? 彼の考えを知ったから、君は焦ってここに来た。違うかい?」
相変わらずの人形じみた表情を浮かべて、元医師は平然と言う。
しかし、それに構っている余裕などなかった。
「場所を教えてください! 説得すれば、止められるかも」
「それは無理だよ。核に『傲慢』を持つ人間は、絶対に自分の決定を覆さない。それは彼らにとって他者への敗北を意味するからね。自らの死を定めるほど大きな決意は、引き退がればその時点で負の欲求に喰い潰されてしまう」
淡々とした口調。
いつもと変わらないはずのそれは、今日に限ってやけに冷たく響いた。
「そんな……なにか、方法は……」
「ないね。レオン君は、身体も心も強くなり過ぎた。常人に彼は止められない。我々にできるのは、彼の定めた結末を受け入れて、見守ることくらいだよ」
――受け入れる。
それは、『小心』を核に持つマーガレットには避けられない結末。
どれだけ抗っても、本当には傷つけないから。だから、弱虫な自分はどんな現実でも結局は受け入れてしまう。
そうすれば心は壊れない。幼い頃から、ずっと知っていた。
……でも。
それでも。
「……お願いします。教えてください」
喉を震わせて、少女は頭をさげた。
「腹は決まったかい?」
尋ねる声に首を振る。
「――でも、あきらめたくありません」
絞り出すように、そう訴えた。
伯爵が決めたことを覆さないのは知っている。できることなんて、ないのかもしれない。
……それでも、あきらめたくなかった。
レオンはいつも助けてくれた。はじめて会った時も。これまでも、ずっと。
彼の傍には、真冬の木漏れ日のような優しさがあった。それは見つけにくいけれど、気づけばそっと包み込んでくれていたような。そんな、不器用な温もり。
伯爵はきっと認めない。だから、自分だけは知っていよう。そして、いつかはもらったものより大きな温もりを返すのだと……そう、思うから。
「……なるほど。君は想い一つで、負の欲求どころか本質にさえ抗ってみせるのか」
ぽつりとアナスタージアが呟く。
「え?」
「ついてきたまえ。レオン君の所に案内してあげよう」
疑問符を浮かべる少女に構わず、アナスタージアは出口へと向かう。
その言葉の意味をしばらく理解できなかったマーガレットは、自分が置き去りにされかけていることに気づいて――慌てて、マイペースな研究者の背中を追いかけた。
◇
かつて帝都にエネルギーを送り続けてきた施設は、巨大な十五番光炉を残して、原型をとどめていなかった。
張り巡らされたコードや配管はすべて捩じ切れて、床の石材は足の踏み場もないほど抉られている。電力を制御する機械など、いかに腕の良い技術者でも修復は不可能だと断言するだろう。もはや壊れていない所を探す方が難しい。
山のような瓦礫に埋め尽くされた屋内で、破壊の象徴たる屍鬼は、削られた足場などものともせず一点を目指して歩みを進める。
濁った瞳が睥睨する先――そこには、満身創痍の少年が立っていた。
右腕は肩の付け根から垂れさがり、口元からは夥しい量の血を吐きだしている。全身に負った傷も浅くはない。足元には、ドス黒い赤の水溜りができていた。
とうに限界を超えているはずの肉体を抱えた少年は……それでも、まだ瞳の殺意を消してはいなかった。
ひどく弱々しい光。
――けれど、他の何者にも屈することを良しとしない冷厳な輝き。
零れるだけの細い息で酸素を取り込みながら、レオンは自身の身体を客観的に観察する。
右腕は、完全に砕けて使い物にならない。肋骨も何本かやられた。損傷は内臓にも及んでいるのだろう。時間が経つごとに、意識が薄らいでいく。
血を失い過ぎた。紅い水滴は、いまも止めどなく流れ続けている。
それは底なしの砂時計のように、じわじわと終末の訪れを刻む。
対峙する屍鬼に止まる気配はない。幾度か打撃を叩きこんだが、まるでコアの場所を絞り込めなかった。
異形の細胞が肉体を修復する不死身の化け物は、ゆっくりと「死」を携えて少年に迫る。
おそらく次の攻撃が最後だ。躱せなければ、かろうじて繋いだ命が終わる。
舌打ちをおさえて、レオンは唯一無事な左腕を見下ろした。
時間は、もう三百秒を超えている。
異形を飼い馴らした左腕は――――細胞を、肩口まで喰い荒らされていた。
チリチリと首筋に痛みが奔る。まだ無事な部位へと侵略を進めているのだろう。自我を喰い尽されるのも、時間の問題だ。
はじめて直面する症状なだけに、どう対処するべきなのかも分からない。
……しかし、恐怖はなかった。むしろ「こうなるのか」という場違いな驚きが上回るほど。
それは、目前に迫る最大にして最強の化け物に対しても同じ。
不壊の範囲が増えるなら是非もない。それだけ敵を屠る手段も増える。
自我の消失も、命を失うことも、これといって惜しくはない。そんなこと、異形を飼い馴らすと決めた時とうに覚悟している。
今は、ただ――己が成すべきことを、成すのみ。
自身の間合いに入ったのだろう。屍鬼が、雄叫びをあげた。
大地を揺らすほどの咆哮。その絶叫を聴きながら、レオンは思考する。
眼前の敵には、異形の細胞が生み出した器官、『コア』が見当たらない。広範囲に攻撃を散らしても、防御速度の違いはまるで発見できなかった。自己保存の性質を持たない個体だというならそれまでだ。しかし、なにか他に理由があるとすれば。
……思考が、断ち切られた。
まるでコマ送りのフィルムみたいにゆっくりと、屍鬼の剛腕が迫る。
死期が近づいているせいだろうか。今まで捉えきれなかった動きが、はっきりと見えた。
息を吐く。ふらつく両足に意識を集中して、横へ跳んだ。
鉄塊のような拳が地面を抉る。破壊音は、倒れた少年の耳に遅れて届いた。
砕けた右腕に激痛。全身の骨と筋肉が軋む。途切れそうな神経が、肉体の限界を告げている。
明滅する視界は――ふいに、無傷のままの十五番光炉を捉えた。
それは何気ない無意識の行動だった。
人外の左腕を陥落した床につき、力任せに身体を引きずり起こす。化生の追撃で、身体が揺らいだ。しかし、レオンの疾走の方がほんの僅かに速かった。――白銀の閃光が弾ける。
飛ぶように、滑るように、障害物だらけの地を駆けた。
目指すは、ただ一点。淀みなく走り抜けた血塗れの少年が、浸食の進んだ左腕を振りかざす。
……謀反を企てた異能者は、なんのためにこの場所を爆破したのか。
……命を喰らうはずの化け物は、なぜこの無人の地に留まっていたのか。
それが、たとえば何者かに潜在的な意識を操られていたのだとしたら――。
凶器と化した拳は、分厚い鉄扉を一撃で貫いた。
封じられた光炉を力尽くでこじ開ける。中に――臓器のようなピンク色の膜が見えた。
不気味に脈動する巨大な肉の塊。円筒の内部に貼り巡らされた複数の管。種さえ分かればどうということはない。この部屋全体が、化け物の一部だったのだ。
己の『心臓』を守ろうと、背後から凄まじい勢いで腕が伸びた。
けれど、少年は臆さない。氷蒼の瞳が冷たい光を放つ。
「これで、終わりです――番犬の屍鬼」
きわめて冷静に、残酷なほど淡々と。彼の異能は、化生の『コア』を打ち砕いた。
響き渡る轟音と絶叫。存在の消滅を意味する断末魔が、レオンのすぐ後ろで噴き出した。
砂塵となって崩れ落ちる化け物には見向きもせず、左の手をゆっくりと光炉から引き抜く。
開いた穴から、視界を焼くほどの眩い光が漏れた。
黄緑色の明かり。穏やかなエネルギーを内包するグラウンドライトの光も、集まるとかなりの光度になる。これだけの数があれば、むこう二、三十年は帝都の灯も消えないだろう。
――その中心に、輝石を生み続ける『マザー』の姿があった。
生命に異変をきたすもの。文明に終焉をもたらす『完全なるエネルギー体』は、鮮烈な赤紫の光を放ちながら、まるで女王のごとく君臨していた。
人間の赤ん坊ほどありそうなそれを、レオンは無造作に掴んだ。
感覚のなくなりかけた左の掌に熱を感じる。変換機の操作もなしに輝石が発熱するなど聞いたこともない。ただ、「彼女」のしたことを鑑みれば不思議だとは思わなかった。
人間に異形の種を植え、封印が綻んだことを機に人類を滅ぼす天災を呼んだ。……否、そうなるように、種を持つ異能者の意識下に働きかけた。
彼女は救いの輝石などではない。『マザー』は、強欲を罰する世界のシステムの起動スイッチなのだ。決して人間が手にしていいものではなかった。
しかし、レオンは怯まず、投げ出していたトランクに盗んだ輝石を放り込んで歩き出す。ふらつきながら、重くなる身体を引き摺るようにして出口を目指した。
……時間は、あまり残されていない。
延命の応急処置など思いつきもしないまま。
――歩みを止めない少年は、自身にふさわしい終焉へと向かう。




