第4章 1話
【第四章 1】
異常なほど暖かい冬至を越えた帝都は、いつになく騒然とした様相を呈していた。
多くの人々が大きな荷物を抱え、ある者は馬車で、またある者は軍部の大型護送車に乗って、あぶれた者は家族総出で荷車を押して、内陸の国境線を目指す。
建国記念祭の日でも、ここまで人は出歩かない。まるで街ぐるみの引っ越しだ。
慌ただしく移動する人々の姿は、森を追われた野生動物の群れを思わせる。
その顔には、どれも色濃い不安と焦燥が刻まれていた。
「ここでお別れね、メグちゃん」
切なく静かに響いた言葉が、マーガレットの意識を引き戻す。
「カルミアさん……」
おもわず、頼りない声がもれた。
自分がどんな顔をしているのか、鏡を見なくても分かる。きっと情けない表情が貼りついているのだろう。
「そんな顔をしないで? 大丈夫。きっと、またみんなで戻ってこられるわ」
年下の女中を気遣って、カルミアは穏やかに微笑んだ。こんな時でも、しっかり者の侍女は気配りを忘れない。その眼差しがあまりにも優しくて、つい泣きそうになる。
「……伯爵は、なにか仰っていませんでしたか?」
「それが、カルミアもメグちゃんと同じなのよ。緊急避難号令が出て、すぐに解雇を言い渡されたの。なにか理由があると思うのだけど……」
どちらからともなく、溜め息がこぼれた。
少女が落とした視線の先には、革製の大きな旅行鞄。中身は、衣服と当面の生活費、それと、南東へ向かう列車の切符が入っている。
……すべて、レオンが準備してくれたものだ。
その雇い主は、なにも言わずに使用人を追い出して、屋敷を閉じてしまった。
こうなるとマーガレットは帝都に居場所がない。向かえる先は一つ。切符に記された、故郷近くに位置する駅だけ。そこからなら、徒歩でもフロライナとの国境に辿り着ける。
結局、解雇の理由は最後まで教えてもらえなかった。
「ごめんなさい、メグちゃん。もう出発の時間だわ」
腕時計に目を落として、カルミアが申し訳なさそうに告げる。
彼女が向かうのは、帝国の遥か南にある小さな村。伯爵家に雇われる前、そこでお世話になっていたのだという。
ブラウリーゼの南方は、まだ危険区域に指定されていない。
とはいえ、今後どうなるのかなど、まったく予想もつかないのだが。
「本当は、メグちゃんや旦那様と一緒に避難できればよかったのだけど」
「ありがとうございます。でも、わたしも故郷が気になりますので……」
もし、急に明日がやってこないと分かったら。
絶対ではなくともその可能性が高いとしたら、人はどこへ向かうのだろう。
きっと、それは生まれ育った場所だ。
伯爵の傍にいられないとなると、尚のこと、他に望む場所がない。
でも、本当は――。
「思いつめちゃダメよ、メグちゃん。きっと旦那様にはなにかお考えがあるのだわ。それが終わったらすぐに避難されるわよ。あの方はとても頭の良い人だもの。きっと、大丈夫」
最後の言葉は、自分に言い聞かせているようにも感じられた。
カルミアは、まだ顔をあげられない女中をギュッと抱きしめて、額に軽くキスを落とす。
「また、ここで会いましょうね。約束よ」
「はい……カルミアさんも、どうかご無事で」
互いの無事を祈り、身体を強く抱きしめあう。やがて、荷物を持った侍女は馬車の停留所へと歩き出した。
もうすぐ列車もやってくる。そろそろ駅に向かわなければ間に合わない。
……分かっていても、足はなかなか動きだしてくれなかった。
マーガレットは翡翠の瞳を揺らして、伯爵家の方角を見つめた。
昨日まで何事もなく過ごした場所。きっと、今日もあれこれと文句を言われながら、働くはずだったお屋敷。
――その遥か遠方に、巨大な白色の柱が見える。
帝都からは遠い。急行馬車でも六時間はかかる海の上に、その柱はあった。
これだけ遠くても、はっきりと姿を確認できる。近づけば、いったいどれほどの大きさなのか。マーガレットには想像することすら難しかった。
あれが異常に大きな竜巻であることは、ラジオで聞いている。その報道を聞いた時から伯爵の様子がおかしくなった。
どれだけ問い詰めても、レオンは「早く出ていきなさい」としか言わない。
いま、帝国になにが起きているのだろう。傲慢な雇い主がこれからどうするつもりなのか、マーガレットにはまったく分からない。
せめて、近くにいられたら。彼がなにかするつもりなら、助けになれたかもしれないのに。
「伯爵……」
不安げな呟きが、ぽつりともれる。
その小さな声は、先を急ぐ人々の喧噪に間もなくかき消された。
◇
ガランとした古い屋敷には、まったく人の気配がなかった。
昨日までそこにあった生活の名残すら、目を凝らしてもほんの僅かにしか見つけられない。
冷えきった部屋で一人佇む少年は、持っていた資料を机に放り投げて、厚手のフロックコートに袖を通す。
「……さて、行きましょうか」
その手には仕事用の大きなトランク。さして重量のない空の鞄を携えて、レオンは自宅の執務室を後にする。
扉の閉まる音を最後に――無人となった広い部屋には、完全な静寂だけが取り残された。
レオンがそれに気づいたのは、今から一週間前。
謀反軍の一角を潰し、攫われた従者を連れ戻した時、形容しがたい違和感を覚えた。
すぐに新聞社や図書館から資料を取り寄せて、浮上した仮説は――これまでの任務の根幹にある事実を否定した。
帝都を抜け出す人々の流れに逆らい、レオンは国防省を目指す。事務方の軍事行政を担当する文官部署の一角に、特務機関の事務局がある。そこに行けば目的の人物にはすぐ会えるはずだ。おそらく、彼女ならまだ避難していないだろうから。
先程よりずいぶん少なくなった人波を眺めながら、ふと、従者の姿を思い出す。
最後まで屋敷を出ることに抵抗していたが、もう帝都を出ただろうか。予定通りなら列車はとうの昔に出発している。それが今日の最終便。再運行の目途は、まだ立っていない。
……まぁ、いくら馬鹿でもさすがにこの命令は守るだろう。
なにしろ、あと数時間後に大陸を襲うのは未曾有の大竜巻だ。あまりの規模に軍上層部も匙を投げた天災が、すぐそこまで迫っている。この状況で好んで帝都に残る者など、レオンはごく一部の奇人くらいしか思いつかない。
その一人に自分が数えられるのかと思うと、なかなか反吐が出そうな話ではあるが。
下らないことを考えている内に、少年は国防省の建物に辿り着いた。
潔癖な白の外壁に、どっしりとした全体像。いやに重苦しく感じられるのは、ここが軍部を統轄する機関であるせいか。いずれにせよ、外観に用はない。あるのは中で待つ者だ。
門まで歩くと、そこにはまだ大勢の兵士が残っていた。
「し、シュタインベルガー卿!? なぜこちらに! 早くお逃げください!」
「ああ、僕はいいですよ。やることがありますので」
困惑する門衛に、「入っても?」と素っ気なく尋ねる。未だ状況を理解できていないらしい青年は、なぜか返答に窮した様子で、もごもごと口籠った。
「そ、それが……」
「すいません。急ぎますので」
「あ! お、お待ちください」
制止する声を振り切って、足早に庁舎へと入る。いまは生憎と関わっている時間がない。
しかし、なぜ彼らはまだこんな所に残っているのだろう。緊急避難の号令は全ての国民に向けられたものだ。すでに住人の退避が済みつつある帝都に、ここまで大人数の兵士を残す理由が分からない。……疑問に思いながらも、黙々と特務機関の事務局を目指す。
建物の最奥に位置する部屋へと辿り着いたレオンは、そこで、残留した兵士たちが待つ人物の存在を知った。
「やぁ、やっぱり来たね。レオン君」
こんな事態だというのに、奇人の研究者は気さくな挨拶をする。なにがやっぱりなのかは分からないが、問題はその隣にいる人物だ。
三十代半ばの厳めしい顔つきの男は、睨むような視線を突然の訪問者に浴びせる。
「――これは皇弟殿下。ごぶさたしております」
「『英雄』の息子か……何をしにきた?」
ざらつく声が、訝しむように問う。少年は、それに愛想笑いを浮かべるでもなく答えた。
「身内が残した野暮用を片付けに。……殿下こそ、こんな所で何を? 臣下を連れて集団自殺でもするおつもりですか?」
言葉遣いこそ丁寧だが、その口調は明らかに相手を侮蔑していた。皇族の隣に立つアナスタージアが、人形じみた表情のまま、クスクスとおかしそうに笑う。
「チッ。相変わらず口の減らんガキめ……アレはヤツらが帝国軍人の誇りだなんだと言い張って、勝手に居残ってるだけだ。俺の指示じゃない」
男が忌々しげに吐き捨てる。その琥珀色の眼光は、睨むだけで相手を竦ませるほど鋭い。
彼の名は、エーデルトラウト・フーゴ・フォン・ブラウリーゼ。皇帝の実弟である。
「貴方が避難すれば、兵士たちも逃げられると思うんですがね」
「祖国を捨てて逃げ出すつもりなどない。腰抜けのクラウディウスと一緒にするな」
皇族らしからぬ荒い口調で、エーデルトラウトは言ってのけた。
クラウディウスとは今代皇帝の名だ。彼の語気から察するに、この国の王は誰よりも先に逃げたのだろう。
そういう人間だと知っていたレオンは、特に思うこともなかった。
それに、皇帝は国からすれば象徴となる存在だ。居ても何の役にも立たないのなら、逃げてもらった方がまだマシである。
だというのに、この男は逃げないという。
エーデルトラウトは苛烈な性格で知られる人物だ。しかし、物事の筋道は通す。
先日のクーデターも、派閥の異端分子が仕組んだ事件だと調べがついていた。彼はそういう曲がった行為を許さない。退避を頑なに拒絶するのも、その性格ゆえだろう。
……いずれにせよ、逃げたい家臣からすれば迷惑な話なのだろうが。
「まぁ貴方の都合なんてどうでもいいです。それより、あの竜巻について分かっていることを教えてください」
「このクソガキ……」
「ふはは! 相変わらず君は面白いねぇ!」
ついにアナスタージアが噴き出した。
「いいよ。報告されたデータを教えてあげよう。レオン君、あれは竜巻じゃない。あの巨大な物体はね――触れるものすべてを凍らせる『氷柱』だよ」
「……氷柱?」
「ああ、極寒地域の海中で起こるブライニクルという現象に酷似しているね。ただ、どういうわけか、あれは水面に姿を現している。それも、今まで観測されたものとは比べ物にならない大きさだ。成長するスピードも凄まじく速い。現在の目算では直径二百メートルを超えた。上陸する頃には、四倍以上に巨大化している可能性があるそうだよ」
「陸地への到達予定時刻は?」
「おおよそ三時間後だ。辿り着いた時点で、まずブラウリーゼが氷漬けになる。最終的には大陸全てが凍りつくんじゃないかな?」
帝国や人類が迎える悲惨な未来を、奇人の女医はさも愉しそうに語る。助からないと分かっているから、逃げなかったのだろう。それは実に彼女らしい判断だ。
隣のエーデルトラウトは、微かに悔しさの滲む表情を浮かべていた。
「止める方法はないんですね?」
「無理だろうね。アレには触れない。西岸の周辺は、すでに凍り始めている」
淡々と、アナスタージアが語る。それを聞いて、レオンは薄い笑みを浮かべた。
「一つ、考えがあります」
二人の視線が、同時に少年を向いた。
「何か手があるのか」
「はい。……ただ、その前に答えてください」
条件を出すと、エーデルトラウトが怪訝そうな表情になる。
その顔を眺めて、レオンは氷蒼の瞳に冷たい光を宿す。
「――帝国は、いつから『マザー』の実害に気づいていたんです?」




