第2章 終
【第二章 終】
帝都の西の外れに建つシュタインベルガー邸に、その日、珍しく来客があった。
払い下げになった小型軍用車を駆って屋敷に姿を現したのは、特務機関の主任、アナスタージア・クラウである。
前触れもなく早朝に他人の家を訪ねるという非常識な行動に出た件の女性と、屋敷の主であるレオンは、現在、掃除もまだ済んでいない客間で向かい合ってソファーに腰掛けていた。
「せめて拭き掃除だけでも」と慌てる侍女のカルミアは、レオンが止めた。
非常識な人間に、常識的なもてなしなど不要だ。実際、客間に通されたアナスタージアは相変わらず感情の読めない微笑を浮かべて、出された紅茶を啜っている。全くいつも通り。これで不機嫌だと言われても、レオンの知ったことではない。
「やぁ、やはり君のところの紅茶は美味しいねぇ。ダージリンかい?」
「……何をしにきたんです?」
軽口をあっさり無視して、少年は半眼で来訪者をにらんだ。
だが、そんな冷やかな視線にも女研究者が堪えたようすはない。
「疑り深いねぇ、君も」
「誰のせいだと?」
「ふふ。まぁ、安心したまえ。今日はその件の謝辞を述べにきただけさ」
奇妙な言い回しに、思わず眉が寄る。
そう言って、厄介事が持ち込まれたのはつい三日前のことだ。フォレスト家での事件の後、本来なら不要だったはずの取り調べを受けることになり、報告書の枚数も倍ほど増えた。どんな阿呆でも疑い深くなろうというものである。
「いやぁ、君のおかげで実に興味深いものを見れたよ。僅かでも意思を残した屍鬼なんて初めてだ。二人には感謝している。それと、個人的な都合に巻き込んで申し訳なかったね」
やけに上機嫌なアナスタージアは、さっきの言葉通り謝辞を告げて頭を下げた。
それはレオンを騙したと認めるということだ。しかも隠れて観察していたという事実まで。
研究にのめり込むあまり精神的に子供っぽい部分を残した女性だ。なにを考えているのか分かりにくいところもあるが、自分で非を認めれば謝りもするし礼も言う。それ自体はさして珍しいことでもない。
長いブロンドがはらりと落ちるのを眺めて、レオンは呆れたように溜め息をついた。
「本当にそれで誤魔化せると思ってるんですか? だとしたら重症です。その紅茶を置いて、一刻も早く病院に向かってください」
「……なんのことだい?」
あくまでシラを切るつもりらしい研究者を、少年はジトッと睨めつけた。
「貴女とマリア・フォレストが幼少期を同じ施設で過ごしていたという情報を見つけました。管理局の担当者に小金を渡したら、すぐに該当する書類を見せてくれましたよ」
「うーむ。役人の腐敗も困ったものだね」
「あの方が特殊な例だと信じたいものです。……で? たかだか紙幣数枚でバレるような情報を、どうして隠そうとしたんです?」
尋ねる声に、アナスタージアは答えない。……いや、答えられないのか。
思い返せば、彼女の様子はずっとおかしかった。ただの奇行ならいつものことだが、彼女が異能の研究に他人を巻き込むなど有り得ないことだ。
生粋の研究者は自分の仕事に他人が介入することを嫌う。アナスタージアは、間違いなくそれに該当する。ましてや今回は、屍鬼の出現が八割がた確定していたような案件だ。予見していなかったとは考えにくい。
つまり、彼女の思惑は、
「信じ難い話ですが……貴女は、幼馴染を女優として死なせるために、僕を利用しましたね」
人形じみた微笑に変化はない。僅かに眼が開いたくらいか。
滑稽な話だとレオン自身も感じている。研究者としてのアナスタージア・クラウを知る者なら、誰もがそう言って笑うだろう。
だが、おそらく今回の彼女は、心から「医者」としてマリアに関わっていた。
「マリア・フォレストの肉体がすでに末期だということを、貴女は把握していた。当然、能力の内容や増加した自殺者の真相にも、異能研究の第一人者たる貴女ならすぐ気付いたはずだ。帝国ではいくつかの条件と引き換えに異能者に市民権を与えていますが、軽度でも犯罪に手を染めた者には厳罰が科せられる。そこで貴女は、幼馴染の人生を彼女にとって最良の形で幕を下ろさせるため、僕やマーガレットさんを利用することにした――という、ただの推測です。訂正があるのなら、どうぞ」
掌を向けて促しても、アナスタージアは発言しようとはしなかった。代わりに、首肯と気の抜けた拍手が返ってくる。
正解……ということだろうか。
「なぜ、そんなことを?」
レオンにとってはそこが一番の疑問だった。
彼女は情で動くような人間ではない。幼少期からの付き合いで、それは断言できる。
そんなアナスタージアを突き動かした衝動は何なのか。その答えは、ついに本人の口から語られることはなかった。
「……私にもね、分からないんだよ」
目を伏せて、ぽつりとこぼす。
「強いて挙げるなら、彼女とは長い付き合いがあって、共有した時間も多いというところかな。だが、それもどうやら的確な答えではないようだ。完全な解はなく、私自身がその解答の追及にまるで興味を抱けない。……迷宮入り、というやつさ」
肩を竦めて、特に残念そうでもない口調で呟いた。
本当に興味などないのだろう。あくまで自分の好奇心のみを優先するその姿は、いつも通りのアナスタージア・クラウだといえる。
「まぁ、これで身近な人間も全ていなくなったし、二度とこんなことは起きないだろう。君やマーガレット君には借りができてしまったね。そうだな……もし死体になったら、すぐ私のところに来たまえ。死後一時間くらいなら、なんとか蘇生してあげよう」
「死んでまで貴女の実験動物になるのはごめんです。それより、二度とふざけた事件を持ち込まないでください。次は容赦しませんよ」
冷やかな宣告を受けて、研究者は唇の端を持ち上げた。
「一応、肝に銘じておこう…………ところで、君」
深紅の外套を手に立ち上がったアナスタージアは、親指で部屋の扉を示す。
「可愛らしい助手が、何やら用事みたいだよ」
見れば、木製のドアが僅かに開いて、お仕着せの裾がちょこんとはみ出していた。
……隠れているつもりらしい……あれで。
あまりにも間抜けすぎる従者の姿に、レオンは何ともいえない表情で溜め息をついた。
「入りなさい」と半ば強制的に促す声に、マーガレットは恐る恐るといった様子で客室に足を踏み入れた。代わりに、アナスタージアが部屋を後にする。
「まぁ、頑張りたまえ。及ばずながら、私でよければ応援させてもらうよ」
すれ違いざまにからかうような口調で言われて、頬がカッと熱くなった。
違う、そんなつもりじゃないんです。と言い繕おうとしても、上手く言葉が出てこない。
無情にも背後で扉の閉まる音が響き、少女は気まずい空間に取り残された。
オペラを観に行ったあの日、自分が暗示にかけられていたことは伯爵から聞いている。とはいえ、自分が恥ずべき醜態をさらしたことには変わらない。
フォレスト家での事件から、三日間。
……マーガレットは、レオンと目も合わせられないような状態に陥っていた。
「もう事情は説明したでしょう。いい加減、変に意識するのはやめてもらえませんか。鬱陶しいんですが」
「で、でも……」
罵られても、顔を上げることができない。頭の向こうから溜め息をつく音が聞こえてきた。
「安心しなさい。たとえ貴女がはしたない牝犬のように欲情したとしても、僕は何も感じませんし手も出しません。誓約書を書いてもいいですよ」
「……ぐっ」
「誰も貴女が恋に溺れる夢見がちな性格だなんて思いませんよ。だいたいマーガレットさんのどこに女性的な特徴があるというんです? 料理もできなければ掃除も苦手。身体も空気抵抗の少ない流線型で、空を飛んだらとても速そうだ。貴女なら音速の壁など容易く」
「そ、そそそそこまで言わなくてもいいじゃありませんか!? 胸だってちょっとはありますわよ! だれが音速の壁なんて突破するもんですか!」
――無理だった。
よく頑張った方だと思う。でも、あそこまで言われて黙ってなどいられない。むしろグーで殴りかからなかったことを褒めてもいいはずだ。
「……ずっとそうしていなさい。煩わしいですが、気持ち悪いよりいくらかマシです」
呟く声に、ハッと眼を開く。見ると、伯爵はいつも通りの不機嫌な表情を浮かべていた。
……気を遣ってくれたのだろうか?
尋ねる勇気はない。これ以上の罵倒に耐えられる気がしなかった。
「あの、レオン伯爵……」
「用事が済んだのならさっさと掃除しなさい。貴女はいつも拭き残しがありますよ。次にミスを見つけたら夕食を一品ずつ原材料に変えますので、覚悟するように」
小姑か、という言葉は喉奥に封じ込めた。下手に逆らうと何をされるか分らない。彼がごはん系の罰にこだわるのは、それがマーガレットにとって一番堪えることを理解しているからだろう。とんだサディストだ。
言いたいことを全て飲み込んで、ずっと胸につかえていた不安を口にする。
「……伯爵は、もしわたしが屍鬼になってしまったら……その、討伐しますか?」
顔を伏せて話す声は、少しだけ震えていた。
マリアとの会話の中で、レオンは敵意なんて少しも感じさせなかった。でも、彼は屍鬼へと転じた途端に容赦なく彼女を討った。
ひょっとして誰でもそうなのか。カルミアさんや主任さん、あまりいい返事は期待できないけれど、自分も……いつも傍にいる人間でも、彼は躊躇うことなく討伐するのだろうか。
理由はわからない。けれど、マーガレットにはそれがたまらなく寂しいのだ。
「――貴女は大丈夫ですよ」
ふいに、そんな言葉が聞こえた。
慌てて顔を上げると、レオンは不貞腐れたような表情で窓の外に目を向けていた。いくら意味を尋ねても、彼は答えない。それどころか犬のようにしっしっと追い払われてしまった。
しぶしぶリビングを出た少女は、一度だけ後ろを振り返る。
相変わらずの不機嫌そうな顔。けど、その瞳に浮かぶ光がほんの少しだけ――まだ遠い春の木漏れ日のように、優しく見えた。




