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第2章 4話

【第二章 4】


 ――嫌な音を聴いた。

 それはガラスを爪で引っ掻くのと同じ、生理的な嫌悪を引き起こす音。

 とても小さかったと思う。けれど、マリアの耳にはそれが届いた。

 おそらくはどこかの扉が開いた音。記憶にはまったくない。ただ、自分の中の本能みたいなものが、うるさいくらいに警鐘を鳴らしている。

 浴室を出て身支度を整えたマリアは、水粒の滴る髪もそのままに、廊下へと足を踏み出した。

 ……心が、ざわつく。

 この息苦しさは以前にも経験したことがある。けれど、それがいつのことだったかは思い出せない。

 気付けば、身体は勝手にある場所を目指していた。

 すでに上着も要らないくらい暖かくなった廊下を進み、ぎこちない足取りで階段を上がる。

 なぜこんなにも厭な気分になるのだろう? この先に何があるのか、自分はまるで憶えていないというのに。

 きしきしと床板が微かな音をたてる。一歩を進むたび、心臓が跳ねるように脈を打つ。

 ――行ってはいけない。

 脳裏に声が響く。それは誰の言葉だったろう。この先に進んではいけない理由も、どうして危機感を覚えるのかも分らないまま、マリアは本能に突き動かされるように、二階廊下の最端にある部屋を目指した。そこにあるのは、たしか、主人の仕事部屋。よく見れば、僅かに扉が開いている。帰ってきたのだろうか。

 ……違う。あの人が帰ってくるはずがない。

 唐突に浮かんだ奇妙な思考に、マリアは大きく目を見開いた。

 なぜ帰らないなどと……まるで、それが当然であるかのように、自分は考えたのだろう?

 みてはいけない。ドアノブを握る。かえってこれなくなる。ゆっくりと、冷たい金属を回した――――しんぞうが、ウルサイ。

 幽かな月明かりの差し込む暗い部屋で、最初に感じたのは鉄くさい匂い。

 濃厚な血の芳香が充満した空間の中央に……あの、厭な気配を纏う少年が立っていた。

「……もう、そこまで進行しているんですね」

 ぽつりと、温度のない声で呟かれた。

 視界を覆う薄暗闇の中で、冴えた氷蒼の瞳だけが獰猛に輝いている。

 白い手袋をした彼の手には、半分以上が黒く染まった紙の束。

 ギリギリと、胸が強く締めつけられた。

「ここで、何をしているの?」

「少々探し物を。貴女こそ、どうしてここに?」

「ここは私の家よ。どこに行こうと私の勝手でしょう」

「ああ確かに。しかし、こんな寒いのに髪も乾かさず二階まで駆けつけたのは何故です?」

「音が聴こえたのよ。この部屋の鍵を開けた音が」

「浴室の中で、ですか……ご自分でおかしいと思いませんか? 普通、人間の耳ではそんな小さい音を拾えませんし、仮に聴こえたとして、どこの鍵かなど把握できるはずがありません」

 言われて、マリアは息を呑んだ。

 そういえば、どうしてこの場所を真っ直ぐに目指したのだろう。いや、そもそも、なぜ自分はそんな小さな音を聴き取れたのか。

 疑問が浮かぶ。……けれど、その理由はすでに分かりかけていた。

 この部屋に足を踏み入れた瞬間から、頭の中の靄が、少しずつ薄れている。

「心を喰い荒らされた人間は、一時的に人の域を超えた力を得ます。自我の喪失に抗う肉体の防衛本能みたいなものでしょう。おそらく、貴女はこの部屋が開かれることをとても恐れていた。その警戒から鋭敏になった聴覚が、鍵の開く小さな音を拾ったんです……さて、ではなぜ貴女は自分の伴侶である男の部屋をそこまで恐れたのか」

 ……胸が、うるさい。

 彼を黙らせなくては。でないと、せっかく忘れたことを思い出してしまう。

 あれは自分のせいではない。マリア・フォレストが、あんなことをするわけが――。

「――貴女、ご主人を殺しましたね」

 ……ああ。

 もう、駄目なのか。

 彼は、全て気付いてしまっている。マリアが忘れていたことも――忘れようとしていたことも、すべて。

「あれは……主人の死は、自殺だと警察も」

「はい。他殺ではないとされています。しかし、貴女は『異能』を持っているでしょう?」

 問う声に、マリアは何も言い返せない。

「貴女の本質は、能力の性格を考えるなら『保身』や『自愛』といったところでしょうか。心理学は専門ではないので精確には判断できませんが、どんな異能かだけなら分かります。部位は声帯、他者を声と言葉で操る能力――『従えるコンクエスト・ヴォイス』、ですね」

 立ち尽くす女優に向けて、レオンは手に持つ紙の束を差し出した。

 黒い血塗れの原稿。背後の廊下から漏れた明かりで、そこに書かれた文字が読めた。

「ち、が……私は、あんなこと、しない……」

「思い出しましたか。これ、次回作の草案ですよね」

 追い詰める声はあくまでも平淡だった。そこにはまるで温度が感じられない。

「……ここに書かれた名が、マリア・フォレストという人間の歪みの起点。看板女優である自分に誇りを持つ貴女は、この『配役』をどうしても許すことが出来なかった」

 見たくない……けれど、眼を逸らせなかった。

 血液のシミで汚れた紙面。飛沫を逃れた部分から読み取れる名前。


 ――そこには、『主演 フリーダ・レーヴェ』と、親友の名が記されていた。


「『幻姫の涙』に続き、二度もメインキャストを外された。それが異常の始まり。記憶に齟齬があるようですが、ここ一年ほどで貴女の人気に翳りが出ていたのは憶えていますか?」

「そ、そんな……うそ……」

「残念ながら、事実です。貴女が結婚したことで人気の作家が劇団の専属となりましたが、それでも客離れを止めることは出来なかった。抜本的な改変として作家はこれまでの主要キャストを総入れ替えしたものの、これも不発。いよいよ興行が厳しくなってきたある日、件の作家が自殺したというニュースが帝都に流れました」

 少年の明かす真実が、霞みがかる記憶を一つずつ透明にしていく。

 蘇るのは、劇団の仲間同士で言い争う声。日を追うごとに、荒んだ空気が演者たちの間で流れるようになっていった。

「人間が自ら死を選ぶ理由は様々です。しかし、貴女のご主人は今後も生き続けるための手段を講じていた。だから絶対に自殺なんてするはずがない、とは言いません……でも、マリアさんは一度も口にしませんでしたか? ご主人に対して――『死ね』という言葉を」

 鋭い視線が、心臓に突き刺さるような気がした。

 マリアの青褪めた頬を冷たい汗が伝う。気付けば肩が凍えたように震えていた。

 その光景は、よく憶えている。憎しみを込めて放った罵倒が、人を殺す瞬間。

 眼から光を失くした夫が護身用のナイフを取り出して、躊躇いもなく自身の首筋に突き立てた。まるで噴水のように鮮血が噴き出して辺りに飛び散る、その惨状を――。

 昨日のことのように思い出せる。なぜ、今まで忘れていたのか不思議なほどに。

「貴女はその時、自身の異常を知ったはずだ。けれど、それを隠した。とある呪文を唱えて、全てなかったことにして。そして、興行の不振を理由に主役へと返り咲き、マリア・フォレストは看板女優として舞台に立ち続けた……そんな貴女の歌が、多くの犠牲者を生んだ」

 少年の言葉は、まるで深い湖の底のように、冷たく澄んでいた。

「さぁ、恋をしよう。全てを捧げ、心を焼き尽くすような恋を……でしたか。その言葉は、暗示となって人の心を縛る。とりわけ、そういったものにかかり易い人間への効果は覿面だったでしょう。大勢の人が恋に己の全てを投げ出し、叶わぬ時には命すら投げ捨てた」

 ……ぼろぼろと、自分の心が剥がれ落ちていくのが分かる。

 それでも、マリアには崩壊の兆しを止めることが出来なかった。

「記憶が戻るたび、貴女はこう唱えたはずだ。『自分のせいじゃない。マリア・フォレストが、こんなことをするはずがない』と。そして、『従える声』は貴女自身にも作用した。異能の力が都合の悪い出来事を全て消去し、記憶を失いすぎた人格は現実との乖離を始めた」

 見ていたかのように過去を明かす少年の姿は、とても堂々としていた。

 力尽くで止めようにも、マリアは指一本動かすこともままならない。もはや自分の意思で口を開くことすら困難だった。

「貴女が夫を殺して、それをなかったことにしても、僕には関係ないし興味もありません。貴女の好きにすればいい……ですが、不特定多数の他人を巻き込むのはマズかった。それはマリア・フォレストという人間にとって決定的な致命傷です」

 耳障りな声は、止まない。こぽ、こぽ、と体内で得体のしれない気泡が弾ける。

 火傷しそうに、身体が、熱い……このままだと、きっとじぶんは死んでしまう。

 ――それは、いやだ。

 もっといきていたい。もっと歌っていたい。ここまできたのだから。じぶんは、えらばれた歌姫なのだから。たとえほかのなにかを犠牲にしても。たとえ、よそのだれかが死んでも。もっと。もっと、もっともっともっともっともっともっともっと…………。

「貴女はもう手遅れです。これ以上の過ちを犯す前に」

 そう言って、少年は蒼の瞳に剣呑な光を滲ませた。薄い唇が、ぽつりと言葉をこぼす。

「――ウチの従者バカを返してもらいますよ」


 ――――『マリア・フォレスト』の崩壊が始まった。


                   ◇


 雷鳴のような絶叫が薄暗い空間に響き渡る。

 ビリビリと、大音声の怒号が肌に刺さるようだ。

 煩わしそうに耳を塞いだレオンは、顔をしかめて眼前に広がる光景を見た。

 皮膚が裂け、膨張する肉体。金属みたいな鈍い灰色と、鮮血の紅。不気味なマーブル模様に彩られた、異形の外殻。

 かつての美貌はもはや見る影もなく、感情のない屍鬼の白い眼が、どろりと小柄な少年を見下ろしていた。

「声の異能を持つだけのことはありますね……耳がおかしくなりそうだ」

 呟いて、身構える。その姿を見た化生は、再び大口を開けて咆哮した。

 瞬間、階下で窓の割れる音が聴こえた。

 異常な『声』の衝撃で、と考えるのは安易すぎるだろう。

 マリア・フォレストの異能は『従える声』。かろうじて聞き取れたのは、「お」が二つと「え」の母音で構成される何らかの言葉。

 ……「コロセ」、だろうか。

 何を。それは言わずとも知れている。

 知能を失くした屍鬼が、不明瞭とはいえ言葉を発するのは非常に珍しい。僅かに驚きはしたものの、レオンにそのことを考える時間はなかった。

 複数の足音が廊下から響いてくる。間違いなく、一階の窓硝子を砕いた者たちだろう。

 ――やがて、老若男女問わず入り乱れた一団が、手狭な部屋に殺到する。

 見上げるほどの化物の脇をすり抜けた人間たちは、皆一様に虚ろな表情を浮かべたまま、迎撃態勢をとる少年へと襲い掛かった。

「……おかしいですね。すでに思考能力は消失しているはずなのに」

 振り下ろされた腕を捌いて、足払いをかける。体勢を崩した大男の下顎に、鋭い掌底を叩き込んだ。ミリタリー風の上着を羽織った髭面の男は、その一撃で吹き飛んで動かなくなる。殺してはいない。昏倒したのだろう。

 一人を倒しても、次々と屍鬼に操られた人間が掴みかかってくる。

 その数はざっと見で三十を越えていた。ほとんどが近くにいただけの通行人のはずだ。今夜は人気の舞台が上映されるとあって、夜歩きの数も多かった。

 彼らを殺すわけにはいかない。それでは無意味な大量虐殺と同義になる。

 今さら善人ぶるつもりはないが、浅はかな行動に出る気もなかった。

 負の感情に従って人を殺せば、異形の細胞は確実に心を蝕むだろう。今まで見てきた屍鬼に変貌した愚者たちと同じ。『傲慢』を核とするレオンが、それを許すはずがない。

 頑丈なブーツによる中段蹴りを半歩退いて躱し、背中を押して体勢を崩させる。間を置かず降り注いだ杖の一撃は、踊るように回転した少年の回し蹴りが紳士の手首ごと弾き飛ばした。

 淀みなく流れる迎撃は、数的不利をものともせず順調に敵の数を減らしていく。

 捌き、流し、最小にして最適の動きで対象の意識を刈り取る。それはまさに、流麗と形容するに相応しい音の調べのような凶行。群がる有象無象を蹴散らしながら、レオンは、ふと奇妙な状況に気付いた。生物の肉を喰らう屍鬼が、さっきから一度も動いていない。

 自ら呼び寄せたとはいえ、餌を前にして微動だにしない化け物など見たことがなかった。

 屍鬼に知能はないとされている。実際、レオンはそれを裏付けるような惨状をいくつも見てきた。

 しかし、これまでの行動を見ていると、まるで何か考えがあるような気にさせられる。

 違和感を覚えながらも、迎撃の手は緩めない。

 意識を縛られた人間の数が残りわずかとなった時、屍鬼がついにその顎を開いた。

「また、ですか。次はどんな手を……」

 訝しむ声は、咆哮に遮られる。絶叫するケダモノのすぐ後ろで、ゆらりと人影が蠢いた。

 蒼の瞳に僅かな動揺……否、予感はあった。むしろ疑問に思っていたほどだ。『声』に操られた人間がこの場に殺到したのなら、なぜ「彼女」の姿がないのか。

 その答えは、すぐ目の前にあった。

「まったく……とんだ阿呆ですね。貴女は」

 忌々しげに呟いたレオンの視線の先。険しくなったアイスブルーの瞳が見据える先に――


 ――虚ろな眼で、ナイフを構えるマーガレットがいた。


 キッチンで調達してきたのか、よく砥がれた刃は分厚い肉でも断ち切りそうな鋭さだ。

 大人びたドレスを纏う少女の翡翠の瞳には、何の感情も浮かばない。気が付けば、他の操られた人間たちは全て周りで昏倒していた。

「――これで終幕、というわけですか」

 誰がそれを画策したのか、答えは明確だ。だからこそ腑に落ちない。まるで演出されたかのような状況。その指揮を執るのは、知能を持たないはずの化け物――。

 かつてない事態に疑念が深まっていく。……しかし、熟考する時間は与えられなかった。

 マーガレットが、おもむろに切っ先を自分の喉元へ突きつけたのだ。

「くっ」

 予想外の展開に、少年は行動を強制される。

 馬鹿な。本能に支配される屍鬼が、脅迫を仕掛けるなど。

 驚愕しつつ飛び込んだレオンに向けて、刃は呆気なくひっくり返された。

 ――腹部に、鋭利な痛みと衝撃。

 身体ごとぶつかってきた少女の肩を、右手で掴む。彼女の表情はやはり虚無のまま。端正な顔立ちを歪めた少年は、至近距離にある翡翠を覗き込んで、眼を見開いた。

 ……マーガレットは、泣いていた。

 仮面のような無表情に、透明な雫を伝わせて。嗚咽をもらすでもなく静かに涙を流す。

「……ご……め…………な、さ……」

 掠れてよく聞き取れない声で、少女は囁いた。彼女が今も深い催眠状態にあることは、眼を見れば分かる。命を捨てさせるほどの強烈な暗示だ。容易く解けるはずがない。

 だというのに、少女は抗いきれなかった自分を悔やむように謝罪を繰り返す。その身体はすでに力を使い果たしていたのか、間もなく静かにくずれ落ちた。

「……やっぱり、おかしな人ですね、貴女は」

 華奢な肢体を抱き止めて、そう呟く。

 正常な意識などないはずなのに。それでも、彼女は自分を失わない。

 マーガレット・ヴァレンタインという人間は、ありのままで負の欲求に抗ってみせる。

 初めて出会った時から何一つ変わらない少女を眺める瞳が、ほんの僅かに緩む。

 そして、レオンは――刃を受け止めた左手に力を込めた。

 鈍い音をたてたナイフの中腹が潰れる。切っ先に僅かな血を滴らせた凶器は、まるで飴細工のように真っ二つにへし折れた。

 物理干渉が可能なものに絶対不壊を誇る異形の左腕。

 鈍色に輝く『不壊の腕』が、レオンの肘の付け根から岩のような肌を覗かせていた。

「ナイフごときで仕留めようなど、僕も随分ナメられたもんですね」

 淡々と流れる口調に、嘲りの色が浮かぶ。けれど、少年は笑ってはいなかった。

 冴えた蒼の瞳が部屋の入り口を見据える。そこには、やはり動かない化生の姿があった。表情を変えぬまま、レオンはぽつりと口を開く。

「……それが、貴女の選ぶ最期ですか」

 声には、たぶん幽かな憐れみが滲んでいた。

 屍鬼は知能を持たないはず。しかし、堂々としたその立ち姿からは、不思議と意志の気配を感じられた。

 それは、そう、まるで――絞首台に上った悲劇の『歌姫』と同じ。

 身動ぎ一つしない異形に向けて、少年は駆け出した。狙うべき場所なんて分かりきっていた。オペラ女優の誇りを捨てない「彼女」が、そこ以外に『核』を持つはずがない。

 凶器と化した左腕を引き絞る。風に舞い上がる花びらのように、レオンは軽やかに地を蹴った。冷たいアイスブルーの瞳は、その間もただ一点だけを狙い澄ます。

「これで終演です。マリア・フォレスト」

 ――弾丸のごとく放たれた拳が、屍鬼の喉元を貫いた。

 多くの歌を紡ぎ、大勢の命を奪った「声」の源を粉砕され、化生は肉体の崩壊を余儀なくされる。結局、一度も動かぬまま、元女優の屍鬼は終焉の時を迎えた。その光景は、帝都で持て囃される歌劇の終盤と酷似しているように思えた。

 すぐ傍に佇む少年は、崩れる人外の骸を眺め、次いで己の左腕に視線を落とす。

 「彼女」には意思があったのではないか。その疑問を確かめる術はない。残されたのは、無へ還った化生の残骸と意識を失くした人々、どこか精彩を欠く表情のレオンだけ。

 ……ふと、マーガレットが気を失っていて良かったと、そんな柄にもないことを考えた。

 誰も動かなくなった室内で、ただ時間だけがゆっくりと過ぎていく。

 立ち尽くす少年の背を、窓から差し込む銀の月明かりが、静かに照らし続けていた。





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