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第2章 2話

【第二章 2】


 舞台へ続く長い廊下を、強張った顔つきの演者たちが歩いていく。

 もう公演は何度もこなしてきた。それでも、開幕前のこの緊張が薄れることはない。

 しん、と張り詰めた空気。

 ともすれば肌を刺すようなそれが――ひどく、心地好い。

 列の最後尾にいるマリア・フォレストは、静かに息を吸って重圧に身を委ねた。

 この瞬間、与えられた役に入り込む僅かな時間を、永遠に留めようとでもいうように。

 ハシバミ色の柔らかな髪を高く結い、胸元の大きく開いた色っぽいドレスを纏う。それだけで、マリアはまったく別の「自分」に生まれ変わる。

 決して特別なことではない。役者なら、初めて舞台に立つ新人でもやっていることだ。

 ……だから、さらに心の奥深くへと潜る。

 自分が特別になれるように。誰よりもその役を理解し、「彼女」と同化できるように。

 それこそ、マリア・フォレストという人間の存在が確立される時間。『歌姫』として舞台に立っている間は、自己が揺らぐこともなく、とても安心できるから――。

 深く息を吸って、吐く。それを何度も繰り返して、ようやくマリアは意識を現実に戻す。

 すると、すぐ前方に自分を気遣うような視線を見つけた。

 名前は……そう、たしかフリーダ。フリーダ・レーヴェという名だったはず。

 記憶の中から、マリアは親しい友人の名を探り当てた。

 ――そうだ。そういえば二人は親友だった。

 入団当初から仲が良くて、お互いに知らないことはほとんどない。

 幼い頃から早熟だったマリアとは違い、二十八になった今も、思わず守ってあげたくなるような雰囲気を持つ可愛らしい女性。

 なぜ、忘れていたんだろう? 

 彼女は、『マリア・フォレスト』にとって大切な友人だったのに……。

「マリア、大丈夫?」

 ぼんやりしていると、フリーダが心配そうに声を掛けてきた。

「ええ、心配ないわ」

「ホントに? 貴女、この前から少しおかしいわよ。そりゃあマリアが大変なのは分かってるつもりだけど……」

 言いづらそうに、小柄な友人は口を噤む。

 大変、というのは……何かあったのだろうか? 思い出そうとしても、意識下の記憶が像を結ばない。

 マリアの記憶は、少し前から曖昧なものになっている。

 時期は、思い出せるかぎりではたしか三ヶ月ほど前。その辺りから、まるで試験の意地悪な穴あき問題のように、記憶のそこかしこに欠落がある。

 その穴を覗き込もうとすると、決まって――『自分』が、揺らぐ。

「……本当に大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

 霞みかけた意識を振り払うように、顔を上げたマリアは微笑を浮かべて答えた。

「そう? でも、つらかったらちゃんと言ってね。私でよければ力になるから」

「ええ……それより、主人はどこかしら? 控室で見なかったんだけど……」

 辺りを見回して、大柄な男の姿を探す。

 よく肥えた醜い身体は、結婚して一年経った今もあまり好きになれない。それでも今の劇団には欠かせない実力派のオペラ作家だ。

 当時、看板女優であるマリアとの婚約を条件に劇団と専属契約を結んだなどとゴシップ誌が騒いでいたけれど、完全に的外れというわけでもなかった。

 落ち目の劇団には人気の作家が必要で、富と名声を欲しいままにする彼は十歳下の女優の美貌と身体を欲した。

 愛のある結婚ではなかったけれど、それなりに上手く立ち回っていた……はずだ。

 曖昧な記憶に眩暈を覚えながら夫の姿を探すマリアは、友人の驚いたような表情に気付く。

「マリア……本当に、大丈夫?」

 さっきよりも不安の増した声。周囲の仲間たちも、何事かとこちらに目を向けていた。

 ――いけない。

 頭の中に警鐘が鳴り渡る。

 このままでは、自分の不調を知られてしまう。看板女優とはいえ、上演に支障が出ると判断されれば舞台を降ろされるかもしれない。

 何を間違えたのかは分らないが、それだけはダメだ。

 自分は、歌わなければ。もっともっと多くの「恋」を観客に届けなければ、存在する意味を失くしてしまう。

 自己が穴だらけのマリアにとって、『歌姫』でいられる舞台だけが、自分を自分と認識できる場所なのだから。

「ごめんなさい、私らしくなかったわね……大丈夫。役に入り込み過ぎて、少し混乱しただけよ。私はちゃんと歌えるわ」

 ここ数ヶ月、何度も口にした台詞で失敗をとり繕う。

 ――そうだ。この程度で揺らぐなど、自分らしくない。

 マリア・フォレストは看板女優なのだ。不調の原因は専門の医師が調べてくれている。治療の目途がたつまでは、堂々としたいつもの自分でいなくては。

 尚も何か言い募ろうとしたフリーダの言葉を、開幕のベルの音が遮る。

 ……ああ、時間だ。

 今夜も闇色の幕が上がる。演じるのは、愛することを禁じられた古い国の物語。

 さぁ、歌おう。

 高らかに。声の続くかぎり。


 ――夢のような「恋」の歌を。


                ◇


 劇場の中は大勢の人でいっぱいだった。

 予約席は言うに及ばず、立見席にも観客があふれている。

 外観と同じく白と金を基調とした場内。床に敷き詰められた赤い絨毯や彫刻を施した柱には年季が感じられるものの、それがかえって劇場の歴史に重みを加えている。

 メインホールだけで総勢二千五百名を収容できる国内最大のオペラハウス『新帝国歌劇場』。

 眩いシャンデリアの光の下、詰めかけた観客たちは皆一様に、豪華な刺繍で飾られた幕の上がる瞬間を待ちわびていた。

 そんな客席の一角。ほぼ上流階級の人間だけで埋まったボックス席の一室には、やけにどんよりとした空気が流れている。

 マーガレットは自分の精神衛生を気遣って、先程からそちらに目を向けていない。

 借金を抱えた者と不機嫌な高位貴族には近付くな、と亡き父から教えられて育ったのだ。本当に自分の家は貴族の家柄なんだろうかと疑問を抱く日もあったが、今は忠実にその言いつけを守ることにする。

 そのドス黒い気配を垂れ流す張本人であるレオンは、不機嫌そのものの表情で、目と口を閉じていた。

 いつもの大人びた態度はどこへ行ったのか。これでは、まるっきり小さな子供だ。

 できればオペラの鑑賞中くらいは普通にしていて欲しいと、楽しみにしていたマーガレットは切に願う。

「見たまえ、マーガレット君。今夜はロイヤルボックスにも客がいるようだ。王族の姿を見学してみるかい?」

「はあ……あ、い、いえ。いいです……」

 対してアナスタージアはやけにご機嫌である。こちらはこちらで子供っぽい。

 どう考えても不敬な提案を丁重にお断りして、マーガレットは静かに溜め息を吐いた。

 どうやらレオンは、幼少期に能力を発現してから世話になっているというこの元医師の研究者を、あまり好ましく思っていないようだ。

 とは言っても、二ヶ月に一度行われる検査の日には普段通りに接していたので、今日限定の反発なのかもしれないが。

 今夜の上演で何があるというのだろう。それよりもこんな状態でまともにオペラを観ることができるのか。

 マーガレットが自由奔放な二人に不安を感じていると、場内にベルの音が鳴り響いた。

 ――開演だ。

 思わず少女の背筋が伸びる。

 翡翠の瞳が見つめる先、静かに弦楽器の音色が流れ出した。

 ゆっくりと、染み渡るように。弦の奏でる静謐な気配が会場を満たす。

 やがて、始まりと同じように静かにヴァイオリンが鳴き止むと、幕が開いた舞台の中央に一人の女性がゆっくりと歩み寄った。

 艶やかな衣装を纏う彼女の歌声を聴いた瞬間――マーガレットは、自分の不安が杞憂に終わったことを知る。

 それは、どこか物悲しい、切ない感情の滲む声。

 決して大きな音ではないのに、澄みきったその声は細波のように鼓膜へと押し寄せた。

 まるで、心に直接響くよう――。

 清らかと呼ぶにはあまりにも蠱惑的な女優の声に、マーガレットは魅入られた。

 ……いや、きっと他の観客も同じ。静まり返った場内には、感嘆の吐息すら聴こえない。

 人のあふれた劇場に、ただ嘆きの歌声だけが滔々と響く。

 舞台で演じられるのは、平民の自由な結婚が禁じられた古代の国の物語。

 主人公である酒場の『歌姫』が領主の子息と恋に落ち、身分の違いと悪法に苦しみながら密かに愛を育む姿が描かれている。

 幾度も困難に見舞われながら、人知れぬ恋は静かに燃え上がっていく。

 ある日、領主によって男の政略結婚が取り決められた。

 悩み抜いた末に、二人は国から逃げ出すことを決意する。

 手と手を取り合い、領主の差し向けた私兵からも懸命に逃げ延びて、いよいよ国境を越えようとしたその時――身分違いの恋人たちは、ついに追手に捕えられてしまう。

 連れ戻された貴族の男は屋敷に幽閉され、法に叛いた罰として女は死罪。

 絞首台に立たされた悲境の歌姫は、それでも己の選択を悔いることなく、高らかに謡う。

 ――たとえこの身が滅びても、胸の奥に灯した想いは消えない。

 兵士から罵声を浴びせられ、剣を向けられても、凛とした歌声が止むことはなかった。

 ――生まれ変わっても、私はきっと彼に恋をする。

 誰もが息を呑んで見守る中、歌姫の切ないアリアが空気を震わせる。

 ――法が想いを禁じても、人の心を封じ込めることはできない。

 振りかざされた白刃の輝きに、目を閉じた歌姫は最期の声を紡ぐ。


 ――さぁ、恋をしよう! 全てを捧げ、心まで焼き尽くすような恋を!


 兵士が剣を振り下ろした。雷鳴のようなピアノの音に、会場から短い悲鳴が上がる。

 ステージライトが舞台を紅く染め、歌姫の身体はゆっくりと絞首台に崩れ落ちた。

 濁流を思わせる演奏は、いつしか舞い落ちる粉雪のような悲しい色に音を変えていた。

 やがて、暗色の幕が下り始めると、沈黙していた客席から拍手が起きる。

 最初まばらだったそれは、すぐに割れんばかりの大きな音となって会場を包んだ。

「うぅ……よがっだですわ……」

 気が付けばマーガレットも頬を伝う雫はそのままに、精一杯の拍手を贈っていた。

 幸せな結末ではなかった。けれど、愛を信じて生きた歌姫は、揺るぎない信念と共に最期を迎えたのだろう……そう信じられる力強い演技だった。

「……鼻水を拭きなさい。顔がいつにも増してアホっぽくなってますよ」

 隣から相変わらずの毒舌が聞こえて、思わず拍手を止める。

 いつもなら何か言い返しているところだ。けれど、今は不思議とそんな気が起きない。

 きっと、素晴らしい舞台を観た後だからだろう。

 心地よい余韻に浸りながら振り向いたマーガレットの胸が――――どくん、と脈を打った。

「――あ、れ?」

 翡翠の瞳が見開かれる。

 思わずもれた呟きに、レオンが整った顔を上げた。

「どうしたんです?」

 訝しむような声に、マーガレットは勢いよく顔を背けてしまう。

 ……なぜそんな行動をとったのか、自分でも理解できない。

 ただ、今の顔を彼に見られるのがとても恥ずかしかった。

「あ、そ、その……は、ハンカチを、忘れてしまって……」

「貴女、本当に女ですか?」

 レオンの呆れたような声に、胸がつきんと痛む。

 普段と変わらない棘だらけの言葉。なのに、なぜこうも心を締めつけられるのだろう?

 このまま女らしくないと思われるのは嫌だ。正直にただの言い訳だったことを明かそうと口を開きかけた時、目の前に白いハンカチが差し出された。

「早く片付けなさい。僕まで変な目で見られてしまいます」

「え……あ、ありがとうございます!」

「ああ、それ返さなくていいですよ。洟のついたハンカチなんていらないので」

 トゲをたっぷり含んだ皮肉も、今のマーガレットには届かない。

 ――伯爵がハンカチをくれた。

 その事実が、他の何物にも代えがたいほど嬉しい。

 几帳面に折りたたまれたこの布で、本当に顔を拭いてもいいのか迷ってしまうくらいだ。

 ……いったい、どうしたのだろう?

 こんなに心がぎこちなくなるのは、マーガレットにとって生まれて初めてのことだった。

「……さて、それじゃあ今回の仕事先に向かうとしようか」

 混乱するマーガレットを尻目に、アナスタージアは席から立ちあがって外へと向かう。

 一度だけ振り向いたその紅い瞳が、少女にはなぜか妖しい光を宿しているように見えた。


                ◇


 主任に先導されて二人がやって来たのは、劇団員が集う控室の前だった。

 何やらアナスタージアには伝手があるらしく、関係者以外の立ち入りを禁じる廊下にも特に咎められず進むことを許された。

 今は、目的のマリア・フォレストが出てくるのを待っているところだ。

 控室の中からは、緊張から解き放たれた人々の成功を喜ぶ声が聞こえている。

「……そろそろ状況を説明してもらえませんか」

「おや、大まかな概要はさっき話しただろう。あれでは不十分だったかな?」

 不機嫌なレオンの声に怯む様子もなく、アナスタージアは飄々と答えた。

「『偽石』はマリア・フォレストの屋敷にある。とはいえ本人は知らないようだがね。彼女の夫が興味を持って裏市場で入手したらしい。まったく、物好きな人間もいたもんだよ。わざわざ帝国が回収指令をかけた禁制品を探し出すなんてね」

「それでごまかせると思ってるんですか?」

 淡々と流れる言葉を、少年の冷やかな声が遮断した。

 凍てつくような蒼の瞳が、感情の読めない研究者を睥睨する。

「ここ一ヶ月ほどの間、帝都で原因不明の自殺が急増しています。その死亡者の八割以上が、少なくとも二ヶ月以内にこのオペラを観劇した記録がある……特務機関で調べられる情報をわざと省いて伝えたのは、この僕を試したのかナメてるのか――どちらです?」

 すっ、とレオンは切れ長の眼を細める。

 声と視線で刺し殺すように。彼から放たれる気配が、剣呑な色を帯びた。

「私は君を低く見るつもりはないよ。ソレは、単にまだ伝えるべきではないとこちらで判断しただけのことさ」

 けれど、やはりアナスタージアの表情は変わらない。薄らと笑って、肩を竦めた。

「――『幻姫の涙』というオペラは、上演され始めた頃はこれほど話題になることはありませんでした。それが今ほど高い評価を得るようになったのは、二ヶ月前に歌姫役としてマリア・フォレストが再び舞台に上がってから……無関係と断じるには、あまりにタイミングが重なりすぎています」

 不機嫌を隠そうともしない口調が、二人の間に横たわる空気の温度を下げた。

 傍から見て、彼らが十年近い付き合いのある間柄だとは誰も思わないだろう。

 先程から様子のおかしいマーガレットは、気まずいのかさっきから顔を伏せたままだ。

「だとしても、それは私の管轄だな。君の役割は『偽石』の回収と、屍鬼が出現した時の討伐だ。……そうだろう?」

 窘めるような声音に、ようやくレオンは視線をそちらに向けた。

 相変わらずアナスタージアはどこか胡散臭い微笑を浮かべている。しかし、その紅い瞳には、無機物じみた冷たい光が滲んでいた。

 まるで実験動物でも眺めるような……そんな、感情の宿らない瞳。

 異能を六歳で発現して初めて会った時から、何度かあの視線を向けられている。

 そこに善悪の基準は存在せず、ただ己の欲する知識を得るためだけに動く。

 それが「アナスタージア・クラウ」という人間なのだと、レオンは把握していた。

 いつも彼女の行動理由は驚くほどに単純だ。なのに、今回はその目的が全く読めない。

 互いの出方を探る空気が蔓延るなか、賑やかな声が漏れる控室の扉が開いた。

「お待たせしてごめんなさい、アナスタージア」

 出てきたのは、華やかな美貌を持つ長身の女優、マリア・フォレストだった。

 ……ただ、その表情はどこかぼんやりした印象を見る者に与える。

 考え事でもしているのか、心ここにあらず、といった様子だ。

「気にすることはないさ。それより悪かったね、大勢で屋敷に押しかけることになって」

「いいえ。私の治療に必要なんでしょう? これが治るのなら全て貴女の指示に従うわ」

 親しげな二人の会話を聞いて、レオンはようやく伝手の内容を理解した。

 どうやら、アナスタージアは医師として彼女に何かしら治療を施しているらしい。

「それじゃ行きましょうか。主人が何か言ってくるかもしれないけど、気にしないでね。あの人、少し神経質で人間嫌いだから」

 ――苦笑しながら投げられた言葉に、レオンはぴたりと足を止めた。

 先に歩き出したマーガレットが不思議そうに振り返る。

 疑問の滲む少女の視線に応えたのは、笑みを浮かべて女優の背中を眺める元医師だった。


「――彼女の夫はね、秋の初めに自殺しているんだよ」




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