補佐役たちの夜
「寝てないのか」
後ろからかけられた声に、男はゆっくりと振り向いた。
「そういうあにゃたはどうですにゃ? 直継っち」
振り向いて笑うその顔は、人ではない。
猫のような風貌と能力を持つ、この異世界に住む亜人族の一種、<猫人族>だ。
長く伸びた髭が、緩やかに吹く夜風にさわさわと揺れる。
その感触を楽しむように、男――にゃん太は細い目をさらに細めて気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「なんだか気が高ぶって、眠れないんでね。欲求不満祭りってヤツかもな」
「それは困ったことですにゃん」
にゃん太と軽い調子で言葉を交わす、シャツ姿の男――直継は、にゃん太の誘いも待たず、彼の横にどすんと座った。
そうして、手に持っていた液体の入った壜とカップをかざしてみせる。
「班長、たまにはどうだい?」
「いいですにゃ」
短い会話は、それだけで意味が通じるということに他ならない。
にゃん太が受け取ったものと直継自身のもの、二つのカップに液体が注がれたところで、
二人はコン、とカップを打ち合わせた。
「乾杯祭りだな」
「そうですにゃ」
この世界に来て数ヶ月。
久しぶりに味わう酒精の味に、二人は揃って嘆息を漏らした。
「たまには、こういうのもいいな」
「まったくですにゃ。味のない『酒』は、こういうときに辛いですからにゃ」
ははは、と<守護戦士>と<盗剣士>、二人の<冒険者>は苦笑を見合わせた。
頭上は満天の星空だ。
都会であろうとなかろうと――現実世界では見ることのできない、まさに降り込めるような星空が、二人の頭上に華を競っている。
「こんなことになるなんてなぁ」
しばらく黙って空を見上げていた直継がぽつりと呟いた。
「ゲームの世界に放り込まれるなんざ、奇想天外祭り、いや、荒唐無稽祭り、だ」
「とかく人生とはままならぬものですにゃ」
「違いない」
にゃん太の返事に、直継も笑う。
笑いながら、隣で酒を口に運ぶ友人を、彼はちらりと見た。
ただのゲーム仲間だとおもっていた。
住む場所も生活も何もかも違うが、ただパソコンの画面を通して共に戦っていた。
直継とにゃん太はそれだけの関係だったはずだ。
それが今では、星を見上げ、肩を並べて共に酒を飲んでいる。
それだけではない。
彼等の共通の友人が掲げる旗と理想の元に集まり、ひとつのことを成した。
「<円卓会議>……<記録の地平線>かあ。
半年前には考えもしなかったな。
まさか俺が『直継』で、班長が『にゃん太』で、あいつのギルドに参加して、アキバに住むなんて」
「シロエっちもきっと、そうおもっていますにゃ」
今も<円卓会議>の事務局となったギルド会館で書類の山と格闘しているであろうその友人の名前に、直継は苦笑を深めた。
その表情のまま、声だけは一段低く、彼が言う。
「あいつは一人がいい、と言っていたからなあ。今の境遇は不本意祭りだろうぜ」
「言ったことには責任を取らないといけませんにゃ。シロエちはその責任を取れる人だにゃあ」
そう言いながら、二人の胸を過ぎるのは、彼らからすれば若く、それでいて彼らより遥かに重い責任を望んで引き受けた彼――シロエのことだ。
自分たちプレイヤーをこの異世界に引き込んだ謎の事態――<大災害>に対して、多くのプレイヤーたちはまったく無力だった。
解消しようのない苛立ち、悲しみ、怒り、寂しさ――それらは渦巻き、そして他者に向けられた。
やって来たのは、紛争地帯のほうがまだマシと言える、無法の世界だ。
能力、人数、組織――そうした力こそがものを言う、世界。
直継もにゃん太も、そうした現状に憤り、悲しみ――それでいて、何もできなかった。
だが、彼らがギルドマスターと仰ぐ、ソロプレイヤーの<付与術師>、シロエだけは違ったのだ。
この世界に、秩序を。
虐げられて泣く人が一人でも少なくなるように。
レベル差という圧倒的な力の違いに、悔し涙を流す人がいないように。
理不尽な暴力を向けられ、人間の尊厳を木っ端微塵にされる、そんな人がいなくなるように。
彼は、そう願い、それを成した。
そして二人は、そんな彼の両輪――いや、今この場にいない小柄な<暗殺者>を含めれば三輪になるよう望み、ここにいるのだ。
「俺たちは……あいつの力になってやらなきゃな」
小さく呟く直継の一言に、どれだけの思いが篭っているのか。
それは、同じ気持ちを共有するにゃん太にはよくわかる。
「シロエちは頼りになるけれど、時々危なっかしいにゃ。
そんなときに横を支えるのが、我々年上の責務ですからにゃ」
「そのとおりだ」
頷く直継の顔に、気後れや後ろめたさは微塵もない。
ただ、それでいて、彼はわずかに声を小さくして呟いた。
目に映る星空。
その中に月がないことに何故か小さな安心を覚えつつ、<守護戦士>の思いが酒に混じって吐き出される。
「ただな、班長。俺はこうも思ってるんだ。
俺はあいつと一緒に歩き、あいつを支えるのが役割だ、と自分でも思ってる。
だけど、本当はシロエに支えられているのは俺のほうじゃないかってね。
もし、俺がシロエと出会わなかったら。
あいつが、<大災害>のとき、ログインしていなければ……」
俺は、今の俺ではいられなかったかもしれない。
どこまでも苦く、そう吐き出された言葉を、にゃん太は静かに聴いていた。
「あいつは俺に、道を示してくれた。
俺が<守護戦士>として、あいつの盾としてこの世界で生きる道を。
班長、俺は時々思うんだ。
この世界に漂流た他の多くの<守護戦士>、混乱して、自棄になって、ひどいことに手を染めた連中の、その何人かは、きっとシロエに出会わなかった俺の姿なんだ。
守るべきものも、拠って立つものも見失って、自分の心のどろどろしたものをどこかに吐き出さずにはいられない、もう一人の俺だったんじゃなかったか、ってね」
直継は何度も夢に見る。
あの日、放り出されたアキバの路上で、誰に手を差し伸べられることもなく、腐っていく自分の姿を。
大手ギルドに入って、当たり前のように弱者を虐げ、狩場を占領する自分の顔を。
それは紛れもない悪夢だ。
<大災害>という悪夢の中で見る、もうひとつの悪夢だ。
シロエ――かつて<茶会の参謀>と謳われた年下の友人は、直継をその悪夢から助け出してくれた。
だが、直継にはまだ見えるのだ。
助ける手もなく、支える手もなく、悪夢の中で呻く無数の<冒険者>たち。
自分もその一員になるはずだった、多くの『直継』たちが。
「俺はたぶん、すごく幸運なんだろうな、と思う。
今、ここで、こうやって<記録の地平線>にいることがね」
◇
普段は飄々とした態度を崩さない友人の、はじめて漏らした暗い声を、にゃん太は髭を揺らして聞いていた。
ふるふると震える毛を、片手で小さく撫で付ける。
その仕草で、唐突に言葉を閉じた直継に、にゃん太は小さく言った。
「だからこそ、シロエっちは<記録の地平線>を立ち上げ、<円卓会議>を作り上げたのかも、しれませんにゃ」
「え?」
俯かせていた顔を上げた直継に、にゃん太は「私見ですけどにゃ」と言い置いて続けた。
「直継っちも、ミノリちも、トウヤちも、皆がシロエっちに助けてもらいましたにゃ。
同時に、シロエちにはきっと直継ちが言った、多くの『直継っち』も見えていましたですにゃ。
だから、全員を助けようとした。
直継っちが言う、『悪夢』から。
そういうためのギルドであり、そういうための<円卓会議>かもしれませんにゃ」
「いや……そうだろうな」
にゃん太の言葉に直継も笑う。
どこか救われたようなその笑みに、にゃん太は片目だけで応じた。
「であれば、直継っちももう悪夢を見ることは無いですにゃ。
我々は、シロエっちを支えて、支えられて、この街を守ればいいだけですにゃあ」
「そうか……そうだな!」
先ほどまでの意気消沈ぶりはどこに行ったのか、にゃん太の言葉を聴いていた直継が、やおらカップをぐいっと傾けた。
そのまま、一挙動で立ち上がる。
その動きは、先ほどまでの沈んだ彼ではない。
いつもの、飄然としつつも頼もしい、力にあふれた<守護戦士>のそれだ。
「うおおおおおっ!! 俺はやるぞっ!! あいつを助けて、獅子奮迅祭りだっ!!」
肺腑を搾り出すような怒号が、夜の街に響く。
聳え立つ巨木すら振るわせるほどの獅子吼に、放った直継はふん、と鼻を鳴らし、
隣のにゃん太は小さく耳を押さえて苦笑した。
「直継っち。今は夜にゃあ。あまり近所迷惑は感心しませんにゃ」
「あ、すま」
ない、と直継が言う前に、黒色の疾風が二人の間を駆け抜ける。
その風は、小柄な少女の姿をとって、立ち上がっていた直継の頬骨に激突した。
「おごぉっ!?」
「老師。安眠を邪魔する馬鹿に膝蹴りを入れておいた」
もんどりうって転がる直継を横に淡々と告げた3人目の仲間に、にゃん太は苦笑した。
「アカツキっち。夜更かしは体に毒にゃ。早く寝たほうがいいですにゃ」
「失礼した。だが老師、この男の声があまりにうるさかったもので。では失礼する」
あくまで淡々と告げた少女―アカツキが、来たときと同様、旋風のような速度で去っていく。
どことなく目がぼうっとしていたのは、眠っていたところを叩き起こされたゆえか。
だが、にゃん太がそれを問いかける前にアカツキは消え、後には座ったままの彼と、頬を押さえて転がりまわる直継だけが残される。
いや、それだけではない。
「今何時だと思ってんだ、バカヤロー!!」
「うるさいわね、安眠妨害しないでよ!!」
夜の街のそこかしこから聞こえる罵声があたりから小さく響いた。
いくら人の少ないアキバの外れとはいえ、住む人間も多いのだ。
よほどに痛かったらしく、顎を押さえながら転がる<守護戦士>を見下ろして、にゃん太は苦笑が深まるのを感じていた。
悪意ではない笑いを浮かべながら思う。
シロエが掲げたことは、彼自身の理想だ。
それが、決して利他心からだけではないことは、にゃん太も判っている。
だが、それと同時に。
(それに救われている補佐役もここに、少なくとも二人いるのですにゃ)
直継を助け起こしながら、にゃん太は空を見上げた。
どこに隠れていたのか、細い月が空の片隅にぽつんと浮かんでいる。
それを見上げて、にゃん太はもう一度、嬉しそうに喉を鳴らしたのだった。