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『サルでも投げるゲームブック』

『サルでも投げるゲームブック』 丙

作者: 白烏

行間にゆとりがないので、一応縦書き表示推奨です。

 抜き足差し足忍び足。別にやましくもないのに忍んでしまうのは日本人特有の謙虚さから。やっぱり一歩下がって後ろに控える大和撫子スタイルこそ全日本国民の至高だと思う。

 そんな日本人一人談義を満場総立ちの脳内会場で繰り広げながら、今はもぬけの殻となっているお兄ちゃんの部屋を華麗に闊歩する。ちなみに忍ぶのはやめた。一歩でやめた。三歩じゃないから鳥頭とかって貶される心配なしなのがポイント! というように自己弁護を忘れないのがポイント!

 カーテンで閉め切られた部屋は電気なしだと少し暗い。それでも何かにぶつからずに歩けるのは、お兄ちゃんの部屋が意外と綺麗に片付けられているからだろう。大雑把に見えて妙なところは几帳面なのだ、あの人は。まあ今日は全国模試の日だし、昨夜に勉強しようとしつつ『部屋……汚いな』と掃除に走ったあるある談の可能性もあるけど。

 でも今は整理整頓された部屋に感謝しようと思う。目的達成には乱立した本や箱の山ほど鬱陶しい障害はないのだ。探索範囲を山の中にまで広げていたらさすがに捌ききれない。

 探し物。うん、これが目的だと言っていい。どうしてもお兄ちゃんの部屋で探し出したい物があった。でもそれは本人にとっては他言無用の代物。だから模試で部屋を留守にしている今日を狙ったのだ。こっそり、怪盗紳士アルセーヌ・ルパンのように盗み出すために。……こっそりとルパンが矛盾してようが気にしない気にしない。


 

 事の発端は通っている中学で課された『自由研究』、という名の仮面を被った『不自由研究』だ。小学生の頃からこの手の課題は後を絶たないけど、そろそろ疑惑に満ちたその名称を変更するべきなんじゃないだろうか。自由を盾に権力を振りかざすくせに実態はアサガオの観察日記とかネットのコピペが大半。彼奴は自分のせいで一体どれだけの人間が夏休みの自由を強奪されているのか自覚するべき。

 等々、不満を言い出したらそれだけで二十四時間テレビとか貫徹できるくらい有り余っているわけだけど、所詮は義務教育。教師の魔の手から逃れる術なんて一介の女子中学生が持っているはずもなく、後にも先にも蹂躙されるが定め。およよって泣いたら好感度上がるかもしれない。

 そこで、結局は提出を余儀なくされるのだから、どうせなら一矢報いるような大物をぶつけたくなるわけだ。撃てーって叫んで風穴開けたいわけだ。そしてそのまま今こうしているに至る。そう、お兄ちゃんの部屋こそ意表を突くためのキールーム。ちなみに現実の(キー)は、密かに作った合鍵(キー)で、いとも容易くキーって開けました。

 万人に尋ねれば万人が訊く、それは何故かと。どうしてこれといって見所もない殺風景な兄の部屋にそう拘るのかと。教室で課題の解説プリントと睨めっこをしていた休み時間、前触れもなくそれは天女のように神々しく舞い降りてきた。

 これ、お兄ちゃんの生態調査をすればよろしいのでは? 

 まるで落雷が脳天に直撃したかのように体が打ち震えた。これはいける! そう確信して拳を握った。一方自分の才能に自分が嫉妬していることに気づいた時は別の意味で震えた。

 けど道端に点在する石ころ並みの存在でしかないお兄ちゃんの日常なんて、赤裸々に語ったところで三十路のおばさんに鼻で笑われることは目に見えている。画面がダブリューで埋め尽くされることは必然。そんなの一石を投じたことにすらならない。

 そこでまたまた考えた。考えに考え抜いてソファーに寝そべって薄切りのジャガイモ揚げを食べて熟考して転寝(うたたね)して少しして起きてまた考えた。そしてご来光が降り注いだ。

『性欲魔ONiチャンの日常~ベッドの下はブラックホール~』というヘッドラインは如何様か?

『それだ!』と誰でもない自分自身が中空向かって指さした。もう自分が怖かった。溢れ出す才気は留まることを知らず、神の禁忌領域まで足を踏み入れてしまったという錯覚さえした。

 別にお兄ちゃんのエロ事情など知ったこっちゃないが、要は意外性とそれに付随する結果なのだ。数字、数字さえ取れれば過程なんて宇宙の塵がごとく軽んじてしまって構わないよね? でも宇宙の塵が白色矮星なら密度は一立方センチメートル当たり約一トンらしい。重んじるべきか軽んじるべきか、それが問題だよね?

 まあともあれ、なによりこういった情欲的な話題に中学生は敏感なのだ。とある日の朝、先生に呼び出しを頼まれ一人のクラスメイトの名前を黒板に横書きした時のこと。その子は『江口伊乃(えぐち いの)』という名前の女の子だったのだが、名前の漢字がどうしても思い出せず、仕方なく名前だけカタカナで記したことがあった。

 そしたらどうだろう、本人は顔を真っ赤にして俯いてしまい、男子たちは異様なテンションで騒ぎ散らした。教室を飛び出していった江口さんの泣き顔、三水が醸し出す謎の悲壮感、それらは薄らぐことなく今なお脳裏に焼きついている。これは余談だけど、その日の夜は星空見上げて全国の江口さんに対して陳謝した。

 とどのつまり、この分野は学校という聖域においてエクスカリバー並みの注目度なわけである。テレビで言うなら視聴率、動画で言うなら再生数、どんな作品も人の目に触れて初めて評価される。そういう観点からしたら、この選択は発想の勝利としか言いようがない。考えた人は間違いなく天才策士! 内容もまあギリギリチョップを食らわない程度に()かし込んでおけばモラルに反することはない。 

 それに個人情報保護法とか妹としての立場とかもお兄ちゃんの名前をイニシャルで誤魔化しておけばたとえ何かつっこまれたとしても平気だろう。『これあなたのお兄さんじゃない?』って訊かれても、『イニシャルが同じ別人だよ』『架空の人物なんだよね、これが』『お兄さん? 誰それ?』という必殺の切り返しが待ち構えている。最悪お兄ちゃんの存在はなかったことにする。しゃぶれるだけしゃぶり尽くして当たり以外は捨てるアイス棒的な都合のよい存在、それが概して兄というものだ。



 一人過去の自分の考えを顧みながらも探索の手は緩めず、黙々と本棚の奥や引き出しの底を漁る。お兄ちゃんの性癖を誇張する一物を見つけ、現役男子高校生の趣向を分析的に説明しようというこの試み。部屋にパソコンが置いていない以上、物的論拠は本であるに違いない。そう当たりをつけて平らな本を隠せそうなポイントを片っ端から探索するのだが、思いの外それらの類の本が見つからない。

 ベッドの下は鉄板だろうと余裕綽々覗き込むも、真っ暗な空間がポカンと空いているだけで本どころか怪しい箱の一つもなかった。続いて勉強机の引き出しを上から順に開けていくが筆記用具やら学校からの配布物やらが詰め込まれているだけで異常なし。まさか引き出しの底に薄い木板を敷いて発火装置つきで隠蔽されているのではと一様確かめたが、期待は呆気なく空振りするばかり。根気よく十分間は粘り続けたはずなのに、結局何の成果も得られないまま部屋の中央で立ち尽くす。

 おかしい……、お兄ちゃんが乱れていない!?

 ありえない、そんなはずはない! 今日という日を心のどこかで待ち侘びていたのに、実妹萌え系R18本を見つけてドン引きする気でいたのに、帰ってきたお兄ちゃんをこの世の底辺として蔑むことに生きがいを見出そうとしていたのに、そんな馬鹿な!

 …………あ、いやいや違う、これは研究であって私利私欲のために動いているわけじゃなかった。危ない、危ない。当初の目的を見失って暴走するところだった。優秀な科学者がマッドサイエンティストに落ちるところだった。

 とりあえず一旦冷静になるために一息入れる。お兄ちゃんとて華の男子高校生、少なくとも何もないことだけはないはずだ。どこかに必ず尻尾がある! 真実の尻尾は絶対に掴める! ちなみに飼い猫ミーの尻尾を掴もうものなら死にもの狂いで引っ掻かれる!

 ふうと嘆息しながら視線を本棚の方に向けた時だった。殊に気にかけなければ気にも留めないような違和感だが、本棚が密着することなく壁との間にほんの僅かな隙間を作っているのが分かった。部屋に入った直後なら全くもって眼中になかったであろうそれが、今はやけに際立って映り込む。

 吸い込まれるように本棚の側面に近づいてしゃがむと、遠目からは分からなかったが、そこだけフローリングの日焼け具合が他と違うということにも目が行く。まるでつい最近になって本棚の位置を前にずらしたかのように変色していないのだ。

 無理やり顔を押し込んで隙間の奥を覗き、暗闇の先に平べったい何かが見えた時、自然と頬が吊り上がるのを感じた。と同時にすぐさま自分の部屋へ猛ダッシュしてものさしと針金ハンガーを引っ掴むと、来た道を行きの倍速で駆け戻る。

 まず両手でハンガーをひし形上に広げた後、フック部の針金を用いてものさしを頑丈に固定する。本当はここに薄い布か何かを覆わせてホコリ取りにするのが定石だけど、今は用途が違う。完成した現物を手にすると思わず邪悪な笑みが零れ出てしまった。おっといけない、笑うのはまだ早い。細工は流々仕上げを御覧じろ!

 三十センチものさしでは長さにやや不安が残るので、そこはまあ腕をできるだけ捻じ込んでリーチを稼ぐ。先端に付けたハンガーに異物が引っかかって重く感じたら、後は慎重に引き抜くだけの簡単なお仕事です。ものの十秒もかからずにそれは手の内に収まった。

 遂に、遂にこの瞬間が訪れた。苦節十分、一体どれほど心待ちにしていただろうか。思えば長かったなんて回想に浸りたい気分も一入だけど、今はそんな矮小な過去なんてどうだってよく思えた。人間は今に生き、今を感慨深く慈しみ、未来に希望を馳せる生き物なんだ。つまり積み重なった歴史を紐解く奴は人間にあらず! つまりテストで花丸満点な貝谷君は人間にあらず!

 さあ晒してもらおうか、お兄ちゃん。お兄ちゃんは一体何に欲情して自我を失う獣なのかを。実妹、と見せかけて実は義妹の純潔を狙うシスターハンター略してシスハンなのか、意表をついて姉萌えや母萌えを謳うのか、将又最愛の夫を亡くした未亡人の心の隙にチョロチョロと這い入る卑しいゴキブリなのか。まったく、想像だけでご飯三杯はチョロい。

 いざ禁断の真実をッ!!

 ……。

 

 …………。


 ………………。


 ……なに? これ……。


 手にした本は期待していた物なんかじゃなかった。確かに第一印象がやたら地味な本で、想像していたもっとカラフルでけばけばしい勢いが感じられないから不思議には思っていた。けど独り占めしたおやつの空袋を糊で未開封に偽装する狡猾なお兄ちゃんのことだから、表紙のすり替えくらい余裕でやってのけると、そう勝手に判断していたのだ。

 で、実際にペラペラと捲った結果、中に情をそそるグラマーな美女なんて一人もいない。

書いてあるのはちょっとした文章と番号付きの選択肢、それに挿絵程度なもんである。形

状というかというか形式というか、こんな感じの本を書店で何冊か見かけたことがある。

 確かこれは、ゲームブック。ストーリーが度々登場する選択肢によって変化していき、本でありながらまるで読者がプレイヤーになったかのような感覚で楽しめるエンターテインメントだ。

 タイトルは、えっと……『サルでも投げるゲームブック』? タイプミスだろうか。『泣ける』と『投げる』を打ち間違えたとか? でも製本されてるし……。

 それに隠してあったってことは、これがお兄ちゃんの性欲処理媒体で間違いないということなのか。ただのゲームブックで……性欲処理? ちょっとだけ想像してみる。

『うっはーッ、マジパナイ! 選択肢二番とか超エロエロだぜぇムチムチだぜぇ! 神そそられる!!』

 …………。

 ないなー。これはないなー。

 ともすればちょっと拍子抜け。散々部屋の中を物色して、挙句の果てに本棚の後ろの隙間まで疑ってかかったというのに、なんなのだろうか、このがっかり感は。前置き長くして中身すっからかんなミステリー小説並にがっかりだ。

 諦める以外ないのかもしれない。お兄ちゃんの部屋はどこまで突き詰めようが凡個性、無価値の直方体でしかなく、あの人自身も唾棄すべき真人間でしかない。そういうこともあるのだろう。

 後を引くような倦怠感だけが体中を襲い、何もかも面倒くさくなってベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めるとシャンプーの独特な香りが伝わってくる。

 全身の筋肉から力を抜き、シャンプーは偉大だなあ、なんてどうしようもないことを薄ら考えながら、しかし何故だか気づかないうち、力を失ったはずの右手はさっきのゲームブックに向かって伸ばされていた。

 意味が分からない。分からない、けど、まるで催眠術でもかけられたかのように勝手に右手が動いていた。

 あるいは心の隅にまだ諦めを認めなくない自分が居座っているのかもしれない。目的の本こそ見つからなかったが、お兄ちゃんがどうしてこの本を買ったのか、どうして本棚の後ろにホコリを被って放られていたのか、実際に読むことで理解しようとしているのかもしれない。そして最終的にはお兄ちゃんの生態を解析できるかもしれないと、可能性の一端を手放せないでいるのだ。

 くすくすと、薄暗いお兄ちゃんの部屋で一人、薄気味悪く笑ってしまう。

 よろしい…………なら、当たって砕けてやろうじゃないですか!!



『このゲームブックは三部構成です。初級、中級、上級の三つのお話が楽しめます。』



 表紙からページを数枚捲ったところに前書きが載せられていた。どうやら難易度を選べる親切設計のようだけど、そもそもゲームブックに簡単とか難しいとかって概念はあるのだろうか? 選択肢を選ぶだけの単調な作業にパワーバランスを求められてもどうかと思う。でも設定されているならそういう仕様なんだと勝手に納得しておこう。

 そうなれば次は早速選択なわけだが、ぶっちゃけてしまえば上級一択他所はなし。理由は簡単。上級、というかレベルMAXという存在が総じて嫌いなのだ。さっきまで憔悴していた心の核でふつふつと対抗心が煮えたぎる程には嫌い。

 際たる例がオセロ。オセロのレベルMAXとか頭おかしい。あれはプレイヤーを泣かせにかかってるとしか思えない。四つ角奪われる瞬間より四つ角への架け橋を強制的に打たされる局面に泣ける。せっかく四つ角とれたとしても時既に遅しとかざらだし。

 お陰様でただいまの戦績、百戦零勝百敗。盤面に白星一つありゃしない。

 だから実に私的な怨恨だが、今回はこのゲームブックを泣き寝入りさせてやる。ぐうの音も出ないくらいボロボロに大敗させてやるのだ。まあ端から音は出ないけど百敗のせいで荒んだ心の慰めになればそれでいい。

小さいと笑いたければ笑うといい。分かってるもの……。

 自分の中の惨めな自分を嘲笑しながら、説明に従って上級ストーリーのページへと飛んだ。



『この上級ストーリーでは初級、中級とは異なり、各設問において選択肢が最後に明示されます。選択肢を決め、選択肢の下に指示されたページへ移動してください。』



 ここは普通のゲームブックとなんら変わらない基本姿勢である。ちょっと引っかかるとすれば初級と中級への言及くらいだけど、上級者は下々を見降ろさないものであるからして気にしないでおく。

 一通り注意事項に目を通せば、いよいよ本編のお出ましとなる。始まりの要と言わんばかりに明朝体で厳かにタイトルが刻まれていた。

 それじゃあいよいよ始めよう――『現実の彼方へ』。



『チュンチュン、トタトタ、屋根にとまった雀たちの可愛らしい鳴き声と小さな足音が聞こえる。五感が活動を始め、鼻がほんのりと漂ってくる味噌汁の匂いを敏感に感じ取る。』

『気持ちの良い眠りから覚め、僕は上半身を起こしながらぐんと背伸びした。穏やかな一日の始まりを教えてくれるかのように温かな朝の陽ざしが部屋の中を照らす。顔に当たる光はまるで僕の顔を洗ってくれているみたいだ。』

『けれどまだ少し霞んだ視界に愛用の目覚まし時計を捉えた時、それまでの優雅な朝の空気は凍てつく氷河期の冷気に一変した。』

『目覚ましをセットした時間から一時間も過ぎてからの起床に頬が引きつり、脊髄反射に劣らないスピードでベッドから飛び降りる。壁に掛けてあった新品の制服と昨晩準備しておいたバッグを両手に階段を駆け下りた。』

『僕の名前は田中佑樹。今日からピカピカの高校一年生、のはずだったんだけど、入学式の日から寝坊するなんて思ってもいなかった! どうしよう、初日から遅刻なんて恥ずかしすぎるよ!』

『一階の台所に行くと机の上に匂いの発生元と思われる朝食と、お椀を重石替わりに置かれた一枚の紙があった。最後に母よりと書いてあるので多分お母さんからの書置きだろう。』

『えっとなになに? お母さん、佑くんが気持ちよさそうに寝ているので先に学校へ行っています。寝る子は育つと言うけれど、ほどほどにね。入学式、楽しみにしています。母より……っておかしい! おかしいよ! なんで主役を置き去りにちゃっかり自分だけ入学式に行くの!? そこは起こしてよ!』

『どこか抜けているお母さんだけど、少しでいいから違和感くらい感じて欲しかった。でも今はいない人に叫んでいてもしょうがない。とにかく急いで学校に向かう必要があるわけだけど、せっかく用意してくれた朝食を一口も食べないというのも後ろ髪を引かれる。』

『どうしようかな……?』


『選択肢A:母親の愛情を無碍にはできない。少しだけ朝食を口にして学校へ向かう。(62ページへ)』

『選択肢B:残念ながら食べている時間はない。そのまま学校へ向かう。(85ページへ)』



 …………。

 なにこの茶番……。

 なにこの序盤で滑って失笑されるお笑い漫才を輸入してきたような、後々のストーリーを不安視させる出だしは。漂っているのは味噌汁の匂いじゃなくて雲行きの危うさだ。

 特筆すべき点は切り口、『僕は○○、ウンタラカンタラ……』である。この手法は昔から使われてきたわけだが、もはや前時代の遺物と言っても過言ではないし、そもそもお前は誰に話しかけてんだよという非難が絶えない。確かに読者の補正をなくしたら完全に霊的な何かが見えてる不気味な奴だ。

 他にも入学式に寝坊というあるある設定に、一周回って山田太郎とかより地味な名前の田中佑樹などなど、挙げていけばきりがないが、開始数分で売れない小説を無理やり読まされる気分になってきてしまった。

 これが、上級者の世界? これが世間の荒波を乗り越えていく大人の世界とでも言うのだろうか。だとしたら甘く見ていたと笑われても仕方ない失態だ。

 大人というのは諭吉さんが五枚入った財布を落としても、笑顔で『問題ない』と語って見せる人たちだ。先日お父さんも同じことをやらかしていたから間違いない。笑っている割に目じりに涙が浮かんでいたけど。

 なら一層気を引き締めてかからないと足元をすくわれ兼ねないだろう。もう既に上級の雰囲気に体が慣れ始めているから、油断さえしなければどんな落とし穴だって華麗に躱していけるはずだ。

 とにかく最初の選択肢は二つ、朝食を摂るか摂らないか。遅刻しそうな状況で呑気に朝食を頂く時間があるとは到底思えないけど、でもここは大人の貫録で少々余裕ぶってもらいたい。だから選択肢はAでいく。



『やっぱり食べよう。胃に少しでも入れといた方がいいし、第一お腹が空いて入学式の最中に鳴ってしまったらそれこそ恥ずかしい。時間も時間だけど走ればまだ間に合うよね。』

『朝食を食べるために箸を持つけど椅子には座らない。本格的に食べてしまうとまず走れなくなるからだ。急激に吐き気を催したり、横っ腹が痛くなったりと、食後の運動ほど精神的・身体的に厳しいものはそうそうない。だから食べるとしても限度は弁えないと。』

『味噌汁だけ飲んでいこう…………って、なんで味噌汁に卵焼きが入ってるの!? どこを目指してるの!? お母さん、いくらなんでもアバンギャルドすぎるよ!』

『まったくしょうがないお母さんだ。いくつになってもお茶目さんなんだから。』



 イラ。

 イライラ。

 どうしてだろう、無性に苛々する。味噌汁へ卵焼きを投入する暴挙をおばさんのお茶目とはなんたる世迷言か。

 いるけども、おかんルール採用で好き勝手に料理をアレンジする母親は実在するけれども、だからって卵焼きイン味噌汁は軌を逸する。何故単体ならおいしく頂ける卵焼きをドブに捨てた? どうしてその思考に至ったのか小一時間説教を食らわせたい!

 しかも中途半端に『アバンギャルド』などとのたまっている辺りが追い打ちのようにイラつかせてくるのだ。これは『なんでやねん』さえ言っておけば漫才が成立するだろうと考える浅慮な輩を彷彿とさせる。なんかちょっと腹立たしい。

 胸の奥に引っかかった(わだかま)りが、火山直下で噴火の瞬間を今や遅しと待ちわびるマグマのようにポコポコと煮え返る。正直堰を切って溢れ出すのも時間の問題かもしれない。



『奇抜な味噌汁を半分ほど啜ったところで柱に掛けられた時計を見る。できればご飯も少し食しておきたかったが無念のタイムアップだ。そろそろ家を出ないと、学校到着とともに灰燼と化す勢いで疾走しなければならなくなる。そんな状態で入学式なんて真っ平ごめんだ。』

『持ってきた制服に素早く着替え、バッグと家の鍵を持って外へ飛び出す。それから忘れず戸締りをし、今日はまだ軽いバッグ片手に僕は走り出した。』

『学校までは片道二キロ、普通に走れば十分強くらいの距離。荷物や信号を加味して大体十五分くらいと見積もっておけばいいだろう。入学式の開始まであと三十分だからこのペースで問題ないはずだけど、でも急ぐに越したことはないし、最初の方でもっと走っておいた方がいいかもしれない。』

『そんなことを考えて走る僕の視線の先には見通しの悪い曲がり角があった。』


『選択子A:急に飛び出すと危険かもしれない。注意して行く。(96ページへ)』

『選択子B:こんな所でのんびりしていられない。全力で突入する。(102ページへ)』



 こ、これは……これはまさか伝説の、遅刻しそうで走って登校していたら曲がり角にて食パン加えた美少女とごっつんこ!? 恋が芽生える絶滅危惧の究極ベタシーン!?

 ベタだ……ベタだけど…………不思議と苛々しないのは何故!? 苛々どころか、寧ろなんかちょっとフワフワした昂揚感すら感じる。さっきまでは押し殺していた怒りが爆発寸前だったはずなのに……。

 心情の機微にしばらく戸惑ったが、落ち着いて考えてなんとなくその理由が分かった。

 イベントの発生が選択形式だからだ。

 通常、物語は作者の意志に従って一方的に進められるものであり、どんなイベントを起こすかも作り手に決定権が委ねられる。だから読者は必然受け身となり、物語に没頭することはできても、介入することはできない。

 しかしゲームブックは読者に決定権が移譲される。物語の流れは既存であっても、選んで未来を変えていくのは読者自身。分岐し、無限に拡散していく可能性の枝から一筋のルートを自分で決定できる。その構図は見る人によってはあたかも人生のように映るだろう。

 第二の人生、現実を超えた新たな可能性がそこにはある。

 だから面白い。だから魅了される。

 プレイ時間わずかにして、ゲームブックの真の魅力というものが少しだけ納得できた気がした。

 じゃあこの選択子でどちらを選ぶか、そんなのはもう決まっている。自分が恋の発芽を手助けするなんて実にロマンチック! 選択子Bをチョイス!



『曲がり角を飛び出した僕の前、横から猛スピードで姿を現した大型トラックがギィィィィッという重低音を轟かせながら急停止した。』

『全身から力が抜け尻餅をつく。あと数センチでも前に出ていたら問答無用で確実にぶつかっていた。最悪の想定が瞬時に脳内を駆け抜ける。体が硬直してまったく動けない。』

『窓が開かれる音で我に返ってなんとか首だけ上に向けると、ごつい体躯で眉間に深いシワを寄せ、顔を真っ赤にした四十代くらいのオジサンが、食パンを咥えながら親の仇でも見るように僕のことを睨みつけていた。』

『あっぶねぇだろうがぃこのガキィ!! 死にてぇのか、ああぁ!? こちとら急いでんだよ! 気ぃつけやがれ!!』

『……す、すいません…………。』

『オジサンは怒りにまかせて一通り僕を注意すると、時間を気にしながら、俯く僕一人残して姿を消した。』



 …………。

 げ、現実的……。

 うん、少し反省しよう、かな……。道路は急に飛び出しちゃ危ないよね……。

 リアルな社会人の姿を見せつけられて、もうなんと言ったらいいか分からない。きっと仕事に遅れそうだったのだろう。だから食パン一枚手にして職場へ急いでいたのだろう。リアルだ、痛いくらいに……。

 勝手に先の設定を思い込んでウキウキしていた自分が恥ずかしい。もう憶測だけで心を躍らせるのは止めよう。無駄に傷つく。



『オジサンが去ってしばらく経ち、ようやく重い腰が持ち上がる。足も走って学校に向かうくらいは大丈夫そうだ。』

『あれだけのことがありながらどこも怪我していないのは不幸中の幸いだった。本当に危なかったと思う。でも今回のことは僕の不注意が原因だと真摯に受け止め重々反省するとして、今は僕も先を急ごう。』

『車通りの少ない細い道を速めのペースで走っていくと、右手に僕が昔通っていた小学校が見えてきた。子供の安全を守れるように校門が国道の反対側に設けられているため、結果的にこの通りは小学生の行き来が盛んになっている。まあ登校の時間帯はとっくに過ぎているから今は誰もいないわけだけど。』

『そんな学校の前をそのまま素通りしようとしたはずが、僕は思わず足を止めてしまっていた。』

『校門の前の道路に謎の模様が浮かび上がっている。マンホールの蓋より直径が大分長めな白円を基盤に、中心に向かって見たこともない文字や記号が規則正しく並ぶ。霊気を纏い、その存在を僕にありありと示している。』

『それはまるで漫画や小説に登場する、神の力を宿した魔法陣のようだった。』


『選択子A:新たな可能性への偉大な一歩かもしれない。魔法陣に飛び込む。(81ページへ)』

『選択子B:気にしている暇はない。横を通り過ぎて学校へ向かう。(89ページへ)』



 ……おかしい、話がいきなりアブノーマルへドリフトした。

 登校中に急遽出現した不可思議な陣だなんて、そんなもの異世界への扉以外に何があるというのか。リアルだなんだと散々思わされた挙句、死角からの右ストレートを頬いっぱいに食らった気分だ。

 この本ひょっとして、今巷で蔓延しているタイトル詐欺というやつではなかろうか? こんな急展開が、仮にも『現実』と名付けたストーリーで許されるなどと本気で思っているなら、編集は読者を舐めすぎている! 昨今のやさぐれた小中学生はこんな姑息な手で一概に御せるほど甘くない!

 だからそう、選択肢はAだな! うん!

 …………。

 別に誰も勘違いしないだろうけど、誰かに弁明するわけでもないけど、万が一にも人の思考を読み取る超能力者とかがいたら困るから言っておこうと思う。

 これは断じて違う!

 別にそういう世界があるだなんて信じていないし、ジェット機台の大きさの鳥が飛び交う空の下、広大な草原を仲間と共に駆け抜け、強大な魔獣を剣術と魔法を駆使して刈り取る狩猟生活に憧れてなんかない。

 Aを選んだのはただの形式美であって他意はない。『最初にAで次にBときたから次はAかな?』程度の思い付きだ。

 お兄ちゃんも言っていた。高校三年間を終えた先には連続した解答番号だと不安になるマークテストが待ち構えていると。これはそのテストの予行演習にすぎない。中学生から対策するのだ、誰か褒めろ!

 …………。

 いや……それにしても凄い。最近の本は耐寒機能が付いているようで、体が不思議と暖かい。窓ガラスに映る頬が紅潮してるけど、きっとそのせいに違いない!



『ファンタジー路線の漫画や小説にはお馴染みの魔法陣。それが現れるのは魔法を扱う術者が何らかの術を行使する時だ。その内の一つ、メジャーな役割として召喚魔法、すなわち別の空間・次元に存在する物体を術者の指定した空間に呼び出す、というものがある。少々派手なテレポーテーションのようなものだ。』

『次元すら超える点が重要で、これが日常の最中に現れた者は術者の世界へ転移し、そこで有無を言わさず世界救済を義務付けられる。勇者として讃えられる未来を強制的に約束されるわけだ。』

『とまあ、こんな概要が一瞬で頭を過る僕である。当然のことながらその手の話を読んだことはあるし、子供心に憧れてもいた。』

『もちろん陣に入ってどこかに転移するなんてこと、フィクションでもない限りありえない。僕にだってそれくらいの常識はある。だけど目の前にして分かった。人間は一度考えてしまった仮説を簡単には覆せない生き物なのだ。』

『僕はもう、もしかしたらの可能性を否定できない。現状も未来も碌に考えず、僕は目先の希望へ嬉々として足を踏み入れた。』

『……。』

『陣の中心に直立してから約十秒、まったく反応がない。魔力の供給云々のタイムラグがあるのかと、背筋をピンと伸ばしたまま経過すること早三十秒。そして首筋を伝う汗の感触を確かめながらさらに一分。』

『何も、起きない…………。』

『膨らんだ期待が風船のように弾ける。するとさっきまで昂っていた少年の心は我先にと鳴りを潜め、唯一残された羞恥心の波に僕は浚われた。』

『今日から高校生なのに期待に目が眩んで偽物の魔法陣に突入……。ダメだ、恥ずかしすぎる。高校生活初っ端から黒歴史確定だよ!』

『顔を覆った手の隙間から足元を見遣る。目にかかった邪念フィルターが剥がれたおかげで、さっきまでは漫然と観察していたせいで気づけなかった陣の正体が判明した。』

『枠となる円、それに内部の文字や記号は白いチョーク。さらに光を反射し幻想的に見えるよう、ガラスの砕片がチョークの上に散りばめられている。簡易な仕様のくせに無駄に完成度が高い。』

『一体誰がこんな悪戯を、と羞恥や憤りで悶絶する僕を嘲笑うかのように、というか嘲笑いながら、近くにあった電柱の陰から小学校高学年くらいの少年が飛び出してきた。』

『ばっかでぇ、大人のくせにこんなトラップに引っかかってやんの! どんだけ頭悪いんだよ! やーい、三流バーカ!』

『面識もなければ見かけたこともない子だけど、言い草からしてこの子が陣を描いた張本人なのだろう。面喰って動けないでいた僕を指さしながら、ただひたすらに笑っている。』

『どうやら自分が仕掛けた罠に誰かが嵌るのを、電柱の陰に隠れてずっと待っていたらしい。この時間は本来授業中のところをサボっている辺りが悪戯の本気度を如実に物語っていた。』

『これは……困った。』


『選択子A:ここは大人の対応でいかないとまずい。何事もなかったように静かにこの場所を離れる。(70ページへ)』

『選択子B:これ以上は人目に付かないように走り去る。(99ページへ)』

『選択子C:このまま放っておくと真面な大人になれないだろうから、子供に説教してやる。(79ページへ)』



 …………。

 心が冷たく澄んでいく。続けて猛吹雪を思わせる怒涛の邪気が理性を飲み込み、自分の中の自分が埋没する。水は気圧で沸点を変化させるが、凍てつく憤怒はまるで高圧化の氷点沸騰のように身を切って猛る。

 おかしいね……。

『餓鬼をヤる』選択子がないね……。

 大人に舐めたマネを仕出かした餓鬼の末路はそれ相応であるべき。この選択肢は三つともぬるい。

『選択子D:これ以上は真面になれないだろうから、人目に付かない場所で静かにいかしてから走り去る』が正解だよね……?

 …………。


 ――なんて、こんな本に一々気を揉んでいたって仕方ないか。べ、別に愚弄されたのは佑樹君の望みであって、他の誰かが飛び火を被ったわけでなし。

 さっさと次に進めてしまおう。選ぶのは一般常識、というより道徳を重んじてCということで手を打つ。



『よし、僕がこの子の道を正してあげよう。第一こんなところで油を売って授業を受けていないことからして問題だ。今は物腰柔らかにそっと注意して、授業に戻るよう説得するのが一番だ。』

『ねえ、き――』

『うわぁ、知らない大人が話しかけてきた!? それ以上近づいたら、この紐思いっきり引っ張るぞ!?』

『……。』

『男の子の手が防犯ブザーの紐にかかった時点で僕の動きは完全に封殺された。演技はわざとらしく、目がドヤァと(たる)んで口元はにやついている。』

『こ、この歳の子供というのは、悪気はなくてもついつい大人をからかってしまうものだ。そうだ、だからこの子も寂しいだけで本当は根がすな――』

『ってか、いつまで学校の前にいんの? 不審者がいるって職員室に行ってきても俺は困らないけど?』

『……。』

『ふぅ、やれやれだ。まったくもって快濶な男の子じゃないか。小学生の男の子はやはりこれくらい捻くれていないと。…………よぅし、喧嘩だ!』

『すいませーん!』

『僕が冷静さを失くしてファイティングポーズを取るのと同時に女性の声がし、学校の方からこっちに向かってくる人影が見えた。おそらくこの子の先生であろう女性は僕らの前までやってくると、息も整わない内に頭を下げ、添えた手で一緒に男の子にも頭を下げさせた。』

『この子が大変失礼をしました! 気づかない内に教室から抜け出してしまったようで……。この子にはきつく言い聞かせますので、今回はどうか大目に見てやってくださいませんか?』

『いきなり頭を下げられて狼狽するばかりだが、なんとなく事情は察しているのだろう。それになんというか、やけに謝罪慣れしているように思えた。どうにもこの男の子、悪戯の常習犯らしい。その尻拭いをこの先生が一手に引き受けているようだった。』

『ほら、徹君もお兄さんに謝りなさい。』

『な、なんで!? 俺何もしてないよ! こいつが勝手に引っかかっただけじゃん!』

『原因を作ったのは徹君でしょう? だったらちゃんと謝らないといけないの。分かるわよね?』

『で、でもさ……。』

『でもじゃないの! じゃあどうしてこんなことしたの!?』



 小学校の女教師と悪戯好きな男子生徒、両者の間にはしばしば諭しタイムと呼ぶに相応しい話し合いの場が持たれる。要するに先生が生徒を叱って慰める例のアレ。

 なんだか生々しい展開になってきた……。



『……だ、だって……だって俺……じゅぎょっ、ぜんぜんっ、楽しくなくっ、て、だから、面白、いこと、したく、て……こん、な、こんな、こと…………うわああぁああぁあぁぁあぁぁあぁぁあん!』



 諭しタイムは嗚咽のせいで言葉が途切れることに始まる。強く先生に叱られると涙が零れ出し、ヒック、エッグと嗚咽が漏れる。なんとか自分の言い分を伝えようとするがもう遅い。てにをはは消え、ぶつ切りにした単語の羅列を提出することになる。

 そして終いに泣く。

 本人の必死さは伝わるのだけど、見る人間によっては下手なギャグより笑えるから困る。そんな人も人前で笑うと人格を疑われるので要注意。



『分かってる。先生分かってるから、徹君が本当は真面目で優しい男の子だって。いつもクラスのみんなを笑わせてあげてるの、徹君だもん。』



 そして生徒が泣き出してからが先生の本領だ。生徒の『誰かに理解して欲しい子供心』を刺激するように『分かっている』と甘く囁き、教師がもつ生徒への良い印象を語る。これで問題の種火となった生徒の心の隙間を埋めていく。

 余談だが、この時の先生の台詞は台本が出回っているのでは、と疑うくらいの定型文である。そこに気づくと逆にぐれる危険性があるが、大抵は中学に上がって以降に気づくので問題ない。

 ちなみに泣くまでは詰問されて叱られ続けるので、喜怒哀楽をコントロールできるなら早々に泣いてしまった方が手っ取り早く事が済む。

 終盤はダメ押しと言わんばかりに生徒の長所を挙げる。これは通信表の総括に似ているが、あまりに特筆すべき点がなさすぎると『あいさつの声が大きい』、『掃除が丁寧』、『頑張り屋』などという当たり障りない内容でお茶を濁される。

 以上で心のケアは終了。最後は教師と生徒が心を通じ合わせた体で話し合いに幕が下り、次の日以降はその日の記憶が両者の頭から抜け落ちて消える。絶対的な無駄とは言えないが、限りなく無意味に等しい。

 だけどまあ、ここまで忠実に再現されるとある意味凄いと思えてしまった。



『泣いてしまった徹君を、先生は母親のように慰める。少しして徹君の様子が落ち着いてきたのを確認すると、再び徹君を僕と向かい合わせた。』

『はい、じゃあ徹君、お兄さんになんて言うか分かるわよね?』

『えっと……その…………悪戯して、ごめん、なさい……。』

『よくできましたと先生が頭を撫で、徹君はまだ少し涙で潤んだ瞳を輝かせる。』

『その光景を目に焼き付けながら軽く会釈し、僕はそのまま学校への道中へ戻ることにした。言葉を介さずに心を通じ合わせる二人はどこか楽しげで、その空気を壊すことなんて僕にはできなかったからだ。』

『さっきまで高波が押し寄せて乱れていた心が、今は水滴を垂らせば波紋が広がる水溜りのように澄んでいる。一方、タイムリミットが深刻に押し寄せてくる僕の両足は一念発起、ただひたすらにフル稼働していた。』



『始業式まであと数分という寸でのところで僕は学校に滑り込んだ。正門から入り、保護者が(まば)らに行き交う校庭を早足で通り抜け、昇降口で上履きに履き替える。受験や入学説明会で何度か来ているので迷うことなく廊下を突き進む。行先はもちろん入学式が執り行われる体育館。』

『この高校の校舎は授業が行われる教室棟と、職員室及び多目的教室が置かれた特別棟の二棟からなり、体育館は教室棟から繋がる渡り廊下を渡った先にある。』

『道中、同じ方へ歩いていく新入生らしき二人組を追い越すと、自然と心に余裕が生まれてきた。ここに来るまでいろいろ問題を抱えたにも関わらず、遅刻もしないで到着できたのだからまあ無理はない。』

『そんなことを考えている内に体育館に到着する。開始までまだ時間があるからか、館内には新入生同士、そして保護者同士の喋り声が飛び交う。旧知の友人と仲よく会話する者、これから親睦を深めようと果敢に話しかける者、まさに『THE・入学式』といった光景だろう。』

『その空気のおかげで、僕も悪目立ちすることなく自分の指定席に座ることができた。』

『僕が着席した数秒後に照明がおとされ、いよいよ入学式が始まった。式の開始を皮切りに体育館は神聖な空気へと移り変わり、予め指定されていたように校長祝辞、点呼、来賓祝辞、新入生代表挨拶、校歌と恙なく式が進行されていく。最後に教頭先生が締め括り、大体一時間半程で入学式は終えられたのだった。』



『体育館で入学式を済ませれば、後は各々の生徒が自分の教室に舞台を移す。といっても初日から授業なんてできるはずもないから、やることといえば自己紹介や委員長の選出、それとフリータイムを設けて自由に会話するくらいのものだ。』

『教室での僕の席は廊下側から三列目、前から三列目。縦横六列の席配置からすると些か中途半端な位置であることは否めないと思う。最初は分かりやすさ重視で名前順だから仕方ないけど、できるなら最後尾か壁際が良かったな。』

『担任の先生が教壇に現れると、まず出席番号順に一人ずつ自己紹介が始まった。みんながみんな自分を印象付けようと躍起になる。でも実際問題ここで自分の存在をクラスメイトの記憶に焼き付けるのはかなり骨が折れる。』

『いや、ぶっちゃけてしまおう。無理だ。』

『一人ずつ持ち時間約一分で次々と名前を喋られ続けるのだから、聞き手にとっては最早流れ作業に近い。名前はどんどん上書きされ、印象なんて欠片も残らない。』

『稀に面白いコメントをした人が優遇されて覚えられることもあるけれど、本当に希少な例でしかないのだ。むしろ全員が面白いコメントを放ったら、それはそれで個人の印象は薄れるわけだし。』

『それに僕にはクラスで目立つ才能なんて皆無だ。ならクラスメイト全員から覚えられようなんて高望みはなしにこの場は無難にやり過ごして、フリータイムの方で一対一の対人関係を築いた方がいい。そっちの方がきっと僕には合っている。』

『途中から完全に作業と化した自己紹介タイムが終わると、続いて学級委員の選出に入る。でもこれこそ僕は蚊帳の外。一クラス分の高校生たちをまとめる手腕が僕如きにあるはずもなく、誰もが自分には向いていないと考えたのか、結局学級委員は新入生代表を務めた左院君と女子の丹治さんに決まった。』

『そして規定の項目を消化して余った時間がフリートーキングの時間となる。身近な席は必然関わることが多くなるだろうから、できれば左隣の小佐井君と親しくなりたい。そんな図々しくも心躍る期待が限度を知らず湧き上がってくるんだから、まったく新生活の始まりとは不思議だ。』

『さあ、どんな話題で話しかけたものだろう?』


『選択子A:どこの中学出身か尋ねる。(77ページへ)』

『選択子B:入学試験の出来具合を尋ねる。(100ページへ)』

『選択子C:入部希望の部活を尋ねる。(80ページへ)』



 佑樹、引き出し浅っ!!

 確かに初めて会った人相手に振る話題のなさは異常だけど! 性格も趣味も分からないから踏み込んで会話できないけども!

 だからってこれは……いくらなんでも現実的すぎ……。

 出身校なんかを話の軸に沿えても発展性が乏しすぎて途中で中倒れするし、試験の結果に至っては今更どうしようもない。相手より点数がいいと見下しているように映り、悪いと自己嫌悪に陥る。

 部活を訊くことは相手の趣味を知るきっかけとなり得る一方、もし肝心の自分が守備範囲にいないと、両者の間に訪れるものは麗らかな春などではなく無言で凍える絶対零度の氷河期である。典型的なハイリスクローリターンの博打だ。

 これ、どの選択肢を選んでも変わらないのでは……?

 というよりもこの本、さっきから執拗に日常のあるあるを押してくるが、何故? 部分的にリアルなところがまたリアルで、現実に即しすぎというか、とにかく読んでいて生々しい。タイトル通りだと笑って流せばそれまでだけど、一向に物語の果てが見えない。目指す先が霧に紛れてしまっていた。

 まあエンディングは最後までプレイした後のお楽しみということで割り切るとして、ここは話の発展が最も見込める選択子Cが妥協点だろう。



『みんなも新たな仲間たちと交流を深めようと、席を離れて積極的に話しかけていっている。この流れなら僕もきっと大丈夫だ。』

『えっと、あの、小佐井君……だったよね?』

『あ、ああ、そうだけど。』

『どうにも遠慮がちに相手の出方を窺ってしまう僕ではあるけど、それでも小佐井君は反応してくれた。』

『よし、ここからは話を部活動の方へ展開させていこう。スポーツ関連なら大抵の話題にはついていけるし、文化系でも調子の合わせ方は心得てる。サッカー、野球、陸上、競泳、吹奏楽、弦楽合奏、書道、将棋、なんでも御座れ!』

『小佐井君はさ、もう入る部活とか決めた?』

『悪い、俺帰宅部だわ。』

『え、あ、いやその…………うん、そっか……。』


『110ページへ』



 …………。

 二回ほど目を擦って食い入るように本を覗き込む。それから人差し指で頭を押さえながら考える。遂には両手で顔を覆う。

 なんか……たった二回の折り返しで会話終わったし…………。

 気まずさが紙媒体越しにもひしひしと感じられる短い二行だった。想定外の切り返しに動揺した佑樹の様が濃縮されていたと思う。

 もう本格的にこの本の行く末が真っ暗闇だ。なんと言っても主人公がただただ現実を思い知るだけのシュールな物語。おまけに選択子まで消えて、もうゲームブックと呼べるかすら酷く危うい。

 タイトルに、偽りなし。



『入学式を終えた夜、僕は自分の部屋で電気もつけず、ただベッドに仰向けになって天井を眺めていた。』

『結論から言えば、入学式初日、僕に新しい友人はできなかった。』

『ただクラスに中学時代から付き合いのあった友達はいたので、フリートーキングの時間はその友達との談笑に費やされた。要は交友の輪を広げられなかった、という一言に尽きる。』

『もちろん今日で世界が一変するなんて、そんな御伽噺染みた一日を期待していたわけじゃない。それでも今この時まで、どこかで淡い希望の篝火を焚いていた事実は否定できない。』

『一日が終わろうとする今、僕はつまらない自問自答ばかりをしていた。』

『寝過ごしたことに気が動転していた今朝、もっと冷静にものを考えていたならどうだったのか。』

『いやそれ以前に、寝坊していなければ違う未来が扉を開けて待っていたのではないか。』

『なら入学式に遅刻しようがしまいが、そこからいくらでも事態を挽回できたのではないか。』

『すべては無意味な問答だと、そんなことは百も承知だ。それでも考えずにはいられないのは、僕が女々しいだけなのか、それとも人間の性なのか。あるいは両方かもしれない。』

『今日という日を振り返りながら、瞬く間に過ぎ去った一瞬一瞬を胸に刻みながら、僕はただ愚直に、消えていった選択肢とその可能性を探り続けていた。』


『END』



 ……へ? ENDって、何? まさか終わった!?

 …………。

 ちょっと待って! 話が見えない! 起承転結すらままならない内にどうして勝手に幕を下ろしたの!? 

 こんなの書き逃げだ!!

 まさかこんなふざけた結末があるはずない。もしかしたら俗に言うバッドエンドではないのか。そう思ってページを隈なく調べると、更なる驚愕の事実が浮かび上がった。

 この『現実の彼方へ』という物語、どんな選択肢を選んでどんなルートを辿ったとしても、絶対この110ページへ帰着する仕組みになっていた。

 ふざけるな! こんなのクソゲーブックだ!!

 つまりまとめると、佑樹は寝坊してベッドから飛び起きた朝から夜までの間、いかなる選択肢を選んだとしても輝かしい高校生ライフなんぞ待っておらず、新たな友人は一人もできない、ということだ。いくらゲームブックとはいえ悲惨すぎる。

 意味不明にも限度があるだろうと困惑していると、本にはまだ続きがあることに気づいた。残り数ページに載せられた後書きである。

 それは実に簡潔にまとめられた文章であり、安易にまとめられた文章であり、酷く粗雑にまとめられた文章だった。

 そして同時に、読み終えた者がこの本を、それこそ本棚の後ろに叩き込む原動力となるには十分すぎる後書きだった。

 本を投げ入れて、本棚を壁に密着させて、一人考える。

 一体どうしてあんな本を読む気になったのか、どうして少しでもゲームブックの魅力などという幻想を見てしまったのか、研究材料が手に入らない自由研究をどんな奇策で乗り越えようか。


 世の中は分からないことに満ちている。


 おお、これは研究レポートを綺麗にまとめる一文としては適役かな、なんてちょっと小賢しいことを思いながら、今は価値を完全に失ったお兄ちゃんの部屋を背に、ちょっと賢しい妹は、そのドアをゆっくりと閉じた。



『人生に選択などない。』

『早合点してもらいたくないのは、人生に選択肢がないと言いたいわけではない、ということだ。』

『人生は選択肢で溢れている。小学生の頃、将来の夢をサッカー選手かプロ野球選手かで決め兼ねることさえも、ある種の選択肢と言っていいだろう。』

『けれどそこには落とし穴がある。それこそが人生に選択などないと、そう豪語する所以である。』

『現実の世界は、提示された選択子を純粋な心で選択することを頑として許さない。YesかNoの二択なら、Yesを強要され、Noを選べば地獄を見る、そんな強制一択問題に回答を要求される。あるいはその逆もある。どちらにしろ一択であることには相違ない。』

『またそうでなくとも、小学生がサッカー選手を夢見ようが、プロ野球選手を夢見ようが、行き着く先がサラリーマンである現実は不動である。結局どちらの選択をしようが未来は微動だにしない。』 

『選択肢はある。けれど一択である。』

『選択肢はある。けれど結果は同じである。』

『選択肢はある。けれど未来は常に一つである。』

『つまり平行世界は、存在しない。』


『ここまで本書を手に取って読んできてくれた君たちなら、自然と理解できるのではないだろうか?』

『どれほど足掻いたところで、お婆さんとお爺さんのどちらかを選んだところで、お婆さんと濃厚な接吻を交わす未来は覆らない。』

『どれほど思い遣ったところで、全幅の信頼を寄せたところで、全自動薬草配り機と化した村長の運命は道を外れない。』

『どれほど否定したところで、勝手な期待と分不相応な行動に打って出たところで、佑樹君の夜は変えられない。』


『どれもこれも高々フィクションの話だろうと、そう反論してもらって構わない。決まりきった未来に抗い続けてこそ、人は大人になっていくとも言える。』

『何度も言うが、生きている限り選択肢はどんな時でも姿を現す。』

『そして選ぶ度に実感する。選んで変わる未来はないと。』

『本書の奇奇怪怪とした馬鹿らしい三本のお話で、このことを少しでも気に留めていただければ幸いである。』

『だからまあ、くどいようだが繰り返そう。』

『選んでも選ばなくとも、変わる未来は訪れない。そして――』




『本書を手に取る選択をしてもしなくてとも、本書の記憶が人々の内に残ることはない。』


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