海に浮かぶ孤島③
―――泣き声が、する。
「っ…ぇ……」
薄青の瞳を開けば、質素な木造の天井がそこに映った。
首だけを動かして横を見ると、隣にあるもう一台のベッドに、竜の姿のココとスピカが丸まって眠っている。
「――――――……」
シェイラは少しの間、起き抜けのぼんやりとする頭で考えた。
遠くから水の流れる音が微かに聞こえていて、その心地の良い音を聞いていると、あぁここは水竜の里なのだと思い出した。
「…………」
そっとシーツに手をついて上半身を起こす。
乱れた白銀の髪を手で後ろへと漉き、片耳にかけて周囲を眺める。
竜達の建てた木造りの家は人の作るものよりも非常に簡素で、寝室にはベッドの 他は小さな文机と、窓の光を遮るためのカーテンが備えられているだけだ。
当然、彼らが人型の時に纏う服は術で作り出してしまえるからクローゼットも無い。
花や小物、調度品などを飾る習慣はなく、雨風がしのげればよいという感覚なのだろうことが良く分かる。
水竜らしい、と思った。
そしてまだ少し呆けた意識のなか、シェイラはぽつりと、小さくかすれた声をもらす。
「泣き、声って?」
自分の放った言葉の意味が分からなくて、ゆっくりと瞬きを繰り返しながら首を傾げた。
「――あぁ、夢。……夢?」
夢の中で、誰かが泣いていた。
いや。苦しんでいた、ような……気がする。
確かにこちらに、シェイラに救いを求めていた。
まだ完全に目覚めてはいない、ふわふわとした頭の中、シェイラは眉を寄せて深く息を吐いた。
「夢、よね」
そう言いながらも、でもただの夢ではないのだと、なんとなくは分かっていた。
時々感じるようになった、変な感触。
アンナの腕輪を初めて見たときに感じたような、確実ではないけれど時々感じる変な違和感は、絶対に何かあるのだ。
でも誰が泣いているのか。
どこで泣いているのかが分からない。
この全く知らない土地のどこを探せばいいのかも、分からない。
自分の持つ力はまだこんなにもおぼろげで、正体さえも掴めなかった。
「うーん……」
「――きゅう?」
「あら。ココ、おはよう」
隣のベッドに居る、半分瞼の降りたままのココと目が合って、シェイラは深みにはまりそうな思考を切り上げた。
「ココより早く起きるのなんて久しぶりだわ。カーテンが閉じているから分からなかったけれど、まだずいぶん早い時間みたいね」
「きゅ!」
いつもは起きても一人きりなのに、シェイラが起きていたことが嬉しかったのか、ココは落ちかけていた瞼を上げ、赤い瞳をらんらんと輝かせる。
丸めていた体を伸ばし、翼を広げて1mも開いていないベッドとベッドの間を飛び渡ってきた。
まだシーツの被ったシェイラの膝の上に乗ると、四本足で上手に座りながら首をそらした。
そして元気よく、彼は朝の挨拶をするのだった。
「きゅーーー!!!」
「あっ、ココ! しぃっ。スピカがまだ寝ているでしょう?」
「きゅう?」
―――ココと二人きりの朝の時間をしばし過ごしたあと、服を着替えたシェイラは顔を洗う水を探していた。
髪をリボンで結びながら見渡すが、しかし探すまでもなくこの部屋には水は無い。
もちろん実家や城に居た時のように、丁度良いころ合いを図ってお湯を運んできてくれる侍女なんていない。
シェイラは昨日、くたくたでやって来たこの家の構造を脳裏に思い出してみた。
「たしか、家の玄関横に水瓶があったはず。ココ、少し待っていてね」
「きゅ」
ベッドの上でころころと転がり遊んでいるココに、まだ眠ったままのスピカが起きないように小声で言ってから、シェイラは寝室から居間への扉を開いた。
そしてわずかに、目を見開く。
「ミモレ様」
居間の中央に置かれた木造りのダイニングテーブルの一つに、ミモレが行儀よく座っていたのだ。
テーブルの上には、何やら大きな木の箱が乗っている。
姿勢よく伸びた背が揺れ、彼女はこちらを振り向く。
「おはようございます。シェイラ様」
「おはようございます。いらっしゃっていたのですね。本当に、お早いですね」
シェイラ達は、集落にある一軒の空き家をそのまま借りていた。
居間と寝室のみの小さな家だが、頑丈でしっかりとした造りだ。
ミモレは同じような家に別に住んでいるので、この朝の早い時間に彼女が当然のようにここに居ることに驚いた。
「シェイラ様……失礼」
そう言うとミモレは軽やかに椅子を降り、こちらへと寄ってくるなりシェイラの顔を覗きこんで来た。
昨日と同じように、水色の澄んだ瞳で顔をじっと見つめられる。
あまりに真っ直ぐな力のある目に何もかもを見透かされてしまいそうで、少し落ち着かない。
「―――大丈夫のようですね」
ミモレが頷いて離れたことに、肩の力を抜いたシェイラは、ふと思い立って尋ねてみた。
「ミモレ様。もしかして私を心配してくださって、こんな早くにいらして下さったのでしょうか」
「……いいえ。まったく」
「そう、ですか?」
「えぇ。水竜の里で白竜に何かあれば他種の竜がうるさいですからね。だから、です」
「な、なるほど」
「えぇ、えぇ。そうなのです」
何度も頷くミモレの頬はほのかに赤く色づいていた。
(かっ、かわいい……)
小さくて綺麗な彼女が必死で否定するさまは、意地っ張りな子供がするようにもみえて、胸をくすぐられる。
思いっきり抱きしめてしまいたいくらいだけれど、ミモレは頑なに否定しているので、シェイラも頷いておくことにした。
昨日、少し話しただけの自分のことをわざわざ気にかけてくれている。
おそらく白竜の竜に好かれるという能力も少なからず効いてしまっているのだろうが、それでも嬉しくて、気を抜けば口元が緩んでしまいそうだ。
そんな不自然な表情をするシェイラに怪訝に首を傾げながら、ミモレは口を開いた。
「もしかすると数日は眠りっぱなしかと思ったのですが、意外に早く目覚めましたね。案外ずぶと……いえ丈夫でしたわね」
「え、数日? そこまで疲れてはいませんでしたよ?」
くたくたに疲れて、力が入らなくはなっていたけれど。
それでも休めばわかるというほどの体のだるさで、何日も寝込むような感じではなかった。
首をかしげるシェイラに、ミモレはあきれた風に嘆息する。
「体力的なことを伺っているのではありません。白竜が何から力を得ているのかまったく不明ですので、力の消失が寝るだけで回復出来るのかるのかどうかも分からなかった、と申し上げているのです」
「あ」
「火、水、木、風は大気中のどこにでもある程度は漂っていますから、しばらく休めば取り込めますので問題ありません。黒竜の糧である闇も、夜は毎日巡ってきますから事欠きません。――まぁ寝ていて回復したのならば、白竜も四竜とおなじく大気中にあるものの中の何かからではあるようですわね」
ミモレの説明を、シェイラは呆けたように聞いていた。
(白竜の力の源なんて、考えたこともなかったわ)
自分自身のことなのに、白竜に関しては分からないことが多すぎる。
(やっぱり、お祖母様かお母様に聞くべきなのかしら)
竜についてのことならなんでも知りたい。
でも白竜であるといっても自分自身であるのだから、他種の竜へ思う情熱ほどに熱くはなれず、どうしても優先順位が後回しになってしまう。
こうして一度尋ねてみるべきことなのだろうなと、頭の隅で考えながらも。
でもたぶん、他の里へ行くことを優先してしまうのだろう。
シェイラの今の一番の目的は、竜の里を巡ること。
夢だった竜の里に行き、竜に会うこと。
そして旅をして周る中で体験する様々な出会いや出来事が、将来始祖竜として竜の中での地位を得るであろうココや、一匹だけしか存在しない黒竜であるスピカの糧になればいい。
「シェイラ様? どうなさいました?」
ミモレの声に、考えていた思考を切りあげたシェイラは、首を横へと振って微笑を作る。
(今、私が立っているのは水竜の里だもの)
これからのことを悩むより、今したいことを考えてみる。
それはやはり、竜の里について知りたい。たくさんの竜に、会ってみたい。だから自分は、ここに来た。
「あの、本当にもう平気なので、水竜の里を見せていただいてもいいですか? 長にもお会いしたいです」
「長は今朝、水中に飛び込んでしまったので難しいと思います」
「水中? 水の、なか?」
「飛んで来られたなら、空から島の中央にある大きな湖が見えたでしょう?」
島へと着陸するとき、丸い島の中央に大きな丸い湖があるのを、確かに見た。
「はい。有りましたね。とても綺麗な青い湖でした」
「あそこは竜のままの姿で生活する竜達の寝床の一つでもあります。長も、現在はそちらに」
水竜は、その名の通り水の中でも生きていける。
水竜の長がいまそこにいるのならば、確かにシェイラが会いに行くことはむずかしい。
「お会いすることは難しいと?」
「さぁ? そのうち出て来るとは思うのでタイミングがよろしければ会えるのでは?」
「ええと、呼んでいただくことは……」
「うちの長は気分がのらないと動きません。無駄です。無駄だとわかってわざわざ行きたくありません」
「そうですか……」
里に来ても長に会えるわけではないのかと、少し肩を落としたシェイラのそこが、急に重くなった。
「ココ、スピカも。起きたのね?」
「きゅっ!」
両肩にココとスピカが乗ったのだ。
「きゅう」
「ふふっ。早起きね」
スピカは瞳を細め、シェイラの頬へと顔を摺り寄せてくる。
なめらかな竜の鱗はひんやりとしていて気持ちいい。
「では、全員起きたようですし」
ミモレが言いながらダイニングテーブルに戻り、その上に置いてあった木箱を開けた。
わずかに香るのは品のよい紅茶の香り。
ココとスピカを肩に乗せたままのぞきこむと、可愛らしい白磁に花柄のティーセットと、茶葉の入っているらしい小さな缶が幾つか入っている。
「朝の支度を澄ませたらお茶にしましょう。姉が帰省のたびに持ってくるのでティーセットだけはあるのです。そしてそのあとは改めて里をご案内しますわ」
「有り難うございます。でも、わざわざお付き合いいただかなくても、勝手に見て周りますよ?」
あまりにミモレを自分たちに付きあわせるのは何だか気が引ける。
この島の地図でも借りられれば自分たちで探察すると申し出るシェイラに、ミモレは首を横へ振った。
「かまいません。というか、それが私の役目でもあるので」
「役目、ですか」
不思議がるシェイラに、しかしミモレは箱の中からティーセットを取り出しながら頷く。
シェイラも手伝うため箱の中の茶缶へと手を伸ばした。
「人間が里を訪れた場合、基本的には誰かしらの竜が滞在中は傍に付くことになります。それも比較的力が強い竜を」
ミモレの声に頷きながらも手元を確認してみると、茶葉はネイファで非常に人気の店のものだった。
小さな農園で拘りの製法で作られているため、香りも味も素晴らしいのだが生産されている数が少なく入手が難しいもののはず。
噂に聞いて一度試してみたかった。
王都でもなかなか見ないのに、まさかこんなところで飲めるとは。
缶のラベルを指でなぞるシェイラの横で、ミモレはティーセットを並べながら説明を続けてくれる。
「里と里の竜を守るために、人間にここで勝手なことをされては困りますからね」
「なるほど。たしかに友好的な態度にみせかけ訪れた人間が、こっそり里の竜を狙う可能性もありますものね」
「えぇ。他種の竜が来たときは、別に誰も付くこともなく放置していますけれどね。あとは人間であっても竜使いであればこれも放置しています。竜と契約するほどに竜と心を通わせる人間が、他の竜を狙うことは考えにくいので。でもシェイラ様は竜使いでもなければ、まだ竜といっていいのかも微妙な存在ですし。一応、誰かしら付くことは必要なのです」
ネイファの人間は基本的に竜に友好的だが、例外もいる。
そして他国から竜を狙い訪れるものたちも、おそらく少なくはない。
だから人間が里を訪れたとき、竜に対して悪事を働かないように目を光らせる必要がある。
全ての人間を追い返すような極端なことは、おそらく人と竜との間で交わされている盟約の都合上出来ないのだろう。
「それって、つまりは……」
ラベルの文字を追っていた指がぴたりと止まった。
……つまりミモレは、シェイラの見張り役なのだ。
シェイラが竜に危害を加えるなんて絶対にないことだけれど、初めて出会う竜達がシェイラの内情を知るわけがない。
「私、疑われていたりするのでしょうか」
眉を下げて俯くシェイラに、ミモレは眉を寄せて唇を突き出した。
そして少し乱暴にシェイラの手の中にあった茶葉の缶を持って行く。
「……私が昨日の貴方のあの竜馬鹿っぷりを見て、貴方が竜に危害を加える人間だと判断するとお思いですか? 決まりですし、一応です。一応。――ほら、お茶の用意は私がしますから、早く顔を洗ってらっしゃって」




