海に浮かぶ孤島②
太陽の光に反射して輝くのは、全身に纏う雪のような白い鱗。
この世界におそらく二匹しかいない白竜が翼を広げ自由自在に空を飛び進む。
薄青の瞳に映る澄んだ空と海。どこまでも果て無く、広がっている世界。
穏やかな風は心地よく、吸い込んだ空気は清々しくて、彼女は思わず大きく深呼吸し、それらを堪能して目元を緩ませた。
「きゅう」
「きゅっ?」
傍らに飛んでいた、人の大人が一抱え出来る程度の大きさの赤い火竜と黒い黒竜が鳴き声を上げた。
「ぐお」
「「きゅー!」」
小さな竜二匹は大きな白い竜の背中に周って止まり、羽を休めた。
少し疲れては休み、また飛んでは休みを二匹は繰り返している。
そうして、海原へ飛び出して丸一日が経った頃。
彼らの視界の先に、丸い小島が現れた。
中央に大きな円形の湖を有する、ドーナッツ型の小さな島。
目指していた場所はきっとあの島だ。
三匹は顔を見合わせ、頷きあい、声を掛け合いながら高度を落としていった。
―――とん、と地に足をつけると同時に、シェイラはその体を人間のものへと戻した。
真っ直ぐに流れる白銀の髪に薄青の瞳を持ち、控えめな印象を受ける容貌の、淡い色のドレスを纏った少女の姿だ。
「うん。やっぱりこっちが落ち着くわね」
竜であることに抵抗はなくなっても、生まれも育ちも人間だ。
やはりこちらが本来の姿で、一番自然だと思える。
流れるままの髪をポケットから取り出した幅広のリボンで結んで纏めてしまってから、手足をうんと伸ばす。
人へ戻ると同時に現れた持ち物の入ったバッグを肩にかけ、それから手のひらを握ったり開いたりして、少しの時間をかけ人間の体の感覚を取り戻した。
(術で作ったわけでない衣服やリボンや荷物が消えたり現れたりするのは何故かしら)
さらに翼だけを出したりしても衣服が破れることはないことも含み、何がどうなっているのかは、さっぱり不明だ。
すぐ隣に降り立ったココとスピカが同じように人の姿に変化し、同じように伸びをするのを微笑して見守ったあと、シェイラは顔を上げて目の前の光景に薄青の瞳を輝かせるのだった。
「ここが、水竜の里……!」
目前に見えるのはいくつかの小さな木造りの建物だった。
奥にはさらに多くの建物が並んでいるようで、この場所は小さな村か集落の入り口のようだ。
それは特段珍しくもない建物と木々に草花があるだけの、田舎のどこにでもある風景。
でもこれらが水竜の里にあるものというだけで、心が躍ってしまう。
「来ちゃった……」
シェイラは頬を蒸気させながら、じわじわと高ぶっていく感動の中で辺りを見回す。
ついには堪らずに、彼女は文字通り飛び上がって高い歓声を上げた。
「すごい、すごいわ! 本当に来てしまったのね! 竜の里よ!」
子供たちの手を両手にとり、嬉しさのあまりに何度も小さくジャンプを繰り返す。
「しぇーら、うれしい?」
「えぇ! ココ、とっても!!」
「よかったねぇ」
「えぇ、えぇ! 有り難う! でもこれって本当に現実なのかしら。夢? 夢なような気もしてきたわ。だって私が竜の里にいるだなんて、信じられないの!」
シェイラが飛び跳ねるたびに、手を繋がれているココとスピカの体もがくがくと何センチか浮いている。
「だだだだいじょうぶ。げんじつよ、しぇーらママ」
「そう!? スピカ、本当に現実だと思う!?」
「う、うん」
「本当の本当に!、私は今!、竜の里に立っているのだと思う!?」
「うん。うん。うん……」
「わあぁぁ」
喜びの叫びとともにシェイラは繋いでいた手を離し、頬を両手で包んで身をよじる。
興奮し過ぎて、どうしてもじっとしていられなかった。
「あぁぁ。ど、ど、どうしようかしら」
「ママ?」
「水竜に会ったらどうご挨拶すれば良いのかしら。失礼してしまわないかしら! あぁ、手土産くらい持って来るべきだったわね! あー!もうっ! もうどうしよう!」
「……こんなしぇーら、はじめて」
「ね」
ココとスピカが見たことのない、飛んで跳ねたり照れたり奇声をあげたりと忙しそうなシェイラの姿に若干引き気味なのにも気づかずに、シェイラは見開いた瞳でくまなく周囲を見回す。
里で起こることは、どんな小さなことも見逃したくは無かった。
「あ」
すると視線の先で、集落の入り口に一番近い一軒の家の戸が開いた。
薄青の瞳がきらりと光り、不自然なほどに背筋が真っ直ぐに伸びる。
念願の水竜との対面に、心臓が止まることなく高く跳ね続けていた。
「ご、ご挨拶に……あら? こちらに来る?」
出てきた誰かは自分たちが駆け寄る必要もなく、まっすぐにこちらへと歩いてくる。
どうやら目的は最初からシェイラ達らしい。
おそらく、違う種族の竜の気配に気づいて出てきたのだろう。
近づくにつれ詳細に容姿が分かるが、やはり相手は水竜なのだとすぐに分かった。
人間には層々見られない透明感のある肌に、つややかな水色の髪をしていた。
「人間にも数は少ないけれど水色の髪の人は居るわ。でもやっぱり、輝きが違う気がする。素敵……」
シェイラはその姿を見つめ熱い息を吐き、恍惚とつぶやいた。
淑やかな、ゆっくりとした動作で歩いてくる、女性。
胸の下で絞られたタイプのスレンダーラインのドレスは、飾りのないシンプルなデザインがその細身の美しい体系を際立たせている。
見た目での年のころはシェイラより少し下くらい。
妹のユーラと同じ位に見えるけれど、妹はこんなにクラリとくる色香を振りまいてはいない。
歩く仕草からして彼女は何処かしなりがある。
そしてシェイラから数歩離れた場所で、立ち止まった。
水色の瞳が真っ直ぐに三人へと順番に注がれる。
「ママぁ……」
人見知りの激しいスピカが、シェイラの後ろへと周り、足元へ擦りついてくる。
「大丈夫よ。きっと仲良くなれるから、ごあいさつ頑張ってごらん?」
シェイラは、安心させるために微笑んで黒髪を一撫でしてから、再び顔を上げて水竜を見据える。
憧れの竜の里で、初めての竜との接触。
心臓が早鐘を打って仕方がないけれど、とにかく失礼のない様にと心に留めながら口を開いた。
スカートの裾をつまみ、わずかに腰を下ろしながら。
「初めまして。私はシェイラと申します。そ、その……えっと…、あの……」
「ふふっ」
意気込みとは逆に、緊張でどうしても固くなってしまう。
焦れば焦るほどにどもってしまうシェイラに、彼女は目じりを下げておっとりと微笑んで来た。
「ようこそ、白竜のシェイラ様。水竜のミモレと申します。それにココと、スピカもいらっしゃい」
「まぁ」
ミモレと名乗った人の姿をした水竜は、しとやかな動作で口端を上げる。
シェイラはわずかに瞠目したあと、首を傾げた。
「どうして、私たちのこと?」
「白竜が存在していたとの知らせはもちろん、始祖竜や黒竜の存在についても我が里に届いております。それに纏ってらっしゃる気配が知っている四竜のどれとも違いました。だとすると、会ったことの無い種の竜……白竜と、そして黒竜だと簡単にわかりますわ。まぁ髪の色でなんとなく察してしまうのですけれど。……こんにちは」
ミモレはシェイラの足元にいるココと、スピカへと視線を向ける。
シェイラのスカートの裾を握るスピカの手に力が入ったのを感じた。
「こんにちは!」
元気にあいさつできたのは、ココだけだった。
「はい、こんにちは。元気ね、さすが火竜、暑苦しいことこの上ないですわ」
「え?」
何だかおっとりとした彼女の見目には似合わない台詞が耳に入った。
(聞き、間違い……?)
「っ……。あの、今最後に何と」
「いえ、別に。あぁそうでした。シェイラ様、姉がいつもお世話になっております。一度ご挨拶したいとは思っていたので、来てくださって良かったです」
「お姉様? ええっと……?」
「姉に白竜と良くお茶をしていると、水鏡で話した時に伺いました」
「お茶……、あ。 クリスティーネ様の?」
よくよくミモレを見てみると、真っ直ぐに切りそろえられた前髪から覗く目は切れ長で、クリスティーネに似た形と色をしていた。
「はい。その恥じらいもない露出狂が私の姉です。ジンジャー様以外にあれに付き合える人間が居るとは思いませんでした」
「…………えっと」
「ふふっ。奇特というか変人というか悩みますわねぇ」
「…………」
戸惑うシェイラに、しかしミモレは変わらず笑顔を絶やさない。
とても綺麗で上品な微笑みを携え続けている。……が、言葉の端々に引っかかるものがある。
(こういうの、毒舌というのだったかしら。今まで近くに居なかったタイプだわ)
これがココやスピカ、もしくは妹などの親しい間柄だったならば叱ったりもするのだが。
しかし相手は初対面だ。この舌に乗ってしまえるほど、シェイラの口はうまく回らなかった。
それに何より、彼女の言葉のどこにも、どろりとした悪意を感じないのだ。
さらさらとした流れゆく水のようなあっさりした感じ。しかしそれでいて、氷柱のごとく冷たく鋭い棘がある。
(ココが暑苦しいというのは、水竜からすれば火竜はどうしてもそうなるのでしょうね。たしか初めての時にクリスティーネ様も同じようなことを仰ってらしたし。――と、取りあえず話題を変えよう……)
もうどうしていいか分からないので、シェイラは慌てて違う話題を探すことにした。
「……その、水鏡って何なのでしょうか。お話しの感じからすれば城と里という離れた場所でも話が出来るもの、ですよね」
「えぇ、水を通して会話ができます。清い水が傍にあり、互いの場所に水竜がいる場合だけですが」
「確か、風竜は風に乗せてある程度の距離ならば離れていても会話を届けることができると聞きました。同じようなものですか?」
「まぁ大体は」
種族によって方法は違いはしても、どうやら竜達は独自の通信手段を持っているらしい。
落ち着いたら詳しく調べてみたいと、好奇心が刺激される。
「それでその水鏡で、ミモレ様はクリスティーネ様といつもお話しをされているのですね」
遠くに住む家族と話すことが出来るなんて。凄く羨ましいことだ。
「互いにマメな性格でもないので、ごく偶にですが。奔放な姉で申し訳ありません。きっとご迷惑をかけていることと思います」
「迷惑? まさか、とても親切にしていただいてお世話になっています。城の中で一緒にお茶を楽しんでくださる女性って、私の場合クリスティーネ様くらいしか居ないので、本当に嬉しかったんです」
実家に居た時は、生まれたころからそばにいる侍女や使用人を誘ってのお茶やおしゃべりもできたものだ。
でも王城の侍女経ちは流石の教養で固辞されてしまう。
お世話になっているという立場柄、客を呼ぶことも何だかしづらい。……というか王都にお茶を楽しめるほどに仲の良い友人がいない。
親しい同性の居ないあの場所で、いつもティータイムに付き合ってくれるクリスティーネは有り難い存在だった。
「まぁまぁ、姉が役に立つなんて、そんな馬鹿な。シェイラ様は耳がおかしいのでは? ふふふっ」
「いえ本当に。あの。と、とっても助かっていますよ?」
クリスティーネには本当に世話になっていると思っているので、シェイラはそれを強調してみた。
一生懸命に伝えようとするのだが、でもミモレの反応は微妙だった。
笑顔を浮かべたまま黙秘し、その後に視線を集落のほうへ滑らせる。
「……さて。せっかくいらっしゃったのです。しばらくご滞在されるのでしょう? 里をご案内いたしますね」
「は、はい」
流されてしまった。
(仲、悪いのかしら……?)
シェイラに、初対面の者相手にこれ以上意見を押し通す矜持はなかった。
小さく息を吐き、気分を変えてから、背筋を正して頭を下げた。
「有り難うございます。どうぞよろしくお願いします」
「おねがいしまーす!」
「……します」
「はい。ではまずはどうしようかしら。川か湖か。 あ、先に長に会わせた方が良いのかしら?―――あら?」
みんなが立っている集落の入り口から、ミモレが島をぐるりと見回すふうに周囲に目を向けたあと、シェイラへと目を留めて首をかげた。
「シェイラ様?」
わずかに咎めるような、剣をはらんだ声色へと突然変わったことに、シェイラは驚いてしまう。
「は、はい」
「……少し、失礼」
シェイラより頭一つ分小さなミモレが、うんと背伸びをしてシェイラへと手を伸ばしてくる。
わけもわからないままに呆けるシェイラをよそに、ミモレはシェイラの前髪を払い、顔をのぞきこんできた。
身長の低い彼女がそうすると、シェイラから見れば絶妙な角度の上目づかいになっていた。
美少女に上目づかいで見つめられている。
同性であると分かっていても動悸がした。
そして長く繊細な睫に縁どられた色ガラスのように澄んだ瞳が、吐息もかかってしまうほどの間近に迫った。
「み、みもれさま?」
「―――やっぱり、うかつでしたわ。お話している場合ではありません」
「あの?」
難しい顔で眉を寄せたミモレはため息をつくと、背伸びしていた体を一歩引いて戻した。
そしてシェイラを睨んで、首を振った。
「すぐに場所をご用意いたします。今日のところはとにかく早くお休みください」
「え、どうしてですか? せっかく竜の里に着いたのです、見てみたいです」
「いけません」
「っ……何故」
ミモレはますます眉を顰め、シェイラを指す。
「あなたっ、自分の状態が何もわかってらっしゃらないの? 鈍感ですの? 馬鹿ですの?」
「え?」
「あ、しぇーら……」
「ママ、まっしろ」
「えぇ?」
ミモレの指摘に、ココとスピカもシェイラの顔をのぞきこんできた。
同時に子供たちは泣きそうな顔になる。
いきなり深刻な表情になったココたちの意味がわからなくて動揺するシェイラに、ミモレはさらにいらだたしげに眉を上げ、人差し指をびしりと指すのだった。
「顔色が真っ白だと言っているのです! 完全な竜にもなっていない、つい最近まで人間だったようなまだまだ未熟で不安定なままで海原を長時間飛んできたのですもの、疲労して当然ですわ」
「ひ、ろう?」
そのことを言われたとたん。
「っ!」
シェイラの足から突然力が抜けて、がくりと土の上に崩れ落ちてしまった。
「あ、あれ? どうして」
「ママ!!」
どうして立てないのか。
事態が呑み込めなくて、シェイラはとにかく立ち上がらなければと足に力をこめてみる。
でもどうしても、動かないのだ。全身に力が入らない。
ココとスピカは腕に擦り寄り。ミモレは仁王立ちで、あきれたふうに首を振っている。
「身のうちにある力が、限界まで失していることにも気づいてなかったのですわね? どれだけ鈍感ですの。呆れますわ」
「す、すみません」
彼女の怒りを含んだ叱責が、どれだけ危ない状態なのかを示している。
肩を落とすシェイラに、ミモレは落ち着こうとしているのか息を吐いていた。
「あぁ、竜の力を受けいれたのが最近ですのね……。まだまだ人間に見えるし……だから竜の力に慣れていないのかしら」
「力に慣れていない?」
理解ができなくて尋ねるシェイラに、ミモレが説明をしてくれる。口は少し悪いけれど、根は親切な子のようだ。
シェイラが自分の竜の力を感じられるようになったのは、ほんの十日ほど前だ。
つまりは今までこの力は無いのが普通だったのだ。
無くて当たり前のものだから、危険なほどに力を失ってしまっても変だとは思えなかった
。
でも有るべきものが無いことを自覚してしまったとたん、シェイラの体は重りを背負っているかのように動かなくなった。
「いえでも……。たとえ力に慣れていないのだとしても。それでも倒れるほどに失っているのに。気づかないなんてあるの?」
ミモレが不思議そうに呟くので、シェイラは苦笑した。
力が無いことに気付かなかったのは、確かに無いのが普通で、だから違和感がなかったのもあるのかもしれない。
でも、一番の理由は……。
「それは、たぶん」
「心当たりがあって?」
シェイラは頷いてへにゃりと締まりのない笑みを漏らす。
「はい。水竜の里に来られたことがうれしくて、疲れや苦しさが飛んで行ってしまっていたのだと……」
気づかなかったのではなく、それどころではなかった、のほうが正しいのだ。
竜以外のことを、考えられなかった。
目の前にいるミモレを見上げ、薄青の瞳に映しながら、本当に幸せなのだと分かる、嬉しそうな顔をシェイラは浮かべる。
そんなシェイラに、ミモレは目を見張り、真っ直ぐすぎる好意に居心地悪く顔をしかめた。
「……あなたって――、姉さんに聞いていた以上に……」
深い深いため息とともに吐かれた呟きは小さすぎて、最後の方の言葉はシェイラの耳にまで届かなかった。




