海原へ②
ほんの少しの間一緒にいただけなのに、とても色濃く記憶に残る日々だった。
それが終わり、日常に戻ったのだと思えば何となく気が抜けて、どうしても気合いが入らない。
「姉ちゃーん、姉ちゃん? 姉ちゃん!」
「っ!」
ぼんやりと自分の思考にふけっていたアンナは、何度もかけられた弟マイクの声に我に返った。
はっとしてそちらを向けばすぐ目の前に立つ彼がいて、不思議そうに首を傾けている。
宿屋『赤い屋根の家』の受付カウンターの内側。
丸椅子に掛けているアンナの膝の上に、マイクは手を乗せ、背伸びしてアンナの顔色を覗き込んで来た。
「姉ちゃん、三人がいっちゃったから、さみしいのか? 」
マイクの指摘に、アンナは眼鏡の奥の瞳を何度か瞬かせた。
そして心配をかけたのだと分かると、気を取り直したように笑いをこぼした。
口端を上げ、からかいを込めて、弟の子供独特のふくふくな頬を突っついてやる。
「それはあんたでしょ? ココもスピカも、大好きだったくせに」
「なっ!」
みるみる間にマイクの顔が赤く染まっていく。
「ちっげーよ! ココはおれのこぶんだし! スピカはべつに、べつになぁ!」
「スピカにひどいこと言ったの、きちんと謝ったの?」
「あやまったよ! 花と、てがみもつけたんだぞ!」
「あらまぁ。おっとこまえー!」
「からかうなよっ」
「あははっ。……でもそっか、偉かったね」
きっとぶっきら棒に「悪かったな!」なんて言い捨てる程度だと思っていたのに。
まさか柄にもなく手紙まで用意していたとは。
まだ文字を覚えたてでたどたどしい内容だろう手紙に、しかし心は人一倍に込められているのだろう。
「姉ちゃんは、てがみ、かいた?」
「んー? 手紙は、書いてないなぁ」
当初思っていた以上の絆を得たシェイラと、何かつながりが欲しくて、おそろいのヘアピンでも贈ってみようかと思ったこともあった。
――でも。必要ないと思ったから。
(白竜と友達だなんて、絶対に誰も信じないだろうけど。それでもずっと友達だもの)
彼女との絆が切れる気がしない。
きっといつかまた合うという予感がした。
アンナはそっと、手首に嵌められた腕輪の藍色の石を反対の手の指で撫でる。
「ま、シェイラから手紙送ってくれるって言ってたし」
旅する彼女にこちらから手紙を届けるのは難しい。
でも、もしもシェイラから助けを求める何かが届いたのなら、自分は何をおいても駆けつけようとするのだろう。
「竜って、やっぱり人を魅了するものよね」
「りゅう? なんでいまりゅう?」
「ふふ。綺麗で恰好良い聖獣である竜に、私はもう魅せられてしまったのよ。逃れられないのよ」
「ほー?」
アンナがそうしてマイクと話している頃の、海を望む丘の上。
シェイラは竜の姿をとったココとスピカと並んで、立っていた。
(なんとなく。今までと違う空気を感じる気がするわ)
時折なびく大きな海風に、結ばずに流したままの白銀の髪が煽られる。
瞼を伏せて、深呼吸すると、気持ちが、かちりと切り変わった。
「………」
旅に出て初めて出会った竜、ヴィートが亡くなってから、丁度十日が経った。
身近な誰かの死に目に合うというのは初めてで、直ぐに気を取り直して立ち上がり動き出せるほどにシェイラの心は強くはなかった。
暖かな子竜達と、笑って励ましてくれるアンナが居てくれて、何とか呑み込んで、向き合って、今のシェイラは次を目指すことに決めた。
そして何日か、ココとスピカに教えてもらい飛行の練習をした。
(あんなに苦労していたのが嘘みたいに、本当にあっさりと飛べるようになってしまうなんて)
―――ヴィートとの出会いと、死があったから。
ココとスピカが、背中を押してくれたから。
きっと生涯で無二の共になるであろうアンナが居るから。
これで良いのだろうかと言う、胸に渦巻いていた不安や、この先どうしようかと言う、見えない未来への不安が、さあっと、音を立てて消えたような気がした。
瞼を開いたシェイラの瞳は、縦に瞳孔の入り鋭さをました、竜の瞳になっていた、
風が、吹く。
風の中に今までと違う力を感じた。
これがおそらく、竜たちの力の源。
世界を取り巻く大気の力だ
肌を撫でる風に、なんだかヴィートの存在も感じた。
(うん。見えなくても、見ていてくれてる)
不遜気で、内面をまったく見せてくれない、意地悪な竜だったけれど、大好きだった。
「っ……」
シェイラがもう一度、静かに息を吸うと、彼女の体は変化を始める。
大きく大きく形を変え、翼を広げた竜へと、徐々に。
やがて艶のある滑らかな白い鱗に覆われた一匹の竜の姿になった。
美しく神秘的な、しかしまだ成竜にはなり切れていない、成竜よりも二回りほど小柄な竜だ。
「ぐ、ぅ、ぉぉぉぅ―――っ……」
低い獣の声が響く。
広げられた翼はその存在を確かめるかのように緩やかに動かされ、地に生える草花を揺らした。
「きゅう!」
「きゅっ」
スピカとココがその丸々とした小さな体を、白竜となった姿のシェイラに擦り付ける。
目元を細めて嬉しそうに、二匹の幼い竜は「きゅうきゅう」と鳴いた。
白竜はまだ慣れない長さの首を曲げ、二匹に顔を摺り寄せた。
そして薄青の竜の瞳に海原を映した後、喉をそらして空を仰ぐと、風を感じながら一際に大きく鳴いた。
「ぐぉぉぉぉうっ―――!!!」
どこまでもどこまでも続く海の向こう。
真っ直ぐにたどればきっとある、水竜の里を目指して。
雪のように真っ白な色をした鱗を纏う竜は、翼を大きく煽らせる。
草が、花が、大きくなびいて反り返る。
何度か確かめるふうに翼を上下させると、花びらは煽られ宙に舞った。
「きゅ」
「きゅう?」
「がぅ」
人には分からない会話を交わし、頷き合った三匹の竜達は地からふわりと飛び上がる。
丘から飛び立ち大空に身を翻らせ、次第に高度を上げ旋回しながら高く昇っていく。
青い空を飛び交う竜に少し離れた距離にあるルヴールの町の人間も気づいたようで、人々が口をぽかんと開けて見上げているのが分かった。
シェイラは目を細める。
こんな時に自分が地上にいる人の立場なら、竜の姿を突然見たら嬉しくて嬉しくて仕方がなくなって、そしてとても幸せな気分になる。
ほんの少しでも誰かがそんな幸せな気持ちになっていてくれるのならばと、シェイラはココとスピカを連れ町の上を大きく旋回した。
そして海原へ飛び出す前、また大きく、一声の鳴き声を彼女はあげるのだった。




