海原へ①
ゆらりと揺れる灯りは文机の上に置かれた年代物のオイルランプひとつ分だけ。
壁面にいくつか固定されているこの部屋のランプに火を移し付けなくてはと思うのに、頭がぼうっとしていて、おっくうで動けない。
シェイラは部屋のベッドの上に足を投げ出し、竜の姿のままでいるココと、人の姿のスピカを両腕に抱きしめながら彼らの間に顔をうずめていた。
ココはずっと竜の姿のままだ。
しかしアンナの案内のおかげで町中からこの宿屋の部屋まで誰にも見られずに帰る事ができた。
「っ…………」
落ち込んだとき、シェイラは暗い場所で小さく縮こもってしまう。
消えたい気分そのままに小さく小さくなるのが、幼いころからの彼女の身の守り方だった。
今回もまた、鼻をすすりあげたシェイラはぎゅうっと腕と足に力を込める。
変わることの出来ないうじうじした自分に嫌になりながら、かすれた声でささやいた。
「ごめんなさい。ココ、スピカ……」
「きゅっ……」
瞬きをすると同時に落ちてしまった一粒の滴が、赤い鱗を濡らして伝う。
見上げてくる赤い瞳は優しくて、それが酷く辛い。
「ママぁ」
心配そうにシェイラを呼ぶのはスピカの声で、そちらを見れば彼女はシェイラと同じくらい泣きそうな顔をしていた。
綺麗な黒い瞳を曇らせ、唇を引き結んでいる幼い子。
シェイラは二人に頬を摺り寄せ、深い息を吐き出した。
ヴィートがもう居ないという哀しみと、そして自分の不甲斐なさに対しての後悔が、胸に重く痛く圧し掛かる。
「あなたたちを危険な目に合わせたわ。危険も経験のうち、だなんて思って外に出たけれど、本当に良かったのかしら。――――――取り返しのならないことになる前に、城に帰るべきかもしれないわ」
守ってもらってばかりではいけない。
広い世界、いろんな考えを知って、色々なものをみて、自分たちの持つ力をどう使って生きていくのか考えなければと思って、外へ出た。
(でも、やっぱり間違いだったのかも)
心配だと、止めようとしてくれた人もいた。
守るからと、一緒に居たいからと、乞うてくれた相手もいた。
そんな声を聴かずに、自分の考えが正しいのだと信じて。
シェイラは身勝手に、衝動で外に飛び出した。
外にはとても楽しい素敵な冒険が待っているのだと思い描いていた。
――――でも、結局。
現実ではシェイラはずっと守られて育てられて来た、何の力もない人間で。
ココが危険な目にあった時。
本当に、本当に、何一つできなかった。
必死の思いで振り下ろした刃は、まったく意味をなさず、むしろ相手を逆上させてしまう結果になった。
(それにココは火を操れるから、少しくらいの危険も大丈夫だと思ってしまっていたの)
これは人間の楽観的過ぎる思いこみだった。
アウラットもジンジャーも、そしてシェイラも、力があるのだから出来るだろうと考えてしまっていた。
生まれて半年の幼い子が襲われ恐怖の中に放りこまれれば、出来るのはただ震えて固まることだけなのは当然なのに。
炎を操って格好良く悪者を倒すなんて、自分勝手に憧れていた空想の物語の内容だ。
シェイラの夢見る『格好良い竜』は、人間が勝手に作りだした夢物語であると分かっていたはずなのに、過信して楽観視していた。
現実だとあんなに恐怖に震えて泣いていた。
怖い思いをさせただけだった。
スピカがヴィートを呼んで来てくれなければ、どうなっていたのか。
「……ごめんなさい」
震える声で、子供たちに詫びた。
守ることが出来なくてごめんなさい。
振り回してごめんなさい。
そんな想いを込め、シェイラは小さな声で何度も何度も詫びた。
本当はこんな時こそ一番しっかりしなくてはいけないのに。
怖い思いをした子竜たちに笑って、大丈夫よと安心させなければならないのに。
突然にヴィートがいなくなったショックで、混乱もしていて、取り繕うことが出来ない。
「きゅっ、きゅうーー!!」
「ココ……?」
突然胸の中から響いた大きな声に驚いて顔を上げると、ココは身をよじらせてシェイラの腕から這い出ようとしていた。
「どうしたの? 苦しかった?」
「きゅ!」
力を緩めてみると、ココはシェイラの目の前、人の子どもへと姿を変えた。
そしてシーツの上に仁王立ちになって、顔を上げるとふんっと鼻息荒く胸をそらしてみせた。
感情が高ぶっているのか、翼とツノは出たままの状態で、瞳も人のものより鋭さを感じる竜の瞳だ。
ココは頬を大きく膨らませ、赤い大きな瞳でシェイラをキッと睨みつけてきた。
「どおして、しぇーらはしぇーらのせいにするの?! どおしてしぇーらがなくの!」
「こ、こ……?」
怒った顔で睨んでくる赤い瞳には、みるみる涙が溜まっていく。
つられてしまい、シェイラの目にも涙がまた滲みだす。
「だ、だ、だって。わ、私がもっと気を付けていたら、ココは怖い思いなんてしなかったわ!」
「やくそくやぶったの、ココなの! いっちゃダメなこといったのココなの! ココがわるいの!」
「ココ、何を言っているの?」
シェイラはその台詞に薄青の瞳を瞬かせ、呆けたように唇を開ける。
保護者であるシェイラが守れなかったことを後悔こそしても、まだ幼いココがつい口を滑らしてしまったことを責めるなんて有り得ない。
「違うわ、ココ! 私がきちんと出来なかったからよ」
「ちがうくなーい!」
シェイラの言葉にもココは首を大きくふる。
ココは最近使い出した俺、と言う一人称も飛ぶくらいに感情的になっていて、そしていつもよりずっと大きな声で、シェイラに気持ちを伝えようと、たどたどしく言葉を探す。
「しぇ、しぇーらはかってにいっちゃだめっていってたよ! ココが! わるいことしたのっ!」
「っ……な」
「だ、だからっ。ごめんなさいするのは、ココなの! しぇーらはなかなくていい! おこってて!」
「…………っ」
(違うのに)
シェイラは喉がつっかえて言葉が出なかった。
だから言葉の代わりに何度も大きく首を降った。
ココは何も悪くない、謝る必要はないと言う意味を込めて否定した。
しかしココはシェイラの意図を分かっているのかいないのか、さらに大きな声で続けて来る。
「ごめんね。しぇーら、ごめんなさいっ!」
一度大きく頭を下げ、「ごめんなさい」をもう一度言った。
しかしその後直ぐに―――ココの瞳が、きらりと輝いた。
つい今までの涙交じりの瞳ではなく、希望に煌めいた楽しそうな輝きに満ちた瞳に、シェイラは驚いた。
「でもっ。あの、あのね!」
「…………?」
「おしろのそと、すっごくすっごくたのしい! もっとみたい! しぇーらといっしょにいきたいの!」
「ココ」
「だから、もうやめるなんて、いっちゃだめぇ!」
「…………」
呆然とするシェイラの頬に、暖かく柔らかなものが触れた。
視線を下にむけると、それは人の姿を取ったスピカだ。
彼女はふんわりと可愛らしい笑みをたたえていた。
小さくて暖かな手で、慰めるようにシェイラの頬を撫でるスピカ。
その手はなんだかとても暖かく感じて、ふわふわと柔らかなものが胸の中に落ちて来る。
これは、黒竜のもつ癒しの力なのだろうか。
呆けているしかないシェイラに、スピカはそっと口を開く。
「あのね。スピカもおそと、たのしーよ? ずうっとね、あのもりのなかにいてね、スピカはあそこしかしらなかったの」
暗いくらい森の中。たった一人で待っていた小さな竜の子。
見たことのない広い世界に出るのは確かに怖くて、いつもシェイラの背に隠れてばかりいるけれど。
それでも世界を見るのが楽しいと、スピカはたどたどしく伝えてくる。
「うみがみれてー、おともだちができてー、ばしゃにものってー」
これまでの旅路を思い出す様に、小さな指を順番に折り、楽しかったことを数えて笑むスピカ。
「ママとおなじベッドでねられてー、おいしいのたべてー」
両手を全部折り終わったあと、再び顔を上げ笑ったその表情は、何の曇りもない。
「かなしいより、こわいより、たのしいのほうがたくさんあった! つれてきてくれてありがとう、しぇーらママっ」
「ココ、スピカ……」
「それにねぇ、しぇーら。つぎはココ……じゃなくてオレ! オレが! まもるよ、つよくなるっ。……だからぁ、だいじょーぶ、だいじょうぶー」
ココが背伸びをし、小さな手のひらをうんと伸ばしてシェイラの頭を撫でてくれる。
「っ……」
こんなに小さな子供たちに、こんな心配をかけて何をしているのだろうと思う。
自分の不甲斐なさが歯がゆくて仕方がない。
本当にどうしようもない自分を、好いてくれて、守ろうとまでしてくれる子達に、何も返せていない。
シェイラは声無く喉を震わせた。
そうして、小さく鼻をすすった後、ココとスピカを引き寄せる。
柔らかな頬に頬を摺り寄せながら、シェイラはふにゃりと相好を崩し、心から嬉しそうに目を細めた。
「……有り難う。そうね、貴方達が一緒に、行ってくれると言うなら。楽しいと思ってくれるのなら。―――行きましょう」
* * * *
シェイラは宿の庭にあるベンチで、アンナと並んで座っている。
周囲は走りまわるココとスピカ、マイクの笑い声、そして差し込む陽の暖かさで、穏やかな空気に満ちていた。
赤みを残した目元で遠くをみるシェイラと、呆けた風に息をつくアンナ。
手元に乗っている暖かなココアの入ったカップを傾け、二人揃って一口こくりと喉を鳴らしてから、視線を自分の手元に落したアンナが先に口を開いた。
「……竜の加護って、竜自身が消えても消えないものなのね」
「本当ね。……たぶんだけど、亡くなる前に身体から切り離されたものは大気には還らずにそのまま残ってしまうんじゃないかしら」
「あー、そっか。そうじゃないと世の中に竜の盾や剣なんてものがあるはずないか」
竜が息絶えるとその身体は大気となり、世界に解けて消えてしまう。
現在高値で売り買いされている武具の材料となっているのは、その前に切り離されたものということだろう。
おそらく竜を狙う者達が竜を狩っても、消えてしまうまでに切り離せるのは鱗一、二枚だけ。
だから出回っている量が少なく、希少価値がさらについてしまう。
ならばココがあのまま連れ去られてしまえば、どんな目に合っていたのか。
抵抗が出来ないほどの幼さゆえに、生きたままに鱗を剥がれ、角を切り取られていたかもしれないことに気づいてしまい、想像して血の気が引いた。
「私……」
青ざめるシェイラの気をほぐす為か、アンナがことさら明る声で、直ぐに話を変えてきた。
「あー……、そう! 正直ね、未だに半信半疑だったりもするのよ。今、目の前に竜が三匹居るって。でも現実なんだよねー」
「アンナ?」
「だってさ、竜なんて、手が届くものとは思ってなかったの。でも、シェイラに出会って、あれー? 人じゃないのかなー?って」
「……黙っていてごめんなさい」
「いやいや、謝らせようとしたわけでなく……あぁ、話題選び間違えたわ…」
竜であると告白する時まで、シェイラは彼女にどうやって誤魔化そうかということばかり考えていた。
ココやスピカを人の子として見せる言い訳を必死で並べて。
自分の身の内を一言も言わずに、嘘を突き通した。
怪しすぎる何者かも分からない、人であるかも不明なシェイラだったのに、彼女は最初から信じて助けてくれた。
その真っ直ぐな心根に背いて誤魔化し通そうとした自分が恥ずかしくもあり、申し訳なくもある。
肩を落としたシェイラに、しかしアンナは首を振った。
「シェイラは悪くない。隠す理由も、なんとなくだけどわかるもの」
「そう、なの?」
「うん。それでね、竜が堂々と好きなように好きな場所で生きられないようになったのは、人間のせいかなぁって。頑張って嘘ついてココやスピカを守ろうとするシェイラを見て思っちゃったわ」
竜の立場になって考えてみれば、堂々と人の目のつくところに出られない理由は想像が出来るのだとアンナは言う。
そんなアンナの台詞に、シェイラは目を瞬かせた。
(彼女の言う通り、確かに今の時代、竜達はとても生きにくいように思えるわ)
自由に生きる生き物だと竜は言うけれど、本当に自由でいられているのかと考えるとそれは違う。
ネイファでは必要以上に崇めたてられ注目を浴びて窮屈そうだし、その為に人前では竜であることさえ偽らなくてはままならない。
人里の上空を飛べば歓声をあげられ祈りをささげられ、どこに降り立つのだろうと指を差される。
もちろん何も気にせず我が儘に振舞う竜たちも居るけれど。
構われたり騒がれたりが嫌な竜達は、人から自分の存在を隠すことが多くなってしまっていた。
そして国や文化が違う場所では命を狙われ、追われる立場にもある竜たち。
自由に生きる孤高の存在というには、ひどく生きにくい世の中だ。
カップを持っているから暖かいはずの指先が、震えた。
凄い凄い。恰好いいと、ただ憧れて歓声を上げていたけれど、でも、それで何になると言うのだろう。
「シェイラ? どうかした?」
「…………竜達が、本当に自由に、好きに生きられる世界……」
見失っていたものを見つけた気がして、シェイラは自分自身の台詞をかみしめる風につぶやいた。
ココやスピカみたいな弱い竜でも、誤魔化さないでどこにでも出られるようになったら。
いつでも好きなように翼を出して外出が出来て、竜が街に繰り出すことが当然な世の中になったなら。
本当の意味で竜が自由に生きられる世界が出来るなら。
今回のことも、ココが口を滑らしたことが問題なのではなく、簡単に話すことが出来ない今の世の状況こそが問題なのだ。
もっと堂々と、あるがままの姿で生きて良いはずなのに。
もしも。もしも、彼らが人であると偽らなくても良い、安全に自然にどこへでも出ていける日常が来たならば、それはとても―――…。
「……それって、とっても素敵だわ」
目の前が、急に鮮やかに色づいた。
自分のやりたいこと。作りたい未来が、ぼんやりとだけど見えた気がした。
世界を見て、色々な事を体験して、自分の竜の力をどう使い、どんな竜として生きていけばいいかを探すというのが、この旅のそもそもの目的だ。
でも具体的に「どんな生き方をするか」なんて思想は何も無くて、ただ好奇心だけで竜の里を目指していた。今の、今までは。
シェイラは衝動のままに突然立ち上がる。
「しぇ、シェイラ?」
驚いて見上げてくるアンナに振り返ったシェイラの顔はきらきらと輝いていた。
嬉しくて思わず手を振り上げそうになっったシェイラは、でも手の中にカップがあることに気が付く。
一旦ベンチの上にそのカップを置いてから、また再び満面の笑みでアンナに向き合った。
シェイラはアンナがカップを持つ手の上から自分の手を重ね、弾む声を上げた。
「アンナ!」
「は、はい。何でしょう」
「有難う! 私、頑張るわ! 具体的にはどうすれば良いのか全然分からないけれど! でも頑張るわ!!」
「そ、そう…、がんばって……ね?」
理解が出来ていないアンナをよそに、シェイラは頬を赤らめて興奮していた。
鎖骨の中央に揺れる赤い竜の鱗に指先でそっと触れて、一人頷いた。
(ヴィートさんも、しっかりって、言ってくれた。見てるって)
自分がしたいこと、するべきことを、見つけた気がした。
自分が白竜としてやり遂げたい事。
それを自覚した瞬間に、すとんと――――竜へと変わるこの身への恐怖が、消えた。




