自覚と覚悟③
「きゅー、きゅ、きゅっ」
鳴き声が、聞こえる。
まだ出会ってそんなに日もたっていないのに、もうずっと昔から聞いているような懐かしささえ覚えた。
その小さな竜の鳴き声に呼ばれて、シェイラの意識は深い眠りの淵からゆっくりと現実へと起こされた。
「…………?」
うっすらと目をあけると、見えたのは白い天井。
「目覚めましたかな?」
しわがれた深みのある声の主の方へと視線を向けて、シェイラはぼやけた視界を払うかのように目を瞬かせた。
「…ジンジャー様?」
「私の室から帰る途中に襲われたと報告を受けまして、お見舞いに伺っていたところでございます」
「っ……!私…」
意識を失う直前の場面が、次々の脳裏に思い出された。
刃で貫かれた痛みを思い出し、左腹部へとそっと手を触れる。
じくじくとした違和感を感じるものの、適切な手当てが施されているようで、あのぬめった血の感触がないことに胸をなでおろした。
「……?」
シェイラは胸の上で何かが動いているのに気が付いた。
少しの重さのあるそれは、ペタペタとシェイラの胸の上を這い、首元までやってくる。
「きゅ、きゅー」
その鳴き声を聞けば、この重みの正体は誰に言われなくてもわかる。
顎へと手をかけてシェイラの顔を覗き込もうとするココの背を、シェイラは指先で優しく撫でた。
大きな赤い目が潤んでいることに気が付いて、安心させるように笑みを作って見せる。
「心配しないで、大丈夫よ」
ココへと話しかけ、その小さな身を手のひらに受け止めながら、シェイラは身を起こす。
とたんに腹部に痛みが走った。
「無理をせず、横になっておいてください」
「有難うございます。…どれくらい経ってますか?」
心配して窘めるジンジャーにそう返事をしたけれど、しかしシェイラは身を起こした。
沢山の疑問が渦巻いていて、身体のために横になれと言われてもふたたび眠れるような心境ではなかった。
「薬の作用で丸一日お眠りになっておられたようです」
シェイラはシーツのかかった膝の上にココをおろし、指先で撫でながらもベッドわきの椅子に腰かけているジンジャーの方を向く。
――――あの怖さと痛さは、もう思い出したくもないほどに嫌な出来事だ。
けれど今まで体験したことのない非日常的な事件に会ったのだ。
自分の身に何が起こったのか、あの男は何の目的があってなぜあんなことをしたのかを、どうしても知りたかった。
「私を刺した男の人は…?」
「城内の警備にあたっていた衛兵がすでに捕らえております。身なりや手段からおそらく雇われた刺客。じきに雇い主も絞れるでしょう」
「……どうして、刺されたのでしょう。強盗が出るような場所でもなければ、誰かの恨みを買うような覚えも私にはありません」
「何をおっしゃる。あなたを襲おうとしている人間などいくらでもいるでしょう?」
「え?」
「ん?」
「きゅう?」
シェイラとジンジャーとついでにココの間に、一時奇妙な間が開いた。
(私を襲うとしている人間がいくらでもいる?)
シェイラは誰かに狙われるような理由は一切思いつかない。
ただただジンジャーの言葉の意味が分からず、首を傾げるしかない。
シェイラのその反応に、ジンジャーは己の口元に手をあて、僅かに瞼をふせると考えるようなしぐさをしていた。
「ふむ……。シェイラ殿、アウラット殿下に何もお聞きで無いようですな。道理であまりに純粋な目で授業をお受けになるはずです」
「あの、どういう…」
「あの方も食えないお方ですからのう。ふむふむ。ふむ」
白く長いひげの奥で、何やら納得したように何度もうなずくジンジャー。
「竜の親代わりとなるには危険を伴うこと。それに関して負う責任の重さ。アウラット殿下は貴方に何一つ説明せず、王城へ招き入れたのですな」
ジンジャーは眉間に深く皺を刻み、重々しく長い息を吐いた。
それからシェイラと目を合わせて、まるで憐れむかのような視線を向けてきた。
「……シェイラ殿は親であることを放棄して、ご自宅へおかえりになるべきだと、この私は思います」
「っ…!何を…ココは私にすりこみをしてしまったから、この子を育てるのは私で無ければならないと伺いました」
シェイラはただココが好きで、ココの傍にいたかっただけだ。
まるでココを取り上げようとするかのような言い分にシェイラは憤った。
しかしジンジャーはシェイラの非難の篭った言葉にも動じる様子はない。
「竜が親としてシェイラ殿を認識した以上はシェイラ殿を付けるのが最適でしょう。だからアウラット王子殿下は貴方を王城へ呼んでまで竜の親代わりをさせようとしました。しかしそれが最適な手段と言うだけで、他の者が育てられないと言うわけではありません」
「……たしかに、私以外の人間では育てられないと言う方が可笑しいですね」
最初に心を許し、信頼を得た人間だから一番スムーズにことが運ぶだけ。
実際には親代わりなど誰にでも出来るのだろう。
(私……)
そこでシェイラは、自分が自覚のないままに自惚れていたことに気付いてしまった。
今まで何の取り柄もなかったシェイラにとって、自分にしか出来ない役割を与えられたことは自信にも繋がっていた。
(私でなくても、全然よかったのに)
「でも…どうしていけないのでしょうか。私ではココの傍にいる人間としていたらないと言うことでしょうか」
「シェイラ殿…あなたは竜のそばに居る者の危険を何も知らない。ココのそばに居るならば、これからも幾度も危険な目に合うでしょう。危険を承知の上で来たのでないのならば、今のうちに帰るべきだと言っているのです」
「え?」
「強大な力をもった竜を欲するものは非常に多いのですよ。成長した竜たちならばそんな輩も簡単に排せるでしょうが、ココは生まれて間もない小さな竜。シェイラ殿一人でも片手で運んでしまえるほどの頼りない存在です。安易に竜を手に入れられるまたとない機会…悪しき連中がこぞってココを狙うのは当然でしょう。そして親として守る立場にあるシェイラ殿を邪魔者として処分しようとするのも、また当然」
「…!私を刺した人の目的はココだったのですか?!」
ようやくシェイラは今回のことの意味を理解した。
おそらくシェイラに刃を向けたあのフードをかぶった男は、シェイラがあのときココを連れていると思っていたのだ。
いつもはココを入れている籠を持っていたから、そこにいれているとでも踏んでいたのだろう。
人気のないあの場所でシェイラを殺してしまって、ココをさらおうとした。
けれど刺されたと同時に散らばった籠の中身は竜では無くて。
だからシェイラを刺した後、憎々しげにシェイラを睨みつけて彼は去っていった。
そしてジンジャーいわく、1番ココのそばにいて守る立場でいるシェイラは、竜の力を欲する者達の一番の標的になる。
「そんなの…聞いていません……」
シェイラがココの親になるうえで気にしていたのは、環境を整えてあげられないことと、そして何も知らない自分なんかが竜の側にいるなんて畏れおおかったこと。
アウラットは王城へ住まわせてくれ、ジンジャーの授業で知識を得ることで、その不安を解消してくれた。
だからシェイラは今この場所にいるのだ。
…命の危険があるなんて、彼は一切匂わせなかった。
気を付けろとの忠告さえしなかった。
「アウラット王子は竜本位な考え方をなさる。竜にとって都合がよければそれでいい。貴方に降りかかる厄災には興味は無いのでしょうな。まったく、若く未来ある娘さんを何の自覚もないのを知りながらこのような過酷な道に引きずり込もうとするなど…厳しく叱っておかなければなりませんの」
「…………」
シェイラは俯いて、指先でシーツをきゅっと握った。
「……そんな危険な場所で生きる覚悟は、貴方には無いでしょう。……私がココを預かりましょう。ですからあなたは王城から、竜からは離れなさい。己の身が大切なら」
「ジンジャー様……」
「言い方を変えるならば……覚悟のない甘い考えの人間に、大切な竜を任せることは反対なのです。危険も責任も何も考えず、アウラット殿下に流されるまま承知してしまったのだと分かった今、とても賛成など出来ません」
優しい人柄だった様子から打って変わって厳しいことを言うジンジャーの台詞に、シェイラの表情が悲しげにゆがんだ。
まるで突然突き放されたような気分だった。
シェイラがお気楽な心構えでいたことを知って、怒っているのかもしれない。
(この人も『竜使い』なのね)
竜が心安らかに育つために、シェイラに身の危険を知らせずココの傍に置いたアウラット。
何の覚悟もない甘い人間に竜の傍には居てほしくないジンジャー。
結論こそ違っているけれど、2人の考え方は全く同じだ。
人より竜を愛するがための、竜本位の思考の持ち主だった。
(私は……覚悟なんて、何ももってない…)
ジンジャーの言うような、自分に降りかかる命の危険を知っても竜を守ろうとする覚悟なんて、シェイラには一切無い。
覚悟どころか、真面目に親としての責任さえ考えてなんていなかった。
シェイラはただココが『可愛い』と言うだけで、憧れの竜の傍にいられると言うだけで『親』であることを引き受けたのだ。
勉強だってココが向けてくれる信頼にこたえるための努力ではない。
竜に関する知識を得ることが嬉しくて、だから夢中になった。
安易に引き受けてしまった自分の浅はかさが恥ずかしくて、泣きそうな気分で俯いた。
(私は、ここに居ていい人間ではないわ)
心身を賭して何を犠牲にしても竜の幸せを一番に考え行動する彼ら。
ただココが可愛いからと言う理由で城に来てしまったシェイラとは違い過ぎる。
シェイラは甘い考えでのこのことやってきたことを後悔した。
ココを手放し城から出ることが、最善の道のようにさえ思える。
「きゅ、きゅ!!」
しかしシェイラの考えが揺らぎそうになったその直後、膝の上にいるココの赤い目と目が合ってしまう。
「ココ…」
「きゅー、きゅ!」
縦に瞳孔の入った赤い大きな目が、一心にシェイラだけを見つめている。
落ち込んで肩を落としているシェイラを、心配そうに伺っている。
「…………」
(この子は、私を信じてくれている)
浅はかで甘い考えのシェイラを、この世に生まれたその瞬間から慕い続けてくれている小さな竜。
―――ココがくれる信頼を、裏切るようなことをしたくなかった。
シェイラはシーツを握りしめる手に力を込めた。
膝の上のココを見つめながら、決意を込めて呟く。
「いや、です」
「何?」
顔を上げて、怪訝な表情でこちらを向いているジンジャーを見据える。
「私は、ジンジャー様のおっしゃるように本当に何も考えていませんでした。ココが可愛いからとか、本当にそんな馬鹿みたいな理由で、アウラット王子に言われるがまま、流されるままにこの王城へ来たんです。……でも、ごめんなさい。何を言われたって、諦められないんです」
最初は畏れ多いと辞退していたけれど、結局は可愛いからと言う単純すぎる理由一つでココの傍にあることを決めた。
今だってそうだ。
可愛くて愛おしくて大好きで。
でもだからこそ。どうしても。何をどうやっても側にいたい。
「私の考えが甘いと言われるのならば、直す努力をします。竜の傍にいるに足らないところがあるのならば、ふさわしくなる為に必要な事を学びます」
「……ふむ」
ストヴェール子爵家の4人の兄妹たちは皆、熱血家な父の教えのもと育てられた。
本気でやりたいことがあるならば、たとえ泣きながらでも、泥まみれになりがならでもやってみればいいと。
そう言う考えの家で育ったシェイラに、今の場面で後悔して悔みはしても諦めると言う結論は出なかった。
何より一度竜に関わるもの全てから逃げた自分の過去を後悔しているから。今度こそ意地でも離したくなかった。
「今から大急ぎで学びます。たくさん考えます。ココのためになること。ココの親になるということ。何をすればいいのか、どんな覚悟をしなければならないのかを」
きっとジンジャーの言うことが正しいのだ。
命の危機にあうような状況なのに、のほほんと何も考えずやっていこうとしたシェイラは馬鹿で浅はかだ。
ココもジンジャーに育ててもらった方がきっと立派な竜になるだろう。
たとえアウラットが重視しているココのシェイラを慕う気持ちを犠牲にしようとも。
(分かってるわ…)
どちらが正解なんて、特別賢くなくて人生経験もずっと浅いシェイラにだって分かる。それでも。
「凄く怖かったし、あんなに痛い思いなんもうたくさんです。でも、どうしても諦められないんです。お願いします、ジンジャー様。今しばらく見守っては頂けないでしょうか」
「……ふむ」
ジンジャーはシェイラの顔をじっと見つめたあと、シェイラの膝の上にいるココへと視線を落とす。
彼は手を伸ばして皺まみれの渇いた細い指でココの首元を撫であげた。
「きゅ?」
「ふむ。ふむ、ふむ…」
ふむふむと呟きながら頷くのは、どうやらジンジャーが考え事をする時のクセらしい。
彼の考え事を邪魔しないようにその答えが出るのを、シェイラは息を殺して待った。
「は、ははは」
「?!」
ジンジャーが突然、大きな声を上げて笑いだす。
緊張して固まっていたシェイラは驚いてびくりと身体を跳ねあげた。
同時に腹部の筋肉が収縮して傷口がちくりと痛んだ。
「よろしい」
「ジンジャー様?」
ジンジャーは自らの長い白ひげを隙ながら、ふむふむと何度も頷いて見せる。
「……覚悟は、私が見たところ芽生えつつある。ならばお教えしましょう。竜と共にあるために必要な知識を。生育記録の書き方だけではない。…私のここに入っている竜にまつわる知識すべてをシェイラ殿にお教えしましょう」
「…………!」
ジンジャーはここ、と自ら頭を指して笑った。
その頭には数十年に渡り得てきた竜にまつわる知識が詰まっている。
彼はそれをシェイラに教えてくれると言う。
シェイラは驚きで口をぽかんと開けたまま呆けてしまった。
自分の駄目さや無知さを痛感しただけで、何の成長もしていないのに。
今の会話で、何を認められたのか。
ジンジャーはにっこりと笑って、まるで孫にでもするかのようにシェイラの頭をなでてきた。
「覚悟や知識よりも、一番に必要とするものは間違いなくあるようですからね」
「必要とするもの?」
「竜を…ココを好きだと言う気持ちですよ」
「っ!」
竜が好きだと公言したことはこの数年間で一度もない。
だってシェイラほどに竜に心酔している人にはあったことがなくて、変な目で見られてしまうから。
でもその気持ちが、今一番必要とする気持ちだとジンジャーは言ってくれた。
(竜を好きでも、いいのね……)
目からうろこが落ちたような。何か憑き物がおちたような、そんな気分だ。
初めて自分はおかしく無いのだと言って貰えた気がして、シェイラの肩からすとんと力が抜ける。
王城にはシェイラと同じくらい竜を好きな人が何人もいる。
ジンジャーも、アウラットも。
人の常識よりも竜にとっての幸せを優先してしまうほどに、竜に陶酔している竜使いたち。
ここでならシェイラも竜を好きだと口にだしていいのだ。
それはなんて幸せなことだろう。
シェイラは深いしわの奥にある優しい目を見て背筋を伸ばした。
筋肉が伸びたことで腹部の傷口がチクリと痛んだけれど、構わずに深く頭を下げる。
「ジンジャー様、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。可愛い弟子が出来て光栄ですな」
「きゅ!」
今度こそ、間違えない。
人に言われて流されるわけでも、ただ可愛がりたいわけでもなく、危険も責任も承知の上で、竜の側にいるに相応しい人間になりたかった。