死にたがりの竜④
ふわりと立ち上った紫煙が、夜の闇へと吸い込まれていく。
留まることなく波が打ち寄せられる砂浜に、幾重もの暗い色の布地がはためいた。
(うっとうしい子供だな)
人気の無い砂の上にぼんやりと佇みながら、ヴィートはまだまだ人の枠から抜け出せない、幼い少女を思い描いてため息を吐く。
右手の指先に挟んだ煙草の先はほのかに赤く色付き、暗い中に揺れていた。
「もうすぐか」
見上げた夜空に昇る月はほんのわずかに欠けている。
あの月が満月になった時、自分は死ぬのだろうと言う予感がある。
「………そう言うものなんだって」
命の刻限にあがらうつもりなんてない。
若いころは気ままに生き、ある程度年を重ねた後にはつがいとなる雌竜も見つけ、子供も孫もできた。
この世界にはもう未練も何もなく、自分の人生に満足していた。
でも、ただ。
たったひとつ。
ひとつだけの、心残りのために、ヴィートは死ぬまでの時間をこの町で過ごすことにした。
「きゅう」
背中に小さな重みがのしかかり、肩に痛みが無い程度に小さな爪が食い込む。
ヴィートの頬を何かがかすったかと思えば、そこをぺろりと赤い舌になめられた。
「やめろ」
肩にのしかかる黒竜の子を、ヴィートは睨みつける。
しかしスピカは特に怯える様子もなく、また何度か頬をなめてきた。
まるでヴィートを慰めるかのように。
母親と同じく、おせっかいな子竜だと思った。
「お前、シェイラに黙って出て来ただろう」
「きゅ」
「常習か。ふ、それくらいじゃないとな」
夜の闇を糧とする竜が、この時間帯に素直に眠っていることは少ないのだろう。
シェイラの眠っている真夜中に、結構な頻度で月夜の空を飛び回っていたりしても不思議ではなかった。
それが黒竜の習性ならば堂々としていれば良いのに。
でもあの過保護気味の母親では毎回付いてきかねない。
彼女の休息を邪魔しないように気遣っているのだとしたら、ヴィートが告げ口するべきではないのだろう。
「ったく」
火のついた煙草を足元に落とし、踏みつける。
きっとあの少女がこんな場面をみたのなら、また眉を潜めて小言が飛んでくるのだろう。
細かくて、面倒くさい人間の少女。
寿命を知らせたとたん、彼女は泣き出しそうな顔をして手に縋り付いてきて、そのあとも後ろをちょろちょろとついて来た。
不安そうに口元を引き結んで泣きそうなのを我慢しながら。
「きゅう?」
「……お前なら、分かるだろう。何を心配してんだか」
この世に生まれた命が順に消えていくことは、自然の道理。
十分に生き、与えられた寿命の通りに終えるのだからむしろ喜ばしいことだ。
ほろほろと、毀れるように落ちて行く自身の命を止めることなんて、もうどう考えたって無理なのに。
竜は世界の大気の凝縮体。
人間に傷つけられて素材欲しさに狩られたのなら嘆きもしようが。
生をまっとうし自然のままに死ぬのならば、この身は世界に溶けて交わり、世を漂う風に戻る。
だから竜にとって寿命通りの死は別に怖いものではない。
なのに彼女は悲観して怖がっている。やはり人間だから。
「竜生の最後に、面倒なもんに関わっちまったな」
「きゅう!」
親を馬鹿にされたと判断したスピカが、ヴィートの肩に食い込ませた爪に思いっきり力を込めた。
* * * *
次の日、ヴィートとの飛行訓練のために彼へとココとスピカを預けたあと、シェイラは一人でルブールの街の中央図書館に居た。
大きな町であるから図書館も規模の大きいものだった。
シェイラは王城にある空の塔と言う、ネイファの国でも最重要な情報の詰まった場所に自由に出入りが許されている。
これはもう大抵の場所への出入りが許されたに等しいのだ。
もちろん政治的な機関などの、竜とはまったくの関係の無い場所だと難しいのだが。
公な立場で言えば、国をめぐり竜の研究をする研究者的立ち位置に入っている。
その為に国中の図書館の一般の者が観覧禁止されているような書物を読む程度の権限は持たせて貰っていた。
何だか知らない間に自分の地位が変わっていて少し戸惑いはあるけれど、今回はもうありがたく使わせてもらうことにした。
空の塔の直轄の研究員である身分証は、竜の掘られた一枚のコインだ。
シェイラはそれを、呼んでもらった責任者に提示する。
「これで、この施設内にある竜に関わる資料全てを読ませて頂くことは出来ますでしょうか」
細い体格のメガネを掛けた男性は、身分証であるコインを手に取り確認した後、微笑を浮かべて頷いた。
「ネイファの国を支え守る竜にまつわる立場にあるお方。どうぞご要望のものをお出しいたしましょう」
「有り難うございます」
案内をされたのは図書館の奥の小部屋。
彼が腰に下げた鍵束の中から選んだ鍵が鍵穴に差し込まれ回される。
「こちらが、一般の方々には現在公開されていない、古く貴重な蔵書の保管庫になります」
そこは出入り口以外の壁すべてが足元から天井まで本棚に詰められた本で埋まっている狭い場所だった。
中央に小さく古い文机と椅子が置かれている。
貴重な書物を守るために明かり取りの小さな窓しかなく、火器も厳禁なので室内は薄暗い。
「ここをしばらく使わせていただいても?」
「えぇ構いません。用が済まれましたらお知らせください」
「はい」
責任者の男性が去った後、シェイラはさっそく小部屋の机に、本棚から出した本を何冊も積み上げた。
机に座りると、ページを開いて文字を目で追っていく。
「竜の寿命……」
良く見えない細かい文字を、顔を近づけて追う彼女の表情には鬼気迫るものがあった。
「……どこ」
シェイラは大切な竜を守る方法を、必死で探す。
どうしても死なせたくないから、何か手がかりが欲しかった。
「無いわ。……こっちは」
目次を追い、大まかに本文を読み、内容がまったく違う物だと分かれば溜息を吐いて次の本を手に取る。
分厚い本は次々に積みあがっていき、少し乱暴に扱えば倒れてしまいそうだ。
しかしシェイラは棚に戻す時間さえ惜しんで、次の書物を手に取って文字を追った。でも。
「どこにも、無い」
竜の寿命は三百年から五百年。
生まれ持った力の大きさに比例して寿命も長くなる。
ある竜使いが遭遇した、里で亡くなった竜の死の話。
病気の竜を看病したことで信頼を得、契約をなすまでになった話。
「いくつか竜の生死にまつわる本はあるけれど、具体的にどうすれば良いのかを示したものが無い」
何の成果もなく、脇に積まれていく本ばかりが増えていく。
それは何時間たっても、何冊読んでも変わらなかった。
読めば読むほどに、焦りからページを手にじっとりと嫌な汗が滲む。
「どうしよう。ジンジャー様への手紙は書いたけれど、間に合うかどうか……」
何の人脈もない場所で竜の生死に関わる情報を送れるほどの信頼できる運び屋を雇うのは難しく、結局信頼度を優先し公的な郵便機関を使うことになった。
貴族が個人的雇うものとは違い、一般に郵便として運ばれる荷は様々な町や村をいくつも経由し、順々に届けられるからとてもゆっくりなのだ。
そもそも竜自身が寿命で、終わりなのだと断言するものを、人間がどうにか出来る可能性はとても低いのだろう。
「つっ……」
古く渇いたページに黒い染みが落ち、じわじわと滲んで広がる。
はっと我に返ったシェイラは慌ててハンカチでぬぐい、次に自分の目元を強く抑えた。
「死ぬなんて、やだ……」
出来ることがあるのなら何でもする。
大好きなものがこの世から消えてしまうなんて信じたくない。
でもどうすれば良いのか分からない。
どうか彼の命を奪わないで。
寂しそうな、渇いた空気をまとった竜を暗い瞼の裏に描き、シェイラはハンカチを持つ手にきゅっと力を込めるのだった。
震える息を吐きながら、瞼を上げて目の前にある書物のぺージをまた一枚めくる。
「…………?」
シェイラの手が不意に止まり、薄青の瞳がある挿絵にくぎ付けになった。
「竜の加護についての調査。竜の、加護」
本から手を離し、無意識に自分の首元にあるそれに触れる。
竜の加護について、シェイラはソウマに聞くまでその存在を一切知らなかった。
加護を与えるということは、竜が自らの一部である鱗を差し出すということ。
加護を受け取った人間は、間違いなくその竜に信頼を得てるということだ。
加護を受け取った人間の数は多くはなく、だからほとんどの人間がその存在を知らない。
特別必要な事項ではなかったから、知らなければならないこととしての優先度が低く、ジンジャーとの勉強中でもまだ教えてもらっていなかった。
「アンナの腕輪、気になったのよね」
アンナが手首に付けていた、藍色の石のはまった腕輪。
藍色と言えば風竜だ。
気のせいかと一度は考えたものの、シェイラにはそれがただの石には思えなかった。
形はシェイラの持っているものと少し違う。
でも、ぼんやりと感じる何かが引っかかった。
シェイラはそのページの、竜の加護について書かれている文章を一文字づつ読み進めていく。
そしてある文章のところで、目をとめた。
「……竜の加護は、与えられた人間が死ぬと効力が失われる。―――確か、アンナのものは代々受け継がれてきたものって言っていたわ」
たとえば。
アンナの家系の何代か前の人が、竜の加護を与えられたのだとしても、その効力はもうすでに失われている。
もしも。
その腕輪にはまった石が、風竜ヴィートの鱗からできた竜の加護なのだとしても。
すでに渡された本人がなくなっているから、ヴィート自身にその位置特定はできない。
「ヴィートさんは、昔この町で色々あったって」
彼がこの町に執着する理由とは。
考えれば考えるほどに、ヴィートとアンナは繋がっている気がする。
「もしも、どうやっても、どうしても寿命を変えられないのだとしたら」
せめて彼がこの町にきた理由である、その何かを。
荒んだ、あきらめたふうなあの彼の心を。
せめて生を終えるまでに救うことが出来ないだろうかと考えてしまうのは、ヴィート本人にとっては、きっと迷惑で鬱陶しい、余計なお世話であるのだろう。




