自覚と覚悟②
ジンジャーの授業は大体2時間程度でくぎりがついた。
「ありがとうございました」
「うんうん、熱心な良い生徒さんです。また3日後にいらっしゃい。今度は火竜の子を連れて来ていただけると嬉しいですね」
「よろしいのですか?ジンジャー様のお邪魔になるのでは」
「いいえ。大歓迎ですとも。この私も竜の子をみたのは若いころ竜の里に出かけたときに、数える程度です。それも親竜たちが守っていたので、遠くから眺めただけで。ぜひ交流させていただきたいものです」
「構ってもらえるとココもきっと喜びます。では次は連れてお伺いしますね」
「えぇ。楽しみにしておりますよ」
自習用にと貸して貰った何冊かの本を、いつもはココを入れて持ち歩いている籠の中に入れる。
それを持ちながらも、もう片方の手でドレスの裾を摘まんで別れの礼をした。
ジンジャーと別れてまた、シェイラは長い長い螺旋階段を下ってゆく。
空の塔の暗い足元に気を付けつつ階段を下りながら、思わず笑みを漏らしてしまう。
「すごかった……」
ジンジャーに授業を受けたのはたった2時間程度だ。
けれどその短い時間が、大好きな竜について存分に浸かれる幸せ過ぎる時間だった。
人とは違う竜の身体的特徴。
生まれたての竜の行動の特徴。
体調について気を付けておくところ。
身長体重のはかり方や、記録用用紙のどこに何をどのように書くのか。
おそらくジンジャーが教えてくれたのは、調べれば簡単に分かる程度の基礎知識。
けれど人から変な目で見られることが怖くて、ある年頃のころから竜に関わるものから遠ざかっていたシェイラにとっては、全てがもの珍しく興味を引き付けられる知識だった。
「……授業、あと1,2回で終わりなのよね」
憂鬱な気分でため息を吐く。
記録をつける程度だから、覚えてしまえばシェイラにでも苦労せずできそうだった。
そして少し話しただけでもジンジャーの持つ知識はすごいと分かる。
的確に、どんな質問にでも彼はすらすらと答えてくれたから。
シェイラはもっともっと、彼の話を聞きたかった。
「もっと深いところまで勉強させていただくことって出来ないのかしら」
そう考えて、思わず口にまで出してしまってから、はっと気が付いて首を横へ振る。
(だめ)
昔、密やかに囁かれた陰口が、シェイラの脳裏によみがえった。
異様なほどに竜に心酔し、他のものへの興味を一切失った少女へ向けられる、奇妙なものを見るかのような大人の目。
両親は子供を差別するような人ではなかったけれど、使用人や家に来る客人はそうではなかった。
他人の目を無視して我を貫けるほどに、シェイラは意志の強い女の子でもない。
むしろ人の中に紛れて隠れてしまっている状況の方が安心できてしまうような、情けない人間だ。
(親代わりと言う立場である以上、親としてココを大事にするのはいいこと。でもそれ以上は駄目だわ)
なによりもここは王城だ。
どこかの名のある貴族の目に触れて、ストヴェールの娘が変人だと噂でも立てられたら困ったことになるだろう。
たとえ父や兄たちが気にしなくても、シェイラ自身が家を悪く言われるのは嫌だった。
「きちんと分別をつけなければ…ジンジャー様の授業が終わったらそれでおしまいね」
シェイラは自分に言い聞かせるため、強く頷いた。
空の塔を出たころには、すでに日は傾き始め空は茜色に染まっていた。
西の空に沈みゆく太陽を正面に、シェイラは自分の住居になっている一室を目指す。
「夕日がきれいだから庭園を横切って帰ろうかしら」
美しい光景を前にすると、建物の中にある渡り廊下を使うのはもったいない気がした。
沢山の建物と庭が立ち並んだ迷路のように入り組んむ王城の敷地内を、少し冒険してみたかったのもある。
だから少し回り道をして、気になる小道や庭に入って、これまで見ることのなかった王城の中を見学しながら歩いて行く。
そうして徐々に自室に近づきつつも散歩を楽しんでいると、シェイラの正面から人が歩いてくるのが見えた。
(…………?)
黒いマントとフードを深くかぶった、男のようだ。
一般の人間が入ることは許されない王城の奥地は侍女に兵、ほかに騎士以外には、身なりの良い上位貴族ばかりしかいないはず。
この場所では少し目立つ恰好の男に、シェイラは首をかしげた。
(どこかの家の使いの人とかかしら)
不思議に思いながらも、しかし不躾に訪ねるのも失礼なのでそのまますれ違うことにする。
シェイラが彼とすれ違ったとき、目測を誤ったのか肩と肩が当たってしまった。
「っ…申し訳ありま……っ…?」
肩がぶつかると同時に感じたのは、脇腹への重い衝撃。
どうしてかその瞬間から力が入らなくて、一歩も前へ進めなくなってしまう。
シェイラは背筋に悪寒が這い上がるのを感じながら、ゆっくりと…違和感を感じた自分の腹を見下ろした。
「っ……!!!」
自分の左腹部に、深々と短刀が突き刺さっていた。
持っていた籠が手から滑って、音を立てて地面に落ちる。
中に入れていた本が地面に散らばった。
刺された――――、とシェイラが自覚したと同時に耐えようもないほどの痛みに襲われる。
立っていられずにふらついて、どうにか踏みとどまろうと足掻いたけれど、結局ずるずると地面へと膝をつけてしまった。
「は……っ……」
(ぬ、抜かないと…)
混乱しながらも、手で短刀の持ち手へ触れた時には、すでに腹部から刀身を伝ってぽたぽたと血が滴り落ちていた。
熱くぬるりとした血の感触に、身がすくむ。
(っ…!だ、め……)
少し触れただけでも激痛が走って耐えられない。
なんの稽古も受けていない少女は、こういう時の対応策など何一つもっていない。恐怖と痛みにただただ脅えるばかりだ。
自分の力で身体に埋まった刀を抜くのは、シェイラにはできなかった。
刃物を身体の中で動かすのだから容赦ない激痛が走るのは当然で、それに耐えられるような強い精神力も持っていなかった。
これだけ動いても抜ける様子のない刀は、きっとよほど深く刺さっているのだろうと理解して、余計に恐怖心をあおられた。
痛くて痛くて仕方がなくて涙がにじむ。
痛みと同じくらいの大きさの混乱がシェイラを襲う。
全身から吹き出る冷たい汗を感じながら、シェイラは自分を刺したらしい男を滲む視界の中で見上げた。
男のかぶったフードの奥から覗く、冷酷な殺気のこもった目が、シェイラを捕らえている。
「っ……は……だ、れ……」
「…………」
あなたは誰なのかと。
とぎれとぎれだったけれど確かに通じたはずだ。
しかし男は何も言わず。振り返ることさえもせずに足早に遠ざかっていく。
翻るマントをつかもうと伸ばした手は空を切り、誰かを呼ぶ大きな声を出すことさえも叶わない。
―――ぽたぽた。
ぽたぽたと、柄を伝って落ち続ける赤い血が地面へと染み込み広がっていく。
恐怖で吐き気さえ感じながらも、シェイラの視界は徐々にかすんでいた。
(っ……誰、か…)
肺から入った空気がひゅっと音を鳴らして、必死に口を動かすけれど、どうやっても意味のある言葉にはならなかった。
結局、意識を手放す瞬間まで、シェイラは何一つ抵抗できなかった。
無力な自分が歯がゆいと、初めて本気で思った。