新しい季節の訪れに③
「どうしよう……」
2階にある自分の部屋に戻ったシェイラは、待ってくれていたココを抱きしめて、そのままベッドの上に飛び込んでしまう。
ぎしり、とベッドの木枠が軋んだと同時に「きゅう!」と抗議の声があがった。
「あ、ごめんなさい」
うっかりベッドと自分で挟んで押しつぶすところだった。
シェイラは寝返りをうって横向きになると、目の前にある縦に瞳孔の入った赤い目をじっと見つめた。
零れ落ちそうなほどに大きくて、宝石みたいに澄んだ色。
(…………)
その目を見ていると何だか落ち着いて、小さく笑いが漏れた。
「いい子にして待ってくれていたのね。偉いわ、ありがとう」
「きゅ!」
シェイラはココの鼻先にキスを落とした。
そのあと、もう一度寝返りをうって仰向けになると、今度は見慣れた白い天井をぼんやりと眺めて息を吐く。
(――――たとえば、ココを連れてストヴェールに帰るとか……)
ココはあくまで城に保護して貰っているにすぎない。
そもそも王城に住むことになったのは、アウラットの口車に乗せられ流された部分が大きいのだ。
必ず城に住まなければならないと言う義務があるわけではなかった。
「家を少し離れた場所にしてもらえれば、無理なわけでもないのよね」
シェイラの身も今のところはどこからどうみても人で、ココも近いうちに完璧な人型を取れるようになる。
そうすればもう、シェイラもココもどこにでも行けるのだ。もちろん前にココを狙った者があらわれたように危険もついては来るのだろうけど。
「あぁ…でもユーラはあの家に帰りたいのよね」
「きゅう?」
「……違う家では駄目、みたいな言い方だったし。しかもソウマ様と会えなくじゃない」
シェイラはベッドの上を右へ左へと何度も寝返りながら、うんうんと悩んだ。
シェイラに抱きかかえられているココも一緒に右に左に揺らされながら、つられて首をかしげている。
「きゅー、きゅ?」
「……やっぱりどう考えても、王城にいるのが一番安心で安全なの」
何度考えてみても、結論はこれだった。
王城には、この数か月で出来た大切な人や竜がたくさんいる。
竜の里以外で竜の子を育てるための環境がきちんと整っている唯一の場所でもあった。
そして空の塔以上にシェイラの知りたいことが学べる場所は存在しない。
せめてココが誰かの守りを必要としなくなる……一人前になってシェイラの元から飛び立つまでは王城にいるべきだ。
たとえ将来的に離れる事にしたとしても、ストヴェールに…家族のもとへかえると言う選択肢を選ぶことは難しいだろう。
シェイラは一人で頷きながら、ココの鼻先を指先で突っついてみる。
「とにかくどうにかして、分かってもらわないと、ね」
「う?」
大切な可愛い妹と、泣かれて別れるなんて絶対に嫌だった。
泣きじゃくるユーラの顔が頭から離れない。
でもシェイラが一緒に帰れないのは決定的で、彼女の希望を叶えてはあげられない。お互いに譲ることが出来ず、堂々巡りだ。
「ユーラはどうすれば納得してくれるのかしら」
「きゅう?」
「…お父様とお母様と白竜の血のことは内緒にするって約束をしたから説明もしにくいのよね」
「きゅ、きゅー」
「…………。……ところで、ココはまだ人型に戻らないの?」
「きゅ?」
ぱちぱちと大きく瞬きさせながら小首をかしげたココ。
なんのこと?とでも言いたげな仕草だ。
「……いいわ。本来の姿をとっているのだから、むしろ今の方が自然なのだし」
ふと開いているカーテンの向こう側、窓の外に視線を移すと、月がずいぶん高くまで昇っていた。
シェイラは寝ころびながらもうんと手を伸ばして、ベッドサイドに置いてあった鞄から、メジャーと革カバーのかかったノートを取り出す。
そろそろ就寝しないといけない時間だ。
でも眠る前にココの成育記録をとり、体調に変化がないかも調べないといけない。
「さぁ、お腹を出して?」
「きゅー、きゅう!」
シェイラの指示に、ココは慣れた調子であおむけに寝返りをうつ。
ぽっこりと突き出たお腹が上を向いた。
忙しくて暇の取れないときやココの機嫌が悪くて身体に触らせてもらないとき以外は、基本的に毎日つけるようにしている成育記録。
これが一応は城でのシェイラの仕事だから、さぼればただの居候になってしまう。
なによりも記録を見る研究者や竜の専門家達が、何かシェイラに分からない変化の兆しが出たときに少しでも早く気付いてもらえるようにしておきかった。
ココは始祖竜。他の竜とは違うのだから、見守る目はことさら多い方が良い。
「…毎日見ていると感じないけれど、きちんと成長はしているのよね」
「きゅ?」
突き出たまるいお腹に回したメジャーの目盛りを書き込んだあと、ページをめくって過去の数値と見比べるた。
ゆっくりとだけど確かに数値は増えていっていて、ココの成長が分かって嬉しくなった。
そしてココの成長記録を確認したことがきっかけで、シェイラの脳裏で昼間と同じようにユーラとココが重なった。
「…ユーラも、成長したわ」
ノートに視線を落としたまま、無意識に呟いていた。
生まれたころから側にいた妹は、本当に大きくなった。
たしか幼少のころは今よりもずっと気の強さが表に出ていて、駄々を捏ねてばかりだった。
でも今はもうきちんと分別をつけられる。
笑ったり泣いたり怒ったりくるくる感情を変える子だけれど。
でも自分勝手に駄々をこねるような年ではもうない。
(きっとの突然の別れに動揺して、混乱しているだけ。冷静になって話し合えば分かり合えるはず)
何の確証もないけれど、そう信じたかった。
確執のあるままに離れるわけにはいかない。きちんと話して、理解してもらおう。
落ち着くように深く息を吐いて、自分を納得させてから顔を上げると、ココがメジャーをお腹に巻きつけたままで寝息を立てていた。
シェイラは思わず小さく吹き出してしまった。
――――朝起きると、ココは人の子の姿に戻っていた。
朝食をとってしばらくすると、王城からの迎えの衛兵と御者を乗せた馬車が到着した。
もう城へと向かわなければならない。
出発前にとユーラの部屋も扉をノックしたけれど、ユーラは部屋から出てこなかく、返事もなかった。
せっかく迎えに来てくれた御者を長時間またせるわけにもいかない。
シェイラは妹の顔を見ることは諦めて、父と母に挨拶をしてから屋敷の玄関を出た。
玄関の前に停められた馬車へと乗り込む前に、ユーラの部屋のある2階の窓を見上げる。
カーテンは閉め切られていて、中の様子はまるで分からなかった。
「…少し落ち着いた頃に、また来ます」
見送りに出てきてくれていた次兄のジェイクに、シェイラは肩を落としながら告げた。
「それがいいよ。ストヴェールに帰るまでまだ何か月もあるし。ゆっくり時間をかけて話し合っていけばいい」
「えぇ。そうですよね」
頷いたシェイラの頭に、ふいにジェイクが手のひらを乗せた。
その重みと暖かな温度に目の前の兄に首をかしげてみせると、優しい笑みを返された。
「お兄様?」
「……私だって、寂しいと思っているんだよ?最近までシェイラと離れ離れになるとしたら、お嫁に行くときくらいだろうと思い込んでいたのだから」
「あ……」
シェイラは目を見開いて、兄の茶色の目を見上げる。
昨夜は気楽な様子だったし、ユーラの騒動があったから面と向かい合う時間も取れなかった。
だから気づけなかった。
笑いながらも寂しそうで、少しの陰りを帯びたジェイクの表情に、きゅっと胸が締め付けられた。
「勝手をして、ごめんなさい…」
気を抜くと涙腺が緩んでしまいそうだった。
(自分の選んだ選択は、家族を裏切り、悲しませるものだったのかもしれない)
たった一人だけ生きる時間が変わること。
まったく違う生き物になっていくこと。
ただのわがままでしかないかも知れないと、分かっていても、どうしても諦められない。
浅ましいほどの執着心は大きくなる一方で。好きで好きでどうしようもなくて、手に入れてしまった今はもう離れることなんて出来ない。
罪悪感で泣きそうになっている妹に気付いたらしいジェイクは、白銀色の髪をくしゃりと撫でる。
「お兄様……」
侍女に丁寧に結い上げてもらっていた髪は、きっと崩れてしまった。
それでも優しく撫でてくれる兄の手がシェイラは嬉しかった。
「どうして謝るの。別に怒ってないだろう。……シェイラがココと居るときの、あんなに幸せそうな顔をしている妹を見て、嬉しくないわけがないじゃないか」
「っ………」
ジェイクは空いているもう片方の手で、シェイラの腕の中に納まっている人の子の姿をしたココの頭を撫でた。
赤い瞳の子供は、不思議そうにシェイラとジェイクの顔を見比べている。
「君はシェイラに必要な子だ。宜しく頼むよ?ココ」
「……?」
おそらくココはあまり意味を分かっていないだろう。
それでも頼られたことが嬉しかったらしいココは大きく頷いて見せていた。
* * * *
シェイラとココの乗った馬車が徐々に遠ざかり小さくなっていくのを、ユーラは2階の自室のカーテンの隙間から見送っていた。
赤くはれた瞼をカーテンで覆って隠しつつ、重いため息を吐く。
ユーラの部屋の壁には幾本もの棒が渡っていて、そこにコレクションである色とりどりのリボンが何百本と掛けられている。
原色の多い色とりどりのリボンは、室内を明るく華やかに飾っていた。
ユーラの部屋は家具も小物も鮮やかな色ばかりで、初めて見た者は目を丸くして驚くくらいだったけれど、でも結局はあかるく溌剌とした彼女に似合う部屋だと誰もが納得をする。
そんな部屋の中。
たくさんの原色のリボンの中でひとつだけ系統の違う、淡い銀糸で編まれたレースリボンがかけられていた。
「もうっ!」
ユーラはそのリボンを、精一杯の怖い顔で睨みつける。
(お姉さまにプレゼントしようとしていたのに…)
ふんわりと柔らかく、少し神秘的な雰囲気さえある姉に、絶対に似合うと思った繊細なレースリボン。
華やかで明るいユーラがうらやましいとシェイラは言うけれど、ユーラだって見た目は繊細なのに話すとのんびり可愛いシェイラがうらやましくて仕方なかった。
男の子に交じっての剣や武道を嗜むようなユーラからみたシェイラは、何時だってふんわり微笑んでいるそれはそれは女性らしい自慢の姉なのだ。
だからこれを見つけたとき、喜んでくれるといいなと迷わず購入した。
渡すのをとても楽しみにしていたのに……結局、機会を失ってしまった。
「……結婚して出ていくって言う方が、まだ良かったわ」
もう年頃だから、近いうちに離れることになるのだろうとは分かっていたけれど。
「でも、違うの。竜はだめ」
婚姻で離れるのとは、理由が違い過ぎる。
――――竜は、姉の心を捕らえて離さない。
まるでたくさんの棘が生えた蔓で縛るかのように、シェイラが彼らから1歩でも離れることを許さない。
シェイラにとっての竜の傍は、抜け出すことのできない牢獄の檻の中。
少なくてもユーラにはそう見えていた。
それほどに竜たちの姉への接し方が違うのだ。
ユーラが王城へ何度か行き、クリスティーネやソウマと話しても、シェイラの妹だからと最低限の会話はしてくれたものの、話しが弾むことは一度だってなかった。
なにより王城へ住むようになってから、シェイラ自身が目に見えてどんどん変わっていっていた。
それまで何よりも大切にしていた家族になんて目もくれず、竜のそばを離れない。
何か用事がないかぎりこちらへ帰ってくることも無かった。
以前のシェイラなら、たとえ何もなくても3日に1度は家族に会いに来てくれていたはずだ。
それくらいシェイラは家族を大切にする優しい姉だった。
ここ最近で何度か垣間見た竜たちと一緒に居る姉は、自分たち家族と一緒にいるときに見せる以上の、本当に本当に幸せそうな、楽しそうな表情をしていた。
ユーラが入り込む余地なんてまるで無い。
壁さえあるのではと疑ってしまうほどに、シェイラには竜しか見えていないようだった。
(竜と人は違うのに。どうしてあんなに溶け込んでいるのよ。変よ。絶対変!)
竜は同じ国の中で共存してはいるけれど、竜使いのような特別な存在でないかぎり竜と関わることなんてほとんどないほどに、遠い存在だった。
近くにあるのに手が届かないものだからこそ、この国の民は竜を羨望している。
その手の届かない竜と人とを隔てる高い壁の向こう側へ、どうしてかシェイラが行こうとしているよううに思えた。
そんなこと、あるはずがないのに。
「お姉さまが……、行ってしまう」
あるはずがないのに。
人が入り込めない竜の世界に、人である彼女がいけるはずがないのに。
そのはずなのに。
事実シェイラは、ユーラから離れていっている。
話していても、こちらを向いてくれている気がしない。
心が、こちらを捕らえていない。
シェイラの薄青の瞳はどこか違う世界を映しているみたいだった。
隣で同じものを見ていても、シェイラにだけは全然ちがう風景がが見えているかのようだった。
まるでシェイラがまったく違う存在になってしまったかのような、奇妙な違和感。
少しだけ感じていた胸騒ぎは、シェイラが領地へ帰るつもりが無いのだと知って、とたんに誤魔化せないほどに大きく膨らんだ。
(あの子の親代わりになることが、こんな結果になるだなんて思わなかった…!)
これ以上はだめだと思った。
これ以上にあっち側にいかれてしまうと、もうどれだけ手を伸ばしても届かないような気がする。
「どうして。どうして誰も止めないの?お姉さまの変化に、本当に誰も気づいていないの?」
ユーラはつんと痛んだ鼻をすすった。
「ばかばか。皆ばかよ」
どうしてあの違和感に気付いて、止めようとしてくれないの。
違和感の正体は分からないが、分からないからこそ余計に怖い。
姉は一体何に捕らわれているのだろうか。
(このままだとお姉さまは本当にどこかへ行ってしまう)
ぐるぐるとした不安がユーラの胸の中で渦巻き続けている。
住んでいる距離が離れることが怖いのではない。
大好きな姉が全く違う、全然自分とは違う、わけのわからないものに変わってしまうのが、どうしようもなく怖くて怖くて仕方がなかった。
「あー!もうっ!!」
見えない不安を振り払うかのように、ユーラは大きな声をあげる。
気分を変えようと、いままで握りしめていたカーテンを両手で勢いよく開けた。
ついでに窓も思いっきり乱暴に開け放つ。
そうすると吹いた風が肌を優しく撫でてくれた。
前を向くと広がる外の景色に、視線が明るく開けていく。
見据えた視線の先では、もう米粒ほどに小さくなった馬車の陰。
シェイラとココの乗ったその馬車を睨みつけて、ユーラは胸の前で手のひらを握りこむ。
―――彼女の薄青色の瞳は熱い決意に燃えていた。
落ち込むと一人で隅っこにうずくまってうじうじするシェイラと、ユーラは違う。
ユーラは特攻、行動派タイプだ。
沈んでしまった気分を持ち直すのは驚くほどはやく、そして一度やる気になった後のその情熱はとどまることを知らない。
正直落ち込むこと自体だいぶ前に飽きて来てもいた。
「誰もやらないのなら、もういい!私ががんばるだけよ!絶対にシェイラお姉さまを竜から取り戻して見せるわ!」
シェイラにはここに。
こちら側に居て欲しかった。
「ストヴェールには竜は居ないわ。無理やりにでも連れて帰れば、お姉さまも目を覚ますわよ」
ユーラにとっても大きくて圧倒的で羨望の存在だった竜だけど、もう違う。
姉の前から消えて欲しい、一番大嫌いなものになった。
「あんなの敵よ!敵!目の上のたんこぶと言うやつね!!ぜぇぇったいっ、負けないんだからあぁぁぁ!!!」
ユーラの気合いの声が、昨夜の叫びより数倍の声量でストヴェールの屋敷に響き渡った。
その雄叫びを朝食をとりつつ耳にした父と兄は、そろって口の中のものを吹き出した。
侍女は皿を落として割ってしまい、書き物をしていた侍従はインク瓶をひっくり返し、庭で剪定をしていた庭師は残すべき枝をうっかり切り落とす。
突然の雄々しい娘の声と、騒々しい周囲の人間の反応の中。
姉妹の母であるメルダだけは、いつも通りの微笑を保ちお茶をたしなんでいた。




