渓谷の底に潜む影①
―――朝。
突然カザトが現れたという驚きのあまり熟睡が出来なかったシェイラは、ココよりも早起きをしてしまった。
(ベッドでごろごろしていても仕方がないわ。でも居間にはカザト様が眠っていらっしゃるでしょうし、起きて行くと邪魔かしら)
とりあえず着替えを済ませ、居間への扉を少しだけ開けて覗く。
するとカザトもすでに起きていて、藍色の瞳でぼんやりと窓の外を眺めていた。
窓から見える外は暗いけれど、雪はやんでいて昼間になると晴れそうだ。
「おはようございます、カザト様」
「……おはよ」
そのまま部屋に入ったシェイラはエプロンを付け、隅に造りつけられているキッチンに立って朝食を作ることにする。
「―――よし。下準備完了ね」
準備を終え呟きながら、火にかけて熱したフライパンに薄切りのベーコンを入れる。
とたんにジュウーっという油の跳ねる音と、食欲をそそる香ばしい香りが広がった。
ベーコンの焼き具合を見守りながら、隣で湯を沸かした鍋に細かく切った干し野菜を入れ、ベーコンのこま切りも加えてから、シェイラは部屋の隅のソファでぼんやりとしているカザトに声をかけた。
「カザト様も朝食、召し上がられますか?」
「たべる。……っていうか、食材どうしてんの」
「この里に来る前に最後に寄った町で、詰められるだけの保存食を詰め込んできました」
「へぇ……」
……冬の早朝のシンとした空気の中、二人きりでポツリポツリと交わされる会話。
料理をする音と、暖炉の薪火の跳ねる音。
深い雪に閉ざされた、人里離れた地の家の中。
そこに流れるのはとてもゆっくりとした穏やかな空気感だ。
シェイラは心地のよさに微笑し、ベーコンと野菜を足しながら彼の問いに答えた。
「それから、冬でも採取できる野草とかも調べましたから採りに行ったり。実は近くの川に罠を仕掛けているので、魚も捕れるんです」
「なに。その準備の良さ。貴族の娘がなんで罠のつくり方なんて知ってんの」
もっともな指摘だ。こんな事、今までのシェイラなら必要な知識だとは思わなかった。
食用植物辞典を持ち歩く日がくるなんて想像もしていなければ、そもそも興味も持っていない分野だった。
中でも川魚を捕える罠など、必要にかられてで無ければシェイラは一生知ることは無かっただろう。
出来るのならば狩猟も覚えてみたいと思うようになるなんて、自分でも驚きだ。
「以前に行った水竜の里で、ずいぶん食べ物に困ってしまったんです。だからこちらで同じ轍は踏まないようにと、調べて来ました」
「なんか……ちょっと見ない間に男らしく……じゃなくて逞しくって言うのか? なってんのな」
「そうですね。自分でも変わったなと思います」
シェイラが苦笑しながら視線を落とした先にあるベーコンはだんだん端が茶色くなり始めている。
このベーコンも、ここでは重要な食糧だ。
真冬なので植物も魚も採れる量はとても少ない。
持って来られる食材も竜になっている時はともかく、人間になった姿で持てなければ意味がないので、女一人の腕で持てる程度のみなので限度があって、だから今までのシェイラだったらそれだけでは足りなかったはずだ。でも……。
「……でも、それで満足出来ているのは、食べる量が減ったというのが大きいのだと思います。このごろは以前の半分くらいで満腹になってしまうんですよね」
「あぁ、竜の身体に近づいてるのか」
「おそらくそうでしょう。竜は本来食事を必要としませんから。カザト様、サンドウィッチと野菜スープでいいですか?」
「うん」
シェイラは一昨日に作り置きしていたパンを切り分けた後、フライパンから焼けたベーコンを取り出し、ベーコンから出た油の残ったフライパンに薄く切ったパンを並べていく。
(ベーコンとチーズを挟んだホットサンドと、野菜のスープ。うーん、ココとスピカは食べるかしら)
お菓子や果物などは結構食べてくれるけれど、こういうものは食いつきが悪い。
でもまったく食べないわけでもない。
完全に彼らの気分次第といったところだ。
念の為にもう少し量を増やすべきだろうかと悩んでいると、寝室に続く戸が開く音がした。
誰が起きて来たかは見なくても分かる。早起きは、決まって彼なのだ。
「おはよー」
「おはよう。ココ、相変わらず早起きね」
「んー……?」
シェイラが振り返ると、寝室から出て来たばかりのココは、戸の前で立ち止まってまじまじとカザトを見上げていた。
昨日まで居なかった人が当然のようにいるから驚いているのだろう。
ココは見開いた赤い瞳でカザトを見つめたまま、二度大きく瞬いたあと。
こてんと首をかしげて口を開いた。
「だれ?」
「おい」
カザトの低い声に、シェイラは料理の手を止めて慌てて顔を上げる。
「か、カザト様っ。今はお姿が違いますから」
「……ほら、これで分かるだろ」
窓辺のソファに腰かけたまま、瞬時に子供の姿から大人の姿へと変わったカザト。
しかしココは、しばらく眉を寄せてじいーっと彼の顔を見ていたものの、結局またコテンっと首をかしげてしまう。
「だぁれ?」
「はぁ?」
「カザト様! そのっ、ほら、えーと、ココが以前に出会ったのは生後三ヶ月経つか経たないか程度でしたでしょう? 覚えている方が難しいかと思います」
「は? 三ヶ月っていったって、人型になって話せるようになってたんだから、人間の生後三ヵ月とは違うだろう」
「そうですけど……でも幼い子の記憶力ですし。カザト様はこのくらいの年のころの記憶、今も持ってらっしゃいますか?」
「……」
幼い頃に一、二日だけ遊んだ人を記憶にとどめておくのは少し難しい。
大人でさえ、よっぽど頭が良いか、よっぽど強烈な記憶でない限りは数年も経つと断片的にしか思い出せなくなる。
シェイラの説得に苛立ちを沈めてくれたカザトは、そのままソファの背もたれに更に身を深く沈めた。
結った藍色の髪に刺した赤い飾り羽が揺れたかと思えば、彼は子どもへと身を戻していた。
「カザトだよ」
幼くなった声色でぽつりと呟いた言葉は、ココへ向けたものだろう。
「かざと?」
「ふんっ」
不機嫌そうな顔をされていても、人見知りもなく積極的なココは遠慮なくソファに腰かけるカザトへと近づいていく。
そして彼の膝の上に小さな手を置いて、顔を覗きこんだ。
「おっ、おれは、ココっていうんだよ?」
「知ってる」
「カザトはここでなにしてるの?」
「自分の家に居ちゃ悪いかよ」
「ここ、カザトのいえ?」
「そう」
「ほう。なるほどー。えっと、おじゃましてます?」
「……あぁ」
ココとカザトの会話に口元をゆるませつつ、シェイラは焼けたパンにベーコンとチーズを挟む。
油を含んだパンの熱でチーズも程よく溶けてくれるはずだ。
塩コショウでスープの味を調えながらココに朝食を食べるかと聞くと「いらない」との返事だったので、量は全てそのままで進めることにした。
スプーンで鍋から掬ったスープの味を見て、満足な気分で頷く。
「うん。いい感じ。カザト様、温かいうちにどうぞ」
* * *
「……で、この里で何して過ごしてんの。この季節に出来ることってかなり少ないと思うけど」
テーブルの向かい側に腰かけている、子供の姿のカザトが小さな口をめいっぱい開けてもぐもぐとサンドイッチを頬張っている。
「……うまい」
「有り難うございます。風竜の里、冬でも楽しいですよ。他の風竜たちと空を飛んで遊んだり――あ、この里の風ってとってもいいですよね。とても竜に優しいというか……飛びやすいです」
「そういう場所を選んで里を作ってるからな」
「そうなんですね。あとは、子供達はお友達も出来たので楽しそうに一緒に遊んでいます」
「友達?」
サンドイッチをもう一口齧ろうと口を開けていたカザトが、怪訝そうに顔を上げた。
「はい。子竜たちの巣に通っています」
「ふーん。まぁココ達も普通なら巣に入っている年頃だしな」
シェイラの隣で紅茶を飲んでいたココが赤い瞳を煌めかせた。
「きょーもいくー! あのね、えほんもっていくって、やくそくしたの! しぇーらよんで!?」
「わかったわ」
「……俺も行く」
ぼそりと呟かれた声に、シェイラは少し驚いた。
「カザト様も?」
失礼なことかもしれないが、カザトが子供好きなタイプだとは思わなかったのだ。
シェイラの考えは顔に出ていたのか、彼は少し唇を突き出して拗ねたような顔をしている。
「別にいいじゃん。ここに帰る前はしばらく使って無かった家の掃除をしようとしてたのに、誰かさんが徹底的に磨いてくれてたからその必要もなくて暇だし。何。俺、邪魔なの?」
「いえまさか。ココとスピカも喜びますから是非」
「かざともえほんよむ?」
「え、一緒に遊ぶなんて言ってないんだけど」
片眉をあげながら、カザトはも両手でもったサンドイッチをもぐもぐと頬張り続けている。
うっかりしていたが、今の彼は子供サイズだった。
小さな口と手では大きすぎたようで、ぽろぽろとパンクズがこぼれているし、頬には溶けたチーズが付いている。
(今度からはココとスピカに出すのと同じように小さく切り分けましょう。……でもカザト様、大人の人の姿でも細身な体型だったのに、意外に良く食べるのね)
お腹が空いたからではなく、人の作った食事が懐かしかったからとかいう理由で今日が特別なのかもしれないが。
作った側からすればめいっぱい頬張って夢中で食べてくれる姿を見るのは嬉しいことだ。
同居人が増えたので、念の為に魚を捕る罠をもう一つ増やしておこうと頭の隅で考えながら、シェイラは自分の分のホットサンドを頬張るのだった。
* * * *
「寒っ」
「さむーい!」
「ふおー!」
「…………」
スピカも起きて、防寒具を羽織って外に出たが、晴れてはいてもやっぱり寒いものは寒い。
風竜の子竜の巣は、なんと野外にある。
渓谷の左右に立ちはだかる山脈のふもとの隆起した岩影に、木の枝や枯葉を組み合わせた巨大な巣をいくつか置いているのだ。
一つの巣に子竜が五匹ずつ。
親竜が竜の姿のまま何匹か入っても十分なほどの大きさなので、もう巣と言っていいのかさえも微妙なところだ。
それだけ大きいので、人の姿で中に入ってしまえばすっぽりと頭上のもっとずっと上まで覆われて、温かい。風の術で外気を防いでもいるのだろう。
でも、そこに行くまでがとにかく寒い。
「震えていても仕方ないし。行きましょうか」
「「はーい」」
シェイラの声に、ココとスピカは小さく丸っこい竜の姿へと変化する。
「きゅう!」
「きゅ、きゅきゅう」
「っ…………」
シェイラも背中から翼をだし、徐々に竜の姿を形作っていく。
同じ里といっても子竜の巣は外れの奥まったところにあり、歩くと凍死しかねないので飛んでいくのだ。
飛べば五分もかからずたどり着ける。
「グォウ」
「マジで白竜じゃん……」
真っ白な雪の上に四肢を置く、真っ白な竜。成竜よりも一回りも二回りも小さいけれど、人の姿のカザトよりはもちろん大きい。
知っていたはずなのに、実際に目の当たりにするとやはり驚くらしく、動揺の浮かぶカザトの声に首を向けると、目があった彼はふいっと顔を背けてしまった。
「ふんっ」
カザトは視線をそらしたまま、翼を出してトンっと地を軽く蹴り跳びあがった。
風に乗り、空高くに一直線に流れるように上昇しながら、彼は藍色の竜の姿へと身を変えていく。
晴れた空の下、地上の真っ白な雪に反射した太陽の光が、竜へと変化していく彼の藍色の鱗をより一層輝かせる。
その美しさに魅入られた白竜の姿のシェイラは、喉を大きくそらして地上から天を仰ぎ、縦に瞳孔の入った薄青の竜の瞳を細めた。
「グゥ」
「きゅう!」
「うきゅ……!」
先を行ってしまった風竜と、我先にと後を追った子竜たち二匹に続き、彼女も自らの翼を広げ仰ぎ飛び立つ。
竜たちの居なくなった地上には、風圧で煽られたキラキラと輝く粉雪が静かに舞っていた。




