人の幸せ、竜の幸せ②
婚約とは、近いうちに結婚するとの約束を交わすということ。
結婚ほどの拘束力はないにしても、しかし簡単に反故に出来るものでは決してない。
たとえ竜のソウマであったとしても、書面によっての契約を交わせば、それなりの縛りにはなるはずだった。
(ソウマ様との婚約。……それは、いいことなの?)
本当に、ただの一度もシェイラは彼との結婚の可能性を考えたことがなかった。
ただただ驚くばかりの自分の目の前にいるみんなは、意外にもあっさりと受け入れているらしいのに。
(…………)
シェイラはどうしても即答で頷くことが出来ない。
突然に突きつけられた竜と婚約を結ぶということに、足踏みをしてしまう。
「ええと、その………」
無意識に唇から漏れるのは、迷いと動揺のみで。
何を言えばいいのかが分からなかった。
「ママ?」
「……」
心配そうに見上げてくる、スピカの黒い瞳。
彼女の神秘的で深い黒に映る自分が、ひどく不安定なようにシェイラには見えた。
いや。事実、不安定でいるのだろう。
喜ぶことが出来ずに、胸の奥のざわざわとした変な違和感が、しだいに大きくなっていく。
「シェイラ? 大丈夫か」
シェイラの様子がおかしなことに、隣に座るソウマが気づいたらしく声をかけてくる。
リリアナや父や兄も同じく、シェイラの青くなった顔色を覗きこみながら気遣わしげな表情をみせた。
「……婚約は、乗り気ではないか?」
兄のレヴィウスの固い声。
父のグレイスの落胆した顔。
ウェディングドレスの話まで出していたリリアナが、失言だったかと顔色を青くさせている。
それらの反応の全てが、シェイラの肩に罪悪感として重くのしかかってくるのだ。
皆の視線を受けながら、シェイラは膝の上で握った拳に強く力を込めて、ぽつりぽつりと小さな声で言う。
「いいえ、嫌なわけでは。でも……、私、本当に、そんなこと考えたことがなくって」
竜であるソウマとのつながりを求めた瞬間から、自分が普通に結婚する未来を シェイラはすっぱりと切ったつもりだった。
残念だとも、悲しいとも思わない。
だって、何より、そういうことは極力考えない様にしてきたから。
そんなものより、竜のそばに居られることが、自分の一番の幸せなのだと信じて来た。
もうすでに自分にとってなによりも大切なのは竜であり、子供たちである。
だから、人としての、人の女性の幸せにつきものだと一般的に認識されている結婚はもう自分に関係のないものだと、完全に切り離していたのに。
それを突然、手のひらに乗せられてしまった。
きっと喜んで了承するべき場面なのだろう。
でも、喜びよりもどうしても、やはり驚きと困惑の方が大きかったのだ。
「…………」
シェイラは、膝の上で握っていた手を解くと、そっとそれを伸ばす。
すぐ隣。
こちらを心配そうに見つめている、ソウマへと。
彼の服の袖口に指を触れさせ、少しだけ引っ張ってみる。
無言のままに瞬きをして首をかしげてくるソウマに、シェイラは揺れる薄青の瞳を向けた。
「…………少し、ソウマ様と二人で話をしてきてもいいですか?」
ソウマの方を向きながら、シェイラは周りにいる人々に告げた。
誰も反対する人なんていなかった。
突然のことにシェイラが戸惑いを覚えていることは誰の目に見ても明らかだったから。
「ゆっくり話し合いなさい」と言ってくれて、スピカはこちらで寝かしつけるからと、レヴィウスとリリアナが手を引いて行ってくれた。
* * * *
そうしてシェイラは、ソウマと二人きりでストヴェール子爵家の庭先を歩いている。
この場所からは見えないけれど、地平線の向こう側から朝日が昇り始めているのだろう。
薄ぼんやりと辺りが明るくなり始めていた。
部屋に行かなかったのは、眠るココの邪魔をしたくなかったことと、閉じた室内で話し合うことが、なんだか少し怖かったから。
外がいいと思った。
冷えた空気は肌寒さを誘い、シェイラは肩にかけたストールの端を胸の前に寄せながら、隣を歩くソウマをこっそりと見上げた。
(うう……、機嫌、悪いかも……)
ソウマの横顔は、一見は普通の表情だ。
でも微妙に眉間の辺りが引きつっている。
漂う空気もどことなく硬くなっていた。
本当に彼は、心の底から婚約というものをシェイラが喜ぶと思っていたのだろう。
「っー……」
庭の奥まったところで、シェイラは立ち止まる。
同じく足を止めたソウマに、小さく深呼吸をして覚悟を決めたシェイラは思い切って振り返り、真っ直ぐに彼の顔を見上げて口を開く。
「そ、ソウマ様は、本当に、全然、困るとか思ってらっしゃらないのですか?」
「婚約について?」
「はい。婚約も結婚も人の中の法律と文化です。竜であるソウマ様からすればとても遠いものでしょう?」
「いや別に、互いの後見人の前で判を押すだけだろう?」
軽い調子で言う彼の様子に、シェイラは肩を落とした。
「っ、やっぱり」
「シェイラ?」
「……。いらないです。婚約」
ぽつりと呟いたシェイラの堅い言葉に、ソウマの眉間のしわがより深くなる。
「どうして?」
苛立つ彼は怖いけれど。でも引くわけにはいかなくて、シェイラは思い切って言葉を吐き出した。
「っ、ソウマ様が、人間にとっての婚約や結婚というものの重さを、絶対に理解してらっしゃらないからです」
「はぁ?」
シェイラにとって婚約とは、この後の一生を決めてしまうほどのとても大きくて重要なこと。
しかしソウマは、シェイラほどに重いものなのだとは思ってはいないらしい。
「いやいや。一応アウラットのもとで仕事しているから法律に関してはある程度知っているし。それに、シェイラはそういうの好きだろう?」
「そういうのって何ですか。ドレスも、一生一緒にいるとの約束も、私の為なら、いらないです。だってそれは絶対に竜として有り得ない行いでしょう?」
「は? 竜としてって意味が分からないんだが」
「だって……!」
シェイラは何よりもどんなものよりも竜が好きで、自由に空を飛ぶ竜の姿に憧れて憧れてここまで来た。
「婚約なんて、いらないです。婚約って、結婚って、人にとってはとても大きくて重い契約なんです。竜である貴方がそれに縛られる必要なんて、絶対にない。だからやめましょう。やめて、下さい……」
自分が、竜である彼の生き方の枷になることは、絶対に耐えられない。
婚姻を結べば、今は噂でしかない火竜ソウマとストヴェール子爵家息女のシェイラの関係は完全に公なものとなってしまう。
パートナーとして完成されたものとなる以上、相手をないがしろに扱えば周囲に白い目でみられる。
違う異性と親密になれば糾弾を受ける。
行事への出席に片方が居なければ変なことを勘ぐられる。
相手のことを想っての行動が必要になり、自由にしたいことも出来ないようになる。
それは家族や恋人という密な人間関係を成り立たせるために人間の社会では必要なものではあるけれど、きっと竜にはとても息苦しいものでしかない。
「俺と、そんなに婚約したくないってことか」
「ちがっ、」
シェイラはたどたどしく、一生懸命に話そうとするけれど。
元より控えめでおしゃべりのあまり上手くはない彼女では、言いたいことが上手く伝えられない。
落胆した色を見せる声に、慌ててシェイラは首を振る。
「違います。わ、私が嫌なんです。貴方が紙の上の契約にしばられてしまうなんてっ」
シェイラ自身は、もちろん結婚というものに憧れがないとはとても言えない。
人にとっての幸せと、竜にとっての幸せは違うのだ。
結婚は、竜にとっての枷にしかならないとシェイラには思えてならなかった。
本来、竜に婚約や結婚という文化なんて無いのに、わざわざ合わせてもらう必要はない。
それに、そんなもので縛るなんて絶対にしたくなかった。
だから、竜との結婚を素直に喜ぶことが出来ない。
自分のせいで、ソウマに息苦しい思いをしてほしくなかった。
子どものころから、空を自由にとぶ姿に憧れていた。
孤高に立つ生きざまが恰好いいと思っていた。
そんな竜の生き方を、自分自身の為に変えようとするソウマの意見に、頷くことなんて出来なかった。
* * * *
―――どうして頑なに首を振るのか。ソウマは訳が分からなくて困惑していた。
(喜ぶと、思ったんだ)
普通の、人間の女の子が結婚というものに憧れを抱いていることをしっていたから。
レヴィウスに婚約をとの話をもらって、一つ返事で頷いた。
ソウマはシェイラを一生離すつもりなんてなくて、それを人間の法律の上でも確かなものにすることに、何の不満もなかった。
それを彼女は拒絶する。
どうして。
困惑するばかりのソウマに、シェイラが言った台詞は「竜を人の法で縛りたくない」だった。
本当にどこまでも、彼女は竜が好きで、竜の為に有りたいと思っている。
竜が生きていきやすい世界を作りたいという、夢を持ったばかりの少女の、そういうところが愛おしと思う。そして反対に―――とても馬鹿げていると思う。
「シェイラ、さ」
「はい」
「竜であることにこだわり過ぎてないか」
「え……」
「竜は自由であるべき。なんて、確かにそういうのが格好いいって言われていたり、そうなれって言われることもあるけれどさ。そうしなければならないわけではない」
頭の固い木竜の次期長、ジークなどは、竜らしい竜であるようにと若い竜達に何度も説いてきた。
シェイラが外に出たいといったとき、それが彼女にとっての『巣立ち』なのだと理解した。
何かに縛られることを嫌う姿は眩くて。
それをソウマだって、竜のあるべき姿だからと了承した。
確かに竜として、何にも縛られずにいる姿は正しいのだろう。
竜として正しい姿であろうとすることを否定するつもりはない。
でもそれだけが竜ではない。
そんなに堅苦しく『竜としてふさわしい姿』を求めていかなくて構わない。
ほぼすべての竜は、ただ何となくそうしているだけ。
習慣とか、習性とかあるのかもしれないが、特に何も考えず適当に、気の赴くままに生きているだけ。
別に絶対にそうしなければならないことなんて、何一つないのに。
竜らしい竜の姿を、彼女は守ろうとして、ソウマがそこから外れることをひどく心配している。
「あ」
「ソウマ様?」
そして気が付いた。
人の子として育った彼女なのに。
人の恋人らしい縛りを、彼女が何一つソウマに求めたことが無いことを。
他の異性と仲良くしないで。
連絡なしでどこかに行かないで。
仕事ばかりでなく自分との時間も作って。
そういう『自分の方を優先してほしい』という、巷でよく聞く恋人への我儘を、願いを、本当にただの一度も聞いたことがない。
(俺が自由に好きなだけ好きなところに飛んで行けるように、かな)
竜が好きな彼女は、竜を縛ることをひどく嫌う。
でも、ソウマはもう――――――。
出来れば、少しくらい、独占欲をみせてほしいとさえ思うようになっている。
うだうだと心配事を抱えているシェイラを前に、自分の気持ちを自覚してしまったソウマは思わず笑いを噴出してしまう。
「ソウマ様?」
「――-俺は、シェイラと結婚したい」
「っ!」
「出来るのならばやっぱり、一緒にもいたい」
「え……」
「あぁ、別に旅をやめて傍に居ろって言ってるんじゃないからな。あくまで俺が、シェイラが近くにいないことを寂しく思ってるって、きちんと知ってほしいだけ。たぶんシェイラが考えているよりもずっと重く、俺はシェイラのことを想っている。実は旅に出ている間に他所の男となかよくなってないかなーとかも、結構気にしてるって、分かってる?」
「え、えぇ!?」
驚き目を丸くする目の前にいる彼女の顔は、まだ薄ぐらい中でも赤く色づいてくる。
狼狽して、視線をさまよわせている様子がとてもかわいいと、思ってしまう。
ソウマは口端をあげて柔らかく微笑みながら、彼女を見つめた。
「人の法でもなんでもいい。俺が、シェイラとの確かなものが欲しかったんだ」
独占欲なんてものを自分が持つ時が来るなんて思わなかった
面倒くさい人間関係。嫉妬や憎悪。そんな面倒な感情に振り回される人間を馬鹿にさえしていた。
人はどうして、心を移ろわすのか、訳がわからなかった。
そんなものに捕らわれず、適当に楽しく生きるのが何よりも楽なのにと。
ただ馬鹿にはしていても興味が無かったわけではなかったから、おもしろそうだと思えた唯一の人間であるアウラットとも契約を結んだ。
そして、ソウマは人の心を持った彼女に恋をした。
だから。
「俺は、シェイラとつながりを持ちたい。むしろ縛って欲しいし、簡単に切ることの出来ない婚約という約束ごとを交わすのは、嬉しいことなんだ」
シェイラが喜ぶからと思って、軽い気持ちで婚約を了承したのではない。
自分自身がそうしたかったのだと、口に出しながらソウマは自分の気持ちを再確認した。
「誰かに執着する俺は、もしかするとシェイラが好きな竜の姿ではないかもしれない。自由に好きに生きる姿が好きなのだと。恰好よくて憧れているのだと何度も聞いた。でも、俺はシェイラとの目に見える絆がちゃんと欲しい」
ソウマはそっと、目の前で赤くなって突っ立つしか出来ないでいるシェイラの手を取った。
ソウマからすればちいさな、簡単に包み込めてしまう柔らかで頼りない手を握りこみ、正面から透明感のある美しい薄青の瞳をみつめながら、改めて申込む。
今度は、嫌がらないでと切に願いながら。
「俺と、結婚してください」
「っ………」
じわり。見つめる先にある薄青の瞳に涙が滲む。
「ほっ、本当に、本当に本当に、私は貴方が生きる重みになりませんか。一生離れるつもりはないとはいうだけでなく。つもり何かではなく。婚約すれば、本当に途中で嫌になっても放り出せないんですよ?」
「だから、俺が、シェイラとの確実な繋がりが欲しいんだってば」
「そ、ま」
「返事は、くれないのか?」
「っ……」
彼女は透明な涙を一粒地面の上に落としながら、こくりと頷き、小さくて震える声で返事をくれた。
朝日の昇り始めた爽やかな秋空の下、火竜ソウマとシェイラの婚約が決まった。




