帰還⑤
「白竜の力の源は、人の想いらしいです」
「……ん?」
一息で言い放ったシェイラの言葉に、ソウマがぽかんと口を開けた。
グレイスは、もしかすると知っていたのかもしれない。ぐっと眉を引き締め、押し黙ってしまう。
「いや、まてシェイラ。それはありえない」
「そうですね。普通は」
シェイラはうなずき、苦笑してみせた。
「どれだけ強い人間の想いが具現化しても、せいぜい儚い精霊くらいにしかならないって、水竜の里でうかがいました」
「あぁ、それが竜の中での常識だ。人間なんてちっぽけな弱い奴らが、竜を作り出せるわけない。絶対にない」
竜という、生殖さえ可能となるほどの生き物を生み出す為の強大な力は、風や陽、水といった本当に世界のどこにでもあり、想像もできないほどに大量にあるものからしか、誕生しないはずだった。
だからこそ絶対に有り得ないと、ソウマは首を振って否定する。
それだけ彼にとっては信じがたいことなのだろう。
シェイラだって祖母から聞いただけで、実感として得たわけではないから、少し不思議な気はする。
「ソウマ様。確かに普通は……有り得ないです。今までのこの世界の常識では。でも本当に……過去に何度か、竜を生み出すほどの強い力を持つ心を持つ人間が現れたらしいのです」
「シェイラはそれを事実だと思うのか?」
祖母のメルダは飄々としていて掴めないところがあった。
からかわれているのではと疑うソウマの気持ちも理解出来るくらいには、彼女はわかりずらい性格をしている。でも、シェイラはこの事に関しては嘘だとは思わなかった。
「驚きましたが、今までを振り替えると納得も出来るんです。ほら、春節際のとき。強い力が欲しいと思った瞬間に翼が生えたでしょう?」
「う……確かに。でも、なぁ……」
シェイラは苦悩するソウマに苦笑してから、父へと視線を戻した。
人の想いから生み出された白竜は、他種の竜の力を吸収し消去してしまえる力をもっていた。
力の源こそが古の時代、争っていた竜達の姿を憂い「止めたい」と願った人の想いだったからだ。
シェイラと同じように竜を愛し、竜の傍で生きると決めた人間が、竜のことを想って、そして生まれた力。
だから白竜は、争いを止めるための力をもった。
彼らの未来を導く竜となった。
「私は人として生まれ、人として生きて来た。人の感情を持った、竜です」
どの種の竜も外部から力を取り込む。
純潔の白竜である祖母でさえ、山越えをするための宿として屋敷を訪れる人間や、定期的な狩りのついでに立ち寄ってくれる顔見知りの山のふもとの住人達から力を得ていた。
でもシェイラは、白竜の力の源の『人の想い』を、自分の中に持っているから。
「私は、自分の想いを竜の力に出来る。だからきっと、強いと。お祖母様はおっしゃっていました」
* * * *
白竜の力の源に付いて知らされたソウマは、赤い髪をぐしゃぐしゃに掻き撫ぜて低く唸り声を上げた。
その手をずらして目元を覆うと、暗闇の中で長い息を吐き、掠れた声でつぶやく。
「っ……まじか」
それは、竜であるソウマにとっては衝撃的な内容だった。
人は弱くて面倒くさい生き物。それが竜としての己の中での常識だった。
なのに。
竜を生み出すほどの強力な力を、人が、作り出せるなんて。
ちっぽけ過ぎて興味を持つことさえなかった存在が、急にソウマの中で大きく、畏怖さえ感じるものとなった。
人とは想像していた以上に、深く大きな何かを持っているのだろうか。
「………っ」
自分が今まで目さえ合わさなかった人間たち。
顔さえ思い浮かばない、城で周囲に居たたくさんの人々。
竜を崇め、空を飛んで見せるだけで手を合わせて拝む彼ら。
どうでもいい、会話をする価値だって見いだせないもののはずだった。
(くそ……契約者であるアウラットとシェイラ以外の人間に感情を動かされることなんて、今まで一度も無かったのに――)
今さらこんなに、彼らを知りたいと思うなんて。
「はっ……!」
にやりと、目元を手で覆ったままにソウマは口端を上げ笑った。
――――これは、面白いと。
* * * *
衝撃を受け、唸り何かを考えているソウマと。
そして真っ直ぐに自分を見つめ続けてくるシェイラを前に、椅子に腰かけたままでいるグレイスは顔を歪めた。
はぁと重い息を吐き、倦怠感から背もたれに深く身を沈ませる。
(……白竜の力の源が人の想いであることは、メルダに聞いて知っていた)
他の竜達のように自然界にあるものではなく。
人の中にあるものが、白竜の血の糧となる。
だからなおさらに妻と子ども達の置かれた場はあやふやで。
あっさりと乗り越えられてしまいそうで怖いのだ。
家族みんなが、竜の血をもっている。
自分だけが、置いて行かれるかもしれない。
大切な家族の中。ただ一人だけ、自分だけが、ちっぽけで弱いただ純粋な人間なのだ。
他の子ども達たちよりも竜に強く惹かれていた娘のシェイラは今、竜として自分の目の前に立っている。
グレイスはそれがひどく寂しく、悲しかった。
娘はもう、自分と同じ生き物ではないのだ。
シェイラは薄青の瞳を真っ直ぐにこちらに向ける。
自分の手元にいた頃の、大人しく控えめだった彼女では想像できないほどに強い意思を秘めた顔をしていることがとても誇らしいのに、同じくらいに苦しい。
「お父様、私は竜として強くなりたいから、大きくなりたいから、お兄様から逃げるようなことはしたくありません。話すチャンスをください。お願いします……!」
そう言って深く頭を下げる娘にグレイスはどうするべきかと思案した。
「シェイラ……」
「お父様、お願い」
「………」
メルダの中に流れる竜の血について隠すことは、ずっとずっと、長兄のレヴィウスが生まれるよりも前、メルダと結婚したころから己に課していた決め事だ。
家族を守るため、彼らの人生を狂わせないため。
人として自分と生きると決めてくれたメルダと同じく、人として彼らを育てるため。
竜とは一線を引いて生活することを、心に決めて来た。
なのに娘は何の変哲もない絵本の中の竜に異常に執心し。
手の届かない、豆粒ほど遠くに飛ぶ竜に惹かれてしまった。
しかしそうしてシェイラが竜の側へいってしまったとしても、他の家族を守るために破るつもりはなかった。
なのに今、娘は真っ直ぐに言う。
家族に、隠したくないと。
ありのままの自分を知って貰い、その上で愛する人との関係を認めて欲しいと懇願する。
二十数年――-メルダと結婚を決め、彼女の血の秘密をしったあの日から、頑なに守って来た決め事が、破られようとしている状況に頭がぐらりとゆれた。
「ううむ……」
額ににじみだした変な汗を感じながら、グレイスは唸り。目を伏せる。
自分が何を言ってもシェイラはひかないともう分かっている。
しかし、だからといってこの長い年月、守り続けていたものを崩すのはと、葛藤する。
「……まぁまぁ、なにを悩んでらっしゃるの? 別に構わないじゃない」
「お母様」
「メル、ダ……」
伏せていた瞼を開き、顔を上げると、妻のメルダが扉を開きこちらにゆっくりと歩きよってくるところだった。
複雑な気分で奥歯を噛みしめるグレイスに、メルダはおっとりと笑う。
「分かってるわ。あなたが、わたしのために、してくれたこと。でもね」
メルダは本当に嬉しそうに、細かな皺の刻まれた目元を細めながら笑い
そしてシェイラと、ソウマの顔を順番に目に入れてから、言葉を続けた。
「…でもね。決めるのは本人ですよ。―――親が導いてあげなくてはならない頃は、確かに不用意に血が反応しないように竜と遠ざける必要があったわ。でも、もう子供たちは自分で考えてどうするかを決めることが出来るの。」
もう守るばかりの子どもではないのだと、彼女は言う。
「う、む」
それはグレイスだって分かっている。
末娘のユーラが剣の道を歩みたいと、真剣な眼差しで告げに来た時。
子育ては終わったのだと、グレイスはしみじみと思ったものだ。
そう思いはしたが、まだ実際に手を離したわけではない。成人もまだであるし、騎士見習いの試験までもまだ二年もある。
だから実感も、覚悟も中途半端なままだった。
しかしそろそろ、本当に認めなくてはならないのだ。子ども達はもう自分の手の中には居ないのだと。
何を選ぶかも。
どう生きるかも、彼らが決め、己一人で足を踏み出すものだと。
「私達は親として敵からこの子たちを守るのではなく、背中を押して、手を離してあげる頃になったのよ」
手を離し、いってらっしゃいと送り出す。それが最後の親としての仕事。
もう親の役目を終える頃なのだと告げるメルダの言葉に、グレイスは目頭が熱くなった。
大切に大切に育てて来た娘。
特にシェイラは四兄妹の中でも一番に引っ込み思案で、同年代の子供の輪に入っていくことが出来ないで戸惑い泣いていた。
小さくて可愛らしかった、愛おしい子は、もう自分の守りなんていらないと告げにここに来た。
胸に深い穴が開いたような痛みを覚えたが、しかし娘であるシェイラの前で、弱さを見せることは、何が何でも絶対にしたくない。
グレイスは眉をぐっと寄せ、深く息を吐き、気持ちを落ち着けてからこげ茶色の瞳をシェイラへと向ける。
「シェイラ」
重く、低く、唸るように娘の名を呼んだグレイスの声に、シェイラが身を固くしたのが、テーブルを挟んだ距離からでも良く分かった。
「本当に結果がどうなろうと、後悔しないんだな」
「―――はいっ!」
意志を決め、薄青の瞳を煌めかせた娘の顔に、グレイスは子育ての終わりを実感した。
もうこの手の中に、あの幼かった娘は居ないのだ。




