挿入話2・物語のはじまる前に
海斗の回想。
本編前の話です。7話の真相。
あれは、小学六年の秋だ。
俺には歳の離れた兄貴がいて、当時彼は高校二年生だった。
その兄貴から、高校の文化祭に誘ってもらって。
いや、誘われたんじゃなくて、面白そうだから、行きたいと俺が駄々をこねたんだ。
兄貴がたまに漏らす文化祭の準備の話と、高校への憧れが混じって。
「俺、案内しないからな」と兄貴は少々迷惑そうな顔をしていたが、
母親が連れて行ってくれると言ってくれたおかげで、俺は無事、その文化祭に行けることになった。
当日、俺は友達も一人誘って、母親と一緒に高校へと向かった。
兄貴の高校は、行事ごとに力をいれている学校で、
展示よりも、いろんな出店があったような気がする。
お化け屋敷、喫茶店、縁日みたいなゲームコーナー。
あちこちコスプレして、呼び込みをしている人や、チラシを配っている人。
その華やかなお祭りの雰囲気に、小学生だった俺は夢中になった。
あちこち、目移りするままに移動していれば、いつしか母親ともはぐれ。
一緒にいた友達と、母親を探すという名目で、高校探検をしようということになった。
だんだん人気のない方へと向かい、
廊下の真ん中に置かれた『関係者以外立ち入り禁止』という文字に、胸が躍った。
この先に何があるんだろう。
ガキの冒険心つーのは、とても浅はかだと思う。
ダメだって言われると、やりたくなるんだよな。
禁止、とかかれていたって、置かれているのは廊下にぽつんと、イスがひとつだけ。
そのまま気にせずに、むしろワクワクして廊下を進んだ。
だけど、もちろん特別な何かがあるわけない。
ただ単に、文化祭で一般の人の立ち入りがあるから、
使わない教室の方には、立ち入らないように注意を促してただけだもんな。
けど、そんな大人(?)の事情は、小学生には分からない。
なにか面白いものがあるんじゃないかと期待した俺らは、
空き教室しかないことに、ひどくガッカリした。
だからだろうか、ただの図書室なのに、ガラス扉というだけで、興奮してしまった。
「入ってみるか?」
「行こうぜ!」
もちろん俺らの通っていた小学校にだって図書室はあったが、
小学校の図書室のポップな雰囲気に比べて、高校の図書室はシックな感じで。
掲示物がほとんどないせいだったんだろうと、今になっては思うが、
当時の俺らが興奮を維持させるには、十分は雰囲気ではあった。
その興奮のままに、誰もいない図書室で、友達と二人、騒いでいた。
そう、誰もいないと思っていた。
立ち入り禁止の看板からこちら、全然人気もなかったし。
だから、いきなり声がして驚いたのだ。
「こらっ、何してるの」
その声は、全然大声じゃなかったけど、俺らを黙らせるだけの鋭い響きを持っていた。
驚いて振り向けば、小柄な女性が一人立っていて。
制服を着ていたから、先生じゃないのは分かったが、
小学生にしてみれば、高校生だって十分怖い。
「あ、あの、その…」
しどろもどろになる、俺ら二人に、その女性は怖い顔をほどいて、呆れたようにため息をついた。
「ここ、立ち入り禁止になってなかった?それとも漢字、読めなかったの?」
「よ、読めるよ!」
「じゃあ、わかってて入ったんだ?」
「あ…」
先に言い訳を塞がれて、さらにおたおたする俺らに、彼女は苦笑して。
「それに、ここは図書室だから、静かにしなきゃいけないんだよ。そこに張り紙してあるでしょ」
そう言って彼女の指差す先には、『私語は慎んでください』の文字。
けど、それは小学生の俺らには、静かにしろって意味にとれなかった。
困惑した表情をみてとったのか、今度は彼女が慌てだして。
「あ、小学生には、わかんないか…。えっと、とにかく、図書室では静かにね」
まるで子どもに言い聞かせるみたいな彼女の態度に、ちょっとイラッとしたけど、
勝手に立ち入ったこともあって、素直に「はーい」と言っておいた。
怒られたときの常套手段。とりあえず、頷いとけ。
これやると、四割くらいの確率で、母親は怒り出す。(けど、有効なときもあるから、使っとく。)
だけど、彼女は。
ほっとしたような顔をして、――ふんわりと笑った。
その笑顔に、一瞬息がつまった。
なにか恥ずかしいような、照れくさいような。
あわてて隣の友人を見れば、怒られたことに不貞腐れた顔をしているだけで。
自分の気持ちに戸惑った。
彼女に促されるままに、文化祭のやっている方へと戻れば、
タイミング悪く、母親に見つかって。
いや、本来の目的は、母親を探すことだったんだけど。
そのまま彼女とは別れてしまった。
兄貴に聞けば、分かるかななんて、少し思ったけど。
それも恥ずかしくて、何も聞けなかった。
だから、俺のその気持ちは。
――初恋、は。
そこで終わるはずだった。
***
文化祭のあった日から、何日後だったのか、正確には覚えていない。
けど、自分の気持ちが何なのか、全然理解していないままに、
未練たらたらだったころなのは、事実だ。
もう一度、会えないかな。
兄貴の高校、忘れ物届けに行くとかで、行けないかな。
そんなことを、あれこれ夢想した。
そんな時期。
俺は、彼女に再会した。
それも、最悪なタイミングで。
塾が終わって、夕暮れの道を一人、歩いていれば、
通りすがりにある公園に、彼女の姿を見つけた。
驚いて、けれど、嬉しくて。
後ろからおどかしてやろう、とそっと近づいた。
見つからないように、少しずつ。
そんなふうに、彼女の視線しか、気にしていなかったからか。
ふと彼女に近づく影があることに気づいたのは、
彼女から二メートルも離れていない茂みの陰で。
おまけにその影の正体は兄貴の友人で、見知った人であったことに、ひどく驚いた。
こんな偶然あんのかよ!
兄貴の友人だったけど、俺とも一緒に遊んでくれるような人だったから、
「頼めば、彼女に会わせてくれるかも」という期待に、胸がふくらんだ。
でもそれは、すぐに消えて。
代わりにやってきたのは、絶望。
なぜなら。
彼女は、そいつの『彼女』だったから。そう、恋人ってやつ。
なんで分かったって?
目の前で、キスシーン見せられてみなよ。
それは舌を絡めるような濃厚なものじゃなく、
軽く触れるだけのものだったけど。
俺に与えられたショックは、とんでもなくでかかった。
何が起こったのか、一瞬理解できず、
思わず声をあげそうになった。
よくあそこで、物音ひとつ立てずにいられたと思う。
二人して顔を赤らめて。
少し気まずそうに、でも嬉しそうに、手をつないで公園を出て行く。
俺に、気づかないまま。
そのまま、どれだけそこで、惚けていたんだろう。
いつの間にか、辺りは真っ暗になっていて。
ふと時計を見れば、夕飯の時間になっていた。
あ、やべぇ!と思いつつ、全然動けなくて。
家に帰りたくない、と無性に思った。
その後、どうしたのかは実はよく覚えていない。
きっとちゃんと家に帰って、
でも遅くなったって母親に叱られて。
思い出すからという理由で、兄貴をひたすら避けてたんだろう。
だけど俺の記憶の中では、あのキスシーンと、その後の絶望的な気持ちばかりしか、残っていない。
だから。
彼女と再会するときには、記憶を塗り替えたいって。
彼じゃなく、その場所に俺がいたいって。
そう思ったんだ。
ごめんな、沙耶。
沙耶が覚えてなくたって、俺の記憶にはちゃんと残っていて。
どうしても無残に散った初恋を、どうにかしたかったんだ。
それが、初めて沙耶と会った図書室なら、最高のシチュエーションだと、
そう思ったんだ。
そして物語は、五年後に始まる。