挿入話1・雨の風景
御堂の回想、独白。時間軸としては、9話辺り。
本編の展開とも絡みます。
原風景は、雨。
母に連れられて、土砂降りの中を、薄い雨がっぱ一枚だけを雨よけにして歩く。
ほのかに温かいのは、母とつないでいる右手だけ。その温かさも、雨に打たれて、少しずつ消えていく。
冷たい、全身。
どこから来たのか、どこへ行くのか。
何も分からないまま、ただ手を引かれるままに歩いた。
年のころは六つか七つ。幼い足で長いこと歩き詰めで、雨のせいもあって、ひどくくたびれていたのだけれど、見上げた母の顔がひどく冷たいせいで、休みたいとも言えなかった。
それでも、小さな子どもだ。気力だけで歩き続けられるわけもなく、やがて足をからませて転んだ。
その拍子に、つないでいた手が外れて、
べちゃんと半分水溜りのようになった道に、顔から突っ込んで。
寒くて、痛くて、何より疲れていて。
こみあげてくる涙に、助けを求めて母を見上げた。こんなにつらいよと、訴えるように。
けど、その先にあった母の顔は、視線は、冷たいままだった。
「早く起きあがりなさい。クロノスでないあなたに、何の価値もないのよ」
差し出される手もなく。見上げた先は、もう背中しか見えない。
その言葉の意味は分からなかった。
けど、母は自分を助けてくれる存在ではないということと、
自分が『クロノス』であれば価値があって、こんなふうに辛い思いをしなくてもすんだのだ、ということはぼんやりと理解した。
その後のことは、覚えていない。
頼るべき存在に否定されて麻痺した心が、きっと記憶も手放したのだろう。
***
「嫌な夢を見たな…」
御堂はそう呟くと、汗ばんだ身体を起こした。
昔の夢。まだ幼くて、何も理解していなかったころの夢。それは、一番古い自分の記憶だ。
今となれば、あの記憶が、自分がクロノスの血脈を継がないことが判明して、母と二人、クロノスの屋敷から追い出されたときのものだということは、理解している。
母は特段ひどい人間でもなく、御堂が16歳になるまで、この魔法世界で育ててくれた。
16になり、御堂が学校に附属する寮に入ったすぐ後、安心したかのように死んでしまったものの、
それ以降、自分の後見は、ずっと母の兄にあたる人が務めてくれていたから、生きていくうえで特に困ったこともなかった。
けれど。
それでも、繰り返し見る夢は、御堂に己が孤独であることを幾度となく突きつける。
親子仲は悪くなかったが、決して良くもなかった。もう甘える気になどなれなかったから。
『クロノス』だったら。
幼いころはよく、想像していた。
あの立派な屋敷で、苦労もなく暮らせて。魔術もなんの制約もなく使えて。
何より、きっと母は自分を愛してくれただろう、と。
そんなに簡単に、色々なことがすべてうまくいっていたとは、今となっては思えない。
それでも、未だに『クロノス』は、自分の心に刺さる棘だ。
見ず、触れず、考えず。自分とは関係のないものとして、処理しなければいけないもの。
だが、そんな御堂を嘲笑うかのように、クロノスの現当主は、つい先日、彼に告げたのだ。
次期当主の花嫁として迎える、クロノス本家の血統を持つ『彼女』の世話をしろ、と。
それは、伺いでもなければ、頼みでもなかった。御堂の意思など関係ないとでも言うような、一方的な命令。――当主から、一族の者へと。
今更、クロノスとの関係をあからさまに突きつけられて、御堂は再び雨に囚われる。
クロノス一族の末端であった母が、一族外の男と関係を持ったために、生まれた自分。
その血は薄すぎて、クロノス一族であるとは認められなかった。血が一定の薄さになると、クロノス一族は、精霊の末裔というその血統を守るために、『クロノス』とは認めないのだ。
そして御堂は、『クロノス』ではないと突き放されて、生きてきたのに。今更やつらは、クロノス一族のために協力を要請してくる。
それも、自分とは反対に、誰よりも濃く『クロノス』の血統を受け継ぐ、本家の女のために。
どろり、としたどす黒い感情が、自分の中を蠢いている。
忘れていたと思った、様々な感情。
そいつが一気に目を覚まして、復讐を自分へと囁きかけるのだ。
「新宮 沙耶、か」
それが『彼女』の名前。クロノス一族の連中が、協力を要請してきた、本家筋の女の。
向こうの世界で育った、次期当主の花嫁。何も彼女が知らない間に、俺が手に入れたら、やつらはどんな顔をするんだろうな?
次期当主といわれる『彼』に、負ける気はさらさらない。いくらでも、周囲をちょろちょろしていればいい。
だって、彼女は簡単に俺を信用して、簡単に俺に捕まるんだからな。
自分の腕の中で固まっていた彼女を思い出して、御堂はクッと笑いをもらした。あれで本当に23歳なのか。高校生みたいな反応じゃないか。
それでも、彼女の凛とした雰囲気を、知的なまなざしを、好ましく思ったのは事実だ。
あぁ、本当に手にいれてしまおうか。
それが、復讐のためなのか、自分の感情のせいなのか、御堂もまだよく分からないまま。
それでも、沙耶を手に入れることに、彼は暗い喜びを覚えるのだった。
雨はまだ、上がらない。