10、お家へ帰ろう
慌しい毎日の中で、いつのまにか学校が始まってから三週間が経っていた。
すわなち、こっちに来てから一ヶ月。
それはつまり、法律の勉強から離れて一ヶ月ってことだ。
「クノス、約束だったよね?」
確かに、魔法学校は楽しい。
クノスに怒られたり(ちょっと小姑みたいだ)、
海斗に絡まれたり(三年生が一年生の教室に来るんじゃない!)、
御堂先生にニッコリ用事を頼まれたり(回避するのが大変です)。
そんなアクシデントはあれど、クラスの子たちとも、そこそこ仲良しだし、魔法は面白いし。
最初に考えていたよりずっと、私がこの生活を楽しんでいるのは事実だ。
だけど。
だけどね?
「家に帰して」
家に、元の世界に。
もとの、生活に。戻りたい。戻らなきゃ。――ここは、私の居場所じゃないから。
クノスは一瞬驚いた顔をしてから、顔色を曇らせて、深く溜息をついた。
「やっぱり、戻りたいの?」
「やっぱりって何?最初に約束したじゃない」
「そのわりには、こっちの生活楽しそうだよなぁって思って」
何よ、その目は。
確かにこっちの生活は、思っていたよりずっと楽しいよ?
だからって、向こうの生活をおざなりにしていいわけじゃない。
…実を、言えば。
少し怖いのだ。
こんなにも、毎日が楽しくて。
向こうの、元の世界に。もとの生活に。戻れるのかって。
「沙耶?」
「…忘れちゃうから、法律」
私が暗い顔をしたからか、クノスは疑わしそうなジト目をやめて、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
うん、忘れそうなの。
今までなら暗唱できるくらいに何度も使っていた条文が、とっさに出てこないなんて。
やっぱり、ショックだよ。
「家に帰してください」
暗い顔のまま、ペコリと私が頭を下げれば、
クノスは少し悲しそうな顔で、「わかった」と頷いた。
***
久しぶりの我が家。
向こうの世界に行ってから、こっちの世界は二時間ほどしか経過してないから、まだ真夜中で。
一ヶ月前、こっちを離れた状態から動いているわけがなく、
お茶をいれたコップも、クノスが出てきた六法も、そのまま。
長い旅行から帰ってきた感覚なのに。出かけたままの状態なんて、ひどく奇妙だ。
何か、長いながい夢を見ていたような感覚だった。
…それ、さえなければ。
「沙耶ー、なんで俺、『それ』扱いに戻ってんの?」
「むしろ私が、なんでクノスがここにいるかって聞きたい」
それも、精霊の姿で!
「俺がいないと、沙耶向こうの世界に戻れないじゃん」
「また戻るときに、来ればいいでしょ」
「後はまぁ、お目付け役というか」
「…私は、何をやらかすと思われてるわけ?」
お目付け役って。
こっちで生活する分には、私に何の支障もないし、むしろこっちにいる間くらいは、向こうの世界のこと忘れていたいんだけど。
「こっちにいる間に、魔法学校のことが夢だとか思われたら困るから」
「……」
なんか、色々読まれている気がして悲しい。
俺の存在があれば、夢とか思えないでしょとか、確かにそうなんですけどね。
うっかり、殺虫剤とかかけないようにしないとなー。
「現実だからね、沙耶」
「はいはい、分かりましたよー」
ニッコリ、クノスの最強の笑みが出て。私はあっさり抵抗をやめる。
まぁ一週間だし。久しぶりの一人暮らしだから、誰かいた方が実はいいともいえるし。
そんなこんなで、私とクノスの現代生活は始まった。
一ヶ月ぶりの学校は、ひどくくたびれるものだった。
よくこなせていたなぁ、と我ながら感心してしまう。
授業と予習、ゼミとその準備。
一日8時間ではこなせずに、他の時間を削って勉強するしかなくて。
けれど、睡眠時間は削れなかった。
家に帰ったらベッドに直行。随分と怠けてたんだなぁなんて、実感してしまう。
一日終わったらくたびれて、ひどく眠い。
「ちょっと、沙耶!今日も寝ちゃうの!?」
クノスの少し高い声が、私の狭い部屋に響く。
ベッドに倒れこんだ私に、クノスは頭上をふよふよと飛びながら、私の髪を引っ張る。
戻ってから翌日、学校一日目から、私は毎日こんなだった。
今日はまだ三日目。
ようやく明日は、学校はお休みだけど、自習しに行かないと予習が間に合わない。
「クノス、うるさい…。目覚ましかけといてね」
「え、夕飯はどうすんの」
「休憩のときに、おにぎり食べた…」
「えぇー…、俺と一緒に食べるって言ったくせに…」
しゅんとしたクノスの声が聞こえる。
クノスに悪いことをしているのは分かっていた。
けど、いかんせん瞼が重くて、開けていられない。
約束破って、ごめんねクノス。
一緒に夕飯食べるつもりで、軽食のつもりで、おにぎり一個だけにしといたんだよ。
けど、もう。食べるより、眠りたい。
そこら辺にあるもの、好きに食べていいからね。
そう、頑張って言葉にして。…クノスには、むにゃむにゃにしか聞こえなかったそうだけど。
「沙耶…、学校楽しい?」
「…ん、」
耳元で、またクノスの声が聞こえた。
学校?楽しいかって?…おかしいよね、楽しくないの。
久しぶりにこっちの友達に会って。絶対に、向こうよりも話が通じるはずなのに。
全然、話が弾まなくて。つまらなかった。
そんな会話を楽しむ余裕が、今の私にはないせいかもしれないけど。
勉強だってね、前はもう少し楽しむ余裕があったんだよ。
今は、目の前の課題をこなすので精一杯。
…向こうの世界に、戻りたいな。
眠りに落ちる前に、私の頭にはふとそんなことがよぎって。
一ヶ月目にして、私はすでに自分の立ち位置を見失いつつあった。
そんな私の立場を、さらに悪化させてくれる出来事は、もうすぐ。
なかなか話が進みません。
もう少し更新頻度をあげるつもりなので、これからもよろしくお願いします。