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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

現実世界

育成の記録

作者: 澪澄にけ
掲載日:2026/06/06


 『トートのこと

   四年一組 篠崎 晄』

 

 タイトルで手が止まったのは初めてだ。

 テーマを与えずに作文を書かせると、大半の生徒はいちばん最近体験したイベント(『楽しかった遠足』『家族で行った遊園地』など)を題材にする。もしくは家族について(『妹が生まれた日』『優しかったおじいちゃん』)が多い。いずれにしろタイトルで内容が把握できなかったことはほとんどない。

 (最初の方で読んだ岸くんの『マスラ王こそわが師匠!!!』というのも意味不明だったけど…本文を読んだら好きなマンガのキャラクターについて熱く語ってるだけの他愛無いものだったっけ。これもマンガかゲームなのかしら)

 まさかトートバッグのことじゃないだろうし…と今日子は考えながらなんとなく顔を上げ、閑散とした職員室を見渡した。

 きりのいいところまで添削を終え、残りは自宅に持ち帰って続きをやろうと思っていたのに結局これが最後の作文だった。部活の指導で席を外している教師も多いが、既に帰宅した者もいる時刻だ。

 とにかく読んでみようと、今日子はペンを片手に作文の束を持ち直し、そこで気付いた。

 (ずいぶん厚みがあるわね。枚数も指定しなかったから、他の子はみんなこれの半分もなかったのに…まあ岸くんのは大作だったけど。キャラクターの説明と賛辞が延々綴られてただけだったけど)

 

 『本当は夏休みの自由研究でかんさつ日記を書ければよかったんだけど夏休みが終わってしまったのでできませんでした。なぜできなかったかというとその時はまだトートがいなかったからです。だから作文で書きます』


 観察の対象ということは、動物か植物のようだ。いなかった、という表現からすると動物の可能性が高そうだからペットだろうか。

 家族の一員としてペットを題材にしたものは他にもあった。「けっとうしょ」つきの子犬について自慢する女生徒の作文だったが、こちらは現時点では昆虫か熱帯魚かはたまたカビなのか、まるで見当がつかない。


 『トートは去年の十月に、おばあちゃんちに行った時につれ帰ってきました。ぼくの部屋についてから、すみっこでもぞもぞしてるから話しかけてみたら、ぼくのほうを見たような気がしたけど特に反応はなくて、そのまましばらくもぞもぞしていました』


 今は五月だから、飼い始めて半年ちょっとくらいだろうか。

 (そういえば去年、おばあさんが亡くなったからと数日休んでたわね。地方のそれも山間部だと聞いた気がする)

 晄自身ももっと幼い頃は祖母に預けられていたらしい。その影響か現在の家庭環境のせいかはわからないが、表情が乏しくどこか暗い雰囲気がある。

 だからといって問題行動を起こすでもなく他の生徒にいじめられることもなく、いつでもただ静かに過ごしている子どもだった。


 担任になってすぐ、生徒たちとひとりずつ話をする機会を持った。晄との会話で祖母とは母親に引き取られてから会っていないと知り、何の気なしに「また会いたいでしょう」と聞いたら考え込んでしまった。

 「…おばあちゃんは怖い話、するから」

 裏の山には化け物が棲んでおり、縄張りに入り込んできた者を見つけると仕返しにその人間の身体に入り込んでしまう。山を下りてきた後その者は文字通り人が変わり、凶暴になったり奇行に走ったりする。その者が死ぬと化け物は山に帰り、次に誰かが入り込んでくるまで縄張りでまどろんでいる…

 「ぼくが生まれる前、村に頭のおかしい人が住んでたんだって。その人が死んで、今は化け物が山にいるから絶対行っちゃだめだって」

 (危ないところに近付かせないように、お化けや妖怪の話で脅かすのは定番よね…。細部にこだわるかと思えば名前や外見の説明はないし、その地方の言い伝えじゃなくておばあさんの創作なのかも)

 人間の中に入っている間、縄張りは他の人間が入り放題だけどそれはいいのかしら…と真面目に考えてしまう。だが今より幼かった晄はそんな疑問を持つこともなく、祖母の記憶として真っ先に出てくるほど強烈に心に刻まれたようだ。

 …つい思考が逸れてしまった。気を取り直して作文の続きに戻ることにする。

 とにかく部屋の隅でもぞもぞしていたのなら、魚やカビではなさそうだった。


 『とりあえずごはんをあげなくちゃと思ったけど、なにをあげたらいいのかわからなくて冷ぞう庫から牛乳を持ってきてお皿に入れました。トートの前に置いたらすごい早さで飲んでしまった』


 エサが何かも知らずに飼い始めたのだろうか。犬や猫のようにポピュラーな生き物ではないらしい。ペットショップで買ったのでもないだろう。それなら何を食べさせるかくらい、店員が教えてくれただろうから。

 祖母が飼っていたなら飼い方もなんとなくわかるだろうし、もしかしたら滞在中にどこかで…それこそ裏山などで見つけて、こっそり連れ帰ってきた可能性もある。彼の家は母子家庭で、生活に余裕はなさそうな上に母親も動物好きには見えなかった。

 (動物どころか、自分の子どもに対してだって…いえ、今は余計なことを考えないで続きを読むことにしよう)


 『わからないことばかりだったけれど、ママにトートの面倒はあんたが見るんだよと言われたので一生けんめい世話をすることにしました』


 いきなり予想が外れた。母親の了承は得ていたらしい。幼い頃育ててくれた祖母を失った、晄の悲しみをやわらげようと思ったのか。そんな気遣いをするようには思えないが。


 『クラスの飼育当番以外で生き物を育てたことがないので岸くんにそうだんしました。「夜中でも大声でなくからこまる」と言ったら、「最初のしつけがかんじんだ」と教えてくれました』


 まさかの岸くんの登場だ。

 (鳴くってことは昆虫や爬虫類でもないわよね…。ネズミか何か…それとも鳥の一種かしら?飛べない種類なら、もぞもぞ動くこともある…?)

 自分にとってはわかりきったことだから、トートがなんの生き物なのかを書き忘れたまま進めているのだろう。講評で指摘するためメモを取っておく。

 岸くんは何を飼っているか聞いたのかしら、と思いながら今日子は文章の続きに戻った。


『トートはなんでも食べるけど、まだ小さいからあとで吐き出してしまうことも多いです。バッタはのどにひっかかったみたいでずっとゲーゲー言っていました。ぺんぺん草はむしゃむしゃ食べました。給食のパンは大丈夫だったけど、夜ごはんのカップラーメンを分けてあげたらもどしていました』


 本当に雑食なのか疑わしい。小さいからではなく消化できなくて吐いているのではないだろうか。カップラーメンは熱かった可能性もあるし、どんな動物にとっても身体に良くなさそうだ。

 (人間にとってもあまり良くないんだし…それを息子の夕食に与えてるのね。たまたまだったと思いたいけど)


 『来たばかりのころはもぞもぞするか寝てるだけだったけど、そのうち床をはってうろうろするようになりました。ぼくが呼ぶと、ゆっくりだけど寄って来るようにもなりました』

 

 這って移動するのなら鳥でもないのか。呼ばれてやって来るということはそれなりに懐いているようだ。

 

 『「しー」と言ったら黙ることもおぼえました。うるさいってママに怒られることが減ってうれしかった』

 

 読んでいて痛ましさを感じた。母親が授業参観にも保護者面談にも顔を見せないので、一度家庭訪問に行ったことがある。面倒くさそうに今日子の対応をする若くて派手な母親を、彼は怯えた様子で見つめていた。

 常に母親の機嫌を気にしながら生活しているのだろう。今日子が滞在していたわずかな時間だけでもそれがうかがえた。


 『外に出すことはママにきんしされていたので、トートはずっとぼくの部屋にいます。学校から帰ってくるとうれしそうに近づいてくるので頭をなでてやります。毛がふわふわしててさわると気持ちいい』


 (イタチ…ハクビシン…アライグマ…?どれもうるさく鳴くイメージはないけど)

 晄の家はアパートだ。ペットは禁止なので隠しているのかもしれない。決まりを守らず気まぐれで生き物を連れ帰ってしまうあたり、逆にあの母親らしいとも言える。


 『ある日帰ってきたらトートが丸くなってふるえていました。足にさわると痛そうにしていました。ママが「足もとにまとわりついてきてじゃまだったから、ちょっとけっただけだ」と言いました』


 ゾッとした。

 晄の腕にアザができていた時のことを思い出す。ぶつけたと言っていたが本当だろうか。

 身なりや持ち物は最低限整えられており、怪我を目撃したのもその時だけだ。だから母親の態度や評判がどれだけ悪くても、それ以上踏み込むことはできなかったのだ。

 もしかしたら、見えないところに常時怪我を負っていたのかもしれない。


 『お手やおすわりができるようになったので、もっとむずかしい芸をおぼえさせようとしたけど、なかなかうまくできません』

 『UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみをあげました。噛んだりむしったりしてすぐにボロボロになってしまいました』

 『トートはお風呂をいやがるので、はじめの頃は洗いませんでした。そしたらママがくさいと言って水を入れたゆぶねに投げこんだ。それからはぼくがときどき、なだめながら洗うことにしています』


 普通の記述の中にふいに母親の乱暴な行為が現れ、そのたびに苦々しい気分にさせられる。今日子はあえて別の点に意識を向けた。 

 (犬と同じことができるのだから、賢い生き物よね。次は何を覚えさせようとしてるのかしら。投げたボールを拾ってこさせようとしてるとか…ああ、部屋から出られないんだったわね)


 『ぬいぐるみの代わりに画用紙を切りぬいたりタオルをむすんだりして人形を作りました。どれもすぐにボロボロにしてしまいました』


 家庭訪問の時に晄の部屋も少し見せてもらったが、ローテーブルの上には教科書や文具などの学用品のみ、他にはベッドと衣類の入ったケースしかなかった。ゲーム機やプラモデルどころか、遊び道具と呼べるものがひとつもなかったのだ。

 ボロボロになってしまったぬいぐるみが、唯一のおもちゃだったのかもしれない。


 『窓から入って来たちょうちょをつかまえてかじって、りんぷんでむせていました』

 『洋服の引き出しにもぐりこもうとして、足がひっかかってばたばたしていました』

 『この前ぼくを見て「コウ」と名前を呼びました』


 (…えっ?)

 読み進めていた手が止まり、読んだばかりの一行を凝視した。

 (気のせいよね?鳴き声がたまたまそう聞こえたとか、そういうことよね?)

 

 『新しい芸もやっとおぼえました。ママが帰ってきたらびっくりすると思う』


 今日の授業で書いた作文で『帰ってきたら』とあるのは、この後帰宅した母親に芸を見せるということだろうか。

 読んでいる間ずっと落ち着かず、気分が良くなかったのは母親の描写のせいだと思っていた。だが今は別の意味で不安が増していく。

 今日子は作文の続きを急いで読み、晄の家の住所を確かめると職員室を飛び出した。



 『おばあちゃんちでくらしていた時、ママがトートを連れていきなりやってきた時のことははっきりおぼえています』

 『ママとおばあちゃんがケンカしているところもこっそり見ていました。その時は意味がよくわからない言葉もあったけど、おばあちゃんが「晄の父親でこりていないのか」と怒って、ママは「あのろくでなしとちがって、彼は子どもができたことをよろこんでくれた、でも生まれたのがこんなだったから逃げたんだ」というようなことを言い返していました』

 

 先ほど調べた住所に向かって車を走らせながら、今日子は作文の後半を思い返していた。

 前半から内容が大きく変わり、筆圧も強くなり殴り書きのような勢いでぎっしりと文字が綴られていた。作文のテーマを忘れるほどの、激情に襲われたかのように。

 

 (トート…

   ──弟)

 晄の母親は晄を産むとすぐに祖母…自分の母親に預けっぱなしにしていた。

 育児を放棄して独身生活に戻り気ままに暮らし、そうして出会った新しい恋人との間に子どもができたのだ。

 “こんなだった”というのがどういうことかわからないが、なにか障害を持って生まれてきたのかもしれない。

 それが判明したところで恋人は去り、ふたたび孫の世話を押し付けようと訪ねた結果、祖母と母親は言い争いになった。

 

 『おばあちゃんは「もう年なのにふたりも小さい子のめんどうなんて見られない」と言って、トートはその間ずっとないていた。ママが「じゃあこっちを置いていく、あっちはつれて行くからそれでいいでしょ」とどなってぼくのうでをひっぱって車に乗せました』

 

 ちょうど就学年齢になり比較的手のかからなそうな晄を選び、より世話が必要な弟を自分の母親に押し付けた。“こっち”と“あっち”と呼びながら。


 『だけど去年おばあちゃんが死んで、トートもいっしょにくらすことになりました』

 

 仕方なく引き取ったものの、母親にとっては厄介者でしかなかった。自分の手で育てる気などまるでなく、まだ小学生の長男に命令したのだ。

 「弟の面倒は、あんたが見るんだよ」と。


 『久しぶりにトートに会って、おかあさんはなんにも気づかなかったけどぼくにはわかった。前に見たのはちょっとだけだったけど、それでもちがってるのがはっきりわかった。トートはきっと山に行ったんだ。おばあちゃんが死んだのも、もしかしたら』


 晄のアパートに着き、乱暴に車を停めて駆け出した。

 篠崎家の扉の向こうはしんと静まり返っている。今日子はためらわずにノブを回したが施錠されていたため、ドアチャイムを鳴らしながら同時に激しくノックした。

 (何もなければそれでいい…むしろ母親が出てきて怒鳴りつけられたら安心できる)

 ロックを外すガチャガチャという音が聞こえて、祈るような思いでドアが開くのを見つめていると、顔を出したのは晄だった。

 「先生!トートの芸を見に来てくれたの?」

 学校では見たこともないほどの満面の笑みを浮かべた晄は、全身に血を浴びていた。



 「ぼくにはどうしてもできなかったんだ。ママの顔を見ると怖くて勝手に身体が固まっちゃうから、どうにもできなかったんだ。でもトートならできると思った。だって化け物だから。中身は化け物なんだから」

 弟の障害は外見ではわからない、脳や精神の疾患だったのではないか。

 最初に見たときの弟はずっと泣いていたから、晄が障害に気付くことはなかった。

 去年再会して初めて知り、晄はそれを山で化け物に入り込まれたからだと信じた。

 弟だと思っていなかったから、ミルクを皿に出して与え、“しつけ”を行い“芸”を教えた。

 (弟どころか、人間として見ていなかった…。バッタ…蝶…)

 吐き気をこらえる今日子に気付かず、晄は異常なほど明るい声で話し続ける。

 「ママが酔っぱらって寝てる時、そーっと手と足を縛るくらいはできると思った。怖かったけど、それくらいならぼくも頑張れるよ。あとはトートに任せたんだ。トートもママが嫌いだったから、練習した通りにやってくれた。何度も練習した甲斐があったなあ!」

 ニコニコしながら奥の部屋へと導く晄に、今日子は重い足取りでついて行き…それを見た。


 晄と同じく全身血まみれの、五、六歳くらいの痩せた幼児が座り込んでいる。

 そのそばには彼らの母親だったものが横たわっていた。予想していなければ彼女だとは思えなかっただろう。

 全身に無数の刺し傷がある。幼児の手には果物ナイフが握られていた。小さな手ではうまく握れないからか、紐で縛って固定してあるのがわかった。

 「最初は喉。叫ばれたら邪魔が入るかもしれないから。次が目。きっと暴れると思ってぼくが押さえる役をやったんだけど、こっちを見られたらぼくが怖くなって離しちゃうかもしれないし。本当にものすごく暴れてびっくりしたよ。…それから心臓。あとは動かなくなるまで、トートが好きなように刺してた」

 (与えるおもちゃを全て人形…人の形のものにしていたのは、このための練習だった。すぐにボロボロになるのも当然だわ)

 立っていられず膝から崩れ落ちながら、今日子は混乱の中でそんなことを考えていた。

 幼い子どもの力では一、二度刺したところで致命傷は与えられない。動かなくなるまで闇雲にナイフを振り下ろし、幼児は疲れ切ってうつむいているように見えた。

 「しのざき、くん」今日子は掠れた声で話しかけた。言葉がうまく出てこない。「この子は、化け物じゃ、ないのよ」

 「あはははっ」晄は愉し気に今日子を見る。「先生にも見破れないんだね。先生ってなんでも知ってると思ってた!トートは化け物だよ。こんなことができるんだから、化け物に決まってるでしょ?」

 「この子が化け物、っていうなら…こんなことができるから化け物、なんじゃなくて、こんなことをさせられて化け物になったのよ。化け物だと思い込むことで、自分の願望を叶えようとした…あなたが、化け物にしたの。あなたの弟を!この子はあなたの、弟なのよ!」

 (だめ、ここは逆らわず二人を落ち着かせておいて通報することを優先しないと)

 頭ではわかっているのに、言葉が止められない。異常すぎる事態でヒステリーを起こしているようだ、と他人事のように思う。

 晄は取り乱す今日子を不思議そうに見た。「どうして先生にそれがわかるの?先生は弟にも化け物にも、会ったことがないでしょ?トートをよく見てよ。ほら、トート!」

 呼ばれた幼児は緩慢な動きではあるが、立ち上がり晄のもとに歩いてくると顔を上げた。

 「コ、ウ」

 今日子は息を呑んだ。

 血に染まっていなくても、幼児らしいふっくらした面差しではないのがわかった。そしてその瞳は黒く深い穴のように虚ろで、それを目にした途端に信じていた世界が揺らいでいく。

 先天的に、もしくは凶行によって精神のバランスを崩した幼い子どもの瞳なのか。

 それともこの世のものではない存在が、幼児の身体の奥から瞳だけをのぞかせているのか。

 どちらなのかを見極める時間はもう、今日子には残っていなかった。

 (…いちばんの化け物は母親。その化け物を退治したのに、それを責める見知らぬ女もまた…化け物の仲間のように見えるのかもしれない)

 あっ違うよ、トート待って、と慌てたように声を上げる晄が視界の端に映ったが、幼児の…トートの動きは止まらなかった。

 「サイショ、ハ、ノド」


 床に膝をついていた今日子の喉元は、幼児の身長でも充分に手が届く高さだった。

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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